大槻文彦

帯説といふ事あり。支那にてある語に、不用の語を附帯せしめて用ゐることなり。この 帯説に心付かずして、語原を考ふるに、迷いし事あり。
風雨。易経に「潤之以風雨」極めて古き書なれど、風の字は帯説のやうに思はる。
緩急。緩やかなると急なるとなれど、唯、危急なる意にも用ゐらる。
利害の利、早晩の早も、帯説なることあり。
翡翠。翡は鳥の羽の赤きなり。翠は青きなり。水鳥の、やませびを翡翠といひ、また翡鳥といふよりして、唯、緑なる意となり、緑髪を形容して、翡翠の簪などいひ、純緑なる玉を翡翠玉といひ、翡は帯説となる。
國家、自家。家の字を帯説とする場合多し。
睡覚。支那北京鍋の音、睡むること。
虎狼。朝鮮の音、虎のこと。
帯説の語、尚あり。
我が國にても、二字の熟語に、各その意義あるを、一字を無意義に用ゐるやうになりし語あり。又、帯説の姿をなせり。語原を研究するに、心得べきことなり。

3 thoughts on “大槻文彦

  1. shinichi Post author

    『大言海』

    本書編纂に当りて

    by 大槻文彦

    https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/txt_daigenkaijyobun.html

    [p.11]

    帯説。

    帯説といふ事あり。支那にてある語に、不用の語を附帯せしめて用ゐることなり。この 帯説に心付かずして、語原を考ふるに、迷いし事あり。

    風雨。易経に「潤之以風雨」極めて古き書なれど、風の字は帯説のやうに思はる。

    緩急。緩やかなると急なるとなれど、唯、危急なる意にも用ゐらる。史記、袁〓伝「今、公、常従数騎、一旦有緩急、寧足恃乎。」

    利害の利、早晩の早も、帯説なることあり。

    翡翠。翡は鳥の羽の赤きなり。翠は青きなり。水鳥の、やませびを翡翠といひ、また翡鳥といふよりして、唯、緑なる意となり、緑髪を形容して、翡翠の簪などいひ、純緑なる玉を翡翠玉といひ、翡は帯説となる。

    異物志云、翠鳥赤而雄日翡、青而雌日翠。

    國家、自家。家の字を帯説とする場合多し。

    睡覚。支那北京鍋の音、睡むること。

    虎狼。朝鮮の音、虎のこと。

    帯説の語、尚あり。この帯説といふものを考ふるに、支那語には、「た」、「きふ」、「こく」などに、同じ発音のもの、極めて多く、耳に聞きて紛ひやすければ、猶言緩急之急などいふ心にて、急といふに「緩急のきふ」、國といふに、「國家のこく」と、気づくる為に、附して言へるなるべし。然して、字に書きて、目に見する場合には、言ふを要せざれど、元來、談話の語なるが、書記にも移りたるならむ。我が國にても、金山寺、径山寺(共に支那の寺名)を耳に聞きては、聞きわけがたければ、「かね金山」、「こみち径山」などいひ、人名に「すけ」といふ字、種々あれば、「ほ輔」、「じょ助」などいひ、その他「くろ玄」、「もと元」、「はた秦」、「すすむ晋」など言ひわくること、皆談話の上の事なるにて知らる。(近き頃の唱へに、「きみ公」、「そろ候」、候にはあらざれど)

    謡曲の猩猩に、「これは、唐土かね金山の麓、揚子の里にかうふうと申す民にて候」などいふも、舞台にて、口に謡うに因るなり。

    我が國にても、二字の熟語に、各その意義あるを、一字を無意義に用ゐるやうになりし語あり。又、帯説の姿をなせり。語原を研究するに、心得べきことなり。

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  2. shinichi Post author

    【国語逍遥】(43)

    入試と「難易度」 意味をもたない漢字とは

    by 清湖口 敏 (セコグチ サトシ)

    http://www.sankei.com/life/news/140212/lif1402120033-n2.html

     ソチ五輪では雪も氷も溶かさんばかりの熱戦が繰り広げられているが、こちら国内でも、寒さを吹き飛ばす熱い戦いが本番を迎えた。入試だ。そこで今回は、これら両者に関係の深い「難易度」という言葉について、まず考えてみたい。

     五輪には、難易度の高い技を決められるかどうかが順位を左右する種目が少なくなく、例えばフィギュアスケートだと、選手は難易度の高いトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)などを決めて得点を稼ぐことになる。また入試では、偏差値による学校別の「難易度」が志望校選びの大きな目安となる。

     難易度が高いとか低いとか、人はよく口にするが、難しさの程度をいうなら「難度」だけで足りるのに、どういうわけか「難易度」と言ってしまう。高度、深度、密度のことを高低度、深浅度、疎密度などとはめったに言わないのに、だ。産経の紙面にも年に数十件、「難易度」が顔をのぞかせる。

     では、「難易度」は誤った言葉遣いなのか。新明解国語辞典(三省堂)の解説が実に“明解”で、「字音語の熟語を構成する漢字のうち、対極的な用法を持つ一方がその文脈においては積極的に意味を持たぬもの」を「帯説(たいせつ)」と定義し、「難易度」というときの「難易」の「易」、「一旦緩急の際は」の「緩急」の「緩」、「恩讎(おんしゅう)の彼方(かなた)」の「恩讎」の「恩」を帯説の例に挙げている(「讎」は「讐」の異体字)。

     「易」の意味はないものの、「難易度」は決して怪しむべき表現ではないというわけだ。

     「恩讐」もときどき見出しに出てくる。最近では、黒人解放運動に大きな足跡を残して死去した南アフリカの元大統領、マンデラ氏についての「主張」(社説)の見出しが「恩讐を超えた精神に学べ」だった。

     社内の一部には「同氏は白人によるアパルトヘイト(人種隔離)政策のため苛酷な人生を強いられた。『恩』が介在する余地はないはずだ」と、「恩讐」をいぶかる声もあった。

     多くの辞書が「恩讐」を「恩とうらみ」などと示している現状では無理もないが、「恩」はやはり帯説で、積極的な意味は持っていないと考えるのが自然ではなかろうか。

     それにつけても、この「帯説」なる語、手元の国語辞典に当たってみても、わが国最大の日本国語大辞典(小学館)と前述の新明解国語辞典に載るくらいで、広辞苑や大辞林、大辞泉といった代表的な中型辞典の項目には見当たらない。

     嚆矢(こうし)はどうやら昭和初期に刊行された国語辞典『大言海』らしく、本文に「帯説」の見出しを掲げたほか、「本書編纂(へんさん)に當(あた)りて」と題する一文でも著者の大槻文彦が帯説について詳説している。驚いたことに「風雨」も挙げられており、古代中国の経典「易経」に出てくる「風雨」の「風」も、意味を持たない帯説だという。現代のわれわれが使う「風雨」とは明らかに異なる語義である。

     これとよく似た例として思いつくのが「多少」だ。「多少」の意味は「多いことと少ないこと」「少し」「いくらか」などさまざまあるが、「多い」の意に用いることは現代では皆無といってもよい。

     しかし唐の詩人、孟浩然(もうこうねん)には次のような五言絶句がある。

     「春眠暁を覚えず/処処啼鳥(しょしょていちょう)を聞く/夜来風雨の声/花落つること知る多少」。結句(第四句)は「花はどれくらい散ったことか(たくさん散ったことだろう)」と訳される。ここでいう「多少」は「多い」ことにほかならない。

     日本でも古くは「譬(たと)へば人の家に多少の男子を生ぜるは此(こ)れを以(もっ)て家の栄えとす」(『今昔物語』)と、近代でも「必ず心に之(これ)を快く思はずして、多少に立腹するのみか」(福沢諭吉『福翁百話』~九)と「多い」の意に用いた例がみられる。

     現代人には何とも紛らわしい「多少」だが、こんなのが入試に出題された日には、それこそ「難易度の高い問題」として、解答を後回しにするのも賢明な方法かもしれない。

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