三十八年暮、桑原史成の水俣病写真展を展いてくれるよう、わたくしは橋本彦七市長に申し込む。
— あんた何者かね?
— はあ、あの、シュフ、主婦です。あの、水俣病を書きよります。まあだほんのすこし。豚も養いよりますけん、時間がなくて。家の事情もいろいろ・・・・・・。
— ふむ、キミ荒木精之を知っとるかね。
— 知ってます。
— いや、荒木君はキミを知っとるかネ。
— ご存知です。
— つまりキミは荒木氏からみれば、熊本では何番目の文士かね?
— さあ? はあ、文士だなんて、ぜんぜん、その・・・・・・。
そしてあっさり断られる。荒木精之とは熊本文壇の族長的な存在である。
苦海浄土
石牟礼道子
わが故郷と「会社」の歴史
(p.298 – p.299)
チッソ
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/
1931年、水俣工場を昭和天皇が視察(11月16日)。水俣工場の橋本彦七・製造課長がアセトアルデヒド製造の特許を取得。通算7件の特許のうち1件は「高価有毒な水銀を系外に排出せざる」という内容であった。
1932年、水俣工場でアセトアルデヒドの製造開始(この製造に水銀触媒を使用した事が、メチル水銀漏出による水俣病へとつながる)。この年酢酸工場の臨時工の採用試験を受けた者は橋本彦七から「いつ爆発するかもしれないがそれでもいいか」と質問され就職難の折、「はい、いつ死んでもよろしゅうございます」と答えてやっと採用されたという。
1941年、水俣工場で日本最初の塩化ビニール製造開始。工程には塩化第二水銀・昇汞が含まれた。興南工場でアセトアルデヒドの製造開始。廃水溝の水銀は回収せず廃液は城川江に流していた。
1942年、水俣工場では日本人工員が兵役にとられ、炭鉱などから移ってきた朝鮮人の自由労務者の雇用を開始。原則として日本人と同じ仕事・待遇であった。また、地元の生徒の勤労動員も行われ、沖縄から学徒疎開で来た者も動員された。確認できる最初の水俣病患者が発病(1972年、熊本第2次水俣病研究班の調査で判明)。
1943年、ヘドロにより水俣湾の漁場が荒廃し、被害漁場の漁業権を買い取る。
1945年、第二次世界大戦の敗戦により、興南工場を始めとする国外資産・工場設備を失う。日窒コンツェルンは解体され、空襲で壊滅状態となった水俣工場のみが残された。橋本彦七工場長が原料を山間部に疎開保管しておいたため、敗戦2ヶ月後には、食糧増産に必要な硫安の製造を再開した。
1946年、水俣工場でアセトアルデヒドの製造を再開。
1947年、公職追放令により戦前からの経営陣が退陣。財閥解体により、「積水産業」(現・積水化学工業)設立(後に積水化学の住宅部門が分離独立し積水ハウスが設立)。水俣工場の肥料生産量は戦前の水準を超える。九州地方の電力不足に対し、水俣工場附属火力発電所は配電会社に電力を供給し、窮状を救った。
1949年、水俣工場の塩化ビニール製造を再開。5月29日、水俣工場を昭和天皇が行幸し、戦災から急速に立ち直り肥料増産に励む状況を90分間視察。
1950年、企業再建整備法の適用により日本窒素肥料株式会社は解散し、第二会社として新日本窒素肥料株式会社が設立される。本社を大阪から東京都千代田区へ移転。水俣市制後最初の市長選挙で橋本彦七元工場長が当選。以後、落選1回を挟み通算4回当選。
1952年、アセトアルデヒドを原料としてオクタノールの製造を開始。
1955年、労災事故多発のため熊本の労働基準監督署から安全管理特別指導事業場に指定をされた。
1956年、日窒アセテート株式会社(現・旭化成守山工場)を設立し合成繊維事業に参入する。
1958年、日窒電子化学株式会社(のちの三菱マテリアル野田工場)を設立しシリコンウェハー事業に参入する。
1960年、アセトアルデヒド生産量がピークに達した。
1962年4月、9か月にわたる安定賃金闘争が始まる。6月にチッソ石油化学株式会社を設立し石油化学事業に参入する。千葉県五井工場の建設に着手。
1963年1月、労働争議が終結。会社がロックアウトを行ったため減産の結果に終わった。チッソポリプロ繊維株式会社を設立しポリプロピレン繊維の製造を開始する。五井工場でポリ塩化ビニルの製造開始。
1964年、五井工場でアセトアルデヒドの製造開始。
1965年、チッソ株式会社へと改称。
1968年5月、水俣工場でアセトアルデヒドの製造中止。
1971年3月、水俣工場で少量の有機水銀を排出していた、アセチレン法ビニル工程の稼働を中止。
1972年1月、五井工場で、ジャーナリストに対する暴行事件が発生。
1973年、五井工場のポリプロピレンプラント爆発事故で死者4名、重軽傷者9名を出す。
荒木精之
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荒木 精之(あらきせいし、1907年1月7日 – 1981年12月30日)は、小説家、思想家、文化運動家、地方雑誌「日本談義」を発行、熊本地方の文化に貢献した。
1945年8月17日同志とはかり、占領軍に抗するため「尊皇義勇軍」を藤崎八幡宮で結成。しかし慰撫されて解散。三里木の開拓団などに入る。1946年本屋を開き文芸活動を再開。1950年中絶していた「日本談義」再開。1953年九品寺の書店が水害に会うも屈せず、「水害特集号」を出す。文筆活動の合間に「阿部一族の屋敷」など文化遺産の発見、小泉八雲旧居の保存、高群逸枝の「望郷子守唄」の碑の設立などを推進。地方労動委員、県教育委員をつとめる。1959年熊本日日新聞社社会賞を受賞。1962年「熊本県近代文化功労者」となる。1963年熊本県文化懇話会を、1970年熊本県文化協会を結成し、代表世話人、協会長になる。1980年辞任し県文化協会常任顧問となる。その前、1978年(昭和53年)桜山神社境内に、財団法人神風連資料館を建て、理事長となる。
(sk)
石牟礼道子は、橋本彦七という水俣病の元凶を、こういうかたちで登場させる。
私ならもっと直接的に、橋本彦七が特許を取り、橋本彦七が生産を開始し、橋本彦七が工場長として水銀を垂れ流しにし、橋本彦七が市長として水俣病の解決を妨害し、橋本彦七がチッソを守るために被害者を見殺しにしたと書いてしまうだろう。
それを、橋本彦七がどんな人間かを描写するに留めたところに、石牟礼道子の素晴らしさを感じる。
水俣だけでなく、新潟でも、四日市でも、そして福島でも同じようなことが起きたのを見るにつけ、これは個人の問題ではなく、日本人全体のことなのだ。そう思えば、石牟礼道子の抑制の効いた書き方にも合点がいく。
もし石牟礼道子が私のような書き方をする人だったなら、その本はここまでは支持されなかっただろう。
書くという作業は、ほんとうに難しい。