有田正規

急激に増えた情報の中から知識の取捨選択を迫られる現状は,人間を知的活動からむしろ遠ざけているように思う。これはすなわち,従来型の学問が岐路に立つことをも意味している。これまでの学問はおしなべて,精神を1つの物事に集中させる過程が本質にあった。古典の音読に始まり,文献読解,自然観察,帰納推論など,知的と呼べるものはいずれも,忍耐とトレーニングを要する活動であった。昔の大学人が世の中と隔絶された環境に身を置いたのも,これと無関係ではない。しかし今は,さまざまな情報を切り貼りして体裁だけを整える作業,論文数や引用数など数値化・形骸化された指標を満たすだけの作業を,学問や研究の目標にする人があまりにも多い。旧来の制度や慣習のまま,ビッグデータを誤用しているのである。

One thought on “有田正規

  1. shinichi Post author

    大量情報時代における知識の積み上げ

    by 有田正規

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/57/2/57_125/_html/-char/ja/

    大量情報時代

    現代人は非常に多くの時間を携帯電話や電子メール,インターネットに費やしている。5年前の統計ですら,高校2年生の半数が毎日数時間を携帯電話(ネットアクセス)に費やしている。筆者も仕事時間の多くを電子メールの処理にあてている。インターネットや携帯電話がないと不安を感じたり,生活が成り立たないと感じる人はとても多いらしい。筆者もその1人だろう。

    人間は,処理しきれないほどの情報にさらされると,かえって判断力が鈍るという。アルビン・トフラーが広めた概念で,情報オーバーロード(情報過多)や情報疲労と呼ばれる。考えるべき事項が多すぎれば自暴自棄にもなるだろうし疲れもする。今となっては誰もが経験する当たり前の知見だが,1970年にこれを唱えたトフラーの見識は鋭い。情報過多は今後,深刻な社会問題になるかもしれない。

    ではなぜ,強制されもしないのに人々は情報過多に陥り,判断力を鈍らせるのか。子供の場合は単なる「ケータイ中毒」かもしれない。しかし大人の場合,常に新しい情報を求める行動は社会からも要求され,避けられないから深刻だ。そもそも人間は知識欲が旺盛である。より多くの情報にアクセスできる人ほど,より知的とみなす傾向すらある。だから世の中には,情報洪水の中から役に立つ要素をフィルタリングする手法だとか,速読法,整理法の類を言い立てる啓発本,自慢本が昔から後を絶たない。しかし人間は,より多くの情報を扱うほど,知的になるものなのだろうか。

    知的とは限らない情報処理

    人間を,情報を入出力する思考機械と考えてみよう。マシンパワー,つまり脳自体の処理能力はクロマニョン人の頃から変わらない。また文章の形で情報を後世に残す能力(出力)も,ヒエログリフや漢字が発達した5千年前からほとんど変わらない。石版からワープロソフトに変わったお陰で書き残せる分量は増えたかもしれないが,文章の質はちっとも進歩していない。結局,大きく変化したのは入力の内容と質である。従来のメディア,たとえば巻物や本からは,トピックごとに整理・解釈をした後の知識しか入手できなかった。そこから見えない元データや推論過程を考察することは読者の役割であった。それに対してインターネットでは,知識のみならず元データから解析ツールまで,自由に,必要に応じて,入手できる。アクセスできる情報の幅は桁違いに広くなった。しかし,情報を検索・取捨選択する手間や時間も無視できないほどに大きくなり,深く考える時間は減る一方である。

    この変化は学術論文の質や内容に端的に表れている。インターネット以前の論文が,十分に吟味され,自らが選びぬいた情報だけを記載した研究のエッセンスであったのに対し,現在の論文は,やったことのすべてを記す研究日誌のようになっている。網羅的な記録は再現性の担保として必要かもしれない。しかし同じ論文一報でも,以前とは知的作業の内容に大きな開きがある。大量情報を利用・記載したから優れているとは限らない。大量情報を扱った論文のほうがむしろ,都合のよい部分だけを紹介する内容であったり,陳腐化した統計処理に頼っていたりと,学問的水準は低くなりがちである。

    知識の混迷をもたらすビッグデータ

    「しかし,データが多くなればなるほど科学が進歩し,世の中の矛盾や不条理が解消されるのではないか。統計学を駆使すれば,物事を客観的に合理的に判断して社会的難問も解決できるのではないか。たとえば,情報公開制度に基づいて取得した行政データで市民生活が便利になったとか,顧客データを客観的に分析して商売繁盛というニュースがあるではないか」こうした楽観論にも,やはり落とし穴があるように思う。

    そもそもビッグデータや大量情報とは,われわれがこれまで接したことのない概念である。その扱い方もこれから開発しなくてはならない。従来の統計手法を適用できる場合もあるだろうが,ほとんどは超高次元データで,うまくいかない。さまざまな有意差や因果関係を導出できてしまい,本当に信頼できる結果が何か,すぐにはわからないのである。その好例がヒトゲノム情報だろう。特定の疾患と遺伝子の関係は単純には決まらない。にもかかわらず,不適切な統計処理によるさまざまな憶測が論文発表または報道され,無用の一喜一憂を招いている。ほかに分析や解析の手立てがない以上,そうした報道がはらむ矛盾や不条理を明らかにできないのが現状だ。ビッグデータは,われわれがいまだに解釈できず,知識を抽出できない情報の塊である。将来的には役立つだろうが,現時点ではわれわれの知識の源とは言い難い。

    学問は頭のスポーツ

    以上の状況を鑑みると,急激に増えた情報の中から知識の取捨選択を迫られる現状は,人間を知的活動からむしろ遠ざけているように思う。これはすなわち,従来型の学問が岐路に立つことをも意味している。これまでの学問はおしなべて,精神を1つの物事に集中させる過程が本質にあった。古典の音読に始まり,文献読解,自然観察,帰納推論など,知的と呼べるものはいずれも,忍耐とトレーニングを要する活動であった。昔の大学人が世の中と隔絶された環境に身を置いたのも,これと無関係ではない。しかし今は,さまざまな情報を切り貼りして体裁だけを整える作業,論文数や引用数など数値化・形骸化された指標を満たすだけの作業を,学問や研究の目標にする人があまりにも多い。旧来の制度や慣習のまま,ビッグデータを誤用しているのである。

    筆者は長らく東京大学で教えていたが,集中することの重要性について印象に残る出来事がある。東大では,学部全体を秋入学に全面移行すると学長(当時)が2012年に突如として宣言して波紋を呼んだ。秋入学に移行すると,高校を3月に卒業してから入学まで半年のブランクが生じる。そこで大学執行部は,サマープログラム等,隙間を埋める名案を出せと各学部に通達を出したのである。東大は入学時に学部を定めず,1年半分の成績に基づいて学部を選べる制度になっている(進学振分け制度)。入学時点で人気の低い工学部はサマープログラムを青田買いのよいチャンスととらえて体験コースを提出したらしい。しかし筆者が所属した理学部は,そもそもブランクを前提としたカリキュラムに同意すらできなかった。とりわけ数学科の先生は,半年も数学から遠ざかる機会を設けてしまうことで,数学的センスを失う学生が多く出てしまうことをたいへん危惧していた。天才的才能ならまだしも,大多数の学生には社会経験も必要だという考えもある。そういう論者に対して印象的だったのは,いったん糸が切れてしまうと回復するのに長い時間がかかるという言葉であった。

    科学は頭のスポーツである。能力のピークは40歳前後だし,技術を習得するのに長い時間がかかる。一流の成果を出せるチャンスは人生で数えるほどしかやってこない。オリンピックで金メダルを目指せる選手に対し,半年間も自分探しの休暇を与えてよいのかという主張には,説得力があった。そうこうするうち,秋入学は中止となった。(そして筆者も他機関に移籍してしまった)。同時に,1つのテーマを継続することの重要性や学問の本質についても,議論が深化しないまま水に流されてしまった。

    現代は,学生が本を読まず,教科書を買わず,インターネット上の文献からコピーアンドペーストで授業レポートを作成してしまう時代である。この大量情報時代に学問はどうあるべきか,われわれはもっと真剣に議論しなくてはならない。

    知識をどう積み上げるべきか

    この問題は本コラムのような小論で解決できるものではないのだが,思考の助けになるのは歴史的事実である。グーテンベルクが活版印刷を普及させて書籍が氾濫した際も,知識人は今とまったく同じ危惧を抱いていた。16世紀初頭にエラスムスは「金儲け主義の出版社がくだらぬ書物ばかりを普及させるので,内容が良いものすら一緒くたにされて意義を失う」と書いたらしい。この嘆きは現在のオープンアクセス学術誌にそのまま当てはまる。

    後期ルネサンスの知識人が考案したのは,索引や辞典を作って検索し,トピックごとにカードで整理する手法であった。現代でもわれわれは同じことを繰り返している。Googleを使って検索し,Wikipediaに内容を整理する。これまでと決定的に違うのは,知識の編集作業に世界中の人が関与でき,その情報を誰でも自由にコピーアンドペーストできる点,そして知識の基になるデータにもアクセスできる点である。

    今後はさまざまな学問分野でWikipediaのようなWebサイト(データベース)が生まれ,研究者は学術論文ではなく,そうしたWebサイトに知識を集約する時代になるだろう。Webサイトは教科書も兼ねるようになり,どこからでも,自由なペースで学問を学べるようにもなるだろう。そのとき,データとその要約ともいえる知識をどう紐(ひも)付けするかが重要である。

    知識とはあくまで要約にすぎない。要約である以上,もとの情報から切り離された知識は時間とともに陳腐化する。ルネサンス時代の索引や辞典が現代に残らないのはこの理由による。その轍(てつ)を踏まないためにも,単なる参考文献リンク以上のものをビッグデータに提供しなくてはならない。それには,知識とデータのつながりを恒久的に維持する仕組みの開発が重要だろう。そんな仕組みは紙媒体では不可能である。しかしインターネットなら可能かもしれない。そこが現代と後期ルネサンスの違いでもあり,われわれが研究に取り組んでいる理由でもある。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *