松原岩五郎

ankoku生活は一大疑問なり、尊きは王公より下乞食に至るまで、如何にして金銭を得、如何にして食を需め、如何にして楽み、如何にして悲み、楽は如何、苦は如何、何に依ってか希望、何に仍てか絶望。是の篇記する處、専らに記者が最暗黒裏生活の実験談にして、慈神に見捨られて貧兒となりし朝、日光の温袍を避けて暗黒寒飢の窟に入りし夕。彼れ暗黒に入り彼れ貧兒と伍し、其間に居て生命を維ぐ事五百有餘日、職業を改むるもの三十回、寓目千緒遭遇百端、凡そ貧天地の生涯を収めて我が記憶の裡にあらむかと。聊か信ずる所を記して世の仁人に愬ふる所あらんとす。
時正に豊稔、百穀登らざるなく、しかるに米価荐りに沸騰して細民咸飢に泣き、諸方に餓死の声さえ起るに、一方の世界には無名の宴会日夕に催うされて歓娯の声八方に涌き、万歳の唱呼は都門に充てり。昨日までは平凡のものと思いし社会も、ここに至って忽然奇巧の物となり、手を挙ぐれば雲涌き、足を投ずれば波湧くの世界、いずくんぞ独り読書稽古の業に耽るべけんやと。すなわち大事は他に秘し、独り自から暗黒界裡の光明線たるを期し、細民生活の真状を筆端に掬ばんと約して羈心に鞭ち飄然と身を最下層の飢寒の窟に投じぬ。

2 thoughts on “松原岩五郎

  1. shinichi Post author

    最暗黒の東京 – 松原岩五郎  

    明治25年頃のB級グルメ?満載の渾身レポ!

    Dr.keiの研究室2

    http://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/800cabf455ff4e0a09dc3ad42e0be16f

    パラパラとページをめくったら、明治時代の食文化がいっぱい記載されているんです。僕の関心はただ一つ、明治時代にラーメン(らしきもの)はあったのか、なかったのか。それから、この当時、どんな食べ物を庶民は食べていたのか。それに尽きます。知りたくなりません? 明治時代、今から120年前に、庶民はどんな食べ物を食べていたのか。

    それに、この当時の庶民を描いた本としては、かなり古いものだと思います。日本の下層社会よりも古いですからね。書物や文献はいっぱい残っていますが、庶民、いや、そうじゃない、下層社会の人たちがどんな食生活を送っていたのか。そこに、ラーメンらしきものはあるのか、ないのか。屋台では何が食べられていたのか。

    この本を読むと、僕らの食生活が全然変わっていないことに驚くと思います。今、僕らが普通に食べているものは、ほぼ全部明治時代にあったんですね。残念ながら、「ラーメン」らしきものについての記述はありませんでした。松原の節に従えば、まだ東京にラーメンはなかった、としか言えないかな、と。1800年代に、それらしき記述を見つけられたら、ラーメン史をくつがえすことができるんですけどね。やはり1911年説は手堅いですね。。。

    さて、では、明治時代の下層社会の人たちは何をどこでどう食べていたんでしょう?! しいていえば、明治時代のB級グルメです! 

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    角兵衛獅子(芸をする子どもたち?)は、茹蟹(ゆでがに)、もろこしの炙り焼を食べていたそうです(p.19)。

    焼きとうもろこしを食べていたんですかね?! 今も確固たるB級グルメですよね。どんな味だったんだろう? ちなみに、この獅子たちのことを、松原は「幼稚園的芸人」と呼んでいます。この時代から、幼稚園は幼稚園だったんですね。それにもびっくり。(ちなみに、この本には当時の下層社会の子どもたちが克明に記述されています!)

    さらに、町で売られている食べ物がずらりと列挙されます。茄子、胡瓜、馬齢薯(じゃがたらいも=じゃがいも)、芋、蒟蒻、蓮根の屑(?!)が八百屋で売られていたそうです。屑というのがポイントです。(この当時は、まだ貧困層へのまなざしは一切なかったですからね) さらには、塩鮭、干鱈(ひだら)、乾鯣(するめ)、鯖(さば)、鯵(あじ)の干物、串柿(くしがき)も売られていたそうです。ラーメンに使われるダシは、既にこの時代にしっかり使われていたんですね。ダシの旨みは、下層社会の人たちもしっかり知っていたようです。

