道元

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

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  1. shinichi Post author

    道元『正法眼蔵』の現成公案の巻の参究

    takesikeda

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    仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

    まず「仏道をならふといふは自己をならふなり」。仏道とは先述したごとく仏として生活することであるが、さてその仏であるが、自分を仏ではないと考えて、修行により仏になるのではない。それは誤った考えである。そもそも自己は「諸法の仏法なる時節」の自己であって、すなわち自己ははじめから仏であって、わたしたちははじめから仏のあらわれである。このことをならうことが仏道をならう、すなわち仏道修行である。なんのことはない。仏道は自分自身に成り切ることなのである。仏道は遠い遥か彼方にあるのではない。これほど近いものはないのである。この自己が仏そのものであり、仏のほかに自己もない。その自己が仏をならっている、仏をならい、仏をあらわしゆきつつあるのである。
    次に「自己をならふといふは自己をわするるなり」。既に述べたように自分自身を仏ではないと決めつけて、修行して仏になろうとすることはあやまりである。それは自己をならうことではない。ではどのように自己をならったらいいか。それは「自己をわするるなり」である。ここの自己は先の自己とは異なる。忘れなければならぬ自己とは自分自身を仏にあらず衆生であると決めつけている自己である。仏道修行とはじつは簡単なのである。自分自身は仏ではないという妄想、妄想の自己を根こそぎ忘れてゆくことに尽きるのである。
    ではどのように自己を忘れてゆけばいいか。それは「万法に証せらるるなり」である。これは既に説かれているものであり、万法すなわち自己の外にある外界によって修行させられ悟らせされてゆくことである。人生において遭遇する出来事にしても、また出会う人たちにしても、その人たちの為すことも、それらはことごとく自己を仏として修行せしめ、自己が仏であると悟らせている仏の説法として受け取ってゆく生活である。順縁も逆縁もことごとくが感謝の生活である。これが「万法に証せらるるなり」である。
    その「万法に証せらるるなり」であるが、その内証はいかなるものか。それが「自己の身心および佗己の身心を脱落せしむるなり」と説かれる。人生そのものを仏の説法として、それにより修行してゆく生活態度は、この現実を自己の近視眼的な選択により、許容したり、しなかったりということではない。全面的に許容するのであるから、それは外界に対立している自己を無にしてしまうことである。外界に対立している自己はなくなるのである。これが自己の身心を脱落することである。それは自己に対立している外界もなくなることも意味する。これが他己の身心が脱落することである。
    ところでここで付言しておこうと思うが、文中に「自己」に対比して「佗己」という言葉を道元は用いているが、これはここまでの説明から自明であろう。佗己とは他己ということであり、すなわち他とあらわれているおのれ(己)であり、自己とは自分とあらわれているおのれ(己)である。そのおのれ(己)とはもちろん仏のことだ。自他の身心脱落とは自他がそれぞれ固有の実体をもたず、仏の仮象的あらわれであり、仮象的にあらわれている仏そのものであると目覚めることなのである。われもかれもすべては如なのだ。わたしはわたしの如くあらわれている仏、瓦礫は瓦礫の如くあらわれている仏、禍福は禍福の如くあらわれている仏。すべては如(仮象)である。仮象ゆえに、そこにはもはや時空物はない。すべては如として顕現している不生不滅の仏である。以上が身心脱落の消息である。
    次に「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」。「悟迹」とは悟りの跡(迹)という意味で、悟ったという意識ないし自覚のことである。そこで「悟迹の休歇なるあり」とは、自他身心脱落においては「おれは悟った」という意識はないことをいう。悟ったという自覚があるうちは本当の悟りではない。というのも悟ったという自覚があるということは悟りでないものがおのれにあったことを意味するからである。自分が悟ったなぞという自覚があるということはそれ以前の過去の自分は悟っていなくて、今の自分は悟っているとみなしていることを意味しているわけである。すなわち彼においては過去の自分も現在の自分も未来の自分も悉く仏のあらわれであることを自覚していないことを意味する。いまだ悉くが仏の現成であることを知らないのである。真に仏のみがあるのみと自覚しているならば、換言すればおのれが真に悟りを開いているならば、本当にあるものは悟りばかりであるから、悟りならぬものはどこにもない。現在の自分のみならず過去の自分も未来の自分も悟っていなかったことなぞないのである。「おれは悟った」という自覚は以前のおのれは悟っていなかったことを前提にしてはじめて成立する。しかし悟っていなかったことなぞ実はなかったのであることに目覚めるわけだから、その目覚めの際にはおれは悟ったという自覚すらなくなる。悟った時もなく、悟った処もなく、悟ったおのれもなく、なにもかもなくなる。だから「わたしはいついつ、どこそこで悟りました」というのは本当はうそなのである。おのれが真に悟りに成り切れば悟りを忘却するのである。しかしそれこそが真に悟りそのものになったことの証左なのである。
    そこで自ら悟ったという意識すらしていない悟り、すなわち過去においても現在においても未来においても仏にあらざるものはなに一つない境涯を生活してゆくのである。自らの生活によりあらわしてゆくのである。これが「長々出ならしむ」である。この「長々出ならしむ」の生活こそが仏道のギリギリの奥処である。すなわち「長々出ならしむ」とは先述の「仏道をならふなり」にほかならない。またそれは「自己をならふなり」であり、またそれは「自己をわするるなり」であり、またそれは「万法に証せらるるなり」である。つまり仏道には終わりがない。仏道はかならず万法に証されるる生活――すなわち外界により修行させられてゆく生活としてあらわれる。だから「すでに仏であるなら、なにも仏道をならわなくともいいではないか」とか「すでに仏ならば修行は必要はない」という考えは誤りである。そのような考えを持つ彼らのあるがままで仏であるという理解は所詮観念的理解にすぎない。彼らにおいてはもはや修行がない。しかし修行のほかに仏はないのである。別のところで道元がいっているように修証一等のほかに仏はないのである。

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