3 thoughts on “かわさき市民アカデミー

  1. shinichi Post author

    かわさき


    石牟礼道子の世界を読む (WS-4)

    2015年後期 水曜日のワークショップ

    http://npoacademy.jp/sub2/bosyu15k/bosyu15k4.html

    短歌から出発した石牟礼道子は、水俣病を告発した『苦海浄土』で知られるが、民衆史、女性史への関心が深く『西南役伝説』『最後の人 詩人髙群逸枝』のような作品もある。父祖の地、天草の乱を描いた『アニマの鳥』など小説作品も多く、新作能『不知火』も有名である。

    講師: 早稲田大学名誉教授 東郷克美

    時間: 13時15分~15時15分

    1  10/14 (水) 生涯学習プラザ オリエンテーション
    2  10/28 (水) 『椿の海の記』(河出文庫)
    3  11/11 (水) 『苦海浄土』(講談社文庫):前半
    4  11/25 (水) 『苦海浄土』(講談社文庫):後半
    5  1/13 (水)   『西南役伝説』(洋泉社MC新書)
    6  2/3 (水)   『あやとりの記』(福音館文庫)
    7  2/17(水) 新作能『不知火』(DVD)

    plaza


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  2. shinichi Post author

    (sk)

    11/25 (水) 『苦海浄土』(講談社文庫):後半 - 発表(正)

    私に発表がうまくできるとは思えませんので、この「苦海浄土」のなかの印象に残った部分を何か所か読ませて頂き、感想を付け加えさせていただきます。

    まず、この講談社文庫ですとp.298 – p.299の、「第六章 とんとん村」のなかの「わが故郷と「会社」の歴史」という項のなかの、石牟礼道子と橋本彦七(はしもと ひこしち)の会話を読ませていただきます。

    三十八年暮、桑原史成の水俣病写真展を展いてくれるよう、わたくしは 橋本彦七市長に申し込む。
     — あんた何者かね?
     — はあ、あの、シュフ、主婦です。あの、水俣病を書きよります。
        まあだほんのすこし。 豚も養いよりますけん、時間がなくて。
        家の事情もいろいろ・・・・・・。
     — ふむ、キミ荒木精之を知っとるかね。
     — 知ってます。
     — いや、荒木君はキミを知っとるかネ。
     — ご存知です。
     — つまりキミは荒木氏からみれば、熊本では何番目の文士かね?
     — さあ? はあ、文士だなんて、ぜんぜん、その・・・・・・。
    そしてあっさり断られる。荒木精之とは熊本文壇の族長的な存在である。

    私はこの部分、この会話が、とても印象に残りました。地元の名士で、地元ではみんなから尊敬されている橋本彦七という人の、石牟礼道子を見下す態度、下品な人柄が、とてもよく伝わってきます。

    橋本彦七は、ご存知のとおり、アセトアルデヒドから酢酸までの一連の合成方法の発明者、つまり水俣病を作りだした張本人であり、会社の製造課長であり、工場長であり、そして市長でもあった人です。つまり、橋本彦七は水俣病のシンボルのような人です。

    橋本彦七がそういう人だということを、石牟礼道子が知らなかったわけはありません。その人のことを知っていて、それでも悪いことをした人、間違ったことをした人として書くのではなく、ただの偉い人、嫌な人として書くというところに、石牟礼道子らしさがあると思いました。橋本彦七という水俣病の元凶を、こういうかたちで登場させ、どんな人間かということを描写するに留めた。そこに、石牟礼道子らしさを感じるわけです。

    ただ、橋本彦七のことを考えてみれば、その背景には「工場あっての水俣」という現実があり、橋本彦七のことを「工場を守ってくれた人」、つまり「自分たちの生活を守ってくれた人」と思っている水俣の住民たちがいて、必ずしもみんなが石牟礼道子のように考えていたわけではないという状況があるわけです。

    そんな状況が、「第七章 昭和四十三年」のなかの「てんのうへいかばんざい」という項のなか、この講談社文庫ですとp.343 – p.344に、とてもよく書かれています。チッソ社長の江頭豊(えがしらゆたか)が東京からやってきて患者家庭をお詫びにまわるというその日に、山本亦由(やまもとまたよし)という新互助会の会長宅で起きたことです。

     そのとき前庭を、ひょろひょろと吹き寄せられるような足つきで一人の婦人があらわれ、「小父さん!」というなり、玄関入り口にかがみ込み、はげしくおえつしはじめたのである。髪のあまりのおどろしさと両肩のあらわな下着姿に一瞬見まちがえたが、出月在宅重症患者、多賀谷キミさん(48歳)である。
    「何したか! どげんした!」
     山本氏は腰を浮かせてそう叫んだ。
    「小父さん、もう、もう、銭は、銭は一銭も要らん! 今まで、市民のため、会社のため、水俣病いわん、と、こらえて、きたばってん、もう、もう、市民の世論に殺される! 小父さん、今度こそ、市民の世論に殺されるばい」
     みればはだしである。
    「何ばいうか! いまから会社と補償交渉をはじめる矢先に、なんばいうか。だれなんちゅうたか」
    「みんないわす。会社が潰るる、あんたたちが居るおかげで水俣市は潰るる、そんなときは銭ば貸してはいよ、二千万円取るちゅう話じゃがと。殺さるるばい今度こそ、おじさん」

    この、なんともせつない、なんともつらい描写から、当時の水俣の空気というものがとてもよく伝わってきます。

    そして、前後しますが、この講談社文庫ですとp.334 – p.335の、「第七章 昭和四十三年」の「いのちの契約書」という項のなかの、

    会社に対して裁判も辞さぬと朝日新聞に決意表明をした胎児性死亡患者岩坂良子ちゃんの母親上野栄子氏の家には、チッソ新労が洗濯デモをかけるぞというデマ情報が入っていた。
    「水俣病ばこげんなるまでつつき出して、大ごとになってきた。会社が潰るるぞ。水俣は黄昏の闇ぞ、水俣病患者どころか」
     仕事も手につかない心で市民たちは角々や辻々や、テレビの前で論議しあっている。水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という言い回しが野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。

    という状況があるわけです。

    そして私は、これは水俣だけのことではないと、強く強く思うのです。

    水俣だけでなく、新潟でも、四日市でも、そして福島でも同じようなことが起きました。でも私が言いたいのは、そういった現象のことではなく、どこでなにがあったとかそういうことだけではなく、橋本彦七とか江頭豊とかの個人の問題でももちろんなく、日本人全体のことなのではないかと、そう思うのです。

    日本人が持っている、長いものには巻かれろというような、また個人よりも全体を優先するという考え方。それから、ものごとが論理的に決まるのではなく、社会を覆う空気のようなもので決まっていくという不気味さ。実際私たちは社会の空気が、悪者を作り出したり、戦争を起こしたりするのを見てきました。そういう日本の社会は、そして日本人は、時に恐ろしくもあります。

    そう思ったときにはじめて、石牟礼道子の抑制の効いた書き方に合点がいくのです。私も文章を書いたりするのですが、もし石牟礼道子が私のような書き方をする人だったなら、苦界浄土というこの本は、ここまでは支持されなかっただろうと思います。

    「書くという作業は、そして伝えるという作業は、ほんとうに難しい」と改めて思いましたし、また、石牟礼道子は素晴らしい書き手なのだと、今回この本をゆっくり読んで、本当に素晴らしいなと、そう思い、そう感じました。

    付け加えたいことがひとつありまして、前回に東郷先生がおっしゃった「石牟礼道子は反近代だ」ということについて、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

    先生のお話にもたびたび出てくる渡辺京二という人も、「石牟礼氏は近代主義的な知性と近代産業文明を本能的に嫌悪する」と書いていますし、まあその、東郷先生だけではなく、ありとあらゆる方々が、石牟礼道子の反近代について書いておられます。

    そういうなかでは、「近代への呪詛」と「前近代の美化」ということがよく書かれるのですが、私にはそうは思えないのです。石牟礼道子が嫌悪しているのは、近代ではなく、「今の日本」なのではないか。そう思うのです。

    この発表の最初に読みました「石牟礼道子と橋本彦七の会話」にしてもそうです。私たちは、今の日本で、近代的な日本で、橋本彦七のような権威主義的な人から「あんた何者かね?」とか「キミはいったい誰なんだね?」というようなことを言われる、もしくはそれに似たような経験をします。

    「患者の百十一名と市民四万五千とどちらが大事か」という言い回しも同じです。この言い方こそが今の日本だと思います。実際、2010年に明治大学で開催された水俣展において「自分が公的な立場に立ったなら、水俣病患者ではなく工場の社員や市民生活を守ろうとするのではないか」と答えた人が参加者の半数以上を占めたという、わたしにとってはショッキングな、現在の日本人の意識というものがあります。

