磯田道史

政権の核を担ったのは、廃藩置県を断行した薩摩と長州、土佐だけなんです。政府直属の軍隊として、一万人弱の御親兵というのを集めました。けれどその半分は、実は薩摩の兵士です。中身を見れば、革命を進めた「お友達」が集まった政府、という印象が否めないわけです。特定藩の出身者による「お友達政治」のことを、学術的には「有司専制」と言います。
この「お友達」すなわち「有司」は、自分たちが決定したことを天皇によって権威づけをし、あたかも天皇の命令であるがごとく実行できる体制をつくりました。

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  1. shinichi Post author

    <変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> 

    東京新聞

    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201801/CK2018010402000110.html
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201801/CK2018010502000129.html
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201801/CK2018010602000129.html
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201801/CK2018010902000111.html
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201801/CK2018011002000181.html
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201802/CK2018020902000119.html
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201802/CK2018021002000189.html

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    (1)維新がもたらしたもの

     日本が近代国家として歩み始めた明治元年から、ちょうど百五十年。『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』などの著書で知られる歴史学者の磯田道史さん(47)に明治維新から大正、昭和、平成への時代のつながりを聞いた。(聞き手・中村陽子、清水俊郎)

     -はじめに、「明治百五十年」について、あるいは明治維新について、どうお考えですか。

     私は今年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の時代考証を担当しています。歴史家として逸話を出していくわけですが、引き受ける時から、明治をひたすら明るい側面からだけ描くつもりはありませんでした。

     明治維新が、日本の社会にとって大きな変化、断絶であったことは事実です。節目を祝う立場ももちろんあるでしょうが、考え直す立場もあってよい。この機に、今に至る歴史のきっかけを見つめたらいいのではないかと思います。

     -それではまず、明治という時代の「明るい側面」から伺いましょう。

     たとえばこんなことを考えてみます。明治維新によって、私の家系である「磯田家」は得したのだろうか、損したのだろうか。私は、小さい頃は、すごく損したと思っていたんです。そりゃそうでしょう。先祖の家は、岡山藩の百二十石取りのお侍さんで、領地がありました。自宅は保証され、自動的に参政権どころか、執政権まである。それが全部とられて、すっからかんになったんですから。

     でも、いや待てよ、と、もう少し考える。もし私が江戸時代に生まれて、歴史学者になりたかったら、家を出て廃嫡(はいちゃく)(※注1)してもらわないと、なれなかった。

     当時の人たちは、商売をして楽しく暮らそうとか、天下を取ろうと思っても、思ったようにはできなかったわけですよ。でも今は、何をやってもいいですよね。江戸時代の身分制がなくなり、そういう個人の生き方の自由度が格段にあがりました。

     -しかし、明治に起きた変化によって、消えていった文化があります。

     私から見ると、今年は明治から百五十年であるのと同時に、江戸消滅から百五十年だという感覚があります。「江戸百五十回忌」とでもいいましょうか。この側面も、忘れてはいけないと思いますね。江戸の中にあったいいもの、明治維新によって失われてしまったものをよく認識する必要がある。悪いところもいっぱいあった社会ですけれども、学ぶべきところはたくさんありますから。

     日本は、維新で多様性を失ったともいえるのです。江戸時代には、藩によって重視する政策が異なり、身分制度の中にあっても、特徴に応じたさまざまな人材を出していました。今でいうダイバーシティですね。

     軍隊をつくる際も、当初は陸軍はフランスに、海軍はイギリスに学ぶというような多様性がありましたが、やがて国家のモデルをプロイセン・ドイツ型に統一します。だって「富国強兵」という国家目標に沿ったものを上から注入するという形で、効率よく変えるわけですから。雑木林のように豊かだったものを、一回崩れたら倒れやすい杉林のようにして、一気に西洋化を進めていきました。

     -維新で失った文化がある一方、現代まで根強く残る旧弊もあります。

     敗戦で完全に破壊されて、さらに自由な社会にはなったわけですが、現代に至っても、日本人の根っこの部分には、世襲での経路依存の体質がありますね。経路は来し方という意味です。会社などの組織でも、長く居る人に絶大な信頼を置くでしょう。たとえば入って三日で社長になる、というような例はほとんど聞かない。本当は社の外に、もっと会社を発展させる人材がいるかもしれないのに。働く人も、長く勤めていれば、当然偉くさせてもらえるという考えが、頭から離れていないですよね。

     -ドラマ「西郷どん」では、どのような歴史認識をベースに監修を?

