西垣通

nishigaki「情報とは何か」というお話をしましょう。これはなかなか難問で、専門家に聞いてもいろいろな答えが返ってきますが、まず、文と理の代表的な定義を上げておきましょう。
理系の代表が、シャノンの「ネゲントロピー」です。エントロピーというのは、熱力学、統計力学の概念ですが、ネゲントロピーはその援用で、システムがどれだけ秩序立っているか、その度合いを示します。例えば、今甲子園でA高校とB高校が試合をしている。で、どちらが勝ったか知らない状態では勝った確率はどちらも1/2です。ところが、誰かが「A高校が勝った」と結果を教えてくれたら、1/2と1/2の状態から1と0になり、安定した秩序ができます。それをもたらしたのは情報、というわけです。
一方、文系の代表が、ベイトソンの「差異を作る差異」です。これは「意味のあるものを自分で見分けていく」こと。これは、生命体はみんなそうです。例えばここにハエがいたとすると、ハエは私には興味は持たず、甘いものの方へ飛んでいきます。自分の記憶や経験に基づいて、意味のあるものをとらえる。これは主観の世界ですね。つまり、自分にとって意味のあるものが情報なのです。
一般的な定義はどうか、ということで広辞苑を引いてみると、2つの定義が出てきます。一つ目は、「ある事柄についての知らせ」と書いてあります。つまり、“不明なことを教えてくれるもの”ということですが、これは、シャノンの定義に近いですね。もう一つは、「判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識」。つまり、“主体の行動を促すもの”。これはベイトソンの定義に近い。

7 thoughts on “西垣通

  1. shinichi Post author

    文と理を結ぶ情報教育、基礎情報学からのアプローチ
    ~人間と機械の理想的なコラボレーションで、「人間のための情報社会」を構築するために

    by 西垣通

    2. そもそも「情報」とは何か~機械と生命体の両面から見ると

    http://www.wakuwaku-catch.net/report全国高等学校情報教育研究会全国大会/講演-西垣通東京大名誉教授2/

    情報をどう捉えるか。客観世界か主観世界か

    「情報とは何か」というお話をしましょう。これはなかなか難問で、専門家に聞いてもいろいろな答えが返ってきますが、まず、文と理の代表的な定義を上げておきましょう。

    理系の代表が、情報理論の父、通信工学者のシャノン,C.E.の「ネゲントロピー(negentropy)=負のエントロピー」です。エントロピーというのは、熱力学、統計力学の概念ですが、ネゲントロピーはその援用で、システムがどれだけ秩序立っているか、その度合いを示します。例えば、今甲子園でA高校とB高校が試合をしている。で、どちらが勝ったか知らない状態では勝った確率はどちらも1/2です。ところが、誰かが「A高校が勝った」と結果を教えてくれたら、1/2と1/2の状態から1と0になり、安定した秩序ができます。それをもたらしたのは情報、というわけです。ところが、この概念は、客観世界というものが前提となっています。甲子園でどちらが勝った、という話はある程度客観的なことと言えなくもない。しかし、野球など全く知らない人の主観世界にとっては、全く意味を持たない「情報」もあるわけです。

    一方、文系の代表が、文化人類学者のベイトソン,G.の定義で、「差異を作る差異(A difference which makes a difference)」です。これはどういうことかというと、「(自分にとって)意味のあるものを自分で見分けていく」こと。これは、生命体はみんなそうです。例えばここにハエがいたとすると、ハエは私には興味は持たず、甘いものの方へ飛んでいきます。自分の記憶や経験に基づいて、意味のあるものをとらえる。これは主観の世界ですね。「差異を作る差異」たる情報とは、つまり、甘いものだとか、匂いとか、何らかの差異に基づいています。差異で世界を分類するときに、再帰的な、あるいは自己準拠的な働きをし、自分にとって意味のあるものが情報なのです。

    一般的な定義はどうか、ということで広辞苑を引いてみると、2つの定義が出てきます。一つ目は、「ある事柄についての知らせ」と書いてあります。つまり、“不明なことを教えてくれるもの”ということですが、これはどちらかと言えば、シャノンの定義に近いですね。もう一つは、「判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識」。つまり、“主体の行動を促すもの”。これはベイトソンの定義に近い。この2つは、かなり違いますが、2つを結ぶ鍵はどこにあるのか。シャノンはもともと通信工学者ですから、機械の間の情報通信テクノロジーとして考えている。ベイトソンの方はやはり生命ということについて考えています。つまり、機械と生命体というのがここでのキーワードになります。

