岸田秀

あるときなどは、「先生はなぜ生きているのか、なぜすぐに死なないのか」と重ねて質問してきた学生もいた。こういう質問が出る前提として、人間が生きているのは生きるに値する価値のためであって、そのような価値がないなら死んだ方がましだという考え方があると思われる。わたしはこのような考え方こそおかしいと思うのだ。
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生きるための価値を求めるふるまいは、きわめてはた迷惑である。そのような価値は幻想にすぎないわけだから、心の底から納得できる確かな価値などあろうはずがない。キリスト教・イスラム教であれ、ロシア共産制・アメリカ民主制であれ、ユダヤ金融家・アーリア純潔者であれ、これらはすべて人々の価値体系の対立に起因するものである。相手の迷惑を顧みず、伝道や説伏をしようとする結果今でも起きている争いごとである。資本主義が成り立っているのも、一部の「悪辣な資本家」が「愚かで弱い」民衆を金の力で支配しているのではなく、民衆も金の価値を信じているからである。
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ある理想の価値を信じている人は、その理想を共にしない人を軽蔑する。価値というものを信じている人々の態度が改まらない限りは、いっさいの差別の問題は解決しないに違いない。

2 thoughts on “岸田秀

  1. shinichi Post author

     文明とは病気である。しかもかなり伝染性の強い病気である。この病気には人類しか罹らないが、今のところ、いちばんの重病人はヨーロッパ人とアメリカ人で、それ以外では日本人である。しかし、昔はそうではなく、エジプト人やインド人や中国人がいちばんの重病人であった時代もあった。とは言っても、昔のこの病気はそれほど重症ではなく、伝染性もそれほど強くはなかった。ところが、近頃はますます猖獗をきわめ、加速度的に伝染性を強め、一部のいわゆる未開社会を除いて、ほぼ全人類を席巻せんとする勢いである。

     文明は、人類が生物学的に畸型的な進化の方向にはまり込み、本来の自然的現実を見失ったことにはじまる。人類は、見失った自然的現実の代用品として人工的な疑似現実を築きあげた。この疑似現実が文明である。しかしながら、それはあくまで疑似的なものであるから、どうしても人類と文明との間にはしっくりしない咀嚼があり、人類は文明のなかにあってどこか居心地がわるく、場違いな感じを免れ得ない。この居心地の悪さを解消しようとして、人類はまた新たな疑似現実を築き上げる。ここに悪循環が起こる。新しい疑似現実はさらにいっそう自然的現実からかけ離れ、ずれているので、人間はますます居心地がわるくなり、さらに新しい疑似現実を築くよう駆り立てられる。この悪循環は、一般に、文明の進歩と呼ばれている。

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    文明人はともすれば、それを未開人が知的または技術的に劣っているためだと思いがちであるが、そう思うのは文明人のたわけた自惚れである。これは、金という一元的価値しか目にうつらない金持ちが、貧乏人を見て、貧乏人が貧乏なのは無能だからだと考えるのと同じ思考形式である。金持ちは、自分があまりにも金に取り憑かれているので、金に取り憑かれていない人間の存在を想像だにできず、したがって、人間というものはみんな金を欲しがり、金のために最大限の努力をすると思い込んでいるものだから、貧乏人を見ると、金を欲しがって努力したにもかかわらず、無能なので得られなかったとしか思えないのである。

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