     西郷隆盛は、明治維新に理想を持っていたけれど、最後は下野して、西南戦争(※2)で死にます。維新の暗い面、良くなかった面でもって、彼の人生は完結しているわけです。ひょっとしたら、後になって「こんなはずではなかった」と思っていたかもしれません。明治維新で政府に入った人が世襲を始めて、利権を分け取りにする。新政府のメンバーは破格の年収。一部の華族には、貴族院の議席まで世襲させるというのです。

     「四民平等」を掲げていたはずなのに、自分たちはどうして、議会の議席が世襲されるような制度を作る結果になってしまったのか。日露戦争の後には、百人もの人が爵位を授けられました。そういう政府ですから、結局、軍部の暴走を抑えられず、華族という制度そのものがなくなります。

     明治維新は、効率よく近代化、西洋化を進めるという面では非常に「うまく」働いた。中には特権を維持し続ける人もいましたが、個々人の選択を増やすという面でもいいふうに働いた。一方でそれは、植民地を持つことにつながり、東アジア諸国から恨みを買う帰結を迎えました。

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    (2)司馬作品と史実のズレ

     -現代の日本人が、明治維新と明治時代に抱く歴史認識は、国民作家である司馬遼太郎さんの作品が影響していそうです。小説が伝える歴史は、史実とは少しズレていると指摘されることもありますが、どう捉えればいいのでしょう。

     幕末の長州藩の吉田松陰や高杉晋作たちを描いた『世に棲(す)む日日』、薩摩藩から輩出した群像の物語『翔(と)ぶが如(ごと)く』…。これら司馬さんの作品から、歴史の流れを知る人も多いでしょう。史実に近いものもあれば、史実から遠めになっているものもあります。

     時代が早いほど、資料が少ないので想像の部分が多いですし、セリフの多くは架空のものです。読者は、それを歴史上の人物が実際に言ったと理解してしまうことがあるわけです。しかし、言ってもおかしくないことが書き込んであるから、分かりやすくなる。

     司馬文学は、地図に似ていると私は思っています。地形を表すものとしては、航空写真が一番正確なはずですが、われわれは、写真をそのまま渡されても、目的地までの道はよく分からない。略地図を持って歩くほうがよっぽど歩きやすい。つまり司馬作品は「歴史の略地図」なんです。

     実際は長い道が短く書いてあったり、逆もあったりする。現実を理解しやすくした「時代の略地図」だと知った上で読む必要がある。それが「司馬リテラシー(読解力)」だと思うんですよね。

     もう一つ言えるのは、司馬さんが『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を書いたのは、今からだいたい五十年前。「明治百年」だった当時と今を比べると、歴史学の認識が進んでいます。さっきの例えで言えば、これまで航空写真が撮られていなかったところも撮影されて、新たな図面が出てきている。そういう部分も意識しておくといいですね。

     -研究によって歴史の空白が埋まり、新しい認識、見方ができているということですね。

     たとえば明治維新への動きは、司馬さんが小説で書いたよりずっと早くから、いろいろな藩で見られることが分かっています。

     司馬さんの時代には、ペリーの来航がきっかけで日本が変わったように語られていました。だからペリーがエイリアン(異星人)のように急に来たと認識している人が多いと思います。でもその後の研究でみると、それは違うんです。

     西洋の船は、一八〇〇年を過ぎるとしばしば日本近海へ現れるようになる。水戸、薩摩…。特に外洋に面している藩は、十分に外国の危機を感じていたはずです。

     一八二〇年代になると、三角マストの西洋帆船が普通に報告されるようになります。薩摩藩の場合、トカラ列島の宝島で、英国の捕鯨船と交戦状態になります。同時期に、水戸藩にも捕鯨船がやってきています。

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    (3)維新はどう芽生えたか

     -いくつかの藩では、ペリー来航以前から、すでに外国の危機を感じる経験をしていたのですね。

     一七〇〇年代末に、ロシアで暮らした大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)(※注)もいました。帰国してロシア人の格好で徳川将軍に会うわけです。その後は今の靖国神社(東京都千代田区)の場所にあった薬草園に隔離して住まわされるのですが、自由に人とは面会する。好奇心が強い学者たちと交流して、ロシアや西洋の知識をたくさん語りました。

