村上春樹

映画が終って場内が明るくなったところで僕も目覚めた。観客は申しあわせたように順番にあくびをした。僕は売店でアイスクリームをふたつ買ってきて彼女と食べた。去年の夏から売れ残っていたような固いアイスクリームだった。
「ずっと寝てたの?」
「うん」と僕は言った。「面白かった?」
「すごく面白かったわよ。最後に町が爆発しちゃうの」
「へえ」
映画館はいやにしんとしていた。というより僕のまわりだけがいやにしんとしていた。奇妙な気分だった。
「ねえ」と彼女が言った。「なんだか今ごろになって体が移動しているような気がしない?」
そう言われてみれば実にそのとおりだった。
彼女は僕の手を握った。「ずっとこうしていて。心配なのよ」
「うん」
「そうしないと、どこかべつのところに移動してしまいそうなの。どこかわけのわからないところに」

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  1. shinichi Post author

    羊をめぐる冒険

    by 村上 春樹

    **

    飛行機に乗っているあいだ、彼女は窓際に座ってずっと眼下の風景を眺めていた。僕はその隣りでずっと「シャーロックホームズの事件薄」を読んでいた。どこまで行っても空には雲ひとつなく、地上には始終飛行機の影が映っていた。正確に言えば我々は飛行機に乗っているのだから、その山野を移ろう飛行機の影の中には我々の影も含まれているはずだった。だとすれば、我々もまた地上に焼きつけられているのだ。
    「私はあの人好きよ」と彼女は紙コップのオレンジジュースを飲みながら言った。
    「あの人?」
    「運転手よ」
    「うん」と僕は言った。「僕も好きだよ」
    「それにいわしっていい名前だわ」
    「そうだね。たしかにいい名前だ。猫も僕に飼われているより、あそこにいた方が幸福かもしれないな」
    「猫じゃなくていわしよ」
    「そうだ。いわしだ」
    「どうしてずっと猫に名前をつけてあげなかったの?」
    「どうしてかな?」と僕は言った。そして羊の紋章入りのライターで煙草に火をつけた。「きっと名前というものが好きじゃないんだろうね。僕は僕で、君は君で、我々は我々で、彼らは彼らで、それでいいんじゃないかって気がするんだ」
    「ふうん」と彼女は言った。「でも、我々ってことばは好きよ。なんだか氷河時代みたいな雰囲気がしない?」
    「氷河時代?」
    「たとえば、我々は南に移るべし、とか、我々はマンモスを獲るべし、とかね」
    「なるほど」と僕は言った。

    千歳空港で荷物を受け取って外に出ると空気は予想していたより冷やかだった。僕は首に巻いていたダンガリのシャツをTシャツの上に着こみ、彼女はシャツの上から毛系のベストを着た。東京よりちょうど一ヵ月ぶん早く秋が地上に腰を据えていた。
    「我々は氷河時代に巡り会うべきじゃなかったかしら」と札幌に向うバスの中で彼女は言った。「あなたがマンモスを獲り、私が子供を育てる」
    「素敵みたいだな」と僕は言った。
    それから彼女は眠り、僕はバスの窓から道路の両側に延々とつづく深い森を眺めていた。

    我々は札幌に着くと喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。
    「まず基本方針を決めよう」と僕は言った。「手わけしてあたるんだ。つまり僕は写真の風景をあたってみる。君は羊についてあたってみる。これで時間が節約できる」
    「合理的みたいね」
    「うまくいけばね」と僕は言った。「とにかく君には北海道にある主だった羊牧場の分布(ぶんぷ)と羊の種類を調べてほしいんだ。図書館か道庁に行けばわかると思う」
    「図書館は好きよ」と彼女は言った。
    「良かった」と僕。
    「今からかかるの」
    僕は時計を見た。三時半だった。「いや、もう遅いから明白にしよう。今日はのんびりしてから泊まる場所を決め、食事をして風呂に入って寝る」
    「映画が観たいな」と彼女は言った。
    「映画?」
    「だってせっかく飛行機で時間を節約したんだもの」
    「そりゃそうだ」と僕は言った。そして我々は最初に目についた映画館に入った。

