shinichi Post author24/03/2016 at 10:41 pm “オンリーワン”ではなく、むしろ“ワンオブゼム”になりたい。 “孤独”というのは、そんなに悪いものなのでしょうか。 “自分と違って当たり前”。それを大前提にして、日々の生活を送るほうが賢明ですし、人は自然とそういう「違い」に対応する能力も備えているはずです。 「お金貸してよ」って言うのも勇気がいるでしょうが、「お金返してよ」っていうほうがもっと勇気を要します。 「つながる」は本当に必要? 「ひとりでいること」のよさについて、みんなにもっと知ってもらいたい。 「ローカル路線バス」の旅の途中に食事をとるときも、太川さんはきちんと、その土地の名産を食べようとします。出演者として場をわきまえた立派な行動だと思います。 「俺は、こんな仕事をする人間じゃない」「どうしてここにいるんだろう」なんて思わずに、まずはきっちり目の前のことをやる。それがすべてですよ。 「友だち」偏重傾向みたいなものに、僕は日ごろから違和感を持っていたということがあります。 〝群れ″のなかに自分の身を置いてはいけません。なぜかって? それは、無言の圧力を感じるのは、その人が〝群れ″の一員でいるからです。言いたいことを言えないのも、その人がそいういうグループに属しているからだと思いませんか? 30年連れ添った妻の死。それはまるで自分のなかの一部がもぎ取られてしまったかのような、とてつもない喪失感でした。思えば、そのときに初めて、僕は本当の“孤独”というものを知ったのかもしれません。 6つ違いの兄は、中学を卒業してから船乗りになって、父と一緒に漁に出ていました。 SNSなどで、知らない人とつながるのが流行っているようですが、やっぱり僕は、そういうネットの世界であっても、誰かとつながるのはすごく危険だととらえています。もちろん、それで楽しいことやいいこともあるのかもしれないけれど、やっぱり危険のほうが勝ってしま いまの時代には「特別な存在として生きるためには、自分は他とは違わなくてはならない」という、どこか強迫観念のようなものが強くあるような気がしてなりません。 いま僕がしている腕時計は、32歳でダスキンを退社するときに、他の社員の人たちから選別としてもらったものです。 お金が介在することによって、人間関係がギクシャクしたり、おかしな感じになっていくことが嫌なんですね。自分自身がお金にシビアであるからこそ、それが痛いほどわかってしまう。 お金は貸すのも借りるのも嫌いです。 ギャンブルは負けてばかりですが、自分に運があるかないかといったら、やっぱりあるような気がしています。 すべては自由であるために。 そのとき勝っている人が、いつまでも勝ち続けるとは限りません。それがずっと続くものだとは、やっぱり僕には思えないんですよ。 そんな僕でも、やむにやまれぬ理由で葬式に出ることもあります。でも、実際に葬式に行ったら行ったで、とても緊張しちゃう。で、緊張しすぎると、絶対に笑ってはいけないみたいな気分になって、そこでついつい笑ってしまうんです。 たとえ少額だったとしても、借金っていうのは、いつも頭に残っているもの。 でも、いまでも思うんですよ。もし、自分が結婚していなくて子どももいなかったら、あのころのような貧乏生活をしていく自信はあると。 テレビタレントや役者だって、普通に会社で働いている人たちと同じなんです。誰かに雇われた上でその現場にいるわけですから、言ってみれば従業員みたいなもの。そうやって誰かに雇われているときは、なるべく従順にやるべきだと僕は割り切っています。 テレビに長く出続ける秘訣のようなものがあるとするならば、それは“自己主張をしないスタンス”を貫きとおすことです。 ときには逃げ出すことも必要ですよ。 とはいえ、自由でいるためにははやりある程度のお金は必要不可欠です。 どんなに遅くとも12時から1時の間に寝るようにしています。眠くなっちゃうので。みなさん、おやすみなさい。 ほんの少しでも自殺を考えている人がいるのならば……そういう人たちには、「死ぬこと以上に怖いことはないよ」と、まずは伝えたい。 みんながいるから、面白いことや悲しいことが起こって、人生の面白さや厳しさを教えてくれる。そう感じてほしい。 みんなが自分のところに寄ってきて、自分の話題で盛り上がるのも好きじゃないです。 みんなで食事をする際は、お弁当みたいなものが理想的かな。 