井上岳人

村田がドーナツを食べていくと、ドーナツの輪(生)が無くなっていくとともに、ドーナツの穴(死)も無くなっていく。人間が老いるというのは、人の命がドーナツのように小さくなっていくこと、あるいは減っていくことだな、と村田は思う。しかし、ドーナツの穴(死)も無くなっていくとは、どういうことを表しているのだろう。死を人は体験できないということか。ドーナツを全部食べ終えると、その輪の部分(生)も、そして穴の部分(死)もなくなってしまい、ドーナツそのもの(人)がなくなってしまうからである。それはそうだが、と村田は頭を振った。どうも釈然としない。死(穴)が無くなっていくとは・・・・・・。

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  1. shinichi Post author

    ドーナツの穴

    by 井上岳人 (井上英晴)

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     自殺にしろ、自然死にしろ、あるいは事故死にしろ、世界を離れて人の死はない。死は人の、世界からの退場、世界の外への退場と通常受け取られている。世界に外はない。すると死ぬと人はどこへ退場するのか。村田は考えた。世界の中ではなかろう。世界の中には生きた人しかいない。退場先は世界の境界か。世界に境界はない。世界に境界があるとすると、世界の外があることになる。死んだ人は行き場を失う。無にならなければどこかに行くのだろうから、そうなると死んだ人はこの世界からいなくなった人の世界の住人になるよりほかない。その世界はどこにあるのか。世界は“一つ”であるから、この世界と一体になって埋め込まれた世界へと死んだら移ることになろう。

     村田も立体像が見えるまでに少し時間がかかったが、見立体視画像に立体像が浮かび上がるとき、背景も立体像に合わせた背景になっている。それは立体像が見えないときの元の背景とは違っているが、まったくの別ものというわけでもない。つまり、立体視画像(世界)で人が死ぬとは、人が立体像になることである。そのとき世界は反転して、死んだ人に合わせたものになっている。その死んだ人に合わせた世界も、元の立体視画像(世界)を離れてどこか他所にあるのではないから、死は、死の世界は、生の世界に埋め込まれているとも、あるいは裏表の背中合わせになっているとも言えよう。

     死は立体視画像のように世界に身を潜めている。ある種の見方で立体像を見てとれるように、死も比喩的に見て取れよう。ドーナツの穴や例えば親指と人差し指をくっつけ出できる穴も死を比喩的に現わしているとも言える。

     死の穴から世界を覗くとき、世界は死の世界へと反転し、そのとき人は死の世界の中に入っており、死の世界の一部となっている。死の世界を見る人の目は、死の世界にある目であるから、死そのものの目と言えよう。死が自分の目で自分自身(死の世界)を見ているのである。死の立体像が見えている人は実はそのとき死んでいるのである。

     ドゥワミッシュ族の「死は存在しない。生きる世界が変わるだけだ」という格言を村田は思い出した。変わった生きる世界は生の世界が反転したものである。そこで生きるには、人は死ななければならない。生きたままその世界で生きようなんて、そんな外国で暮らすようなわけにはいかない。だからこの格言は訂正が必要である。「死は存在する。だが死ねば無になるわけではない。死ねば生きる世界が変わって、死んで生きる世界に生きる、つまり、死んで生活している、そういう世界に移るのである」と。死んで生活しているとはどう生活することなのか、と村田は思う。

     穴から見えるのは世界であるが、実は人は死をも見ているのである。見ていながら死が見えてないだけなのである。死(の世界)が見えるには、人は死の目を持たねばならない。人は生きていて死の目を持つことが出来るだろうか。村田は首を振った。「末期の目」もまだ生きている目である。死の目の一歩手前の目であろう。やはり死(の世界)が見えるには、人は死ななければ(死んでいなければ)ならない。

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