     そんなこともあって一八二〇年ごろには、分かる人たちは、もう十分に外国の危機を感じていた。洋学を初期に学んだ学者は、西洋列強が強大な海軍を持っていることを、数量も含めて示しています。

     列強は早晩やってくる。日本じゃかなわないような海軍力と、新式の武器も持っている。対処するには日本が藩でバラバラに分かれていたんじゃ話にならないから、オールジャパンで一致結束し、外国の侵略に対処しなければならない…。だから海軍をつくり、統一の指揮下に入れる。そういう意識が生まれてきます。明治維新への一本の道になっていくわけです。

     -そこから「他国を侵略する」という発想もでてきたのでしょうか。

     これは一八七〇年ごろに開発されたライフル銃とも関係があります。

     ここで皆さんに考えていただきたい。西洋人が火縄銃を発明したのは五百年以上前。フランシスコ・ザビエルが日本に来た時にはもう火縄銃があったのに、アジアが西洋の完全な植民地になったかというと、なっていません。他の国を支配することは、火縄銃では無理なんですね。

     それはなぜか。一分に二発しか発射できず、百五十メートル離れると、厚手の服を着ていればけがをしない武器だからです。けれどライフルは射程が五百メートルに伸び、さらに連発式が発明される。大砲に応用され、人間をなぎ倒すものになる。

     -武器の変化が、社会のありようを変えたのでしょうか。

     戦争のやり方が、大量に庶民を徴兵し、ライフル銃の訓練をして、戦場で相手を圧倒する方法になっていきます。国同士で争い、別の地域を植民地として支配する体制ができ上がります。

     日本もこれに加わるのか、やられる側に回るのかという二者択一が迫られるわけです。日本は、国民国家をつくって植民地を増やす方向に、かじを切ることになりました。

     ちなみに、庶民の参政権の歴史も、武器の変化がつくったといってもいいと私は思っています。徴兵された兵士は政治への参加を求めるようになるので、男性による「民主国家」ができあがります。やがて「銃後の守り」も重要になる物量の戦いになると、工場に徴用される女性も政治参加するようになっていきます。

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    (4)教育・行政 近代化の原点

     -明治維新により、日本は一気に近代化しました。急速な近代化はどのように始まったのでしょう。

     そもそも明治維新とは何か、という点から、もう一度考えてみましょう。達成されたことの一つは、江戸時代の身分制が壊れたこと。世襲制を廃止し、学校で勉強ができる人を官僚や軍人にして国家が運営されるようになりました。もう一つは徳川の「公儀」という武家の政府に替わり、新しく「天皇の政府」を作ったこと。その下で富国強兵、つまり工業化と軍事化を進めた。背景には、他国に植民地化されずに独立を保ち、うまくすれば植民地を持つ側に回る、という政治課題がありました。

     これらの要素で分けて、それぞれ出発点を説明しましょう。つまり、天皇がまつりあげられたのはいつからか、学校や官僚制度が形作られたのはいつごろか。そもそも西洋をモデルに国造りをするという発想はどのようにでてきたのか…。

     最初に全体的なことを言うと、だいたい一七八〇年ごろの「田沼時代(※注)」ぐらいから芽が見られます。司馬遼太郎さんが小説を書かれていたころの一般的な認識と比べると、かなり早くから息吹があったというのが、近年の歴史学の研究成果です。

     まず、天皇を日本の中心にまつりあげるという点では、田沼時代のさらに前から芽がある。一七〇〇年より前、だいたい元禄のころでしょう。水戸光圀の「大日本史」などの中で、日本の中心は天皇であると書かれ、「大陸の中国より自分たちの方が忠義・孝行においては尊いのだ」という考えが、頭をもたげてきます。

     田沼時代になると、浅草でつじ講釈師が、こうした内容を語って、庶民は喜んで聴いていました。将軍様の国ではあるけれど、本来は天皇の国で、これが長く続いているから自分たちの国は世界で一番優れているのだ、という考え方が、しだいに広がっていきます。

     -天皇が中心となる社会を受け入れる思想的な素地ができていたんですね。

     けれど現実には、江戸時代の幕府が無力で使い物にならないという認識がないと、明治維新の方向には変わりません。そのきっかけになったものは二つありました。一番大きなものが外国からの危機、もう一つは飢饉(ききん)のたびに財政力を悪化させていた国内政治。内憂外患、内への憂いと外への患いですね。

     そこで薩摩や長州、肥前藩では何を始めたかというと、自分の藩の学校です。従来、藩学自体がないか、自由登校であったのを、出席を藩士に義務化するところが出てきます。

     長州の場合は、学校の成績を月に数回、藩主に報告し、出世に関わるようにした。肥前などでは、成績が悪いと、親の禄(ろく)を相続する時に大幅に減らされる。そりゃあ必死で勉強しますよ。公職につけるかどうかも、藩校の成績が参考になる。やがて身分によらず、勉強のできる人が尊敬されるようになっていきます。

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    (5)税の概念、富国強兵の礎

     -藩校開設などで各藩に一種の「実力主義」が導入されたのですね。

     その通り。それまでは先祖の勲功によって地位が決まっていました。けれど飢饉(ききん)は続くし財政難ですから、何とかそれを解消したいわけですよ。

     藩校でよりすぐった秀才を代官や郡奉行にして使うと、財政改革をやってくれる。それで成功していく。こうすると「富国強兵」が達成できる。

     富国強兵という言い方は、今は明治のこととして小中学校で教えられますが、今から二百年ちょっと前の藩政改革の中で生まれたものです。学校の秀才を官僚に登用し、藩の富国強兵を実現する。この要素に西洋化が加わればもう「明治維新」なわけです。

     最初にこのモデルを作ったのは、どうも肥後藩の宝暦改革だったらしいと近年分かってきて、私もそう主張しています。細川重賢(しげかた)という殿様が登場して、改革に成功する。取った年貢を農業投資に回して、もっと生産量を増やすということを、効率よく行ったのです。それと、住民からの陳情を細かく受け、それに対応して藩費を支出するという近代行政のもとを作った。

     -藩費からの公的な支出が、近世と近代を画する意味があるのですか。

     近世までの社会では、取った年貢は「地代」であって、武士の純然たる私生活に使うものだった。極論では、農民が飢えて死のうが、お金を出す理由はなかったわけです。それが地代ではなく「税」になる。出す代わりに、サービスがあるわけです。

     例えば港の整備や、用水工事を行うだとか。あるいは、住民の生活保護である「お救い(※注)」に回すということが、きめ細かに行われるようになる。お救いは、江戸時代初期は一部の藩にとどまっていました。農業用の牛を買うお金を貸し付ける藩も少数でした。後期になると、ほとんどの藩が行うようになる。

     お救いと同時に、肥後などの藩で始まったのが「殿様祭り」。君主崇拝です。殿様の誕生日に、お酒を飲んだり、祭壇に殿様をまつったりして武運長久を祈るんです。それまで殿様は、領民にとって特別な存在ではなかったのに、神格化されて、領民の心の中に植え込まれていきます。

     江戸時代的な身分制が、学校と官僚制で崩れていく一方で、忠義心を持てば「お救い」という形で福祉が与えられる。これを大々的に展開したのが長州藩でした。これが日本全土に広がれば、もう明治の天皇制そのものです。

     -近代化をもたらした維新は一夜にしてなったのではなく、明治と江戸との間には連続性があるのですね。初回から今回までで磯田さんによる「維新前後の略地図」の一端を伺いました。ありがとうございました。

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    (6)高識字率で一気に浮上

     日本の近代の歩みを、先月に続いて磯田道史さんに聞きます。(聞き手・中村陽子、清水俊郎)

     -これまでのインタビューでは、維新に至るまでのさまざまな変化、君主崇拝の芽生えや、身分制が廃止されて教育制度が充実した経緯などについてお聞きしました。

     明治維新は、江戸時代から各藩の中で一つずつできた「部品」を組み合わせ、西洋の国のかたちを参考に、日本型のものをつくり上げることで達成しました。一般的には、ペリー来航から大政奉還、榎本武揚らの「蝦夷(えぞ)共和国」の消滅のあたりまでがイメージされますが、これは卵の中で育ったひよこが殻を割る瞬間の話にすぎない。卵の殻の中で起きている変化を見ることが、実は大変重要です。それが分からないと、今後、日本が殻を破り、新しい環境に適応した姿に変わっていくための役には立たないからです。

     -明治維新の「明」と「暗」について、もう少し伺いたいと思います。

     明治は、急速な近代化を成し遂げた上り坂の時代として、明るい側面から語られることが多いですね。では、なぜそれほど「うまく」西洋近代化が進んだのか。要因の一つに、識字率があると考えられます。