    「生命体は自分で自分を作る存在」であることを踏まえて、情報をとらえる

    この機械と生命体の差異、あるいは同一性について考えたのがウィナー,N.です。彼が1948年に書いた『サイバネティクス』という有名な本のサブタイトルが、「動物と機械における制御と通信」でした。これが生命体と機械をつなぐ、ということだったのです。さて、問題はここからです。

    この古典的なサイバネティクスは、動物と機械をある意味共通のものと考えていました。刺激(入力)に対して反応(出力)するものという意味で、猫も人間も機械と同じ開放系であるとされていました。しかし、それでいいのだろうか、という疑問が起こりました。猫と人間がとらえる世界は当然違いますし、人間でも一人ひとり見ている世界が違うだろう、と。そうなると、生命体の主観世界を考えなければならない、ということで起こったのがネオ・サイバネティクスの考え方です。ここでは生命体は入力・出力がある開放系ではなく、各自のメモリーに基づいて動く閉鎖系です。これは大きなパラダイムチェンジでした。

    こういう発想に基づいて、1970年代から80年代にかけて、生命体を、オートポイエーシス(autopoiesis)としてとらえるという考え方が出てきます。私の研究している基礎情報学という学問もこういう考えに基づいています。オートというのは「自分」、ポイエーシスというのは「つくる」という意味です。生命体というのは自分で自分を作る。だから、主観世界ができるのです。でも、コンピュータは、プログラムも含めて全部人間が外部から作り込むから客観世界の存在です。この基本的なことに皆意外に気づいていません。私たちは、ものごとを外から科学的に見るという教育を受けてきました。そうすると、人間、あるいは生命体を、入力と出力を有する機械のように見てしまう。そうすると人間もロボットも、本質的な違いはないと思われてしまうのです。しかし、生命体は自分で自分を作る主観的な存在です。

    こういう違いに基づいて情報というものをとらえていかないと、情報の持つ意味内容をつかむことができず、情報社会を本当に健全な形に作り上げていくことは決してできないと思います。

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  2. shinichi Post author

    文と理を結ぶ情報教育、基礎情報学からのアプローチ
    ~人間と機械の理想的なコラボレーションで、「人間のための情報社会」を構築するために

    by 西垣通

    1. 曲がり角に来た情報教育~時代に即した教え方ができていない現状

    http://www.wakuwaku-catch.net/report全国高等学校情報教育研究会全国大会/講演-西垣通東京大名誉教授

    しばらく前から情報教育は曲がり角に来ているのではないか、と考えています。私は、コンピュータと付き合い始めて40年になります。昔は、コンピュータを作る人はもちろん、使う人もある程度の専門家でした。それなりに勉強して知識のある人が扱うもの、という時代がけっこう長かったのです。今はすっかり変わってしまいました。万人がユーザーであり、ふつうの人が作ったアプリケーションが評判になったりして、今やもうユーザーとサプライヤーの境目もあいまいになっています。

    ですから、情報教育もそれに応じて変わらなければならないはずなのに、どうも必ずしもそうなっていない。これを教えればいい、ということが決まらない一方で、ITの技術そのものはどんどん進んでいってしまっていて、情報教育の体系がそのスピードについていっていない、という状態だと思うのです。それが、いろいろな意味で亀裂や問題を生んでいるのではないかという気がしてなりません。今までの教育の仕方が悪かったわけではない、ただこれからは時代に即した新しい教え方を考えなければならないのではないか、ということを考えるのです。

    私自身は、ちょっと変わった経歴を持っていまして、会社に勤めていた14年間はコンピュータの研究者で、完全に理系でしたが、体を壊したため退職し、80年代半ばに大学に移りました。移った先が文系の学部で、文系の学生に初期のパソコンでBASICのプログラムを教えたりしていました。そこで、自分の研究として、人間や社会とITとの関係を考えるようになりました。80年代の終わりくらいからパソコンが日本社会の中に広がり始め、90年代の後半からはネットをみんなが使えるようになり、社会全体がITと密接なつながりを持つようになってきて、時代がそういった研究を求めていたのですね。1996年に東大の社会科学研究所に移り、本格的にITと社会、ITと人間の関係について研究するようになりました。2000年代に入って、大学院に情報学環という文理融合の情報学を研究する組織を作ろうという、東大としては思い切ったプロジェクトが始まり、そこに最初から参加しました。そこで文理融合の情報学を作らなければならない、ということになり、生まれてきたのが基礎情報学です。

    しかし、文理融合の情報学というのは、口で言うのは簡単ですが実際に作るとなるとなかなか難しい。例えば、情報に関する概念はいろいろありますが、これがどうもはっきりしない。「情報洪水」などと言われますが、実際にデジタル記号としての「0」と「1」がいっぱい溢れていることは確実ですが、意味内容としては、もしかしたら非常に貧困な状態に置かれているかもしれません。アイドルの情報はやたらとよく知っていても、日本に原爆を落とした国は知らない、というように。そういう状況をきちんと踏まえて情報教育をしなければならない。機械的な操作の技術だけを教えるだけではダメだと思います。

    そもそも「情報」「メディア」「コミュニケーション」という、3つの基本的な概念やそれぞれの関係性について、きちんと説明できる人が、はたしてどれだけいるでしょうか。こういうことが明確でないから、しっかりした情報教育もできていないのだと思います。

    私は、この中で大事なのは「コミュニケーション」であると思います。コミュニケーションが次々に発生することによって、生命活動が活性化されていきます。「情報」は、意味作用を持ち、このコミュニケーションを支えています。一方、「メディア」とは何かというと、社会的、制度的にコミュニケーションの舞台を作るものなのです。例えば今日のこの集会という場がなければ、私はここに来て皆さんにお話しすることもないわけです。さらに、私がお話ししていることを、皆さんがいろいろに感じ取ることができるのは、皆さんの中にいろいろな知識の蓄積があるからですね。そういうことも一つのメディアです。このようにコミュニケーションを両輪のように支えるのが、情報とメディア、と説明することができます。/

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  3. shinichi Post author

    文と理を結ぶ情報教育、基礎情報学からのアプローチ
    ~人間と機械の理想的なコラボレーションで、「人間のための情報社会」を構築するために

    by 西垣通

    3. 「集合知」で今までにない知の世界を拓く

    http://www.wakuwaku-catch.net/report全国高等学校情報教育研究会全国大会/講演-西垣通東京大名誉教授3/

    「みんなの意見は案外正しい」ことの強み

    基礎情報学というのは主観知から客観知を作ることを目指します。主観知とは一人称、例えば「今日は暑い」ということで、客観知というのは、「今日は気温が何度だ」という話です。患者と医者の言うことが往々にして食い違うのは、患者は主観知、医者は客観知でものを言っているからですね。これと関連するものとして、「集合知」というものがあります。2006年にweb2.0が登場して、皆がブログやtwitterなどで自分の意見を発表できるようになった時、「衆知を合わせる」ことが評判になりました。

    2004年に書かれた『「みんなの意見」は案外正しい』という本の中に興味深い例がいろいろ出てきます。原題は“The wisdom of crowds”で「群衆の知恵」。ここに出てくる話で、例えば、家畜の品評会で牛の体重を投票して当てるというクイズがあります。787人が投票して、彼らの推定値の平均は1197ポンドでした。実際の体重は1198ポンドで、その差はわずかに1ポンド。すごいですね。

    もう1つ、ある教室で、教授が集合知の効果を確かめるために、瓶の中にジェリービーンズをいっぱい入れて、学生にその数を当てさせたのです。56人の学生の推定値の平均は871個、実際に入っていたのは850個。誤差は21個でした。そして、推定値の誤差が21個より少なかった学生はたった一人。皆で推定すると、その平均値はけっこう当たるのです。

    実は、これには「集合知定理」という数学的な理論があります。

    集団誤差=平均個人誤差-分散値

    集団誤差というのは、ある集団でみんなが推定した値の平均と正解との差です。平均個人誤差とは、一人ひとりのメンバーの誤差の平均値。分散値というのは、一人ひとりのメンバーの推定値のばらつきです。こういう式が成り立つのです。

    先ほどの2つの例でいえば、牛の体重の場合は、牛に関わるいわばセミプロが多いので、平均個人誤差は小さい。でも、酪農家あり食肉業者あり農業学校の生徒ありと多様なので、分散値の方は、けっこうばらついている。したがって、集団誤差はぐっと小さくなります。ジェリービーンズの場合は、学生は勝手に数を書くので平均個人誤差はあまりあてになりませんが、分散値も大きい。結果的に集団誤差は小さくなったわけです。というわけで、推定の多様性はとても大事なのです。専門家が時々誤りを犯すのは、皆が同じように考えるからです。平均個人誤差は小さいのですが、分散値もものすごく小さくなり、結果的に集団誤差が大きくなってしまうことがあるのです。集団の知恵を生かすためには、多様であることが大事であり、強味なのです。

    集合知は万能ではない。「何でもかんでもネット投票」は間違い

    そうはいっても、集団知は何にでもうまくいくわけではありません。集団知がうまくいくのは、正解がある場合です。ところが、例えばダムを建設するかどうか、新幹線のルートをどうするか、など政治的な問題には正解がありません。正解がない時に、集団の平均値を取れば片が付くというのは端的な間違いです。ある集団で、メンバー一人ひとりは意思決定していても、その集団としての一般意思は必ずしも決定できるとは限らない、あるいは存在しない場合もあります。これは数学的に裏付けられています。ですから、何でもかんでもネットで投票して決めるべきで、それが直接民主制だ、みたいなことは言ってはならない。集合知はすばらしいものですが、万能ではないのです。

    集合知の活用方法をまとめてみました。正解のある時は、多様性を条件として集合知を得る。正解のない時には、選択肢の設定そのものを相互討論していった方がいい。例えば、新幹線のルートなら、やはり専門知を活用して、危険性やコストなどをいろいろ挙げて、その上でみんなで合意点を見つけていくのがよいのではないかと思います。

    ITを介して人間同士が協調、あるいはITと人間が協調

    では、集合知は具体的にどういった場面で使えるのか。正解があるはずでも誰も知らないということはたくさんあります。でも、昨今はアマチュアでも、断片的ですが結構な知識を持っている人がいるので、それをうまく組み合わせれば、クリエイティブな活動もできます。一例として、DNAからのタンパク質の形態形成があります。これを決定するには、組み合わせのバリエーションが無数にあってなかなか大変なわけです。ところが、分子生物学者はそんなメカニズムの専門家ではない。そこで、3次元CDを使って、この組み合わせを計算するゲームのようなものを作った。ネットで公開したら、こういうことが好きな素人がみんなでやってみて、どんどんできてしまったのですね。

    また、「ヒトゲノムプロジェクト」は有名な話です。ふつう、学者は自分のデータは隠したがるのですが、人間の遺伝子については共通のデータベースがあって、そこに皆が登録してデータを共有し、研究を進めていく。それによって、今までよりももっとオープンなチームプレイができます。共通データベースを上手に使えば、データによって駆動され、知のレベルが上がっていくことになるのです。

    一方、ビッグデータというのは、いろいろなデータをコンピュータが集めて統計処理するわけです。例えば今どこでインフルエンザがはやっているかという情報を人手で集めるのは大変です。これをコンピュータで自動的に集めて計算処理すれば、流行の予想や対処法がわかる。先ほどの例はITを使って人間同士が協調して衆知を集めた成功例ですが、こちらは人間と機械がうまく協調して、問題解決を図る例になります。

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  4. shinichi Post author

    文と理を結ぶ情報教育、基礎情報学からのアプローチ
    ~人間と機械の理想的なコラボレーションで、「人間のための情報社会」を構築するために

    by 西垣通

    4. 生命体の直観力とコンピュータの計算力を合わせることで新たな情報社会を創る

    http://www.wakuwaku-catch.net/report全国高等学校情報教育研究会全国大会/講演-西垣通東京大名誉教授4/

    集合知にも、リーダーが必要

    最後にもう1つ、例を挙げます。1999年、当時のチェスのチャンピオンのカスパロフと、世界中から募った「ワールドチーム」がインターネット上でチェスの対戦をしました。1手の制限時間が24時間で、のべ300万人以上の参加者がネット上のフォーラムで合議をして、投票して一番多かったのを次の手としました。結果は、かろうじてカスパロフが勝ち、「こんなに大変な対戦はなかった」と言わしめたそうです。
      
    この3年前に、前チェス王者のカルポフが同じようなことをやったのですが、この時はカルポフの圧勝でした。何が違うかというと、この時は1手の制限時間が10分で、話し合いをせず、とにかく投票するだけ。これでは勝てませんでした。一方、カスパロフの時は、話し合いをするだけでなく、フォーラムにリーダーがいました。全米女子チャンピオンになったことのある15歳の女の子が分析表を作り、それを見ながらディスカッションをしたのです。これで、無敵のチャンピオンといわれたカスパロフを追い詰めました。

    これは、非常に重要な話です。つまり、集合知でも、ただ投票するだけでなくリーダーが必要であるということ。みんなの意見をまとめ、ナビゲートしていく機能が重要で、そういう人が出てくると、集合知がだんだん生きてくるのです。別に専門家ではなくてもみんなで、ああしたらいい、こうしたらいいという議論をネット上でしながら正解を模索していく。この手続きは、すぐれた情報社会を作るために決して無駄なことではないと思います。

