内山節

山里の生活のなかにあった森が、商品の生産過程としての森に変わったとき、森の時間は大きな変容をとげた。

2 thoughts on “内山節

  1. shinichi Post author

    時間についての十二章

    by 内山節 (うちやま たかし)

    (1993)

    農業の基本的な時間単位は一年である。

    春には春の労働が、夏には夏の労働があって、この労働の系は一年の単位で循環している。

    祖父や曾祖父の植えたスギやヒノキを家の建て替えや不慮の出費が必要なときに切り、新しい木を植えて、また百年をかけて大木に戻していく時間循環が暮らしのなかにはあった。

    すなわち山里の回帰する時間とは、異なるスケールをもつ様々な循環する時間の総合としてつくられ、この時間世界のなかに村人の暮らしがあったのである。

    人々が感じる時間は季節の移り変わりや木々の成長と同期していた。そして山里の家も代々受け継がれてきた。

    しかし、山里のなかにあった森が、商品の生産過程としての森に変わったとき、森の時間は大きな変容をとげた。

    以前は時間循環の世界のなかにあった森が、商品としての木材生産がはじまるや否や、直線的な時間世界のなかに存在するようになってしまったのだ。

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  2. shinichi Post author

    共同性の再生に関する一考察

    by 長妻三佐雄

    http://ouc.daishodai.ac.jp/profile/outline/shokei/pdf/151-152/40.pdf

    高知県檮原町で和紙作りを行っているロギール・アウテンボーガルトは、紙を通して、水や土、それにその地の宗教や文化を知ることができると話す。紙を通じて環境を知り、空間を知るのである。空間を取り戻すために必要だったのは、七〇歳以上の方々の記憶であり、六〇年前に効率性を求めた針葉樹の植林によってかえられた森の姿を民間の手でゆっくりと取り戻しているのだと語る。私はロギールの話を聞きながら、時間に注目して森を考察した哲学者・内山節の言葉を思い出した。内山は「山里の生活のなかにあった森が、商品の生産過程としての森に変わったとき、森の時間は大きな変容をとげた」という。一人の人間よりも長い時間のサイクルで育成される樹木。そこに込められた時間とゆっくりと育った木は決して貨幣価値に置き換えられるものではない。だが、森の時間に効率の観念が入り込み、独自の時間を失った樹木は単なる材木になり、貨幣価値に換算されるようになる。もはや、すべてのものを効率で包み込み、数字で置き換えようとする強大な力は、檮原の森をも飲み込んでしまいつつあった。この流れに抗して、森の時間を取り戻し、森の記憶を継承していくこと、それがロギールの課題でもあったといえよう。

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