    「多数が支持しているのだから」、「選挙で選ばれたのだから」などといってものごとを進めていく日本的なやり方は、民主主義ではなく、前近代のやり方です。「経済効果は」、「費用対効果は」などというのも、資本主義ではなく、単なる日本的なカネ崇拝文化だと思います。

    つまり、石牟礼道子が嫌悪しているのは、近代ではなく、「現代の日本」だと思うのです。

    石牟礼道子が書いていることは、私には、とてもグローバルに思えます。近代的でないのは、つまり反近代は、石牟礼道子ではなく、今の日本なのではないか。そう思ったのです。

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    1/13 (水)   『西南役伝説』(洋泉社MC新書) - 発表(副) - 欠席

    石牟礼道子は「ロック」なのではないか。この本を読んでそう思いました。

    たとえばこの本の「あとがき」は Dire Straits の Mark Knopfler が作詞した「Telegraph Road」そのものです。

    それだけではありません。ありとあらゆる文章がロックなのです。Beatles の John Lennon が作詞した「Imagine」を思い起こさせる文章、そして Mountain の Felix Pappalardi とその奥さんの Gail Collins が作詞した「One last cold kiss」を思い起こさせる描写もあります。

    人は石牟礼道子のことを「前近代」と決めつけ、まるで呪いをかける巫女のように言いますが、石牟礼道子は世界中のロックでクールな人たちと、とてもよく似た感性を持っていると、そう思いました。

    _____________________________________
    「西南役伝説」の「あとがき」

    非常に小さな、極小の村が始まるところ、波の音と松風の音がする渚辺に人がひとり現われて、家というものが出来あがるところから始めたかったのである。その家が二軒三軒になり、つまり自分のいま居る村が出来、町になり、気がつけばもう人間は沢山いて、それぞれ微妙に異なる影を持ち、異なる者が仕事を持ち、その仕事の選択の仕方によって社会というものも出来ぐあいが異なってくる。それには風土の条件があり、他郷の者とどのように交わって文化(暮らしの形としての文化)を創りあげ、その文化はどのような地下の根を持っているのか、形をなぞって見たかった。地上の形はごらんの通りなので、なぜそうなるのか根の育ち方を知りたかった。
    **
    目に一丁字もない人間が、この世をどう見ているか、それが大切である。権威も肩書も地位もないただの人間がこの世の仕組みの最初のひとりであるから、と思えた。それを百年分くらい知りたい。それくらいあれば、一人の人間を軸とした家と村と都市と、その時代がわかる手がかりがつくだろう。そういう人間に百年前を思い出してもらうには、西南役が思い出しやすいだろう。始めたときそう思っていた。

    _____________________________________
    Mark Knopfler の「Telegraph Road」

    A long time ago came a man on a track
    Walking thirty miles with a sack on his back
    And he put down his load where he thought it was the best
    He made a home in the wilderness
    He built a cabin and a winter store
    And he plowed up the ground by the cold lake shore
    And the other travelers came walking down the track
    And they never went further, and they never went back
    Then came the churches, then came the schools
    Then came the lawyers, and then came the rules
    Then came the trains and the trucks with their loads
    And the dirty old track was the telegraph road

    Then came the mines, then came the ore
    Then there was the hard times, then there was a war
    Telegraph sang a song about the world outside
    Telegraph road got so deep and so wide
    Like a rolling river

    And my radio says tonight it’s gonna freeze
    People driving home from the factories
    There’s six lanes of traffic
    Three lanes moving slow

    I used to like to go to work, but they shut it down
    I’ve got a right to go to work, but there’s no work here to be found
    Yes, and they say we’re gonna have to pay what’s owed
    We’re gonna have to reap from some seed that’s been sowed
    And the birds up on the wires and the telegraph poles
    They can always fly away from this rain and this cold
    You can hear them singing out their telegraph code
    All the way down the telegraph road

    You know, I’d sooner forget, but I remember those nights
    When life was just a bet on a race between the lights
    You had your head on my shoulder, you had your hand in my hair
    Now you act a little colder, like you don’t seem to care
    But believe in me, baby, and I’ll take you away
    From out of this darkness and into the day
    From these rivers of headlights, these rivers of rain
    From the anger that lives on the streets with these names
    ‘Cause I’ve run every red light on memory lane
    I’ve seen desperation explode into flames
    And I don’t want to see it again

    From all of these signs saying, “sorry, but we’re closed”
    All the way
    Down the telegraph road

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