shinichi Post author04/07/2015 at 12:16 pm (sk) 由というのは子路のこと。孔子が子路に向かって、「自分が知っていることを知っていると、また自分の知らないことは知らないとするのが、知るということだ」と言ったという、とてもうまくできた話だ。子路の性格の欠点を指摘しながらも、嫌味はない。 誰にでも、知らないことをまるで知っているかのように言ってしまい、あとでいやな思いになることがある。「自分の知っていることは人と分かち合い、自分の知らないことについては人から教えてもらうという態度でいれば、そんないやな思いはしなくてもすむ」と言われても、知らないことまで知っていると言ってしまうのが私たちの悲しいところ。誰にでも子路のようなところはある。 もっともそんなことよりもつらいのが、知っていると思っていたことについて、実はなんにも知らなかったのだと知ることだ。知っていると思っていたことは、実はただ、そういうふうに思い込まされていただけなのだとわかったときの気持ちは、悲しいなどという域を超えている。 私たちがなにかを知っていると思うのは、ただの錯覚なのかもしれない。平らだった地球は、ある日から丸いということになった。それがある日、実は丸くはないのだということになるのかもしれない。 私たちは、実はなにも知らないのだ。そう思ったほうがいい。 Reply ↓
論語
為政篇
子曰、由、誨女知之乎、知之為知之、不知為不知、是知也。
(sk)
由というのは子路のこと。孔子が子路に向かって、「自分が知っていることを知っていると、また自分の知らないことは知らないとするのが、知るということだ」と言ったという、とてもうまくできた話だ。子路の性格の欠点を指摘しながらも、嫌味はない。
誰にでも、知らないことをまるで知っているかのように言ってしまい、あとでいやな思いになることがある。「自分の知っていることは人と分かち合い、自分の知らないことについては人から教えてもらうという態度でいれば、そんないやな思いはしなくてもすむ」と言われても、知らないことまで知っていると言ってしまうのが私たちの悲しいところ。誰にでも子路のようなところはある。
もっともそんなことよりもつらいのが、知っていると思っていたことについて、実はなんにも知らなかったのだと知ることだ。知っていると思っていたことは、実はただ、そういうふうに思い込まされていただけなのだとわかったときの気持ちは、悲しいなどという域を超えている。
私たちがなにかを知っていると思うのは、ただの錯覚なのかもしれない。平らだった地球は、ある日から丸いということになった。それがある日、実は丸くはないのだということになるのかもしれない。
私たちは、実はなにも知らないのだ。そう思ったほうがいい。