    我々が観たのは犯罪ものとオカルトものの二本立てで、客席はがらがらにすいていた。これほどすいた映画館に入ったのも久し振りだった。僕は暇つぶしに観客の数を数えてみた。我々を入れて八人だった。映画の登場人物のほうがずっと多い。
    もっとも映画の方も映画の方で相当にひどい代物だった。MGMのライオンが吠え終わってメインタイトルがスクリーンに浮かびあがった瞬間にもう後ろを向いて席を立ちたくなるような映画だ。そういう映画が存在するのだ。
    それでも彼女は真剣なまなざしで食い入るようにスクリーンを睨んでいた。話しかけるすきもなかった。それで僕もあきらめて映画を観ることにした。
    一本目はオカルト映画だった。悪魔が町を支配する映画だ。悪魔は教会のしみったれた地下室に住んで、腺病質の牧師(ぼくし)を手先に使っていた。悪魔がどうしてその町を支配する気になったのか、僕にはよくわからなかった。なぜならそれは玉蜀黍畑に囲まれた本当にみすぼらしい町だったからだ。
    しかし悪魔はその町にひどく執着していて、一人の少女だけが自分の支配下に入らないことに対して腹を立てていた。悪魔は腹を立てるとぐしゃぐしゃとした緑色のフルーツゼリーのような体を震わせて怒った。その怒り方にはどことなく微笑ましいところがあった。
    我々の前方の席では中年の男が霧笛のようなもの哀しいいびきをかきつづけていた。右手の隅ではヘビーペッティングが進行していた。後方で誰かが巨大な音のおならをした。中年男のいびきが一瞬止まるくらいの巨大なおならだった。女子高校生の二人づれがくすくす笑った。
    僕は反射的にいわしのことを思い出した。いわしのことを思い出したところで、やっと僕は自分が東京を離れて札幌にいることを思い出した。逆に言えば、誰かのおならの音を聞くまで僕は自分が東京を遠く離れたことを実感できなかったわけだ。
    不思議なものだ。
    そんなことを考えているうちに僕は眠ってしまった。夢の中に緑色の悪魔が出てきた。夢の中の悪魔は少しも微笑ましくはなかった。闇の中で黙って僕をみつめているだけだった。
    映画が終って場内が明るくなったところで僕も目覚めた。観客は申しあわせたように順番にあくびをした。僕は売店でアイスクリームをふたつ買ってきて彼女と食べた。去年の夏から売れ残っていたような固いアイスクリームだった。
    「ずっと寝てたの?」
    「うん」と僕は言った。「面白かった?」
    「すごく面白かったわよ。最後に町が爆発しちゃうの」
    「へえ」
    映画館はいやにしんとしていた。というより僕のまわりだけがいやにしんとしていた。奇妙な気分だった。
    「ねえ」と彼女が言った。「なんだか今ごろになって体が移動しているような気がしない?」
    そう言われてみれば実にそのとおりだった。
    彼女は僕の手を握った。「ずっとこうしていて。心配なのよ」
    「うん」
    「そうしないと、どこかべつのところに移動してしまいそうなの。どこかわけのわからないところに」

    場内が暗くなって予告編が始まったところで、僕は彼女の髪をかきわけて耳に口づけした。
    「大丈夫だよ。心配しなくてもいい」
    「あなたの言ったとおりね」と彼女は小声で言った。「やっぱり名前のついた乗りものに乗るべきだったのよ」
    二本めの映画が始まって終るまでの一時間半ほどのあいだ、我々は暗闇(くらやみ)の中でそんな静かな移動をつづけた。彼女は僕の肩にずっと頬を寄せていた。肩が彼女の息で暖かく湿った。

    **

     映画館を出てから、彼女の肩を抱いて夕暮の街を散歩した。僕と彼女は以前より親密になれたような気がした。通りを行く人々のざわめきは心地よく、空には淡い星が光っていた。
    「私たち、本当に正しい街にいるの?」と彼女が訊ねた。
     僕は空を見上げた。北極星は正しい位置にあった。しかしどことなく偽物の北極星みたいにも見えた。大きすぎるし、明るすぎる。
    「どうだろうね」と僕は言った。
    「何かがずれているような気がするの」
    「はじめての街というのはそういうものなんだよ。まだうまく体がなじめないんだ」
    「そのうちになじめるかしら?」
    「たぶん二、 三日でなじめるようになるよ」と僕は言った。

     我々は歩き疲れると目についたレストランに入り、生ビールを二杯ずつ飲み、じゃが芋と鮭の料理を食べた。でたらめにとびこんだわりには料理はなかなかのものだった。ビールは実に美味しかったし、ホワイト・ソースはさっぱりとして、しかもこくがあった。
    「さて」と僕はコーヒーを飲みながら言った。
    「そろそろ泊まる場所を決めなくちゃね」
    「泊まる場所についてはイメージができてるの」と彼女は言った。
    「どんな?」
    「とにかくホテルの名前を順番に読みあげてみて」
    僕は無愛想なウェイターに頼んで職業別電話帳を持ってきてもらい、「旅館、ホテル」というページを片端から読みあげていった。四十ばかりつづけて読みあげたところで彼女がストップをかけた。
    「それがいいわ」
    「それ?」
    「今最後に読んだホテルよ」
    「ドルフィン・ホテル」と僕は読んだ。
    「どういう意味」
    「いるかホテル」
    「そこに泊まることにするわ」
    「聞いたことがないな」
    「でもそれ以外に泊まるべきホテルはないような気がするの」
    僕は礼を言って電話帳をウェイターに返し、いるかホテルに電話をかけてみた。
    はっきりしない声の男が電話にでて、ダブルかシングルの部屋なら空いていると言った。
    ダブルとシングル以外にどんな部屋があるのか、と僕は念のために訊ねてみた。
    ダブルとシングル以外にはもともと部屋はなかった。少し頭が混乱したが、ともかくダブルを予約し、料金を訊ねてみた。
    料金は僕が予想していたより四十パーセントも安かった。

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