山浦玄嗣

182_1_l九四・そんなやつなど知るものか
 
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司のもとで働いていた下女が一人そこへ来て、ペトロが火に当たっているのを見、ジロジロと穴の開くほど眺めたのちに、言うには、
あんさんもあのナザレのイェシューちゅう男といっしょにいやはったがな。
されど、ペトロは首を振って、言うには、
おらァは知らねァな。それに、おめァさんがなにィがだってんだが、見当もつかねァ。
そうして、表庭のほうへ出て行ったのでござった。折りしも、鶏が鳴いてござる。

3 thoughts on “山浦玄嗣

  1. shinichi Post author

    ガリラヤのイェシュー

    日本語訳新約聖書四福音書

    translated by 山浦玄嗣

    マルコ94章66-68節
    九四・そんなやつなど知るものか
     ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司のもとで働いていた下女が一人そこへ来て、ペトロが火に当たっているのを見、ジロジロと穴の開くほど眺めたのちに、言うには、
    「あんさんもあのナザレのイェシューちゅう男といっしょにいやはったがな。」
     されど、ペトロは首を振って、言うには、
    「おらァは知らねァな。それに、おめァさんがなにィがだってんだが、見当もつかねァ。」
     そうして、表庭のほうへ出て行ったのでござった。折りしも、鶏が鳴いてござる。

    ヨハネ19章5-6節
     イェシューさまは、茨のかぶりものをかぶり、全身、流るる血潮で朱けに染まり、その上に赤紫色の上着を着せられた姿で出てきた。ピラト卿は言った。
    「見やい。こんもんぢゃ。」
     イェシューさまを見ると、祭司の頭たちと下役どもは口々に声を上げて、叫んだ。
    「磔柱に架けとくれやす! 磔柱に架けとくれやす!」

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  2. shinichi Post author

    非クリスチャンでも必読の抱腹絶倒聖書!

    by Yukiko8888

    http://www.amazon.co.jp/ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書-山浦-玄嗣/dp/4901602330

    山浦玄嗣氏は、60歳を過ぎてギリシア語を0から学び、原典から4福音書をケセン語に翻訳した。その後、登場人物ごとにふさわしい方言を喋らせる新しい福音書の翻訳に取り掛かった。その本がほとんど完成した時、それらは出版社ごと3.11の大津波に流された。しかしこのプロジェクトは不死鳥のように蘇り、2011年半ばに新しい本として出版された。

    イエスとその弟子たちはケセン語を話し、裏切り者のユダは山口弁、イエスを裁判で裁いたポンテオ・ピラトは鹿児島弁を話す。サマリア人は鶴岡弁、ギリシア人は長崎弁を話す。方言はそれぞれのネイティブスピーカーに翻訳を頼み、方言学者の井上史雄氏の校閲も得た本格的なものだ。国語学的な観点からも非常に面白いが、読み物としても、これまで無味乾燥に感じられた聖書の登場人物が、生きた人間たちとして眼前に蘇る希有な物語になっている。

    マタイ福音書のペトロの否認の場面:一人の下女が近寄ってきて言うには、「たしか、あんたはん、あのガリラヤのイェシューたらいうやつといっしょにいやはったやろ?」ペトロはそこにいた者どもの前で首を横に振り、オロオロとこう言った。「おめさんが何イかだってるんだが、おらにはさっぱりわがんねア

    ピラトがイエスの対処方法をユダヤ人に聞く場面:「そしたなア、お助けさアぢゃっちゅう此んイェシューをば余はどげんしたらよかろかい?」人々は口をそろえて言った。「磔にしとくれやす!