     識字率が低すぎると、西洋近代化は難しい。飛行機が一定の速度を超えたら飛び上がるように、識字率がこれだけに達したら近代化が進めやすくなるという「浮上点」があるのです。

     -そもそも何をもって「識字」とするのでしょう。

     ヨーロッパならアルファベット、日本はひらがなを使い、人の名前や地名などを読み書きして、ある程度の意思疎通ができることを基準に置きましょう。近代化の浮上点は、識字者が成人男女の人口の30~40%に達する辺りにあるのではないかと、私は見ています。

     カルロ・チポラ(※注)というイタリアの経済学者が、一八五〇年代のヨーロッパの識字率を調べています。それによると、スウェーデンやノルウェーなど北欧諸国は、識字率がすでに七、八割あるんです。英、独、仏は六~八割。イタリアになると二、三割。ロシアは一割以下という数字です。

     同じ時期、日本はどのくらいの識字率だったかというと、おそらくイタリアの上、ベルギーの下で、四割程度という見積もりです。東アジアでは、日本ほどの識字率に達していた国は、ほかになかったと思われます。覚えやすい仮名文字の存在は大きかったでしょうね。

     -なぜ識字率と近代化が関係してくるのでしょう。

     工業化を進めようとすると、機械を作る知的な頭脳と、取扱説明書に従って機械を操作できるくらいの識字能力は、どうしても必要とされます。江戸時代の終わりに、識字率が四割に達していたことで、日本の近代化はスムーズに進み、多大な富をもたらしました。

     世界を見渡してみると、今の一人あたりのGDP(国内総生産)が高い国は、ことごとく百七十年前の日本よりも識字率が高かった国です。ギリシャなど、当時の識字率が三割なかった国の多くは、今なお苦しんでいます。

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    (7)武力に頼る集権国家に

     -維新の後を「明るい時代」とばかりは言えません。

     日本は明治維新で、非常に強い中央集権国家をつくりました。実は、当時の状況を考えると、そんなかたちになる可能性は低かったんです。大政奉還の時点では、土佐藩ほか、ほとんどの藩は、徳川を新政府に参加させることに反対ではなかった。徳川が参加した形でのゆるやかな分権国家でもよかったんですよ。

     ところが西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らは「それは承知ならん」と。徳川は、親藩・譜代・天領という形で全国の三分の一の地域に影響力を及ぼしていました。つぶさなければ、新しい国家はできない、と考えたんですね。

     -徳川を新政府に受け入れたらどうでしょう。

     大名が各地に点在し、幕府の官僚制が、そのまま日本に残ります。海軍ぐらいは統一し、やがてゆっくりと集権国家に向かうにしても、効率はよくなかったはずです。士族も残ったでしょう。西郷らには、それでは江戸時代と変わらない、という不安があった。だから、やはり武力討幕するという考えに至ります。

     結果として、出来上がったのは、「プロイセン型」の師団と参謀本部があり、いつでも侵略戦争ができるような強い中央集権国家でした。

     -明治維新のころ、その後を見据えていた人はいたのでしょうか。

     吉田松陰です。幕末に獄中でつづった思想書「幽囚録(ゆうしゅうろく)」は、日本のたどる道を示した予言の書とも言える内容です。<蝦夷(北海道)の地を開墾して、諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質を取って朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ>。さまざまな提言をしています。

     当初は、実際に動員計画があったわけではなく、現実味の薄い内容だったかもしれません。でも松下村塾で松陰に学んだ弟子たちは、頭のどこかに、遺言のようにこびり付いていたのだろうと思います。ここに書かれている思想は、明治以後の外交政策に大きく影響しました。北海道開発、琉球処分(※注)、台湾出兵、日韓併合、満州事変、フィリピン占領と、ほぼ予言の通りに進みました。

     -明治の新政府は、ほかにどんな特徴があったのでしょう。

     政権の核を担ったのは、廃藩置県を断行した薩摩と長州、土佐だけなんです。政府直属の軍隊として、一万人弱の御親兵というのを集めました。けれどその半分は、実は薩摩の兵士です。中身を見れば、革命を進めた「お友達」が集まった政府、という印象が否めないわけです。特定藩の出身者による「お友達政治」のことを、学術的には「有司(ゆうし)専制」と言います。

     この「お友達」すなわち「有司」は、自分たちが決定したことを天皇によって権威づけをし、あたかも天皇の命令であるがごとく実行できる体制をつくりました。新政府で一番問題だったのは、この部分です。

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