本郷和人

応仁の乱時の政治情勢にはまだまだ研究の余地がある。そうすると義政はこの後、キーン氏の「史上最悪の将軍」の評に対し、あるいは異議を申し立てる機会を与えられるかも知れない。もちろん、評価の改変が認められる可能性はきわめて低いだろうし、自己の無力を痛感していた彼がそれを望んでいるとも想像しにくいのだけれど。
一方でキーン氏は義政を限りなく高く賞揚する。「すべての日本人に永遠の遺産を残した唯一最高の将軍」であり、彼の心性こそが現代人の直接の祖である。氏のそうした評価に違和感をもつ人も、あるいはいるだろう。

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  1. shinichi Post author

    ドナルド・キーン『足利義政と銀閣寺』 解説

    本郷和人

    東京大学史料編纂所

    https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/shohyou/ashikaga.html

     著者であるドナルド・キーン氏は、足利義政(1436~90)という一人の人物の生涯を実証的に、かつ丁寧にたどりながら次のように解き明かしていく。室町幕府の第八代将軍であった義政は為政者としても軍事指導者としても無能であり、事跡には見るべきところがない。妻である日野富子や唯一の子息、義尚との私生活も破綻し、最後まで修復されない無惨なものとなった。だが義政の真骨頂は、38才で将軍職を退いた後に発揮される。1482年、47才の彼は銀閣寺として広く世に知られる東山の山荘の造営に着手し、翌年これに移り住んだ。55才で没するまで、義政は和歌や立花や茶の湯をはじめとするもろもろの芸術や美術に囲まれ、四季の移ろいを愛でながら、静かにこの邸宅で暮らした。

     山荘は彼の没後に禅寺となり、いまも私たちの来訪を待ってくれている。義政の頃からある建物は銀閣と東求堂の二つだけであるが、それに接したとき私たちが感じるものは、美を再発見した驚愕でも、高圧的な権力への畏怖でもない。しみじみとした懐かしさである。そこには日本人の心の原点がある。義政は東山山荘での生活を通じて日本人の美意識を統合し、後世に伝達できるかたちを整えた。現代の日本人の精神は、義政に始まる・・。

     かつて京都大学の学宝とまで称えられた東洋史家、湖南内藤虎次郎(1866~1934)は、ある時の講演でこう述べた。『大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真に身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります(1921年の講演より。『日本文化史研究(下)』講談社学術文庫 所収)』。

     「今を知るためには歴史を学ばねばならぬ」といわれるが、現代に直接に関与するのは応仁の乱以後の歴史なのだ、と湖南は大胆に主張する。応仁の乱を分水嶺とする碩学のこの認識は、さまざまに姿を変えて京都大学人文系の学問分野に脈々と受け継がれてきたという。キーン氏もまた同大学大学院に学ばれた研究者であった。そして、東山山荘での義政のありようこそが現代のわたしたちに影響を与え、それが「日本らしさ」の核となっていることを指摘されるのである。

     室町時代の文化といえば、必ず「幽玄」「わび・さび」の言葉が用いられる。これらが指し示す概念は、平安の「あはれ」鎌倉の「をかし」などとともに、室町文化のみならず、日本文化を特徴づけるものとして頻りに用いられる。ところが、本書はこれをしない。代わりに、人と人があたたかく結びつく、おだやかで静謐な心の通いあいが重視され、東山文化の本質として位置づけられた。たしかに会所は人が集うのに適した建物であったし、そこで行われる茶の湯も、立花も、連歌も、友との交流を求める「人」がいてこそ輝きを放つ芸術であった。

     「幽玄」「わび・さび」は日本文化を解説するうえで有効であり、便利な概念である。だが、それを持ち出すだけで分析を等閑にすることは、ともすると日本文化の独自性のみに注目し、その普遍性を捨象する姿勢に繋がりかねない。さらに厄介なことに、島国根性というのだろうか、「他に例がなく特異である → だから他より優れている」と短絡的に論理を展開したい願望を、私たちは常に秘めてきた。それは戦乱の中にも小さなコミュニティを形成して友人と手を取り合った室町の先人に対し、礼を失する行為でもあろう。だれにも理解できる平明な言葉で、しかし鋭く日本文化の特質を射抜く。それをされたのがキーン氏であったことは、まことに象徴的である。

     義政の東山隠棲の前提をなした応仁の乱とは、本書でも繰り返し言及されるが、1467年から1477年にかけて、11年に亘って断続的に戦闘が繰り返された大乱であった。守護大名たちは細川勝元を総帥と仰ぐ東軍、山名宗全を盟主とする西軍のいずれかに属し、京都を舞台に相争った。大軍が交錯し、足軽が跳梁した。京都は焼け野原となった。僅かに三十三間堂、六波羅蜜寺、千本釈迦堂を例外とし、歴史的な建物は残らず破壊された。

     これまでの歴史学は、この戦乱が結果的にもたらした事象は重要であるけれども、戦い自体は価値のないものとみなしてきた。その本質は幕府管領(将軍のもとで施政の実権を掌握する有力大名)に任じる資格を有する三家のうちの二家、畠山氏と斯波氏の家督争いに、義政の子と弟による将軍職継承の争いが絡み合ったもの、と解釈された。延々と睨み合いと小競り合いだけが続いて華々しい大会戦はなく、英雄も美姫も登場しない。肝心の勝敗すら明らかではない。こんな戦い、誰か停められなかったのか?なるほど、足利義政は無能である・・。そうした叙述がなされてきた。

     だが最近になって私は気が付いた。この一見すると馬鹿げた戦いにもそれなりの骨格があるのではないか。それは「政権樹立を目指す細川氏 対 伝統的な反細川勢力」というものである。第三代将軍足利義満を養育し輔翼した細川頼之にはじまる細川氏は、管領を務めながら、一貫して幕府政治を主導してきた。その実力の蓄積は、畿内を勢力圏とする戦国大名への進化をうながした。そうした変貌を是認できなかったのが西軍の諸将である。かつて「義満-頼之」政権によって軍事的に追い詰められた山名氏・大内氏・土岐氏が西軍の主力をなす。かねてから細川氏と共同歩調をとっていた赤松氏・京極氏ほかは東軍を形成する。

     乱が終結して16年後の1493年、細川勝元の子息の政元は「明応の政変」と呼ばれるクーデターを引き起こした。義政の養子で第十代将軍の座にあった足利義稙(実父は義政の弟の義視)を追放し、新将軍と天皇を傀儡として一挙に政務を掌握したのである。この時、山名氏はじめ他の大名たちは何の抗議も抵抗もなし得なかった。このことからすると、応仁の乱でもっとも利を得たのは細川氏であった、そう考える可能性が生じる。戦争が軍事衝突だけではなく政治的な応酬をも包含する営為だとすれば、明らかに人々の眼前には示されなかったけれども、乱の勝者は東軍であり細川氏であった可能性が高い。

     私の説が認められるかどうかは定かではないが、右の事例で明らかな如く、応仁の乱時の政治情勢にはまだまだ研究の余地がある。そうすると義政はこの後、キーン氏の「史上最悪の将軍」の評に対し、あるいは異議を申し立てる機会を与えられるかも知れない。もちろん、評価の改変が認められる可能性はきわめて低いだろうし、自己の無力を痛感していた彼がそれを望んでいるとも想像しにくいのだけれど。

     一方でキーン氏は義政を限りなく高く賞揚する。「すべての日本人に永遠の遺産を残した唯一最高の将軍」であり、彼の心性こそが現代人の直接の祖である。氏のそうした評価に違和感をもつ人も、あるいはいるだろう。しばしば、前近代の十年の変動は現代では一年で生起する、といわれる。さらに昭和から平成にかけての変化は、湖南が生きた戦前と比べれば、同じ「現代」に一括りにできぬほどに甚だしい。現在の私たちの生活には庭や床の間などないことが多く、茶を喫する作法を知らず、仕事に忙しくて花を生ける余裕もない。正直なところを告白すると、銀閣寺の東求堂を見学した際に、「わび さび」の情緒に無縁で未熟な私は「懐かしさ」など微塵も覚えず、「古くささ」しか感じなかった。けだし「湖南にとっての“いま”を知るためには応仁の乱以降で事足りるかも知れないけれど、平成の“いま”を知りたいなら応仁の乱以前にも学ぶ必要がある(本郷恵子『京・鎌倉 ふたつの王権』小学館)」と喝破される所以である。
     
     だが、少しだけ自省的に考えてみよう。平成の“いま”には問題が山積しており、改善すべき点を挙げることはあまりに容易い。グローバルスタンダードの潮流に巻き込まれ、日本列島の各所できしみが生じ、悲鳴が上がる。人は目先の利害に一喜一憂するばかりで端正な挙措を忘失した。礼儀や教養の欠如はとくに深刻に思える。心性がやせ衰えていくさまを止めるすべがない。

     日本の歴史をもの言わぬ過去として捨て去り、所謂「ふつうの国」として物質的繁栄を第一に冀うべきなのか。まさか湖南の時代、太平洋戦争以前に回帰するわけにはいかぬだろうしすべきでもないが、銀閣寺を、また東求堂を「懐かしい」と感じられる「こころ」の回復を試みるべきなのか。

     人と人とのあたたかな結びつきを希求した義政と東山文化のありようを鮮烈に描写して下さったキーン氏の本書を熟読し噛みしめながら、私たちは日本人として、いま一度考えてみるべきだろう。

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