明石博隆, 松浦総三

Danatsu43年末現在の数字によると、「内地」在住朝鮮人の総計は188万あまりとなっている。そのうち、この1年間に朝鮮半島の各地から狩り出されてきた強制移入労働者たちは約12万5千人を数えた。この時期の日本「内地」における全軍事生産体制のなかで、朝鮮人労働者ちの占める役割がどのように高いものであったかは、たとえば石炭産業の場合をとってみると、43年度における全国炭砿労働者総数39万余のうち朝鮮人が12万4千人と、ほぼ3分の1にものぼっていた事実からも、容易に推察することができよう。
苛酷な強制労働に耐えかねた朝鮮人労働者たちの脱走さわぎもまた、ほとんど日常化している。1939年、集団移住開始の当初から、在日朝鮮人にたいする監視統制組織としての任務をうけもち、全国特高警察との密接な連絡のもとにデッチ上げられた「協和会」が、そのために重要な一役を買った。「内地」に住む朝鮮人たちは一人残らず「協和会手帳」の常時携行が強制され、たまたま街頭検問などのさいに所持していないことがわかったものは、その場で逃亡者と見なして逮捕された。
44年末における「内地」在住朝鮮人の総数は、前年と比べて、いちだんと増加して約193万7千人に達した。さらに翌年の敗戦直前には、それは236万5千人と未曾有の激増ぶりを示したことになっている。こうした驚くべき増加の理由としては、まず第一に44年9月いらい、いっそう強権的な「徴用令」の鞭が朝鮮内部および「内地」向けの労働者たちの狩り出しのために振るわれ始めたことを挙げないわけにはいかない。同時に、いよいよ実施に移されるに至った徴兵および軍属徴用による多数の朝鮮人の流入が、あずかっていたことも明らかである。
・・・ 朝鮮民衆の不屈の抵抗にたいする不断の恐怖から、朝鮮人自身の手に直接武器を持たせることを長い間ためらい続けてきた。だが、「大東亜戦争」下の戦局の窮迫化と戦闘要員の絶対的な不足は、そうした躊躇をさえ、かなぐり捨てさせた。1938年に陸軍志願兵、次いで43年には海軍志願兵の募集に踏み切ったのち、敗戦前夜の44年に至って、ついに全面徴兵制にまで進むことをよぎなくされたのであった。陸海両軍の志願兵と徴兵によるものの双方を合わせると、日本軍隊への朝鮮青年たちの参加の実数は、15年戦争下の全期間を通じて、ほぼ21万あまりであったと計算されている。また、軍属徴用をうけて、南方空軍基地の建設使役などに動員されたものの数も約15万に及んだ。なお、別の記録によれば、女子挺身隊の名目で最前線に「慰安婦」として狩り出された朝鮮人女子の数も5万ないし7万も下らなかったといわれている。

2 thoughts on “明石博隆, 松浦総三

  1. shinichi Post author

    昭和特高弾圧史〈8〉

    朝鮮人にたいする弾圧

    (1976年)

    明石 博隆 (編集), 松浦 総三 (編集)

    Reply

Leave a Reply to shinichi Cancel reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *