今後は遺伝子操作により、運動能力を向上させるという類いのドーピングが誕生してくる可能性がある。これまでのドーピングは検査で発覚することが多かった。ところが遺伝子はそもそも、体内に存在しているために調べることが難しい。
また、仮に検査で調べることができるようになったとしても、別の問題が生まれる。例えば幼少時の病気を治療するために遺伝子操作を行った子どもはドーピングとなり、生涯にわたって競技会に出場できず、五輪選手にはなれないことになる。これは全ての子どもたちにとって公正と言えるのだろうか。
人間本来の能力で競い合うということがスポーツの基本的な理念だが、そもそも本来の力とは何を指すのだろうか。例えば、視力を矯正するレーシックという手術があるが、これを受けた選手が射撃のような視力が影響する競技に出ることはある種の能力強化とは言えないだろうか。
有酸素能力を必要とする陸上競技の長距離において、高知民族(エチオピア、ケニア)が有利であるということは知られている。同じような環境を人工的につくり出し、酸素量を減らした部屋で生活することで有酸素能力を高めようというトレーニング方法があるが、これは自分の本来の力と言っていいのか。
子どもの頃の病気を遺伝子操作で治療した競泳選手。素晴らしい性能を持った義足を履いた短距離選手。精子バンクに登録された有名アスリートの父を持つバスケットボール選手。できなかったことができるようになる時、スポーツのような生身の体で競い合っているものも、この影響から逃れることはできない。
当たり前のように私たちが信じていた本来の力という言葉や、公平という言葉を一から考えなければならない時代が来ているのではないだろうか。
問われるスポーツの公平
科学の力で変容
by 為末大
東京新聞
2016年7月27日
夕刊文化面
(sk)
どうすれば「為末大」ができるのだろうか。為末大がテレビで話しているのを聞いたり、新聞の書いたことを読んだりするたびに、これ以上まともな人はいないと思う。
こんな人が出てくる日本というのも、そう捨てたものではないのかもしれない。