もし僕が誰かに悩みを打ち明けられたとしても、僕はその人の助けになるような答えをぜったに出せない自信があります。もちろん、意見することはできるけれど、多分それは正解じゃないと思う。 もちろん、世の中そんなには甘くないかもしれない。ただ、一番よくないのは、そこで自分は「負け組」であると勝手に決めつけて卑屈になってしまうことじゃないかな。 よしっ、今日は平和島に行くぞ! リラックスして自分の趣味を心から楽しむこと。僕はそういう休日が大好きです。 意識的に、“世界でひとつだけ”の個性になる必要もないし、おかしな名前をつける必要もない。だって、そもそも世界に生きる人すべてが、唯一無二の個性を持っているのだから。 一度おかしくなったら、止まらないんですよ。僕はどうやら、笑い上戸なところがあるようなんです。 一般論として「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」だって言うじゃないですか。 宴会がお開きになってみんなと別れたあとは、すべてから解放された気分で心が満たされます。 俺が死んだときは、誰も葬式にきてくれないていいからね。 家が貧しかったから、母になにかをねだっても買ってもらえないとか、そういう不自由はあったけれど、自分で勝手におもちゃを作って遊んで楽しめたし、裕福な子どもと比べて自分の環境を憎むようなこともまるでなかった。 過去なんて、どうせ戻れないのだから考えてもしょうがないじゃないですか。 簡単な時代ではないかもしれない。でも、そういう時代だからこそ、真面目にコツコツやれるような人は、どこにいっても重宝されるように感じます。 観光地で団体客の様子を見たりするのも好きです。いろいろな人がいて面白いですよ。集団行動は苦手なくせに、集団を遠くから眺めるのは好きなんです。 顔が売れて漫画が売れなくなった。 基本的には、他人がどんな態度を示そうとも、どんなことを言おうとも、それはその人の自由であって然るべき。 求められたことを淡々と精一杯こなすだけ。でもそれが、僕が芸能界でここまで生き残ってきた、なによりの秘訣です。 極端な話、僕は他人の死にはそんなに興味がないのかもしれない。死ぬことは怖いけれど、僕自身が死ぬことにも興味がないくらいですからね。 近所にある銭湯のとなりに貸本屋があったので、風呂に行った帰りに必ずそこに寄って何冊も借りて帰る。そして、家でミカンを食べながら、ひとりそれを読むというのが、子どものころの一番の楽しみでした。 芸能界なんて、一寸先は闇の世界ですからね。 結局、振り返ってみれば、いまの自分につながるようなことは、20歳くらいのころまでに全部一通りやっているんですよ。 結局、長い一生で見たら、どっちが勝ったのかなんて誰にもわからない。つまり、最初から人生に勝ち負けなんてないんですよ。 結局、僕はどこまでも自由人で、好んでひとりになりたいと思うタイプなんでしょうね。 嫌いじゃないからこそ、相手になるべく失礼なことはしたくないんですよ。 建前で悲しいふりをするのが苦手というか、どこかのタイミングでその葬式全体が“喜劇”のように見えてくるんです。一度そのループに入ったらもう終わり。我慢しようと思えば思うほど、笑いがこみ上げてしまう。 個性というのは、あくまでも人が自分をどう見るかの話であって、自分のほうからアピールするようなものではない。人は本来、それぞれ「個性的」であるはずなんです。だから、そんなことはまったく考えず、ただ自分の好きなように自由にやってればいいんじゃないかな。 高校を卒業したらすぐに働きに出て、自分でお金を稼ぐ。それはもう、絶対にしなくちゃいけないものだと思っていたし、周囲の大人たちからも強くそう教えられていたような気がします。 高校時代の絵を描く時間というのは、あまりおしゃべりをすることもなく、みんな黙々と自分の作業を進めていました。その時間が、僕にとってはなによりも充実のときだった。 合作をするということは、必ず誰かリーダー的な存在の人がいたりしますよね。だから、美術部で合作をするときは、そういう人の言うことをよく効いて、その人が言うとおりに描くことだけを考えるんです。 妻の葬式の日、喪主席に座った僕は、式の最初から最後まで、ずっと泣き通しでした。 子どものころから“目立ちたい”という発想が、ほぼ皆無でした。