湯浅博

故中村粲氏が主宰する昭和史研究所が、元軍人、元警察官らから戦地での体験を記録していた。
満州国奉天省海城県警察で慰安婦を扱った元経済保安股長は、「殆ど朝鮮の人だったが、戸籍謄本と医者の健康診断書、それと親の承諾書、本人の写真、そして許可申請を一括して私の所に持って来る訳です。強制連行とか、さらって来たなんて云うものではない。何でさらわれて来た者に親の承諾書や戸籍謄本がついてるのか」と語った。
また、第6師団工兵第6連隊の所属兵が朝鮮人女性から聞いた身の上話は、「十八歳の私のからだは、三百円、それに父の負債が八十円、女衒は合計三百八十円を私の前で両親に手渡した」という悲しい顛末だった。彼女は他の女性たちと一緒に女衒に連れられて行き、朝鮮人が経営する上海の慰安所に入ったという。
歩兵第216連隊第3大隊本部付陸軍主計軍曹の話では、朝鮮人の斡旋業者が人を介して接近してきた。この軍曹は「大隊の関与は建物の建設と軍医による性病検診、利用規則を作ることだった」と述べる。慰安所で働く朝鮮人慰安婦は平均月収が150円から220円、月額最低150円を故郷に送金していたと証言している。
軍・官39人によるの記録は、強制連行の汚名をそそぐ率直な反論であった。

2 thoughts on “湯浅博

  1. shinichi Post author

    「性奴隷」とまで引き上げられた日本の〝悪辣度〟 汚名をそそぐ反論があった

    by 湯浅博

    http://www.sankei.com/column/news/141111/clm1411110010-n1.html

     70年以上も前の中国大陸や南方の戦地で、日本兵が「酌婦」という名の慰安婦に慰められた。だから、来日する米国の知識人に会って、話題が慰安婦問題に飛べば「不幸な時代の悲しい秘史を心にとめなければならない」と答える。ただ、いつも付け加えることがある。

     「しかし、そうした不幸は、敗戦直後の日本にもあったのだ」

     昭和20年9月、敗戦後の日本本土に進駐してきた米兵の相手をする酌婦、娼婦(しょうふ)が、町の娘を守る「性の防波堤」として慰安施設で働いた。私が調べた千葉県でいえば、翌21年の記録では慰安婦が22警察署管内で624人もいた。

     この頃の主要都市では、米兵向けの街娼が「パンパン」と呼ばれ、特定の米兵だけを相手とする売春婦を「オンリー」といった。そんな戦後風俗史は、いま時の知日派米国人でさえ「そんなことがあったのか」と驚く。朝鮮戦争、ベトナム戦争も含め戦地に慰安婦はつきものであるが、彼らの無知か知らぬふりが厭(いと)わしい。

     日本の不幸は、虚言癖のある吉田某なる人物が、若い朝鮮人女性を「暴力的に狩り出した」と虚偽証言を振りまいたことである。朝日新聞がこれに飛びついて拡散し、日本の国際的なイメージを損なったのはご存じの通りだ。いつの間にか「酌婦」が「従軍慰安婦」になり、やがて「性奴隷」にまで“悪辣(あくらつ)度”が引き上げられた。

     このストーリーにそって「朝鮮人慰安婦」だったというおばあさんが、あたかも日本軍に強制連行されたかのような証言を繰り返す。先頃、ワシントンで会った米知識人も「事実よりもイメージが定着しているから、触れない方がよい」などという。だが、米兵向け「酌婦」のように、語らなければ事実は伝わらないではないか。

     では、当の日本軍人たちは、戦後、何も語らずに逝ったのだろうか。実は独協大学名誉教授の故中村粲氏が主宰する昭和史研究所が、平成10年から16年にかけて元軍人、元警察官らから戦地での体験を記録していた。彼らの証言は研究所が発行する「会報」に掲載され、このほど月刊雑誌「正論」12月号に再録された。

     満州国奉天省海城県警察で慰安婦を扱った元経済保安股(課)長は、「殆(ほとん)ど朝鮮の人だったが、戸籍謄本と医者の健康診断書、それと親の承諾書、本人の写真、そして許可申請を一括して私の所に持って来る訳です。ですから、強制連行とか、さらって来たなんて云(い)うものではない。何でさらわれて来た者に親の承諾書や戸籍謄本がついてるのか」と語った。

     また、第6師団工兵第6連隊の所属兵が朝鮮人女性から聞いた身の上話は、「十八歳の私のからだは、三百円、それに父の負債が八十円、合計三百八十円を私の前で『ゼゲン』は両親に手渡した」という悲しい顛末(てんまつ)だった。彼女はその日の夕方、他の15人の女性たちと一緒に2人の「女衒(ぜげん)」に連れられ、3日後に朝鮮人が経営する上海の慰安所に入ったという。

     歩兵第216連隊第3大隊本部付陸軍主計軍曹の話では、朝鮮人の斡旋(あっせん)業者が人を介して接近してきた。この軍曹は「大隊の関与は建物の建設と軍医による性病検診、利用規則を作ることだった」と述べる。慰安所で働く朝鮮人慰安婦は平均月収(手取り)が150円から220円、月額最低150円を故郷に送金していたと証言している。

     証言の解説を担当した東京基督教大学の西岡力教授は、「貴重な証言を残してくださった中村代表と証言者に感謝する」と述べ、本来は政府がなすべき事業ではなかったかと疑問を投げる。軍・官39人による「会報」の記録は、「強制連行」の汚名をそそぐ率直な反論であった。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    日本軍が進駐していたところで売春が行われていたかという問いには、行われていたというしかない。慰安婦はいなかったかという質問には、誰もがいたと答えるだろう。そして、慰安婦たちの多くは売春をしていた。

    少なめに言いたい人、例えば 秦郁彦は、1993年に『昭和史の謎を追う』のなかで 9万人しかいなかったと書き、その後、1999年には『慰安婦と戦場の性』のなかで 2万人しかいなかったと書いている。6年で7万にも減ってしまったのが面白いが、それでもいなかったとは書いていない。

    多めに言いたい人、例えば蘇智良は、1999年に『慰安婦研究』のなかで 36万人から 41万人という数字を挙げている。この数字の根拠のひとつに、あの荒船清十郎の演説があったというのだから、笑える。なんといっても、運輸大臣の時に深谷駅を急行停車駅にしてしまった あの荒船清十郎なのである。

    吉見義明は、1995年に『従軍慰安婦』のなかで、4万5千人以上、20万人以下と書いていて、その数字を信頼できるものとする人は多い。

    今の日本にいるフーゾク嬢は約30万人。戦争中にアジア全域にいた慰安婦の数は、今の日本のフーゾク嬢の数より少ないが、当時アジア全域に展開していた日本軍の兵隊の数が最大で300万人だったということを考えると、慰安婦の数は、たとえそれが2万でも、40万でも、少ないとはいえない。

    慰安婦の数は、正確なことは誰にもわからない。慰安婦の数を記した統計資料など、どこにもないのだ。上記の数はすべて研究者の推算なのだ。推算の仕方は、結構いい加減で、日本軍の兵隊は何人で、慰安婦一人が相手にした兵隊の数は何人で、などということで出てきた数字を「研究者の推算」と呼んでいるだけなのだ。

    多かったから日本軍に責任があるとか、少なかったから日本軍には責任がないとか、そんなことではないはずだ。1942年の陸軍省恩賞課長の報告に、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支100ヶ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所」とある。

    従軍慰安婦のことでは、事実という名の意見ばかりが語られる。対立を煽る意見ばかりが語られ、和解のための意見は出てこない。また、この人がこう言った、あの人がこんな経験をしたというようなミクロの話も少なくない。誰も全体を見ようとしない。そして誰も真実を語らない。

    こういう議論に必要なのは、事実ではなく、真実だと思う。戦争は、そしてそれを取り巻くもろもろのことは、善ではない。悪だ。それを認めないことには、真実は見えてこない。

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