吉岡棟一, 広田尚敬

知識というものは、客観的に煮つめられたものだから、普遍的で、一般的で、共通性がある。どこにでも通用する。だが、そこに落し穴がある。知識には個性がない。まるで、百科辞典みたいなものだが、専門書ではない。知識ではおのれが生まれない。

知識に飼いならされた人は、坐禅を概念としての存在を認める。坐禅は、正思惟であるから正しい思惟であるとか、静慮であるから、静かに慮ることだと理解する。だが、このようなことは、知識とか文字にはあるが、実在はしないのだ。そうではなくて、坐禅をする、座禅にうちこんでいくと、こんこんと湧く泉につきあたる。かつてない新しい体験である。

One thought on “吉岡棟一, 広田尚敬

  1. shinichi Post author

    by 吉岡棟一、広田尚敬

     先にも掲げた有名な道元のことばに、
     「仏道をならふといふは自己をならふなり、
     自己をならふといふは自己をわするるなり、
     自己をわするるといふは万法に証せられるなり」
    とあり、さらに、。
     「自己をはこびて、万法を修証するを迷とす。
     万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
    ともいう。
     疑問をもつということはどういうことなのか。それは、坐禅に疑問をもつのではなくて、坐禅とはこういうものだという概念があって、概念に対しての疑問である。この疑問こそは一つの迷いである。
     知識というものは、客観的に煮つめられたものだから、普遍的で、一般的で、共通性がある。どこにでも通用する。だが、そこに落し穴がある。知識には個性がない。まるで、百科辞典みたいなものだが、専門書ではない。知識ではおのれが生まれない。
     道元のいう仏道とは、実は坐禅のことで、坐禅というものは、自分をみつめることから出発するという。知識のからくりでない自分を見つけることから始まるのだという。
     坐禅を重ねていくとき、必ず疑問が生まれるが、疑問のかなたに、新しい光明が生まれてくる。疑問を消すのではない。疑問を乗り越えたときに、おのれをも忘れた境地が誕生する。大河のようにどっと押しよせることもあれば、小波がなぎさにひたひたと打ちっけるように途切れ途切れにくる場合もある。
     知識に飼いならされた人は、坐禅を概念としての存在を認める。坐禅は、正思惟であるから正しい思惟であるとか、静慮であるから、静かに慮ることだと理解する。だが、このようなことは、知識とか文字にはあるが、実在はしないのだ。そうではなくて、坐禅をする、座禅にうちこんでいくと、こんこんと湧く泉につきあたる。かつてない新しい体験である。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *