shinichi Post author12/10/2014 at 11:21 pm コンサイス東京都35区区分地図帖 日地出版 1946年(昭和21年) ** 炎の夜から焼失地図帖へ 戦災焼失区域表示 コンサイス東京都35区区分地図帖 復刻 東京空襲を記録する会 復刻版 日地出版 1985年(昭和60年) ** 東京都35区区分地図帖 Schwarzschild Cafe (シュヴァルツシルド・カフェ) by 波多利朗 (2011/11/04) http://www.funkygoods.com/schwarzschild/2011_11/map_07_l.html この地図は、東京大空襲で壊滅的な打撃を受けた東京都心の焼失状況を、終戦翌年の昭和21年9月という極めて早い段階で地図帖にして出版したものだ。ただでさえ混乱を極めた時期に、戦災焼失区域を詳細に調査して地図に残した労苦は、想像を絶するものがある。地図帖では、戦災焼失区域を赤で、強制疎開区域を緑で表示している。復刻時に際して原本と異なる点は、見やすさを重視し、地図を1.41倍に拡大印刷しているところだ。縮尺は、1/20,000と1/18,000となっている。 本書には、東京大空襲の様子を6ページにまとめた前書きが付いているが、これがまた名文だ。ここに述べられているように、壊滅的打撃を受けた本所区、深川区、城東区、浅草区の地図は、まさに真っ赤に染まっている。オソロシイ。 「過去の教訓を学ばぬものは、かならず、同じあやまちを繰り返すだろう」 ** 本所(現・墨田区)、深川(現・江東区)が甚大な被害を受けたことはよく知られていますが、それ以外の被災地は、 ・日本橋/浅草/上野/淀橋(新宿)/豊島(池袋) といった繁華街。 つまり商業と民需品の流通ポイントであるターミナル駅。 ・王子(大小工場)~ 田端(中小工場と国鉄機関区)といった 軍需物資の流通拠点。 参考:北区 昭和7年 地図 ・蒲田(現大田区)および荏原北側 こちらは中小工場の多いところ。 被害者数は本所・深川が圧倒的に多いので見過ごされがちですが、この民需品ルートを破壊した点は、市民生活の窮乏につながり、戦後の闇市形成に大きな影響があったかと思われます。 焼かれていない所で目立つのは、 ・小石川/本郷(≒東大周辺) ・神田 (御茶ノ水から古書店街にかけて。神保町あたりは焼かれている) ・皇居~丸の内 (三菱の本拠地) ・日本橋室町 (三井本館と日銀は今日なお健在) ・京橋 (大手企業の本社多数。日本橋錦町~大手町が焼かれたのと対照的) ・芝/品川 (どちらかというと大企業の工場が多かった所) ・十条 (陸軍施設が多かった所。王子/田端と対照的) ・牛込~市ヶ谷 (陸軍司令部があった) ・目黒~世田谷方面(政財界要人が多く住んでいる所、荏原周辺と対照的) ・渋谷 (ここは焼かれたはずだが、なぜか引用地図では焼け残っている。 アメリカ人捕虜のいた宇田川の陸軍刑務所は焼かれている) 闇雲に焼夷弾をバラまいたのではなく、目標地点をはっきり決めた上で かなり緻密に爆撃していることが分ります。 (軍需工場は焼いたが、軍施設そのものは温存した) Reply ↓
shinichi Post author12/10/2014 at 11:44 pm (sk) まわりが燃えているなか、連合国側のイギリス大使館だけが燃えていない。 まわりが燃えていないなか、枢軸国側のドイツ系のルーテル神学校だけが燃えている。 制空権を握り、地上からの反撃がないなか、空襲はほぼ狙い通りに行なわれ、焼け跡にはアメリカ軍の意思というものが感じられる。 もちろんアメリカ軍などといっても、一枚岩ではない。軍のなかには、京都に空襲をしたくないと思う者も、したいと思う者もいただろう。皇居や東京駅周辺に空襲をしたいと思う者、したくないと思う者。それぞれに理由があっただろう。 それでも空襲は行なわれ、燃えたところと燃えなかったところとが地図上に厳然と現れる。 なぜここが燃やされたのか、なぜここが燃やされなかったのか。そんなことを考えながら地図を見てみると、偶然などということはなかったのだということが、それぞれに理由があったのだということが、わかってくる。 Reply ↓
コンサイス東京都35区区分地図帖
日地出版
