3 thoughts on “日高市

  1. shinichi Post author

    国指定重要文化財

    日高市 生涯学習課/文化財担当(文化財室 日高市大字栗坪92番地2)

    http://www.city.hidaka.lg.jp/6,963,24,104.html

    高麗石器時代住居跡
    日高市大字台79-1
    高麗川右岸の台地上に位置する縄文時代中期(約4500年前)の住居跡です。発掘調査は昭和4年に行われ、埼玉県では初めての竪穴式住居跡の調査です。また、全国でも数少ない調査でした。調査では、時期の異なる円形の竪穴式住居跡が2軒検出され、一部分が重複しています。

    高麗家住宅
    日高市大字新堀850
    高麗神社の神職を努めてきた高麗家の住居として、使われていたものです。建築は17世紀後半(江戸時代前半)と推定され、東日本の民家の中では極めて古い建築です。入母屋造りで屋根は茅葺きで、桁行七間半(14.3メートル)、梁行五間(9.5メートル)をはかります。間取りは古四間取りという形式で、「奥座敷」、21畳の「表座敷」、「勝手」と「へや」、そして土間から成っています。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    高麗石器時代住居跡では、そばで農作業をしていた持ち主の加藤さんという方のお話を伺うことができた。加藤さんのお父様が発掘調査をなさったのこと。加藤さんによれば、石器時代にはこの辺りに人が住んでいたのに、時代が下り縄文時代になると、人はこの辺りには住んでいなかったという。

    家に帰って調べてみたら、石器時代は氷河期で、なんといっても大陸と地続きだったぐらいだから、海は高麗からは遠かったはず。ところが縄文時代は温暖化の真っただ中で、川越や大宮に貝塚が残っているくらいだから、海がすぐそこまで来ていたに違いない。きっと飯能あたりの海辺のほうが、高麗のあたりよりも住みやすかったのだろう。

    奈良時代になると、千人以上の高句麗から来た人たちが集められ、住むようになった。どんな暮らしをしていたのかは想像もできないが、大陸を追われ、逃げのび、こんなところに落ち着くことになるとは、本人たちも思ってもみなかっただろう。高句麗のものはなにも残らなかったが、高麗という地名は残った。そこでは、高麗神社と高麗山聖天院勝楽寺とが、なにかを伝えるかのように、立派に聳えている。

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