中村武羅夫

花は何んのために開くかを知らないだらう。小鳥は何んのために歌ふかを知らないであらう。恐らく、咲き満ちた花の美しさには、プロレタリア的イデオロギイもなければ、ブルジョア的イデオロギイもありはしない。小鳥の歌も同じことだ。
しかしながら我れ我れは、無心に咲く花の美しさに対しても、やつぱり美しいと感ぜずにはゐられないし、無心に歌ふ小鳥の音楽に対しても、やつぱり楽しみを感ぜずにはゐられないものだ。季節々々が廻つて来れば、美しく咲く花を見て、これは階級闘争の目的意識がないからと言つて、また、こんな花の美しさや、小鳥の歌は、たゞブルジョアの目や耳を楽しませるだけで、プロレタリア階級には用はなく、だからブルジョアの娯楽物だとして、片つ端から花や小鳥を撲滅して廻らうとする者があつたら、それは馬鹿か狂人でなくて何んだらう。
花は花の性質に依つて、赤い花も咲けば、白い花も咲く。若し赤い花の美しさだけを認めて、白い花の美しさを感ずる者を、封建的だと嗤ふ人があるなら、そんな人間こそ却つて馬鹿か狂人とし嗤はれなければならないだらう。
藝術は「美」に立脚する。いろいろ複雑な意味を含んだ「美」に立脚する。人間の感情と文化の上に開く花である。赤い花もあれば、黒い花もあり、紫の花もあれば、白い花もあるだらう。よく咲いた花は、皆なそれぞれに美しい。
誰だ? この花園に入つて来て、虫喰ひの汚ならしい赤い花ばかりを残して、その他の美しい花を、汚ない泥靴で、荒らして歩かうとするのは!

1 thought on “中村武羅夫

  1. shinichi Post author

    誰だ? 花園を荒らす者は!

     ―イズムの文学より、個性の文学へ―

    by 中村 武羅夫

    (1928年)

    http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/study/nakamuramurao.html

       四
     
     人間が生きて動いてゐる実体は、主義や思想ではなく、個性である。人間の行動を、生活を支配してゐるものは、主義や思想の力であるよりも、個性の力である。そして、人間や生活を対象とするところに、初めて存立の意義を持つ文藝の世界に於いて、主義や思想よりも、個性が重んじられなければならないのは、元より余りにも当然のことでなければならない。藝術に主義や思想が加味され、混り合つて来ることはいゝ。社会主義を奉ずる作家の作品に、自づから社会主義の色調が加はって来るのは当然のことであり、それはそれで毫も差支へないばかりでなく、大いに結構である。それが作品としてよきものである以上、われわれはオスカア・ワイルドの唯美主義の作品も愛読するの一方には、また、バアナード・シヨオや、アナトオル・フランスや、マキシム・ゴールキイの作品をも愛読するのだ。悪の華の詩人ボードレルの詩にも惹き附けられゝば、ヴェルレーヌの詩も愛誦するし、象徴派のマラルメの詩にも、また、興味を感ずるものである。人生が広く、複雑である如く、人生に立脚してゐる藝術の世界も広く、また複雑である。そして、そのいづれにも、それがよきものである限りは、魅力と牽引とを感ぜずにはゐられないものだ。

     花は何んのために開くかを知らないだらう。小鳥は何んのために歌ふかを知らないであらう。恐らく、咲き満ちた花の美しさには、プロレタリア的イデオロギイもなければ、ブルジョア的イデオロギイもありはしない。小鳥の歌も同じことだ。

     しかしながら我れ我れは、無心に咲く花の美しさに対しても、やつぱり美しいと感ぜずにはゐられないし、無心に歌ふ小鳥の音楽に対しても、やつぱり楽しみを感ぜずにはゐられないものだ。季節々々が廻つて来れば、美しく咲く花を見て、これは階級闘争の目的意識がないからと言つて――階級闘争的精神に燃えてゐないからと言つて、また、こんな花の美しさや、小鳥の歌は、たゞブルジョアの目や耳を楽しませるだけで、プロレタリア階級には用はなく、だからブルジョアの娯楽物だとして、片つ端から花や小鳥を撲滅して廻らうとする者があつたら、それは馬鹿か狂人でなくて何んだらう。

     花は花の性質に依つて、赤い花も咲けば、白い花も咲く。若し赤い花の美しさだけを認めて、白い花の美しさを感ずる者を、封建的だと嗤ふ人があるなら、そんな人間こそ却つて馬鹿か狂人とし嗤はれなければならないだらう。

     藝術は「美」に立脚する。いろいろ複雑な意味を含んだ「美」に立脚する。人間の感情と文化の上に開く花である。赤い花もあれば、黒い花もあり、紫の花もあれば、白い花もあるだらう。よく咲いた花は、皆なそれぞれに美しい。

     誰だ? この花園に入つて来て、虫喰ひの汚ならしい赤い花ばかりを残して、その他の美しい花を、汚ない泥靴で、荒らして歩かうとするのは!

     勿論、花は無心に開き、小鳥は無心に歌ふのであるが、藝術は、人生に対し、社会に対して、積極的な関心を持つ人間の営みであることは言ふまでもない。社会人生に対して関心のないところに藝術はあり得ないのであるが、人生社会に対する関心が、必らずしもマルキシズムに依つて干渉される必要はないのだ。マルキシズムに依つて、人生社会に関心を持つことを元より妨げないが、その他のいろいろなイズムと、面と、個性とを以て、人生社会に関心を持ち、責任を分ち合ふことも、また甚だしく必要である。マルクス主義はなくとも文藝藝術の世界はあり得るのだ。

     イズムの文学より、個性の文学へ――

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