クラスにも目立ちたがり屋の子がいましたが、そういった“目立ちたい”という振る舞い自体がよくわからなかった。 自殺ほどまわりの人に迷惑がかかる行為は他に存在しないと思うんですよ。 自分が自由でありたいのなら、他人の自由も同じく尊重すべきというのが持論です。 自分で責任を取らずに、他の誰かのせいにしたり、社会のせいにしたりするから、世の中が生きづらいと感じるんです。 自分のプライドみたいなものを、必要以上に高く持ち過ぎていると、そのプライドがへしおられたときのショックが大きいじゃないですか。人間、上には上がいるし、プライドなんてものは、どこかで必ずへし折られるのがオチです。 自分を低く見積もっておく。 自由というのは、その人の心の持ちようと深い関係があります。 趣味は孤独を紛らわしてくれる。 勝っているとか負けているとかに執着してもしょうがないし、そこで不安になってもなにひとついいことがない。 小学校も高学年ぐらいになると、漫画よりもむしろ映画が好きになって近所の映画館に入り浸るようになっていたかもしれない。 真っ白な紙を目の前にして、これからどんな絵を描こうか、あれやこれやと考えているときが、一番楽しいものです。 親といってもやはり自分とは違う人間なのだから、親は親できっとなんとかするだろうし、それと同じように、僕も僕でなんとかしないといけない。 人は群れてグループになると、ちょっと横柄になったりしませんか? 人間の魅力というのは、その人が所属している集団から生まれるのではなく、あくまでもその人自身の技量や性格から生まれるもの。その本質だけは、見誤ってはいけないと思います。 正直に言うと、一度だけ猛烈に孤独を感じたことがあります。それは、前の妻が死んだときでした。 正直に言うと、僕が長崎から東京に出てきたのは、漫画家になるためではありませんでした。当時働いていた看板屋の仕事から、どうしても抜け出したかったんです。 生まれてからいままでのことを振り返って、自分はなにが好きだったのか、どんなことをするのが楽しかったのか、なにがあったときに幸せな気分になれたのかと、そんなことについてひとり静かに考えてみるんですよ。 他人からどう見えているのかはわかりませんが、僕自身はごく普通の、特に秀でたところのない人間だと思って生きてきました。 他人から見れば、孤独な少年だったのかもしれない。でも、僕自身はちっとも寂しくなんてありませんでした。ひとりですごす時間をどうやって自由に楽しくすごすのか。日々、そのことばかり考えていたように思います。 他人が箸をつけたものを自分の口に入れるっていうことが、生理的にダメなんですよ。別に特段、潔癖症というわけではないし、それが汚いとか、自分がきれいと思っているわけでもない。でも、昔からダメなものはダメというだけなんです。 大好きな休日が面白くなくなるなんて残念でなりません。自分の思っていることを、自分の思ったとおりに実行して、大満足の一日にしたい。 大皿料理っていうのが、僕はどうも苦手で……いつも、つき合い程度に箸をつけるだけで、「ひとり分のカレーライスが食べたいなあ」「早くお開きにならないかな」と、頭のなかで思いながらやりすごしています。 誰かと一緒だと、自分がやりたいことを主張できないタイプ。 誰かに束縛されたり、自由を脅かされることがなによりも大嫌い。誰もが自由に意見できる世の中こそが、一番いいと思っているから。人は、自由でいることが一番いいと思う。もっと言えば、自由であるべきだとも思っている。 誰かに話すよりも、とことんまで自分で考え抜いたほうが、きっといい結果が出るような気がするんだけどなあ。 仲間と一緒だというだけで、ちょっと大声になったりとかゲラゲラ笑ったりとか、そういうふうになりがちなのが人間だと思うんです。 長いこと、自由であることを第一に考えていると、いわゆる“友だち”と呼ばれるような人は、あまり必要ではなくなります。 当時は『少年』という月刊漫画誌があって、それを毎月本屋さんに注文して心待ちにしていたな。 同窓会みたいなものに行くのも正直なところ嫌いです。 特撮ものの映画は大好きでしたね、それからクレージーキャッツの喜劇に、東映の時代劇です。 内向的であることは事実だし、人格がこれから劇的に変わるとは思えませんが、それはそれで全然いいと思っています。 内向的な人が好きだからといって、外交的でコミュニケーション能力の高い人を否定するつもりはありません。