金森敦子

いったいどれほどの人びとが伊勢へと出かけたのだろうか。
伊勢への旅というと、お蔭参りを抜きにしては考えられない。お蔭参りは伊勢を信仰したために病気が治ったとか、思わぬ幸運に恵まれたといった人の、お礼の参拝からはじまった。伊勢の利益はそれほど絶大だという噂がたちまち広まって、その利益にあやかろうという者たちが、一行に加わって伊勢へと向かう。他の地方にもそうした噂が飛んで、そこでまた伊勢へ向かう一団ができる。こうした集団は道中を進むたびに参加者を増やしながらふくれあがっていったという。
突然参加する、彼らは着の身着のままの無一文。旅費はもちろん、往復手形の用意もないし、親や主人に、無断で出てきた者もいる。旅の支度はなにもしていない。こうした一団は熱に浮かされいて、足りないものがあると、沿道の物持ちの屋敷に土足で上がり込んで、必要なものを奪い取りかねないと思われていた。だから前もって大量の炊き出しをして待ち受け、事なきを得た金持ちもいたし、素朴な好意から率先して喜捨をする沿道の人びとも少なくなかった。食べ物もわらじも、時には寝床さえも、こうして無料で提供された。厳しい取締りで知られていた関所でさえ、お蔭参りの一団が押し寄せると、門を開いて通すしかなかったという。 だからこうした一団に加われば、旅の用意など一切が不要だったのである。

2 thoughts on “金森敦子

  1. shinichi Post author

    IseMoude伊勢詣と江戸の旅

    by 金森 敦子

    江戸時代、全国に流行した伊勢詣。人々は伊勢講を組織して貯金し、餞別をもらい、農閑期を選んで団体で出発した。道中では旅篭代を倹約したり、渡し船の船頭に酒手を強要されたりしつつ伊勢に到着。すると緋毛氈の駕篭に迎えられ、御師の大邸宅では御馳走づくめに絹の蒲団が出る。神楽の奉納に名所・遊女屋の見物、土産の購入と、旅の全てを拾い、その経費を現代の円に換算して庶民の旅の実態を描き出す。


     江戸後期から増えてくる東北の農村地帯の人たちが書いた旅日記を読むと、「私が習った江戸時代の歴史、江戸時代のイメージっていったい何だったんだろう」と驚くことが多いのです。

     そのなかで一番驚いたのは、関所抜けです。関所抜けと言うと言葉は柔らかいのですが、つまり関所破りのことで、幕府の掟では磔の刑に処せられることになっていました。一番重い刑ですね。それを、江戸時代の庶民たちは実に易々と破りながら長い旅をしているんです。

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     庶民の女性は関所手形を持たないで長旅をするのが常識だったようなんです。

     越後と信州の間に北国街道が通っています。越後の一番はずれに関川という宿場があり、ここは高田藩が徳川幕府から預かっていた関川の関所があります。この街道は善光寺参りに利用されていたため、女性の往来が非常に多かった。それで、女性連れが関川の宿に着くと、真っ昼間から旅籠の宿引きが袖を引く。「お客さん、当店にお泊まりになると関所を通らない道をご案内しますので、是非うちにお泊まり下さい」と。

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     それでどこを通るのかといえば、関川の関所を通るんです(笑)。関所には鍵のかかった頑丈な木戸がありますから通れません。ところが、端のほうに小さなくぐり戸があり、そこを堂々と抜けていくんです。それが毎夜、毎夜繰り返されている。

     ある人の旅日記によると、そのくぐり戸の下の地面が窪んでいたそうです。どれだけ大勢の人がそこを通ったことか。関所の関守は関所の内部かすぐ近くに住んでいましたから、毎夜、毎夜繰り返される関所破りを知らないはずはないんです。それなのに捕まえたという記録がありません。

     全国五十三カ所の関所でも、似たようなことが繰り返されていたようです。それでも庶民が関所を破って磔になったという例は数例しかないそうです。なんでこんなことになったのか。要するに、捕まえると幕府から「お前の関所の警備はなっておらんじゃないか」と怒られるからです。

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     また、旅日記を読んでいて感動したことがあります。それは、小さな男の子たちだけで奥州から伊勢まで旅する例が、とても多いことです。錦絵や各種の名所図会などに少年たちだけの絵が出てきますし、『東海道中膝栗毛』にも戸塚のちょっと手前で、弥次さんが奥州から出てきた少年たちをからかっているつもりが、逆にからかわれて餅をせしめられる場面があります。子供たちだけで二カ月も三カ月も旅行をしても、誰も「危ないから家に帰れ」とは言わない。みんなが少年たちの旅をまっとうさせてやろうとすごく援助しているんです。

     大人の旅でも無一文で旅に出る人がたくさんいました。それでもちゃんと帰ってこられるというのは、それだけ沿道の人たちの喜捨が多かったということです。自分よりも貧しい人には、お金なり、食べ物なりを施すというのが当たり前だった世界、それが江戸時代なんです。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    江戸時代は良かったというのは、ソ連の頃は良かったというのに、どこか通じるものがある。

    足利義政の頃は大変だった。その悪政はかなりのものだったという。でも、そんななかで、日本の文化なるものが生まれた。その文化が見直され、体系化されたのが江戸時代。そう考えれば、ひどい世の中でこそ文化が花開くと言えはしないか。

    ソ連の頃に宇宙開発や環境問題に携わった人たち、そして基礎学問や文化芸術を職業にした人たちにとって、ソ連の解体が悪夢でしかなかったと同じように、日本の文化を担っていた多くの人たちにとって、明治維新は悪夢でしかなかった。

    今の日本が生み出す文化は、すべてカネを生み出すためのもの。良い悪いは別として、経済原理から切り離された文化に憧れを持つのは、私だけではあるまい。

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