マーク・プレンスキー

説明と確認テストが以前ほど機能しなくなってきている最大の理由は、学習者を取り巻く世界が劇的に変わったからである。結果として、学習者たちは自らを受身な空っぽの容器のようには見ず、実践者や創造者として見ている。この変化のスピードが速く、教育は変化に追いっくことができていない。変化の緩やかな時代であっても、そもそも教育というのは変化が遅いものである。しかし今や子どもたちは、親や老人たちの世代を完全に追い抜いて、新しく開かれた世界を生きているという現象が起こっているのだ。
学習者たちは、教室で学ぶ以前に多くの経験をしているのであって、空っぽの容器や白紙の状態で教室に来ることなどあり得ない。企業内研修の場において、教えようとする知識について全く何も知らない学習者がいるということはまず考えられない。そのため、一から何もかも説明すると、誰もがほとんどの時間を退屈して過ごすことになる。

2 thoughts on “マーク・プレンスキー

  1. shinichi Post author

    デジタルゲーム学習: シリアスゲーム導入・実践ガイド

    by マーク・プレンスキー

    第3章 なぜ教育・研修は変わらないのか

    学習とテクノロジー小史

    ニール・ポストマンによると、私たちが目にしている近代的な大衆教育は、基本的には活字印刷の普及によって始まり、読み書きの基本を教えるために設計され、学校は読み書きを教えるところとして発達した。ルエン・チョウによれば、書籍の大量流通が教育の標準化を促し「西洋で活字印刷の発明から 200 年の間に、私たちの近代的教育システムは、生徒を年齢別に分け、知識を科目別に分けて、教科書を使って教えるという形になった」。しかしポストマンは、学校は読み書き以上に、一行一行本を読みながら単線的に思考する方法を身につける場となったと指摘する。読書を基本にした学習は、論理的な説明や表現を好む。論理的な説明は、人を魅了し、夢中にさせることができるものの、それを即興で実践できる教師の数は比較的少ない。それゆえ、教育は事前に準備された講義の形を取るようになり、学習とは単に教科書を読んで講義を聞くことを意味するようになった。「説明と確認テスト」の「説明」の部分については、論理的であることを旨とする学校に起因すると考えられる。

    そして、産業革命と産業競争の時代に入り、学校システムのさらなる標準化(セス・ゴーディンは著書『パーミッション・マーケティング』で「学校の工場化」と呼んでいる)が進む一方で、人々を適切な仕事に就けるために評価する必要性が高まった。標準テストは、第一次世界大戦における軍隊の要請によって生まれた。すると「説明と確認テスト」の「確認テスト」の発達は、さらに最近の話なのである。

    つまり、「説明と確認テスト」による教育の「伝統」が;実現されてから、 300 年も経っていないのである。今日では誰の人生よりも長い歴史を有するが、人類の教育と学習の歴史全体から見れば、実にわずかな歴史でしかない。

    説明と確認テストは、19世紀の後半から20世紀の半ばに至るまで、実にとてもよく機能し、電話やラジオやテレビのような新しいテクノロジーの発達ではそれほど変化しなかった。それらのテクノロジーが、言語や読み書き、活字印刷ほどには大きな転換を伴っていなかったという議論もある。しかしルエン・チョウによると、それらのテクノロジーが教育にさほどの影響を与えなかった一つの理由として、教育システムがテクノロジーの影響を除外するための断固とした努力をしていたということがあげられる。彼はこう言う。「もし生徒たち一人ひとりの机に1台ずつ電話を設置して教育に利用していたら、いったいどれほどの変化が起こっただろうかと思う」。

    そんなことが起きていればおそらく、読み書きを基本とした、産業的に標準化された説明と確認テストはだいぶ前になくなっていたかもしれないが、あいにくテクノロジ一面での大きな変化は常に阻害されてきた。

    私たちが目の当たりにしている今曰の大きな変化は、コンピュータ、双方向性、それに関連するテクノロジ一による、20世紀後半以降の技術革新によるものである。それ以前の変化と比べて、この変化ははるかに壮大なものだ。ディズニー社の研究開発部門のトップだったブラン・フェレンは、マルチメディア技術を「言語の発明以来、最も重要な技術革新であり、活字印刷ですら小さく見える」ものだと捉えている。

    それらのテクノロジーがもたらす変化は、その時代を生きる人々の目にはゆっくりとしか浸透していないように見えるが、過去の変化に比べれば目まぐるしく早い動きで、とても重大な変化なのである。

     ・書き言葉は以前に比べて重要度が下がっている(フェレンはさらに先を読んでいて、読み書きは300~400年の流行を終え、最終的には消えてしまうだろうと予測している。

     ・単線的な組織はハイパーテキスト的なランダムアクセス型の組織に補完された。

     ・本やテレビのような受動的なメディアはゲームやネットのような能動的なメディアに補完された。

     ・ものごと全般の速度は反射的速度まで高まり、振り返るための時間はとても少なくなった。

    おそらく説明と確認テストが以前ほど機能しなくなってきている最大の理由は、学習者を取り巻く世界が劇的に変わったからである。結果として、学習者たちは自らを受身な空っぽの容器のようには見ず、実践者や創造者として見ている。この変化のスピードが速く、教育は変化に追いっくことができていない。変化の緩やかな時代であっても、そもそも教育というのは変化が遅いものである。しかし今や子どもたちは、親や老人たちの世代を完全に追い抜いて、新しく開かれた世界を生きているという現象が起こっているのだ。

    学習者たちは、教室で学ぶ以前に多くの経験をしているのであって、空っぽの容器や白紙の状態で教室に来ることなどあり得ない。企業内研修の場において、教えようとする知識について全く何も知らない学習者がいるということはまず考えられない。そのため、一から何もかも説明すると、誰もがほとんどの時間を退屈して過ごすことになる。オンライン学習でも、テクノロジーの利点を活かすことで、自分のペースで学べて、すでに知っていることは飛ばすことのできるとはうたわれていても、現実には売り文句で言うほどには機能していない。市販されているアートや文学や音楽(ビジネスもあるが)などの「名講義」テープを車の中で聴こうとする人がいる一方で、自社の研修講座の録音テープやビデオを使って学習したいと言う人に会ったことはない。それらのテープは、ほとんどの場合は教室で受けるよりもひどい。かって研修講座の録音テープを編集して、実際の講座よりも短時間で視聴できるようにするサービスの専門会社があった。通常、その会社の編集によって、60分の講義は5分か10分まで短縮できた。

    そんな教育の現状を改善していく必要がある。学習方法に関しては、説明と確認テストに代わる新しいアプローチを何としても必要としている。一方的な説明はもうやめたほうがいい。誰も聞いていないからだ。では、テクノロジーに長けた若い世代に働きかける新しい方法を、誰が生み出そうとしているのだろう? それはごくわずかな人たちであり、その中にはデジタルゲーム学習のクリエイターたちも含まれている。だがそうした新しい方法を模索する人たちの中にも合意できている方法はない。実際のところ、それらの人たちの間で多くの内輪同士の批判が飛び交っている。その大きな原因として、人がどう学ぶのかについての考え方が、人それぞれ大きく異なっているという問題がある。

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