外交的な人は、相手を気遣ってくれる人も多いですから、そういう人と話すのはやっぱり楽しい時間ですからね。だから否定などしません。 発言したことの言葉尻というか、上手く話せないがゆえに中途半端なことを言った部分を取り上げられて、そうとらえられてしまうことが圧倒的に多いから困ってしまう。 貧乏性の僕ですから、とにかく“お金が大事”という意識は、昔から強く持っていました。 普段と同じように、自分の好きに振る舞ったり、頭に浮かんだ本音をそのまま発言したりしても、昔ほど人に叱られなくなったような気がしています。 僕、蛭子能収も、テレビに出るようになってから30年以上が経ちました。 僕がやってきたように、ひとりでやれる仕事って世の中には結構ありますよ。 僕が自由や時間を奪われるのを嫌うように、逆に誰かを誘うということは、その人の自由や時間を奪ってしまうことになるかもしれない。 僕にとって「死」とは、「孤独」よりもよっぽど怖いもの。 僕のような内向的な人間が人とは違う目立ったことをすると――それこそ、目立つタイプの子たちから、絶対になにかいちゃもんをつけられるものです。 僕の家には父親が作った“やぐら”――いまふうに言えば“ベランダ”みたいなものがあったんですよ。夜になったら、そこでひとり寝転がって、ずっと星を見ているようなそんな子どもでした。 僕の場合、誰かに「嫌われている」と思ったことがないんです。 僕の人生の一番の目的は、“死なないこと”です。 僕の本業は漫画家で、一応これまで30冊くらい単行本も出しています。大ヒット作品がないから、どれもなかなか入手しづらいのが難点なのですが、れっきとした漫画家ではあるんですよ。 僕の両親は長崎で漁業を営んでいたので、蛭子家は、いわゆる会社というものとは縁の無い生活を送っていました。 僕は、これまで生きてきたなかで、なるべく“群れ”の一員にならないように、“グループ”には入らないようにと常々意識してきました。 僕は、額の多い少ないにかかわらず、もらった分のお金だけで、きっちり生活をしていけるタイプなんです。 僕はいまでも「子どもより妻が大事ですよ」と言います。 僕は基本的にテレビの仕事は断らない主義。 僕は他人からしたら、不必要な存在ではあるかもしれないし、友だちになりたいと思うようなタイプではないかもしれない。けれど、嫌われることはあまりないと思っています。 僕は幼少期から、孤独を感じるということはありませんでした。そもそも、孤独であることが、当たり前だったんですよね。 僕自身が子どものころから一貫して考えていること――それはとても〝哲学″と呼べるようなものではないかもしれない。でも、僕と同じように内向的な人間、ひとりになりがちな人にとって、この本がなにかの指針になるようであれば、それはすごく嬉しいことです。 僕自身はまったく変わらないにもかかわらず、世の中の空気みたいなものが、ちょっとだけ変わったのかもしれない。 本当のことを言うと、世の中なんて昔といまでそんなに変わりはないんですよ。自分ではあずかり知らぬ大きな力が働いて、いつの間にか生きづらい世の中になってしまった――なんてことはありません。 本当の意味で孤独を打ち破ることができるのは、自分自身の力だけなんだ。 麻雀だって、基本的には知り合いと打つのではなく、ひとりでフリーの雀荘に行きます。 毎回毎回、大金をつぎこむわけではないんですよ。大金をつぎ込むことが、ギャンブルの面白さの本質ではないから。 漫画と映画――よくよく考えれば、どちらもひとりで楽しめるものです。やはり、小さいころから、ひとり遊びが好きだったことは疑いようがありません。 友だちが4、5人集まると、必ず誰かがはじきだされるのが群れの特性。どうしても誰をいじめたくなったり、便利な存在として扱うようになる。これって、人間の本来的な部分に潜む、ものすごく恐ろしい闇の部分だと僕は見ています。 要は、その人の気の持ちようなんじゃないかな。 Reply ↓
“オンリーワン”ではなく、むしろ“ワンオブゼム”になりたい。
“孤独”というのは、そんなに悪いものなのでしょうか。
“自分と違って当たり前”。それを大前提にして、日々の生活を送るほうが賢明ですし、人は自然とそういう「違い」に対応する能力も備えているはずです。
「お金貸してよ」って言うのも勇気がいるでしょうが、「お金返してよ」っていうほうがもっと勇気を要します。
「つながる」は本当に必要?
