石飛幸三

がん、動脈硬化、そして認知症。これらは病気であると同時に、その原因は老化です。がんは免疫の減衰であり、動脈硬化は血管というパイプの目詰まり。こうした体の不調は、車の部品と同じで「耐用年数」が近づいているということなのです。芦花ホームで終末期医療の現実を知るにつれ、病を治すはずの医療が、「老衰」と闘う医療になってしまっているのではないかと疑問を持つようになりました。医療に「老衰」を止めることはできない。死を敗北とするならば、「負け戦」が続くのは当然です。

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  1. shinichi Post author

    多死社会で終末期医療が変わる――2020年「日本の姿」

    by 石飛 幸三

    http://bunshun.jp/articles/-/2275?device=smartphone&page=1

     東京が56年ぶりの五輪を迎える2020年、政治や経済、国際関係はどう変化しているのか。スポーツや芸能、メディアや医療の世界には果たしてどんな新潮流が――。各界の慧眼が見抜いた衝撃の「近未来予想図」。

     今回は、団塊世代の高齢化が進み、認知症患者は600万人に上るとも言われる2020年の終末期医療のあり方を、石飛幸三医師が語る。

    (出典:文藝春秋2016年7月号)

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    胃ろう治療の激減

     2010年、自然に任せて穏やかな最期を迎える「平穏死」を提言してから6年が経ちました。その間、終末期医療の現場は大きく変わりました。中でも特筆すべきは、胃ろうで栄養補給をしている認知症高齢者が、56万人から20万人に激減したことでしょう。

     胃ろうは、消化管が機能している患者に対する人工栄養の方法のひとつです。私が「特別養護老人ホーム 芦花ホーム」の常勤医となった2005年頃は、重度の認知症高齢者に胃ろうを造設するのは当たり前のように行われていました。

     平均年齢90歳、認知症率9割のこのホームに赴任して、私が衝撃を受けたのは、胃ろうをつけられ、ものも言えずにただ寝たきりになっている高齢者の姿でした。彼らはこのような延命を望んでいただろうか。自分たち医師は何をやっているのだろうと、ハタと気づいたのです。

     問題は他にもありました。人間は老齢になるにしたがって、次第に食べる量が減り、自然に苦痛を感じにくくなる生理的メカニズムが働き、死の準備をしていきます。しかし、胃ろうの場合、十分な栄養カロリーを摂取してもらうため、必要以上に栄養液を投与することになり、最期を迎える準備をするどころか、逆流して誤嚥性肺炎が起こってしまうことが度々ありました。

     このような終末期医療の実状を知る医療・看護関係者は、私同様、胃ろうをはじめとする経管栄養の在り方に疑問を呈するようになりました。そうした声に後押しされたのか、2014年、胃ろう手術の診療報酬が4割削減され、安易に胃ろうを造設する流れが減少に転じたのです。

     ただし、今も胃ろうの代わりに、「中心静脈栄養」や「経鼻胃管」といった形で、静脈や鼻から管を通して栄養剤を投与する「経管栄養」という名の延命が続けられています。胃ろうが悪いのではなく、高齢者に必要以上の栄養液を投与し続けることに問題の本質があるのですが、その点は未だ十分に理解されていないのかもしれません。

    医療に「老衰」を止めることはできない

     胃ろう問題に限らず、こうした本質を見誤った医療が平然とまかり通っているのは、医療が「老衰」の本質を捉えられていないからです。ちなみに、胃ろうは、1人あたり年間約500万円の医療費がかかります。

     それが56万人ともなると、日本では年に3兆円ものお金が湯水のごとく使われていたことになります。

     2025年、日本は団塊の世代が後期高齢者となり、4人に1人が高齢者という超高齢社会を迎えます。2020年代に入るまでに、老年医療・終末期医療における治療の一つひとつを、本当に患者のために役立つ医療か否かを仕分ける「曲がり角」が来ているように思います。国民医療費が40兆円を超え、国家の財政も破たんしかねないとなると、問題を先送りしてきた日本人も目を覚まさざるを得ないでしょう。

     がん、動脈硬化、そして認知症。これらは病気であると同時に、その原因は老化です。がんは免疫の減衰であり、動脈硬化は血管というパイプの目詰まり。こうした体の不調は、車の部品と同じで「耐用年数」が近づいているということなのです。芦花ホームで終末期医療の現実を知るにつれ、病を治すはずの医療が、「老衰」と闘う医療になってしまっているのではないかと疑問を持つようになりました。医療に「老衰」を止めることはできない。死を敗北とするならば、「負け戦」が続くのは当然です。では、負け戦にどこまで医療費を注ぐのか。我々一人ひとりに節度が求められています。

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    過剰の医療は患者を苦しめる

     1969年、美濃部亮吉都知事は、70代以上の高齢者の医療費を無料化し、喝采を浴びました。しかし私も後期高齢者の1人として思うのは、高齢者は「若者よりも我々に手厚い医療を」とは、誰も思っていないということです。

     医療とは、人を病気やケガから救うためのものです。病院は人生の途上にある人たちのための身体の「修理工場」。なのに、「老衰」を「病」に含めて、病院は本来の仕事以上の業務を抱え込み、パンクしています。

     死の間際まで様々な医療装置に繋がれている人は、皆険しい顔をしています。「平穏死」で亡くなった人が穏やかな死に顔をしているのとは対照的です。寿命が来て、人生の終着駅に近づいている人に“死なせない”ための医療を施すことは、自然の摂理に反しています。過剰の医療は、患者本人を苦しめ、尊厳を奪うことになりかねません。

    終末期医療を考えることは生き方を考えること

     日本では8割が病院で亡くなっていますが、今後は、在宅や老人ホーム等の施設で亡くなる人の割合が増えていくでしょう。その時に必要なのは、施設や在宅における看護師や介護士の充実です。高齢者には身体のケアよりもむしろ、心のケアが求められるからです。

    「人間の終末期には、医療ではなく、むしろ福祉ケアが必要だ」

     いまから20年ほど前にそう主張したのは、社会学者の広井良典氏でした。『社会保険旬報』に「死は医療のものか」と題した論文を発表したのです。しかし、これを読んだ医師たちからは大反発が巻き起こりました。彼の議論はいわゆる「みなし末期論」と呼ばれ、「方法がある限り延命治療をすべき」と考える当時の医師たちには到底受け入れられなかったのです。

     それから20年経ち、医師主導の治療から、患者本人の意思を尊重した看取りが受け入れられるまでに変わりました。世の中の終末期医療に対する意識の変化を肌で感じ、隔世の感があります。私はいま、長年終末期医療のあり方を考え続けてきた集大成として、これまで看取った方々から学ばせていただいたことを『「平穏死」を受け入れるレッスン』という1冊の本に、書き綴っています。

     終末期医療を考えることは、生き方を考えることです。日本人は、西行法師が「願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠み、その歌の通り、満開の桜の木の下で最期を迎えた「生きざま」に共感する独自の死生観を持っています。

     私たちはこの20年、医療は「老衰」とどう向き合うべきか、迷い道に入り込んでいました。いま、「このままではいけない」と、終末期医療の現場から、熱いエネルギーがマグマのようにくすぶっているのを感じています。老衰を受け止めて穏やかな死を迎える。方向性は、4年後によりはっきりと見えてくるのではないかと期待しています。

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