「無為自然」は、人間にとって「どう生きるべきか」の指標となるものです。「自然」は「自ずから然り」、他からの影響を一切受けることなく、大昔からそれ自体がそのようであるさまを意味しています。「無為」はというと「なんら作為をしないこと」という意味になります。つまり「無為自然」は「なんら作為をせず、あるがままの状態」をいいます。
『老子』の第三十七章に、「無為而無不為」とあります。 「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している」とは、どういう状態か。天地を例にして考えてみると、天や地は意思をもたないから常に「無為」の状態といえますが、無為でありながらも、その働きは常にこの世界全体に行きわたっています。季節はめぐり、太陽は大地を照らし、雲は雨を降らし、大地の上では植物や虫や動物がそれらの恩恵を受けて育っていく。つまり「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを為している」ということになるわけです。
そう考えていくと、「無為」とは、意図や意思、主観をすべて捨て去って、天地自然の働きに身を任せて生きているありようを意味しているといえます。『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。
老子の「無為」は「なにもしないでいること」ではない
NHK 100分de名著
http://textview.jp/post/culture/8081
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老子
by 蜂屋邦夫
「道」と並んで重要な老子思想、「無為自然」。東京大学名誉教授の蜂屋邦夫(はちや・くにお)氏は、万物が「道」に順(したが)って生きていくのに基本となるスタンス(立ち位置、ありよう)が「無為自然」です、と解説する。
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「無為自然」は、人間にとって「どう生きるべきか」の指標となるものです。
「自然」は「自(おの)ずから然(しか)り」、他からの影響を一切受けることなく、大昔からそれ自体がそのようであるさまを意味しています。「無為」はというと「なんら作為をしないこと」という意味になります。つまり「無為自然」は「なんら作為をせず、あるがままの状態」をいいます。
『老子』の中には、「無為」という言葉が頻繁に登場します。「無為」と「道」の関係を第三十七章で見てみましょう。
「何事も為さないでいながら、すべてのことを為している」——まるで謎かけのようです。すこし詳しく説明しましょう。
「無為」という言葉は「無為無策」「無為に過ごす」のように「なにもしないでいること」という意味でよく使われますが、『老子』で使われている「無為」は「意図や作為のないさま」という意味です。これは、一切なにもしないということではなく、作為的なことはなにも行なわないことと、とらえてください。
では、「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している」とは、どういう状態か。天地を例にして考えてみると、天や地は意思をもたないから常に「無為」の状態といえますが、無為でありながらも、その働きは常にこの世界全体に行きわたっています。季節はめぐり、太陽は大地を照らし、雲は雨を降らし、大地の上では植物や虫や動物がそれらの恩恵を受けて育っていく。つまり「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを為している」ということになるわけです。
そう考えていくと、『老子』でいう「無為」とは、意図や意思、主観をすべて捨て去って、「道」(天地自然の働き)に身を任せて生きているありようを意味しているといえます。『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。
无为而无不为
http://baike.baidu.com/view/3526864.htm
出自老子《道德经》第三十七章“道常无为而无不为”。道家之无为流派为四种,即有为派,无为而无不为派,无为派,无不为派。
庄子是援用寓言的方式来描述道、真人等等概念,其中很多章节的目的是为了展现得道之人的崇高境界,从其本意来说是一点错都没有。但是,这就为大家展现了一种价值观:无欲无为之人最逍遥。那么在一般读者看来,无欲无为成了达到这种最高价值的手段。那么,对大家而言就会向无欲无为靠拢,去刻意地“无为”。而不为人注意的是,“刻意的无为”和“不要刻意的为”是两个完全不同的状态,而后者才是道家的真正精神。
就如同老子说,无为而无不为,这句话只是为了展示个大家一种现象,就是无为会导致无不为。但是,如果很多人带着有色眼睛去解读,当“无不为”成了我们的目标时,那么我们当然应该无为,但这种“应该无为”,则很明显是一种“刻意的无为”。其结果导致很大一批道家思想的拥趸走上了虚无主义的歧途。