「ひとりでいること」のよさについて、みんなにもっと知ってもらいたい。
「ローカル路線バス」の旅の途中に食事をとるときも、太川さんはきちんと、その土地の名産を食べようとします。出演者として場をわきまえた立派な行動だと思います。
「俺は、こんな仕事をする人間じゃない」「どうしてここにいるんだろう」なんて思わずに、まずはきっちり目の前のことをやる。それがすべてですよ。
「友だち」偏重傾向みたいなものに、僕は日ごろから違和感を持っていたということがあります。
〝群れ″のなかに自分の身を置いてはいけません。なぜかって? それは、無言の圧力を感じるのは、その人が〝群れ″の一員でいるからです。言いたいことを言えないのも、その人がそいういうグループに属しているからだと思いませんか?
30年連れ添った妻の死。それはまるで自分のなかの一部がもぎ取られてしまったかのような、とてつもない喪失感でした。思えば、そのときに初めて、僕は本当の“孤独”というものを知ったのかもしれません。
6つ違いの兄は、中学を卒業してから船乗りになって、父と一緒に漁に出ていました。
SNSなどで、知らない人とつながるのが流行っているようですが、やっぱり僕は、そういうネットの世界であっても、誰かとつながるのはすごく危険だととらえています。もちろん、それで楽しいことやいいこともあるのかもしれないけれど、やっぱり危険のほうが勝ってしま
いまの時代には「特別な存在として生きるためには、自分は他とは違わなくてはならない」という、どこか強迫観念のようなものが強くあるような気がしてなりません。
いま僕がしている腕時計は、32歳でダスキンを退社するときに、他の社員の人たちから選別としてもらったものです。
お金が介在することによって、人間関係がギクシャクしたり、おかしな感じになっていくことが嫌なんですね。自分自身がお金にシビアであるからこそ、それが痛いほどわかってしまう。
お金は貸すのも借りるのも嫌いです。
ギャンブルは負けてばかりですが、自分に運があるかないかといったら、やっぱりあるような気がしています。
すべては自由であるために。
そのとき勝っている人が、いつまでも勝ち続けるとは限りません。それがずっと続くものだとは、やっぱり僕には思えないんですよ。
そんな僕でも、やむにやまれぬ理由で葬式に出ることもあります。でも、実際に葬式に行ったら行ったで、とても緊張しちゃう。で、緊張しすぎると、絶対に笑ってはいけないみたいな気分になって、そこでついつい笑ってしまうんです。
たとえ少額だったとしても、借金っていうのは、いつも頭に残っているもの。
でも、いまでも思うんですよ。もし、自分が結婚していなくて子どももいなかったら、あのころのような貧乏生活をしていく自信はあると。
テレビタレントや役者だって、普通に会社で働いている人たちと同じなんです。誰かに雇われた上でその現場にいるわけですから、言ってみれば従業員みたいなもの。そうやって誰かに雇われているときは、なるべく従順にやるべきだと僕は割り切っています。
テレビに長く出続ける秘訣のようなものがあるとするならば、それは“自己主張をしないスタンス”を貫きとおすことです。
ときには逃げ出すことも必要ですよ。
とはいえ、自由でいるためにははやりある程度のお金は必要不可欠です。
どんなに遅くとも12時から1時の間に寝るようにしています。眠くなっちゃうので。みなさん、おやすみなさい。
ほんの少しでも自殺を考えている人がいるのならば……そういう人たちには、「死ぬこと以上に怖いことはないよ」と、まずは伝えたい。
みんながいるから、面白いことや悲しいことが起こって、人生の面白さや厳しさを教えてくれる。そう感じてほしい。
みんなが自分のところに寄ってきて、自分の話題で盛り上がるのも好きじゃないです。
みんなで食事をする際は、お弁当みたいなものが理想的かな。
もし僕が誰かに悩みを打ち明けられたとしても、僕はその人の助けになるような答えをぜったに出せない自信があります。もちろん、意見することはできるけれど、多分それは正解じゃないと思う。
もちろん、世の中そんなには甘くないかもしれない。ただ、一番よくないのは、そこで自分は「負け組」であると勝手に決めつけて卑屈になってしまうことじゃないかな。
よしっ、今日は平和島に行くぞ!