    楽しみながらあっという間に4福音書を読破できること請け合い。教会の礼拝でも使ってほしい・・・(そしたら寝なくてすむんだけどな)

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    山浦玄嗣という東北のお医者さんが書いた「ガリラヤのイェシュー」。イエスとその弟子たちは気仙沼のケセン語を話し、裏切り者のユダは山口弁、イエスを裁判で裁いたポンテオ・ピラトは鹿児島弁を話す。サマリア人は鶴岡弁、ギリシア人は長崎弁を話す。

    白石理が書いた「赦し」ということがやけに気になって、「ガリラヤのイェシュー」ではどう書いてあるかと見てみたら、

    人のしくじりを赦せば、天の父さまもおめァさんたちを赦してくださる。しかし、もしおめァさんたちが人を赦さないなら、父さまもおめァさんたちの過ちをお赦しにならない。(マタイ6章14-15節)

    おめァさんの兄弟が何か意地の悪いことをするようなことがあらば、そんなことはするなと、言って聞かせろ。その者が心を改めたら、サッパリと水に流せ。一日のうちに七度おめァさんに悪いことをしたとしても、七度おめァさんのところに戻り帰って、「申し訳がなかった。心を改めるから・・・・・・」と言ったら、堪忍してやるものだ。
    (ルカ17章3-4節)

    とあった。

    赦しというのは、やはりキリスト教的な考え方なのだろうか。ユダヤ教にも赦しはあり、神の慈愛とか恵みが説かれているそうだが、でも、ユダヤ教の基本原理は “rule of law” なので、キリスト教的な赦しとは違う気がする。イスラム教にも赦しがあるが、条件がいろいろあり、赦してもらうのはなかなか大変そうだ。

    ましてや一神教でないところでの「赦し」というのは、なかなか大変だ。キリスト教とは違い、神が許してくれるというわけではないので、じゃあ誰が許してくれるのだということになる。人はそれほどには寛大ではないから、なかなか赦さないし、人が人を赦すという場合、赦す側が上位で、赦される側が下位という関係になりかねず、それはそれで、おかしなことになってしまう。

    日本人が赦すという場合、水に流すという言い方をする。忘れましょうというわけだ。ところが相手方は忘れてくれない。そこに問題が生じる。水に流すというのは、加害者側には、とても都合のいいこと。「いつまで、そんなことを。。。」という論理は、やはり甘えだと思う。

    千野香織の文章に、

    「影響を与える」といういい方をするとき、その人が視点を置いているのは「中心」の側であろう。しかし、そうではなく、発想を逆転させて「周縁」の側に視点を置き、「中心」の側にあったものを「選択し、摂取する」といい換えることによって、おそらく、世界の見え方はまったく違ってくるに違いない。

    というのがある。自分をどこに置き、どれだけ謙虚になれるかが、赦すと赦されるということを考えたときには大事なことになってくるのではないか。加害者が被害者の立場に立って考えるのはもちろんのこと、被害者も加害者の立場に立って考えることが、赦すとか赦されるということより大切だと思う。

    さて、「ガリラヤのイェシュー」だが、

     ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司のもとで働いていた下女が一人そこへ来て、ペトロが火に当たっているのを見、ジロジロと穴の開くほど眺めたのちに、言うには、
    「あんさんもあのナザレのイェシューちゅう男といっしょにいやはったがな。」
     されど、ペトロは首を振って、言うには、
    「おらァは知らねァな。それに、おめァさんがなにィがだってんだが、見当もつかねァ。」
     そうして、表庭のほうへ出て行ったのでござった。折りしも、鶏が鳴いてござる。
    (マルコ94章66-68節)

     イェシューさまは、茨のかぶりものをかぶり、全身、流るる血潮で朱けに染まり、その上に赤紫色の上着を着せられた姿で出てきた。ピラト卿は言った。
    「見やい。こんもんぢゃ。」
     イェシューさまを見ると、祭司の頭たちと下役どもは口々に声を上げて、叫んだ。
    「磔柱に架けとくれやす! 磔柱に架けとくれやす!」
    (ヨハネ19章5-6節)

    という感じ。読みやすいというか、読みにくいというか。。。

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