Andrew Murray

フットボールの歴史はストリート出身の偉大なプレーヤーを多数、目撃してきた。しかし、子どもたちがプレイステーションで遊び、個人技よりも組織的なポゼッションサッカーが重視される時代、「ストリート的な」フットボールは死んだ芸術になってしまったのではないか。
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ストリートはスキルを育み、名選手を生み出し、フットボールの形を変え、時に社会までも変えた。だが、最後にもう一つ、シンプルだが極めて重要なことを指摘しておきたい。ストリートにはフットボールにおける最も根本的な精神があるということだ。ファン・ペルシーの言葉がそれを表している。
「ストリートでのプレーは楽しかった。だから何時間でもやっていられたんだ」
そう、ストリートでプレーするのは楽しい。そして、それがすべての原点にある。

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  1. shinichi Post author

    ストリートの芸術は死んだのか?<前編>

    by アンドリュー・マレー(Andrew Murray)

    photograph by ガリー・プライアー(Gary Prior)

    http://www.asahi.com/and_M/interest/TKY201402100028.html

     フットボールの歴史はストリート出身の偉大なプレーヤーを多数、目撃してきた。しかし、子どもたちがプレイステーションで遊び、個人技よりも組織的なポゼッションサッカーが重視される時代、「ストリート的な」フットボールは死んだ芸術になってしまったのではないか。英国の専門誌『FourFourTwo』が、各地の取材を通してストリートサッカーに迫る。

    ■ストリートのような大胆なシュート

     2013年8月17日、南ウェールズのガウアー半島は大雨に見舞われていた。リバティー・スタジアムのスタンドにはレプリカユニフォームではなく、レインコートを着込んだ観客が目につく。スウォンジーとマンチェスター・ユナイテッドのユニフォームが、ピッチに立つ選手たちの体にべったりとまとわりついている。2013-14シーズンのプレミアリーグはそんなふうにして幕を開けた。

     ユナイテッドが4-1と快勝して試合が終わると、ずぶぬれの選手たちは足早にロッカールームへと引き上げていく。その横で、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれたロビン・ファン・ペルシーは雨水を滴らせながら、上機嫌でジャーナリストと会話していた。話題は彼が決めた2ゴール目のシュートだ。72分、ファン・ペルシーはゴール前中央から単独でドリブルを仕掛け、2人のDFをワンステップでかわすや否や、ゴール左上のコーナーに目の覚めるようなシュートを蹴り込んでいた。

     「まるでストリートのプレーだったね。うまくヒットできた」

     これほど素晴らしいゴールを語るには、少しばかり単純すぎる表現に思える。だが、それはまったく正しい表現でもあった。確かに、ストリートでボールを蹴る少年のような大胆さと遊び心がなければ不可能なゴールだ。2人のDFに目の前を塞がれて「ドリブルでかわす」というプレーを選択できる選手が(リオネル・メッシ以外に)どれだけいるだろう? 私は考え込んでしまった。

     我々は10年後もこんなゴールを見られるだろうか? 5歳の子どもに完璧なポゼッション・スタイルを教え込み、似たような選手を大量生産している現代のアカデミーから、次のファン・ペルシーは現れるだろうか? にやりと笑って相手DFの裏をかくようなフェイントは、もはや絶滅しつつあるストリートの芸術なのだろうか?

     ウェイン・ルーニーはあるインタビューでこう話している。「僕のプレーの95パーセントは、子どもの時に毎日ストリートでやっていたことだ」。だが、ルーニーはイングランドで最後のストリート・フットボーラーになってしまうかもしれない。この国の少年たちは路地裏や公園でルーニーの真似をする代わりに、プレイステーションでルーニーを操っている。

     ストリートサッカーはもう失われた遊びなのか? そもそも、それはフットボールにとって重要な文化の一つではなかったのか? 我々はこのテーマを探るべく、ヨーロッパと南米の3つの街を訪れた。

    ■スキルを磨きたければストリートへ行け

     ロッテルダムの移民街として知られるクラリンゲンは、様々な文化が融合した不思議な地域だ。迷路のように入り組んだこの街の路地が、ファン・ペルシーの才能を育んだピッチになった。彼がまだ幼い頃、芸術家でもある父親ボブは友人からある「予言」を受ける。君の息子はきっと将来、オランダ代表の王様になるぜ、と。気を良くしたボブは家から5分のところにあるコンクリートのコートに行き、どんな名コーチにも思いつかない最高のアドバイスを息子に授けた。「ロビン、マラドーナみたいにプレーしてごらん!」。ディエゴ・マラドーナはボブのアイドルだった。

