横田南嶺

今、こうして目の前で話しを聞いているもの、これこそが仏なのであります。それに気づくには心の向きを変えることが必要です。外に向かって働く心を内に向ける。
外に向かって働く心というのは、たとえば、今し方、ヘリコプターが轟音をたてて上空を過ぎる音がしましたが、それを聞いて 「あの音はうるさい!せっかく坐禅をしているのに何だ!」 や 「あれはいったい何の音だ?何かあったのだろうか?」 と思うのは外に向かっている方向です。
その流れを変えて自分にこう問いかけてみる。「その音を聞いているものは何ものか?」 と。そうして心の向きを外から内に変えてみると外の音が何であろうが関心はなくなってしまうでしょう。
「今、こうして、聞いているものは何ものであるか?」 と自らに問いかけると 「今、こうして聞いているものこそ仏であった!」 と気づくはずです。このことを深く信じることが 「自らを信じること」 ということなのです。
こうして信じることができるならもう外の世界に振り回され、惑わされることもないはずです。

2 thoughts on “横田南嶺

  1. shinichi Post author

    円覚寺 淡青坐禅会 居士林だより

    2014年4月2日 心の向きを変える

    http://www.engakuji.or.jp/blog/category/<臨済録提唱>淡青坐禅会

     法堂跡にて。スズメたちも春の到来を待ちかねていたかのように仏殿まわりを元気にさえずりながら飛び回っています。

     横田南嶺老師が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

     臨済禅師は「今、仏道を修行するものは自らを信じるということが大事である」と仰せになっています。お釈迦様も「己こそ己のよるべ」「自らを灯火(ともしび)とし自らをよりどころとせよ」と言われました。

     よりどころとなるのは、各自めいめいの本心・本性のことです。それは、今、こうして目の前で話しを聞いているもの、これこそが仏なのであります。それに気づくには心の向きを変えることが必要です。外に向かって働く心を内に向ける。

     外に向かって働く心というのは、たとえば、今し方、ヘリコプターが轟音をたてて上空を過ぎる音がしましたが、それを聞いて「あの音はうるさい!せっかく坐禅をしているのに何だ!」や「あれはいったい何の音だ?何かあったのだろうか?」と思うのは外に向かっている方向です。

     その流れを変えて自分にこう問いかけてみる。「その音を聞いているものは何ものか?」と。そうして心の向きを外から内に変えてみると外の音が何であろうが関心はなくなってしまうでしょう。

     「今、こうして、聞いているものは何ものであるか?」と自らに問いかけると「今、こうして聞いているものこそ仏であった!」と気づくはずです。このことを深く信じることが「自らを信じること」ということなのです。

     こうして信じることができるならもう外の世界に振り回され、惑わされることもないはずであります。

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  2. shinichi Post author

    円覚寺 淡青坐禅会 居士林だより

    2015年2月5日 妙な世の中になった

    http://www.engakuji.or.jp/blog/category/<臨済録提唱>淡青坐禅会

     円覚寺派管長 横田南嶺老師が、昨日、居士林で行われた淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

     本を読んで学ぶことは決して悪いことではありませんが、しかし、読んで得た知識に執着してしまったり、とらわれてしまってはいけません。自分が本を読んで得た知識というのは、全体のほんの一部分でしかない、全体のわずかな一部分にふれたに過ぎないということがわかるようにならないと自分の得た解釈だけにとらわれててしまい、執着となりはてには、他人との争いとなってしまいます。

     詩人・坂村真民さんに「妙な世の中になった」という詩があります。

    「妙な世の中になった」
    {昔は本を読んだら賢くなったが
    今は読めば読むほど
    おかしくなる本が多くなった
    食べ過ぎ
    読み過ぎ
    みな何かに毒されて
    自己を失ってしまう人が多くなった
    薬を飲んで
    却って悪くなり
    本を読んで
    却って気が狂い
    妙な世の中になった・・・}
     (坂村真民全詩集第7巻 p151)

     臨済禅師に「人惑を受けることなかれ」という言葉あります。「何はともあれ、ものについてまわってはいけない」という意味です。

     もちろん学ぶことを全部否定するわけではありません。大事なことは「学ぶことによって何に気がつき、何を得ていくか?」であります。

     あまりにも様々な情報があふれ過ぎている現代は、まさに「食べ過ぎ 読み過ぎ みな何かに毒されて 自己を失ってしまう人が多くなった 薬を飲んで 却って悪くなり 本を読んで 却って気が狂い 妙な世の中になった」という真民先生の表現通りとなってはいないでしょうか。

     「人惑を受けることなかれ」が難しい環境です。電車に乗ればケイタイ電話などをチャッチャチャッチャといじって、何やらああいったものに振り回されて却って自己を見失っているとしか見えない人たちを大勢見かけます。

     それでも、やはり「人惑を受けることなかれ」です。時には、やはりケイタイなどの電気を切って静かに自己を見つめることも大切です。時には本を閉じて何ものも求めることなく、ただ、自分が今、呼吸していることだけを味わって静かに自己を見つめて坐ることが、今日のような情報社会にあってはますます必要なのではないでしょうか。

     そうでなければ、自分の得たわずかな知識に執着し、とらわれ、はてには争いが続いてしまいます。

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