山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば
(源宗于)
わがまたぬ年はきぬれど 冬草のかれにし人はおとづれもせず
(凡河内躬恒)
ことの葉も霜にはあへずかれにけり こや秋はつるしるしなるらむ
(大中臣能宣)
〈詞書〉かれがれなるおとこの おぼつかなくなどいひたりけるによめる
有馬山ゐなの笹原かぜ吹けば いでそよ人を忘れやはする
(五十八 大弐三位)
ひと夜とて夜がれし床のさむしろに やがても塵のつもりぬるかな
(二条院讃岐)
山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば
(源宗于)
わがまたぬ年はきぬれど 冬草のかれにし人はおとづれもせず
(凡河内躬恒)
ことの葉も霜にはあへずかれにけり こや秋はつるしるしなるらむ
(大中臣能宣)
〈詞書〉かれがれなるおとこの おぼつかなくなどいひたりけるによめる
有馬山ゐなの笹原かぜ吹けば いでそよ人を忘れやはする
(五十八 大弐三位)
ひと夜とて夜がれし床のさむしろに やがても塵のつもりぬるかな
(二条院讃岐)
小倉百人一首あ・ら・かるた〔三百三〕
小倉山荘
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かれてゆく恋
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源宗于の歌にある「かる」について。
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■「枯る」と「離る」
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山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば
(二十八 源宗于朝臣)
山里は冬こそ寂しさがまさるものだ
人が訪れなくなり 草も枯れてしまうと思うと
百人一首の宗于(むねゆき)の歌にある「かれぬ」は
「枯れぬ」と「離(か)れぬ」の掛詞(かけことば)です。
「離(か)る」は時間的、あるいは空間的に遠くなること。
心理的にうとくなる場合にも「離る」ということがあり、
和歌では多くの場合「枯る」との掛詞で用いられます。
わがまたぬ年はきぬれど 冬草のかれにし人はおとづれもせず
(古今和歌集 冬 凡河内躬恒)
わたしの待っていない新年は来てしまうけれど
冬の草が枯れるように離(か)れてしまった人は訪ねてもこない
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね二十九)が大晦日に詠んだ歌。
「音信」と書いて「おとづれ」と読んだ例もあるので、
手紙さえよこさないという解釈も可能です。
「離る」は別れを意味することもあって、 恋の歌、とくに失恋の歌が多く詠まれています。
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ 四十九)の歌では
ことの葉も霜にはあへずかれにけり こや秋はつるしるしなるらむ
(拾遺和歌集 恋 大中臣能宣)
あなたからの言葉も霜には耐えられず枯れてしまいました
これは秋が終わるしるしなのでしょう
「あへず」は「敢へず」と「会へず」の、
「かれ」は「枯れ」と「離れ」の、
「あきはつる」は「秋果つる」と「飽き果つる」の掛詞。
さらに「葉」と「枯れ」、「枯れ」と「霜」は縁語になっています。
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■恋の終わり
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百人一首の大弐三位(だいにのさんみ)の歌は
詞書に「かる」が出てきます。
〈詞書〉
かれがれなるおとこの おぼつかなくなどいひたりけるによめる
有馬山ゐなの笹原かぜ吹けば いでそよ人を忘れやはする
(五十八 大弐三位)
有馬山から猪名(いな)の笹原に風が吹いてくると
笹はそよそよと音を立てるでしょう
(その「そよ」じゃないけれど)ほら そうよ そうですよ
あなたを忘れたりするものですか
「かれがれ」は「離れ離れ」と書いて、
男が女のもとへ通うのが途絶えがちなこと。
それなのに男からあなたの心がおぼつかなくて(=疑わしいから)
などと言ってきたので、この歌を返したのです。
男女の仲について使われる言葉には「よがれ」もあります。
「夜離れ」と書き、男が夜に女のもとを訪れなくなること。
二条院讃岐(にじょういんのさぬき 九十二)はこう詠んでいます。
ひと夜とて夜がれし床のさむしろに やがても塵のつもりぬるかな
(千載和歌集 恋 二条院讃岐)
一晩だけ来られないと言っておきながら
そのまま夜離れした(あなたが寝るはずだった)敷物に
いつしか塵が積もってしまったことですわ
「枯る」と「離る」は意味が異なりますが、
なにかが尽きてしまうという点では共通しています。
もとは同じ言葉だったのかもしれませんね。