     5歳の時、ファン・ペルシーは地元のアマチュアクラブ、エクセルシオールに加入する。チームメートには後にトッテナムに移籍するムニル・エル・ハムダウィ(現マラガ)や、サラゴサでプレーすることになるサイード・ブタハル(現アル・ワクラ)がいて、彼らはクラブの練習がない日もストリートで毎日ボールを蹴っていた。

     「ストリートですべてを覚えたんだ」とファン・ペルシーは言う。「僕らは朝から晩までボールを蹴っていた。うまくなって当然さ」。戦術も人数も関係ない。3人いれば2人がゴール前に並び、残った1人が浮き球でシュートを決めるゲームをした。1人しかいなければ壁当てやリフティングをして遊んでいた。彼が振り返ったとおり「うまくなって当然」だった。フェイエノールトのユースチームに加わる頃には、ファン・ペルシーは完璧なボールスキルを身につけていたという。

     もう一人、オランダのフットボールにストリートがどれだけ貢献しているのかを示す好例を紹介しよう。名選手を次々と輩出してきたアヤックス・アカデミーの秘密を、オランダ代表のウェスレイ・スネイデルは次のように明かしている。

     「7歳でアヤックスに入った時、最初に短いロープがついたボールを渡された」。驚くべきことに、彼のスキルはアカデミーのトレーニングの成果ではない。「自分でスキルを磨いてくるように言われたんだ。毎週金曜日に自主練習の成果を見せるテストがあってね。だから3時に学校から帰ると、夜の10時過ぎまでストリートで練習した。僕のスキルはすべて、そこで身につけたものだ」

     アヤックスのアカデミーでコーチを務めるブライアン・ロイは言う。「アヤックスの練習生は、ボールを扱う技術に限ればプロとさほど変わらない。みんなストリートでプレーするからね。クラブの練習は時間に限りがあるけど、ここで練習をしていない時も全員がどこかでボールを蹴っている。そうでなければ、これほど上手にはならないよ」

     アカデミーはテクニックを教える場所ではない、とロイは強調する。「テクニックは自分で身につける。それをうまく試合で使えるように指導するのが僕らの役割だ」

     選手、コーチ、GMとして30年以上もアヤックスに関わってきたダヴィッド・エントは、ストリートサッカーに対するオランダ人の思い入れを簡潔に説明してくれた。「オランダはずっと、チューリップと水車ぐらいしか知られていない二流国だった。そこに1970年代、ヨハン・クライフたちが登場して、フットボールの国になった。彼らがオランダの名前を世界に広めたんだ」

     クライフの独創的なテクニックこそ、ストリートならではのものだ、とエントは言う。「彼らはストリートでフットボールを覚えた。当時のオランダには他の遊びがなかったんだ(笑)。だが、コンクリートの上では簡単に転べないし、窓ガラスにボールをぶつけるわけにもいかない。壁を使ってワンツーをしたり、並んでいる車を避けてドリブルすることもある。自由にボールを扱えるようになりたければ、ストリートでプレーするのが最良の方法なんだ」

    ■アルゼンチンのフットボールの原点

     ストリートとフットボールの関係が、アルゼンチンほど密接な国は他にない。1880年代、英国人がこのスポーツを南米の何もない空き地(アルゼンチンではポトレーロと呼ぶ)に持ち込んで以来「フットボル・デル・ポトレーロ」(ストリートサッカー)はアルゼンチンにおけるフットボールの原型となった。そう、小柄で浅黒く、がっちりとしたテクニシャンたちが、素晴らしいドリブルを披露し合うスタイルだ。

     この国のフットボールの黎明期(れいめいき)を支配したのは、ブラウン兄弟、ラトクリフ、ムーアといった英国移民の子弟たちだった。だが1913年、ラシンが初めてリーグを制覇した時、ラシンには英国系選手が一人もいなかった。代わりにいたのは「ドリブルの王」と呼ばれたペドロ・オチョアである。それは英国流の力任せで単調なスタイルが、インスピレーションとアドリブに満ちたラテンのスタイルに取って代わられた瞬間だった。

     「アルゼンチンのフットボールは英国の真逆だ」。そんな見出しが打たれた1928年の『エル・グラフィコ』誌が今も残っている。「戦術などない。あるのはドリブルと個人技だけ。ストリートでボールを蹴る子どもたちは、あれこれ命令されずに自由にプレーする」。言い換えれば、これはアルゼンチン社会を実効支配していた英国への反抗でもあった。