リラックスして自分の趣味を心から楽しむこと。僕はそういう休日が大好きです。
意識的に、“世界でひとつだけ”の個性になる必要もないし、おかしな名前をつける必要もない。だって、そもそも世界に生きる人すべてが、唯一無二の個性を持っているのだから。
一度おかしくなったら、止まらないんですよ。僕はどうやら、笑い上戸なところがあるようなんです。
一般論として「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」だって言うじゃないですか。
宴会がお開きになってみんなと別れたあとは、すべてから解放された気分で心が満たされます。
俺が死んだときは、誰も葬式にきてくれないていいからね。
家が貧しかったから、母になにかをねだっても買ってもらえないとか、そういう不自由はあったけれど、自分で勝手におもちゃを作って遊んで楽しめたし、裕福な子どもと比べて自分の環境を憎むようなこともまるでなかった。
過去なんて、どうせ戻れないのだから考えてもしょうがないじゃないですか。
簡単な時代ではないかもしれない。でも、そういう時代だからこそ、真面目にコツコツやれるような人は、どこにいっても重宝されるように感じます。
観光地で団体客の様子を見たりするのも好きです。いろいろな人がいて面白いですよ。集団行動は苦手なくせに、集団を遠くから眺めるのは好きなんです。
顔が売れて漫画が売れなくなった。
基本的には、他人がどんな態度を示そうとも、どんなことを言おうとも、それはその人の自由であって然るべき。
求められたことを淡々と精一杯こなすだけ。でもそれが、僕が芸能界でここまで生き残ってきた、なによりの秘訣です。
極端な話、僕は他人の死にはそんなに興味がないのかもしれない。死ぬことは怖いけれど、僕自身が死ぬことにも興味がないくらいですからね。
近所にある銭湯のとなりに貸本屋があったので、風呂に行った帰りに必ずそこに寄って何冊も借りて帰る。そして、家でミカンを食べながら、ひとりそれを読むというのが、子どものころの一番の楽しみでした。
芸能界なんて、一寸先は闇の世界ですからね。
結局、振り返ってみれば、いまの自分につながるようなことは、20歳くらいのころまでに全部一通りやっているんですよ。
結局、長い一生で見たら、どっちが勝ったのかなんて誰にもわからない。つまり、最初から人生に勝ち負けなんてないんですよ。
結局、僕はどこまでも自由人で、好んでひとりになりたいと思うタイプなんでしょうね。
嫌いじゃないからこそ、相手になるべく失礼なことはしたくないんですよ。
建前で悲しいふりをするのが苦手というか、どこかのタイミングでその葬式全体が“喜劇”のように見えてくるんです。一度そのループに入ったらもう終わり。我慢しようと思えば思うほど、笑いがこみ上げてしまう。
個性というのは、あくまでも人が自分をどう見るかの話であって、自分のほうからアピールするようなものではない。人は本来、それぞれ「個性的」であるはずなんです。だから、そんなことはまったく考えず、ただ自分の好きなように自由にやってればいいんじゃないかな。
高校を卒業したらすぐに働きに出て、自分でお金を稼ぐ。それはもう、絶対にしなくちゃいけないものだと思っていたし、周囲の大人たちからも強くそう教えられていたような気がします。
高校時代の絵を描く時間というのは、あまりおしゃべりをすることもなく、みんな黙々と自分の作業を進めていました。その時間が、僕にとってはなによりも充実のときだった。
合作をするということは、必ず誰かリーダー的な存在の人がいたりしますよね。だから、美術部で合作をするときは、そういう人の言うことをよく効いて、その人が言うとおりに描くことだけを考えるんです。
妻の葬式の日、喪主席に座った僕は、式の最初から最後まで、ずっと泣き通しでした。
子どものころから“目立ちたい”という発想が、ほぼ皆無でした。クラスにも目立ちたがり屋の子がいましたが、そういった“目立ちたい”という振る舞い自体がよくわからなかった。
自殺ほどまわりの人に迷惑がかかる行為は他に存在しないと思うんですよ。
