岡野守也

仏教では一貫して、人間の心がどういうものなのかを洞察すること、心の表面の現象の問題だけではなく、ふだん自分でも気がっかないような心の奥底まで掘り下げて洞察すること、そして、ただ洞察するだけではなく、修行を通じてその心を変えていくことに、中心があった。

2 thoughts on “岡野守也

  1. shinichi Post author

    唯識のすすめ

    by 岡野守也

    仏教というのは読んで字の如く『仏』の『教え』であり、紀元前6、7世紀ころのインドの地方王族シャカ族出身の聖者、釈尊から始まっている。その釈尊は、あまりむずかしい表現はされないで『人を見て法を説け』の如く相手のレベルに合わせてわかりやすい言葉で、それぞれの人に合った言い方をされていた。だが、その教えは体系化されていなかった。釈尊が生きている間はそれでよかったが、亡くなった後、弟子たちの間で解釈の違いが生じた。そこでそれをどう解釈するかということで、だんだん理論的にまとめられ、体系的になっていった。それを“アビダルマ”といい、『アビ』は『対して』とか『向かって』という意味で『ダルマ』は『存在、真理』を意味し、つまり仏教的な“存在の分析”ということになる、人間とか世界とかものがどういうふうになっているかを専門家である僧たちによって、500~600年かけて詳細に分析・研究をかさねて作られていった。それはかなりむずかしいものであったことから、仏教は専門家である学僧らの一部のものとなって、一般の人々は救われなくなってしまうということで、紀元1世紀前後に、それは違うのではないかという主張を持った人々によって、そういうのは自分だけしか救えない、乗れない小さな乗り物で『小乗』である。本当の仏教は自分も人も一緒に覚れる、救われる大きな乗り物で、『大乗』こそが本物なんだという仏教の運動が興つた。

    そして、釈尊ではない、”大乗の覚った入”つまり、“仏”が説いた新しい経典が作られるようになり、それらを『大乗経典』とか『大乗仏典』という。『般若心経』などの『般若経典』、『観音経』が含まれる『法華経』、『華厳経』、「維摩経』、阿弥陀仏や極楽浄土のことを書いた『浄土三部経』等つまり仏教のお経、釈尊が説いたと思っているもののほとんどが大乗の経典、大乗の仏だちが説いたものなのである。

    仏教は一貫して、人間の心がどういうものなのかを洞察することと、ただ洞察するだけではなくて、修行を通じてその心を変えていくことに中心があった。

    (唯識とは)心の表面の現象の問題だけではなく、ふだん自分でも気がっかないような心の奥底まで掘り下げて洞察するもので、「大乗仏教の深層心理学」という言い方がふさわしい。

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  2. shinichi Post author

    唯識

    http://ja.wikipedia.org/wiki/唯識

    唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。

    あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。

    唯識思想では、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。

    ・ まず、視覚や聴覚などの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。これは総称して「前五識」と呼ぶ。

    ・ その次に意識、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)という。

    ・ その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。

    ・ さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

    あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。

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