     1930年までに、フットボル・デル・ポトレーロはブエノスアイレスの見慣れた風景の一つになった。急速な都市化で地方の農民が大量に流入し、首都の人口は急激に増加。「バルディオス」と呼ばれる密集したビル街が生まれ、その間を縦横に走る狭い路地で、少年たちはドリブルのスキルを磨き合った。まさにそこから、1930年のワールドカップ(W杯)でアルゼンチン代表の右サイドを担ったカルロス・ペウセジェのようなドリブラーが生まれたのだ。恐らく、この国で最初のストリートサッカー出身のスターとなった彼は、ブエノスアイレスの2大クラブの一つ、リベル・プレートでプレーした。

     それ以来、アルゼンチンではスラム街で生まれ育った貧しい少年たちが、バルディオスで偉大なフットボーラーへと育っていった。その最大のスターであるマラドーナは言う。「俺たちは少しでも利用できることがあれば、それを使って勝つ。他人なんか当てにできるか。自分でつかむしかないんだよ。ナポリ時代に手を使ってゴールを決めたことがある。相手はウディネーゼで、ジーコが文句を言ってきたよ。レフェリーに申し出ろ、さもないと君は正直者じゃないことになる、ってさ。だから言い返してやった。『お会いできて光栄です。私の名前は“不正直者”ディエゴ・マラドーナですってね。まったく、アイツは俺に何を期待したんだろうな(笑)」 

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    ストリートの芸術は死んだのか?<後編>

    by アンドリュー・マレー(Andrew Murray)

    photograph by ガリー・プライアー(Gary Prior)

    http://www.asahi.com/and_M/interest/TKY201402240025.html

    ■ブラジル社会を変えた黒人選手のフットボール

     ストリートサッカーが社会にもたらしたインパクトの大きさでいえば、ブラジルにかなう国はないだろう。W杯で最多5回の優勝という強さの根源は、ストリートにあるといっても言い過ぎではない。

     人種平等がまだ夢物語だった時代、ブラジルの黒人たちはストリートでフットボールを楽しんだ。芝生のピッチで自由にプレーさせてもらえなかったからだ。奴隷制廃止からまだ数十年しか経っていなかった1920年代、支配階級にあった白人たちは、自分たちと「接触しないこと」を条件に黒人選手をプレーさせた。接触した場合は白人選手にFKが与えられるというルールだった。

     そんな中、リオデジャネイロの石畳のストリートでは、芝生のピッチに立てない黒人たちがサンバのリズムでフットボールをプレーするようになった。そして、アルゼンチンのケースとは対照的に、ブラジルでは支配階級が自らストリートを受け入れていくことになる。

     ブラジルのフットボール史上最も重要なクラブは、恐らくヴァスコ・ダ・ガマだ。リオの労働者階級のクラブとして知られる彼らは、当時、かつての統治国だったポルトガルの貿易商をチームのマネージャーとして雇った。ポルトガル人はチームを強くするため、まだクラブに所属していない優れた才能を探し、当然の結果としてストリートに行き着いた。そこで毎日プレーしている黒人たちが「宝の山」であることに気づいたのだ。黒人プレーヤーは最初、ピッチに上がる前に化粧をして肌の色をごまかしていたが、すぐにその必要もなくなった。彼らのプレーを目の当たりにした他のクラブがこぞってストリートに出向き、優れた黒人プレーヤーをスカウトするようになったためだ。彼らはこうして、ストリートで磨いた芸術的なテクニックとともに、ブラジル社会に受け入れられていった。

     フットボールの歴史に詳しい人なら、1930年に初めて行われたW杯の優勝国がウルグアイだと知っているだろう。この大会で、ブラジルはグループリーグすら突破できなかった。そう、南米における最初の強豪国はウルグアイであり、ブラジルがその壁を越えるためには黒人プレーヤーの力が必要だった。

     仮に、ブラジルにストリートサッカーが存在せず、フットボールがいまだに閉鎖的な「白人のスポーツ」だったとしたら? この国の歴史にはガリンシャもペレも、ロマーリオもロナウジーニョも登場しなかったことになる。5回どころか、1回でもW杯を制することができたかどうか、怪しいものだ。