自分が自由でありたいのなら、他人の自由も同じく尊重すべきというのが持論です。
自分で責任を取らずに、他の誰かのせいにしたり、社会のせいにしたりするから、世の中が生きづらいと感じるんです。
自分のプライドみたいなものを、必要以上に高く持ち過ぎていると、そのプライドがへしおられたときのショックが大きいじゃないですか。人間、上には上がいるし、プライドなんてものは、どこかで必ずへし折られるのがオチです。
自分を低く見積もっておく。
自由というのは、その人の心の持ちようと深い関係があります。
趣味は孤独を紛らわしてくれる。
勝っているとか負けているとかに執着してもしょうがないし、そこで不安になってもなにひとついいことがない。
小学校も高学年ぐらいになると、漫画よりもむしろ映画が好きになって近所の映画館に入り浸るようになっていたかもしれない。
真っ白な紙を目の前にして、これからどんな絵を描こうか、あれやこれやと考えているときが、一番楽しいものです。
親といってもやはり自分とは違う人間なのだから、親は親できっとなんとかするだろうし、それと同じように、僕も僕でなんとかしないといけない。
人は群れてグループになると、ちょっと横柄になったりしませんか?
人間の魅力というのは、その人が所属している集団から生まれるのではなく、あくまでもその人自身の技量や性格から生まれるもの。その本質だけは、見誤ってはいけないと思います。
正直に言うと、一度だけ猛烈に孤独を感じたことがあります。それは、前の妻が死んだときでした。
正直に言うと、僕が長崎から東京に出てきたのは、漫画家になるためではありませんでした。当時働いていた看板屋の仕事から、どうしても抜け出したかったんです。
生まれてからいままでのことを振り返って、自分はなにが好きだったのか、どんなことをするのが楽しかったのか、なにがあったときに幸せな気分になれたのかと、そんなことについてひとり静かに考えてみるんですよ。
他人からどう見えているのかはわかりませんが、僕自身はごく普通の、特に秀でたところのない人間だと思って生きてきました。
他人から見れば、孤独な少年だったのかもしれない。でも、僕自身はちっとも寂しくなんてありませんでした。ひとりですごす時間をどうやって自由に楽しくすごすのか。日々、そのことばかり考えていたように思います。
他人が箸をつけたものを自分の口に入れるっていうことが、生理的にダメなんですよ。別に特段、潔癖症というわけではないし、それが汚いとか、自分がきれいと思っているわけでもない。でも、昔からダメなものはダメというだけなんです。
大好きな休日が面白くなくなるなんて残念でなりません。自分の思っていることを、自分の思ったとおりに実行して、大満足の一日にしたい。
大皿料理っていうのが、僕はどうも苦手で……いつも、つき合い程度に箸をつけるだけで、「ひとり分のカレーライスが食べたいなあ」「早くお開きにならないかな」と、頭のなかで思いながらやりすごしています。
誰かと一緒だと、自分がやりたいことを主張できないタイプ。
誰かに束縛されたり、自由を脅かされることがなによりも大嫌い。誰もが自由に意見できる世の中こそが、一番いいと思っているから。人は、自由でいることが一番いいと思う。もっと言えば、自由であるべきだとも思っている。
誰かに話すよりも、とことんまで自分で考え抜いたほうが、きっといい結果が出るような気がするんだけどなあ。
仲間と一緒だというだけで、ちょっと大声になったりとかゲラゲラ笑ったりとか、そういうふうになりがちなのが人間だと思うんです。
長いこと、自由であることを第一に考えていると、いわゆる“友だち”と呼ばれるような人は、あまり必要ではなくなります。
当時は『少年』という月刊漫画誌があって、それを毎月本屋さんに注文して心待ちにしていたな。
同窓会みたいなものに行くのも正直なところ嫌いです。
特撮ものの映画は大好きでしたね、それからクレージーキャッツの喜劇に、東映の時代劇です。
内向的であることは事実だし、人格がこれから劇的に変わるとは思えませんが、それはそれで全然いいと思っています。
