久須美疎安

一とせ、休、雪の暁、葭屋町の宅より蓑笠きて紹知の所へたずねられしが、露地に入りて、みの笠ぬぐとて、紹知迎えに出たれば、千鳥の香炉に火の取りたるを「これ、紹知」とて、右の袖より渡せば、紹知、左の手にうけとり、「私も懐中候」とて、右の手より香炉をわたす。休、はなはだ入興せらるると也。

3 thoughts on “久須美疎安

  1. shinichi Post author

    茶話指月集

    by 久須美疎安

    ある雪の朝、利休は、葭屋町の自宅から蓑笠を身に纏い、藪内紹智を訪ねていった。露地に入り蓑笠を脱いでいると、紹智が迎えに出てきたので、利休は、体を温めるための千鳥の香炉を右の袖からとり出して渡した。紹智はそれを左の手で受けとり、「私も持ってきました」と言って右手で香炉を渡した。利休は、とても面白がったという。

    利休は、紹智が老人だから体が冷えるだろうという思いやりから香炉を持ってきていて、また紹智は、利休が朝早く雪道を歩いてきてさぞ体が冷えただろうと心配し、やはり香炉を持ってきていたという。このように二人の心が同じだと思われたとき、その瞬間はとても美しく感じられる。

    久須美疎安は藤村庸軒の娘婿。藤村庸軒による千宗旦からの口述を『茶話指月集』として版行した。上記の話は、『茶話指月集』のなかに出てくる。

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  2. shinichi Post author

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
    https://ja.wikipedia.org/wiki/千道安
    https://ja.wikipedia.org/wiki/千少庵
    https://ja.wikipedia.org/wiki/千宗旦
    https://ja.wikipedia.org/wiki/茶人人物一覧
    などなど。

    **

    千利休(商人、茶人、豊臣秀吉の側近、秀吉との関係に齟齬を生じ切腹)
    お稲(宝心妙樹、千利休の妻、三好長慶の妹)
    おりき(千宗恩、能役者の宮王三入と死別後、お稲と死別した千利休の後妻となる)

    千道安(千利休の長子、秀吉の茶道頭(八人)の一人、千家の家督を継いだ(堺千家))

    千少庵(宮王三入とおりきの長男、千利休の養子、千家二代、京千家を興した)
    お亀(千利休とお稲の末女、千少庵の妻)

    千宗旦(千少庵とお亀の長男、千家三代、宗旦流(三千家)の祖、生涯仕官せず)

    千宗拙(千宗旦の長男、加賀藩前田家に仕え、後に勘当された)
    一翁宗守(千宗旦の次男、高松松平家に仕え、武者小路千家を興した)
    江岑宗左(千宗旦の三男、紀州徳川家に仕え、表千家を興した)
    仙叟宗室(千宗旦の四男、加賀藩前田家に仕え、裏千家を興した)

    武者小路千家、表千家、裏千家は、「三千家」として現代まで続いている。

    **

    鎌倉時代の茶人: 栄西、道元

    室町時代の茶人: 一休宗純、足利義政、村田珠光、武野紹鴎、能阿弥、志野宗信、玉置一咄、古市澄胤、北向道陳

    天下三宗匠: 今井宗久、津田宗及、千利休

    利休門三人衆: 細川忠興、芝山宗綱、蒲生氏郷
    利休七哲: 「利休門三人衆」+ 古田重然、瀬田正忠、高山右近、牧村利貞(金森長近)
    利休十哲: 「利休七哲」+ 荒木村重、織田長益、前田利長(千道安、有馬豊氏、金森長近)

    宗旦四天王: 藤村庸軒、杉木普斎、山田宗徧、久須美疎安(三宅亡羊、松尾宗二)

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    茶人の系譜を眺めた時、「千家の家督を継いだ千道安の系統」と、「後妻の連れ子の千少庵、その長子の千宗旦の系統」との違いに、自然と目が行く。

    千道安の系統には、古田織部、小堀遠州といった人たちの名前が見られ、その系譜には、金森重近(宗和流)、桑山宗仙、下條信隆(石州流宗猿系)、藤林宗源(古石州流)、大口樵翁(大口派)、清水動閑(清水派)、野村休盛(野村派)、怡渓宗悦(怡渓派)、松平治郷(不昧流)、井伊直弼(宗観流)といった名前が連なる。桑山宗仙に師事していた片桐石州の門下に3代将軍徳川家光の異母弟にあたる保科正之があり、その推挙により4代将軍家綱の茶道指南役となったことで、以後江戸時代を通じて石州流が幕府の茶道として広がっていくことになったことを考えると、「正統」とか「権力」といった千利休の特質は、この系統に伝わったのだと、私は勝手に考えてしまう。

    千道安と同じ年であった千少庵は、片足に先天的障害を持っており、千家内での立場は弱く、千利休切腹後は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられ、京に戻り、京千家を興し、息子の千宗旦を還俗させた後も、千宗旦の後見に徹したという。千宗旦にしても、政治との関わりを避け、生涯仕官しなかったそうだ。千宗旦の茶風はわび茶を徹底させたもので、乞食修行を行っているように清貧であるという意味から「乞食宗旦」と呼ばれたという。千宗旦が晩年に建てた一畳台目(約2畳の広さ)の茶室は、侘び茶の精神を表した究極の茶室とされている。つまり、私が感じている「わび・さび」は、千少庵・千宗旦親子から来ているようなのだ。

    不思議なのは、その千宗旦が、子供たちの就職に際しては権力志向を強く持ったことだ。長男宗拙を加賀藩前田家に、次男宗守を高松松平家に、三男宗左を紀州徳川家に、四男宗室を加賀藩前田家に仕えさせ、久田家と姻戚関係を結び、ある意味現在の権威である「三千家」の元を築いたのだから、なんともいえない。

    『南方録』諸本の原本である立花家本を筆写した立花実山は、実際には博多や堺で収集した資料を編纂して千利休の死から百年後に合わせて『南方録』を創作したのだそうだが、その立花実山が興した南坊流(立花流)は、織部流を基本とし、道安流と遠州流を加えたものだったという。つまり禅的な、そしてわび・さびの要素の強い『南方録』は千道安の系統から出て来たものなのだ。

    力のある千道安の系統が観念的になり「わび・さび」を追及してゆくのと同時に、本来「わび・さび」そのものであった千宗旦の系統が力を目指すようになっていったのは、皮肉といえば皮肉だが、それは人のすることとしてはごく自然のことだったのだとも思う。忘れていけないのは宗教のことで、権力側の禅宗と、そうでない側の禅宗でない仏教との影響は、決して小さくない。「わび・さび」が禅宗的なことを考えれば、すべてに合点がいく。

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