昭和の子

『評伝 石牟礼道子─渚(なぎさ)に立つひと』(米本浩二著、新潮社)が胸を打つ。
水俣病闘争は、道子にとって幻想が打ち砕かれていく過程であった。幻想とは「あの世」ではない。「この世」でもない。「もうひとつのこの世」をこの世に出現させること。一九七三年の心情。「永遠に空転している感じです」「文学と運動との間が破綻する。ひきさけてくる」。そして、絶唱。〈いつの日かわれ狂ふべし君よその眸そむけずわれをみたまえ〉
幻がなければ闘えない。幻を支えるのは「狂」である。道子の「狂」は祖母モカに淵源し、水俣病患者への寄り添いがこれを鍛えあげた。
道子の評伝を島尾ミホの評伝『狂うひと』(梯久美子著、同)と並べて読むと、コクが増す。ミホの「狂」は、抽象化すれば、戦争の記憶に蓋をして顧みない「戦後」への異議申し立てだった。道子の「狂」は、効率のためには切り捨てても顧みない「近代」への異議申し立てだった。ミホは夫と奄美へ帰り、小説を書き始める。ミホも道子も地に根づき、言葉を紡ぐことで身を鎮めていく。
二人から見たら、こちら側の私たちこそが「狂」であろう。二冊の評伝が澄んだ「鏡」となって、昭和の顔を映し出す。

2 thoughts on “昭和の子

  1. shinichi Post author

    近代の枠組みに収まりきらないものを健常な人たちは狂気と呼ぶのでしょう。無垢な存在を平気で握り潰すのが正気ならば、わたくしは堂々と狂気になる。

    人をゆるさない、ゆるさないでは、もう行く先がありません。

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