内向的な人が好きだからといって、外交的でコミュニケーション能力の高い人を否定するつもりはありません。外交的な人は、相手を気遣ってくれる人も多いですから、そういう人と話すのはやっぱり楽しい時間ですからね。だから否定などしません。
発言したことの言葉尻というか、上手く話せないがゆえに中途半端なことを言った部分を取り上げられて、そうとらえられてしまうことが圧倒的に多いから困ってしまう。
貧乏性の僕ですから、とにかく“お金が大事”という意識は、昔から強く持っていました。
普段と同じように、自分の好きに振る舞ったり、頭に浮かんだ本音をそのまま発言したりしても、昔ほど人に叱られなくなったような気がしています。
僕、蛭子能収も、テレビに出るようになってから30年以上が経ちました。
僕がやってきたように、ひとりでやれる仕事って世の中には結構ありますよ。
僕が自由や時間を奪われるのを嫌うように、逆に誰かを誘うということは、その人の自由や時間を奪ってしまうことになるかもしれない。
僕にとって「死」とは、「孤独」よりもよっぽど怖いもの。
僕のような内向的な人間が人とは違う目立ったことをすると――それこそ、目立つタイプの子たちから、絶対になにかいちゃもんをつけられるものです。
僕の家には父親が作った“やぐら”――いまふうに言えば“ベランダ”みたいなものがあったんですよ。夜になったら、そこでひとり寝転がって、ずっと星を見ているようなそんな子どもでした。
僕の場合、誰かに「嫌われている」と思ったことがないんです。
僕の人生の一番の目的は、“死なないこと”です。
僕の本業は漫画家で、一応これまで30冊くらい単行本も出しています。大ヒット作品がないから、どれもなかなか入手しづらいのが難点なのですが、れっきとした漫画家ではあるんですよ。
僕の両親は長崎で漁業を営んでいたので、蛭子家は、いわゆる会社というものとは縁の無い生活を送っていました。
僕は、これまで生きてきたなかで、なるべく“群れ”の一員にならないように、“グループ”には入らないようにと常々意識してきました。
僕は、額の多い少ないにかかわらず、もらった分のお金だけで、きっちり生活をしていけるタイプなんです。
僕はいまでも「子どもより妻が大事ですよ」と言います。
僕は基本的にテレビの仕事は断らない主義。
僕は他人からしたら、不必要な存在ではあるかもしれないし、友だちになりたいと思うようなタイプではないかもしれない。けれど、嫌われることはあまりないと思っています。
僕は幼少期から、孤独を感じるということはありませんでした。そもそも、孤独であることが、当たり前だったんですよね。
僕自身が子どものころから一貫して考えていること――それはとても〝哲学″と呼べるようなものではないかもしれない。でも、僕と同じように内向的な人間、ひとりになりがちな人にとって、この本がなにかの指針になるようであれば、それはすごく嬉しいことです。
僕自身はまったく変わらないにもかかわらず、世の中の空気みたいなものが、ちょっとだけ変わったのかもしれない。
本当のことを言うと、世の中なんて昔といまでそんなに変わりはないんですよ。自分ではあずかり知らぬ大きな力が働いて、いつの間にか生きづらい世の中になってしまった――なんてことはありません。
本当の意味で孤独を打ち破ることができるのは、自分自身の力だけなんだ。
麻雀だって、基本的には知り合いと打つのではなく、ひとりでフリーの雀荘に行きます。
毎回毎回、大金をつぎこむわけではないんですよ。大金をつぎ込むことが、ギャンブルの面白さの本質ではないから。
漫画と映画――よくよく考えれば、どちらもひとりで楽しめるものです。やはり、小さいころから、ひとり遊びが好きだったことは疑いようがありません。
友だちが4、5人集まると、必ず誰かがはじきだされるのが群れの特性。どうしても誰をいじめたくなったり、便利な存在として扱うようになる。これって、人間の本来的な部分に潜む、ものすごく恐ろしい闇の部分だと僕は見ています。
要は、その人の気の持ちようなんじゃないかな。