    「ストリートでフットボールばかりしていた。学校の成績は最悪だったよ」。浅黒くがっちりした小柄なストライカー、ロマーリオはそう言って笑う。リオのスラム街でスキルを磨き、後にW杯のトロフィーを手にした元セレソンの天才は、今は国会議員になっている。リオの人々にとって、彼は今でも真の英雄だ。

    ■ストリートのスピリット

     世界のストリートサッカーを見てきたところで、英国の場合はどうだろうか。

    「ストリートサッカーにあふれているスピリットを取り入れていかなければならない。イングランドのプレーヤーは外国の選手に比べ、明らかにテクニックで劣っている」。そう語るのはクーバー・コーチングの共同創設者の一人、アルフレッド・ガルスティアンだ。クーバー・コーチングは独自の方法で、イングランドのフットボールに欠けているストリート的なスキルを子どもたちに教えている。

     エヴァートンで最初にルーニーを教えたトシュ・ファレルもこの意見に同意する。「アドリブや即興的なプレーを教えなければならない。いろんな種類のピッチでプレーするのが望ましいね。コンクリート、人工芝、普通の芝。常に違った環境でプレーできれば、ストリートでやるのと近い感覚になる。選手は様々な状況に対応して、頭を使いながらプレーする。それこそが、イングランドのトップクラスの選手から失われてしまったものだ。言ってみれば、今の選手たちには“第六感”が欠けている」

     ファレルはエヴァートンで子どもたちを教えていた頃、当時トップチームの監督だったデイヴィッド・モイーズからアカデミーを改善するアイデアを求められたことがある。「トラクターを一台用意して、ピッチの一つをぐちゃぐちゃに耕したいと言ったよ。選手がボールを扱うのに苦労するような環境を作りたかったんだ」

     残念ながらトラクターは用意できなかったが、ファレルは別のユニークなアイデアを実行に移した。10歳以下の子どもたちをスラム街のストリートに連れていき、ユニフォームも着せずに試合をさせる「ストリート・リーグ」を始めたのだ。

    「毎週、近所の住人が大勢集まったよ。ユニフォームを着せなかったのは、お互いの顔でチームメートを見分けてほしかったからさ。すべて自分たちで判断して、チームメート同士は声を掛け合ってプレーする。そういう状況を体験させたかった」

     当時のメンバーには、のちにトップチームでプレーすることになるジャック・ロドウェル(現マンチェスター・シティ)やカラム・マクマナマン(現ウィガン)、ロス・バークリーらがいた。「ストリート・リーグを導入しなければ、アカデミーからここまで良い選手が育つことはなかったと思う。だけど、難しいことじゃないんだ。外国の子どもたちは普段からやっていることなんだし。それを真似しただけさ」

     だが、実のところ「外国の子どもたち」も状況はさほど変わらない。ストリートサッカーの衰退を嘆いているのは、何も英国だけではないのだ。最近までアヤックスのGMを務めていたエントは、近年のフットボールにおけるプレースタイルの変化を不安視している。「ドリブルを否定する傾向が強くなっている。個人的な意見だが、クラブがストリート的な発想を妨げて、理論ばかり教えていることに問題があると思うね。考えてごらん。相手の守備を崩す時、ドリブルで1人抜ければ数本のパスを省略できる。3人抜ければリオネル・メッシになれる(笑)」

     オランダの英雄クライフは本気で、自らが育ったストリートサッカーの伝統を取り戻そうとしている。彼は「クライフコート」と呼ばれるストリート方式のサッカースクールを企画し、日本やポーランドを含めた全世界に展開している。アヤックスの現役のコーチであるロイも、このプロジェクトの精神に同意する一人だ。

    「ストリートサッカーはもっと見直されるべきだ。できればアムステルダムのコミュニティーと協力して、子どもたちが以前のようにストリートでボールを蹴れる環境を作りたい」

     ここまで紹介したとおり、ストリートが果たしてきた役割は決して見逃せるものではない。ストリートはスキルを育み、名選手を生み出し、フットボールの形を変え、時に社会までも変えた。だが、最後にもう一つ、シンプルだが極めて重要なことを指摘しておきたい。ストリートにはフットボールにおける最も根本的な精神があるということだ。ファン・ペルシーの言葉がそれを表している。

    「ストリートでのプレーは楽しかった。だから何時間でもやっていられたんだ」

     そう、ストリートでプレーするのは楽しい。そして、それがすべての原点にある。ファン・ペルシーは昨年8月の南ウェールズで、ぬかるんだ雨のピッチを心から楽しんでいたに違いない。

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