加賀乙彦

 ミッシェルは弾き続ける。低音部を唱っている。暖い明るい室内の中で彼のところだけが陰鬱である。ただの陰鬱さではない。それは悲しみや涙を含まない。乾涸びた砂漠の翳のような陰鬱さだ。色とりどりに飾りたてられた大きなクリスマスツリーや磨かれた銀器の並ぶ豪華な食卓を前にミッシェルは雄々しいほどの翳となって唱い続ける。
 ミッシェル。わたしあなたを愛しています。おそらくこの世でわたしだけがあなたを理解できます。
 カミーユはもう考えなかった。そう感じただけである。気がつくとテラスの窓を叩いていた。
「君か・・」
 窓を開けてミッシェルが顔をだした。そう驚いた様子でもないが幾分照れていた。
「とんだところをみられたな」
「相変わらずあなた歌がうまいのね」 
 そう言ってみた。言ってみてはっとした。他人からの賞讃の言葉ほどミッシェルが嫌いな言葉はない。何か言うのが怖い。よく考えないと言葉がでてこないようだ。こんなことはミッシェルに対してはじめての経験だった。
「今の歌、昔あなたの唱ったのきいたことがある。誰の曲?」
「デュパルク」
「どうりで、そうね、デュパルクだったわ」
「しかし・・」彼は気の毒そうな顔をした。
「ぼくはデュパルクははじめてだよ。そこに楽譜があったので試しに唱ってみたんだ」
「そう・・」
 カミーユはみじめだった。歯に衣を着せぬミッシェルに対して見当ちがいの言葉しか出て来ない。どこかに怖れと緊張があって、自然で柔軟な気持を抑圧してしまう。それに外は寒かった。思考まで凍結するほどの寒さなのである。窓から流出する暖気にカミーユは小鼻をうごめかした。
 さすがミッシェルも気がついたらしい。
「入らないか。そこに立ってちゃ風邪をひくよ」と言った。
「いいえ。わたし行くわ」
カミーユは語気を強めた。彼女には相手にすねてみせるような女らしい手管ができない。行くと言ったからには行くのだ。しかし、庭を横切りながら、ミッシェルに呼戻されるのをひそかに待っていた。彼は黙っていた。《このままではみじめ過ぎる》そう思った。で、こちらから問いかけた。
「ミッシェル。あなた、わたしがなぜここに来たか尋ねないの?」
 柱の蔭でミッシェルの姿は見えなかった。待ってみても答はなかった。カミーユは暗黒に向って語りかけた。けれども唇のところで声が停ってしまった。《ミッシェル。あなたを愛してるの。あなたに会いたかった。それだけよ。ああ、わたし、なにがなんだかわからない。あなたに会うべきじゃなかったかもしれない。でもわたしここに来てしまった・・》彼女はいつの間にか病棟と医長公舎の間の人気のない道を真直ぐに歩いていた。

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