    漬けものもいっぱいあったみたいですね。漬物屋では、ヒネ沢庵(古漬け沢庵)、漬茄子、らっきょう、梅干しの一山百文売りが行われていたみたいです(p.20)。

    さらに、居酒屋では、焼鳥、焼鯣(するめ)、炙唐もろこしが焼かれていて、いい匂いがしたそうです!(同)。また、魚屋では、鰐(わに=サメのこと)、鮪(まぐろ)、鰤(ぶり)、鰹魚(かつお)をさばいていたそうです。さらに、蟹(かに)、蝦(えび)も小さな子どもが売っていたんだとか。

    この本に頻繁に出てくるのが、「破肉(あら)」なんです。石神さんが魚のアラを使ったラーメンに注目していますが、このアラも、明治時代の下層社会で大切にされたものなんですね。破肉っていう言い方もなんともいえないと思いません? 刺身も積極的に食べられていたようですが、下層社会の人は、どちらかというと破肉を使って、料理をしていたんじゃないかな、と思われます。

    僕がこの本で、すごい新鮮だったのが、『残飯屋』という職業の存在です。残飯というのは、「大厨房の残飯なるのみ」(p.38)とあって、軍隊の厨房を指しているようです。軍人のために作られた料理やその材料を、下層社会の人たちに売りつけるのが、この残飯屋の仕事だったんだとか。松原にしてみれば、この残飯屋こそ、明治25年頃の最貧民の人たちであり、彼らの極めて貧しい生活ぶりに驚いている。「…この不潔なる廃屋こそ実に予が貧民生活のあらゆる境界を実見して飢寒窟の消息を感得したる無類の(材料収集に都合よき)大博物館なりしならんとは。」

    また、調味料もそれぞれ既に揃っていたんですね。かつお節=「松魚節(ほしうお)」、醤油、味噌もしっかりと使われていたようです。ラーメンの素となる調味料や風味って、まさに日本人の心の味と言っていいんでしょうね。「ラーメン」という存在はまだ生まれていませんが、かつお節や醤油や味噌といった「味」は、明治時代の庶民の味そのものと言っていいかもしれません。=つまり、日本人に合うように、作られていった、ということが考えられるんです。

    さらに「麺文化」の兆しを示す話も出ています。

    夜商人(夜に店を開けて商売する人)は、「スイトン」を煮て食べていたみたいです。稲荷寿司、マカロニー、饂飩なども食べていたようです(彼らが食べていたのか、それを売り物にしていたのか?!)(p.65)。いわゆる「粉モノ」は、もしかしたら夜の屋台の定番だったのかもしれません。ラーメン=夜泣き屋=夜商人と続く文化だとしたら?! これはこれで面白いテーマかもしれません。夜に食べるラーメンがなぜ美味しいのか、そこに歴史的な根拠があったとしたら?!…ドキドキしますね。

    この本の後半は圧巻です。立て続けにB級グルメ?の原形?みたいな食べ物が列挙されます。例えば、両国橋の「夷餅」、「剛飯(こわめし)」、浅草橋・馬喰町の「ぶっかけ飯」(?!⇒一体何をぶっかけていたんだ?)、八丁堀の「馬肉飯」、新橋、久保町の「田舎蕎麦」、「深川飯」…(p.143)。すごいでしょ!! 「ぶっかけ飯」って、明治時代から、今から120年前には既にあったんですよ。日本人は、「ぶっかけ」が大好きなんですよ! ラーメンそれ自体がぶっかけみたいなものですからね。…そういうことなんですよ!!

    みんな、「煮込」が大好きだったみたいです。煮込は、「労働者の滋養食」だったそうです。煮込文化こそ、ある意味で、ラーメンが文化として根づくための基盤だったのかもしれません。あらゆるものを煮込んで食べる、これこそ、まさにラーメンのスープ作りのバックグラウンドだったのかもしれませんね。(p.145)。

    蕎麦についても書かれているんですが、なんかこれがどうもすごい気になるんです。

    「丸三蕎麦-これは小麦の二番粉と蕎麦の三番粉を混じて打出したる粗製の蕎麦なり。擂鉢の如き丼に山の如く盛出して、価一銭五厘、尋常の人なれば一瞬にして一ト响下(かたげ)の腹を支ゆるに足るべし」(p.144)

    小麦と蕎麦の粉をブレンドして、丼に山のように盛る。普通の人なら一瞬で「一ト响下の腹」を支えることができる…(=超空腹の腹を一瞬で満たすことができるほどに、って意味かな?) …それって、まさに、今でいう爆盛系ラーメンじゃないですか…!!! しかも、小麦粉と蕎麦粉のブレンド麺がラーメン誕生以前からあったなんて… もう、驚きですよ、、、

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