    普通の人でもITを上手に使えば、チャンピオンを倒せる

    ところで、カスパロフは1997年にIBMのディープブルーというコンピュータと対戦して負けています。先日は、永世棋聖の米長邦雄さんがボンクラーズという将棋のソフトに負けたとニュースになっていましたが、これらを「コンピュータが人間に勝った」というのはおかしいと思います。コンピュータは自分でプログラムを作ったわけではなく、そのハードやソフトの開発をした人達こそ偉い、と私は申し上げたい。ただし、ディープブルーもボンクラーズも、非常に高価なシステムです。いろいろなプロセッサやサーバーを組み合わせて、ものすごい計算量でようやく勝っているのです。逆に言えば、人間の直観力はそれだけすごいのです。

    さて、もし99年の対戦の時、ワールドチームのメンバーがそれぞれ簡単なパソコンで武装していたらどうなったでしょうか。せいぜい10手先を予想するような簡単なチェスのソフトでも、カスパロフは負けたかもしれません。逆に言えば、ITを上手に使うことによって、個々の人間の力を増すことができるのです。しかも、専門家ではなくて普通の人たちがネットで力を合わせることで、いろいろな問題を解決できる。これは生命体の直観力と、機械の持つ計算能力とを上手に組み合わせたアプローチです。このような役割分担を考えないで、人間も機械も同じようなものだと考えているから、妙なところに行ってしまうのです。両者の違いをきちんと踏まえた上で、人間のためのIT社会というものを構築していかなければなりません。

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  5. shinichi Post author

    文と理を結ぶ情報教育、基礎情報学からのアプローチ
    ~人間と機械の理想的なコラボレーションで、「人間のための情報社会」を構築するために

    by 西垣通

    5. 望ましい情報教育とは

    http://www.wakuwaku-catch.net/report全国高等学校情報教育研究会全国大会/講演-西垣通東京大名誉教授5/

    最後に、今日お話ししたことを踏まえて、今後情報教育で我々がやらなければならないことをまとめます。

    まず、最新知識よりも基本知識。最新知識なんてどんどん変わります。私は40年間コンピュータと付き合ってきて、「これは素晴らしい」というハードもソフトも数えきれないくらい出てきましたが、あっという間に消えていきました。もちろん、その中に残るものもあり、それは大事なのですが、やはり学校では基本知識を教えなければいけない。そうしないと、どんどん移ろっていく情報に振り回され、情報洪水で溺れてしまうわけです。

    そうなると、やはり情報の本質をつかむことが大事です。根本から生命とは、機械とは何だろうかと問い直し、その違いを踏まえて本当に必要なITの在り方を考えていく能力の促進を情報教育の根幹に据えない限り、我々はとんでもない方向に行ってしまう、と私は思います。これは間違いありません。今、ITというと、恰好のいいきらびやかなことばかりがマスコミで流れていますが、そこにいろいろな落とし穴もあります。落とし穴が何なのかをつかむためには、やはり基本的な知識というものを身につけていなければいけません。

    人間のための情報社会を築くためには、人間と機械の理想的なコラボレーションが必要です。そのために、一人ひとりが今大事な情報教育とは何なのか、ということをぜひ熟考していただきたい。生きていく我々と、コンピュータがどのように共存していくか、これを考えずに、目先の便利さやお金儲けに引きずられた情報教育は慎むべきではないか、と考えております。

    参考文献
    ・西垣通『基礎情報学(正・続)』NTT出版、2004-2008年
    ・ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』角川書店、2006年
    ・スコット・ペイジ『「多様な意見」はなぜ正しいのか』日経BP社、2009年
    ・西垣通『生命と機械をつなぐ知』高陵社書店、2012年
    ・中島聡『生命と機械をつなぐ授業』高陵社書店、2012年
    ・西垣通『集合知とは何か』中公新書、2013年
    ・マイケル・ニールセン『オープンサイエンス革命』紀伊國屋書店、2013年

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  6. shinichi Post author

    こころの情報学

    by 西垣通

    地球上に生命が誕生した三十数億年前に、情報も同時に誕生した。情報とは生命の意味作用であり、ヒト特有の言語もその発展形にほかならない。すなわち、ヒトの“心”とは“情報”が織りなすダイナミックなプロセスなのである!それでは、動物の心を根底にもちながら、一方で機械(コンピュータ)で心をつくろうという野望を抱く、現代人の心とはいったい何か?オートポイエーシス、動物行動学、アフォーダンス、人工知能といった理系の知と、現象学、言語学、社会学などの文系の知を横断しながら、まったく新しい心の見方を提示する、冒険の書。

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  7. shinichi Post author

    (sk)

    西垣通は、富士通や電通と同じくらい、私にとってはまったくの別世界。

    読んでいても、なにがなんだか、さっぱりわからない。

    Communication の専門家らしいが、私とは communicate できないだろう。

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