1946年(昭和21年)
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炎の夜から焼失地図帖へ
戦災焼失区域表示
コンサイス東京都35区区分地図帖
復刻 東京空襲を記録する会
復刻版
日地出版
1985年(昭和60年)
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東京都35区区分地図帖
Schwarzschild Cafe
(シュヴァルツシルド・カフェ)
by 波多利朗
(2011/11/04)
http://www.funkygoods.com/schwarzschild/2011_11/map_07_l.html
この地図は、東京大空襲で壊滅的な打撃を受けた東京都心の焼失状況を、終戦翌年の昭和21年9月という極めて早い段階で地図帖にして出版したものだ。ただでさえ混乱を極めた時期に、戦災焼失区域を詳細に調査して地図に残した労苦は、想像を絶するものがある。地図帖では、戦災焼失区域を赤で、強制疎開区域を緑で表示している。復刻時に際して原本と異なる点は、見やすさを重視し、地図を1.41倍に拡大印刷しているところだ。縮尺は、1/20,000と1/18,000となっている。
本書には、東京大空襲の様子を6ページにまとめた前書きが付いているが、これがまた名文だ。ここに述べられているように、壊滅的打撃を受けた本所区、深川区、城東区、浅草区の地図は、まさに真っ赤に染まっている。オソロシイ。
「過去の教訓を学ばぬものは、かならず、同じあやまちを繰り返すだろう」
**
本所(現・墨田区)、深川(現・江東区)が甚大な被害を受けたことはよく知られていますが、それ以外の被災地は、
・日本橋/浅草/上野/淀橋(新宿)/豊島(池袋) といった繁華街。
つまり商業と民需品の流通ポイントであるターミナル駅。
・王子(大小工場)~ 田端(中小工場と国鉄機関区)といった
軍需物資の流通拠点。 参考:北区 昭和7年 地図
・蒲田(現大田区)および荏原北側
こちらは中小工場の多いところ。
被害者数は本所・深川が圧倒的に多いので見過ごされがちですが、この民需品ルートを破壊した点は、市民生活の窮乏につながり、戦後の闇市形成に大きな影響があったかと思われます。
焼かれていない所で目立つのは、
・小石川/本郷(≒東大周辺)
・神田 (御茶ノ水から古書店街にかけて。神保町あたりは焼かれている)
・皇居~丸の内 (三菱の本拠地)
・日本橋室町 (三井本館と日銀は今日なお健在)
・京橋 (大手企業の本社多数。日本橋錦町~大手町が焼かれたのと対照的)
・芝/品川 (どちらかというと大企業の工場が多かった所)
・十条 (陸軍施設が多かった所。王子/田端と対照的)
・牛込~市ヶ谷 (陸軍司令部があった)
・目黒~世田谷方面(政財界要人が多く住んでいる所、荏原周辺と対照的)
・渋谷 (ここは焼かれたはずだが、なぜか引用地図では焼け残っている。
アメリカ人捕虜のいた宇田川の陸軍刑務所は焼かれている)
闇雲に焼夷弾をバラまいたのではなく、目標地点をはっきり決めた上で
かなり緻密に爆撃していることが分ります。
(軍需工場は焼いたが、軍施設そのものは温存した)
淀橋区
新宿駅周辺も徹底的に空襲を受けている。
杉並区
都心からここまで離れると、さすがに赤の戦災焼失区域は少ない。
(sk)
まわりが燃えているなか、連合国側のイギリス大使館だけが燃えていない。
まわりが燃えていないなか、枢軸国側のドイツ系のルーテル神学校だけが燃えている。
制空権を握り、地上からの反撃がないなか、空襲はほぼ狙い通りに行なわれ、焼け跡にはアメリカ軍の意思というものが感じられる。
もちろんアメリカ軍などといっても、一枚岩ではない。軍のなかには、京都に空襲をしたくないと思う者も、したいと思う者もいただろう。皇居や東京駅周辺に空襲をしたいと思う者、したくないと思う者。それぞれに理由があっただろう。
それでも空襲は行なわれ、燃えたところと燃えなかったところとが地図上に厳然と現れる。
なぜここが燃やされたのか、なぜここが燃やされなかったのか。そんなことを考えながら地図を見てみると、偶然などということはなかったのだということが、それぞれに理由があったのだということが、わかってくる。