岩谷時子

現地を体験していないからこそリアル、というパラドクスがここにある。しかし、それが「文学」の力だともいえる。

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  1. shinichi Post author

    岩谷時子

    https://ja.wikipedia.org/wiki/岩谷時子

    モダニズム作詞家だった岩谷はヨーロッパに行ったことがなかった。ハワイに一度行ったきりだという。「現地を体験していないからこそリアル、というパラドクスがここにある。しかし、それが『文学』の力だともいえる」。

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  2. shinichi Post author

    岩谷時子のまとめ

    http://matome-toka.com/岩谷時子

    越路吹雪と歩んだ半生

    1916年、京城府(現在のソウル特別市)生まれ。先祖は幕末維新に「石見尊徳」と敬われた島根県大田市の篤農家・岩谷九十老。祖父は京畿道の初代長官だったので、京城で生まれたのだが時子が生まれた日に退官した。父親は東京高商(一橋大学)を出て貿易商社勤めで、母親は明治のモダンな女性だった。5歳の頃に兵庫県西宮市に移住。西宮市立浜脇小学校、西宮市立安井小学校、西宮市立西宮高等女学校(現・西宮市立西宮高等学校)を経て、神戸女学院大学部に進学。1939年に神戸女学院大学部英文科を卒業後に、宝塚歌劇団出版部に就職。宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長を務めた。

    そうした中、偶然宝塚歌劇団編集部にやってきた8歳下の当時タカラジェンヌで15歳の越路吹雪と出会う。2人は意気投合し、越路の相談相手となる。越路が宝塚歌劇団を退団して歌手になりたいと相談したとき、岩谷も退職を決意。小林一三が一人では不安だからと同行させて上京し、東宝文芸部所属になる。越路の付き人を務めた。その後、自らが作詞家として成功しても自分の本業を聞かれるたび「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。

    1951年から1963年までは東宝文芸部に所属。会社員として働く傍ら越路をサポートし、越路が亡くなるまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けていた。

    越路吹雪とのエピソード

    時子と越路が初めて接触したのは、当時新人だった越路が自分のサインの見本を書いてほしいと時子に相談を持ちかけたときだった。このとき2人で作ったサインを越路は終生使い続け、越路が忙しくなってからは時子が「代筆」することもよくあったという。

    その後、時子は気づけば越路の付き人の役割を担っており、ある日の舞台が終わったあと、越路は不器用ながらも小道具の手入れをする時子を見て、「時子さんもどこか抜けているし、私も抜けている、二人でやっと一人前だよね」と言ったという。

    宝塚時代から、靴や洋服など欲しいものがあればどんどん買ってしまい、よく給料を前借りしていた越路は、東宝に移籍するときには歌劇団に借金が残っていた。その浪費癖を重々承知していた時子は、1978年、越路がパリへアルバムのレコーディングに赴くにあたり、レコード会社の担当ディレクターに「(所持金が)足りなくなったら使ってほしい」とこっそり現金を託した、という話も残っている。

    越路はリサイタルの直前は極度の緊張におそわれたという。そのため、緊張を紛らせるために煙草を燻らせ、コーヒーを飲んで、リサイタルに臨んでいた。ステージに出る際は緊張も極限に達し、マネージャーである時子から背中に指で「トラ」と書いて貰い、「あなたはトラ、何も怖いものは無い」と暗示をかけて貰ってからステージに向かっていた。

    越路が胃がんで入院した後も、もう一度舞台に立たせたいと強く願っていた時子は越路から睡眠薬とタバコを取り上げることに必死だった。それにもかかわらず、越路の夫の内藤法美は妻である越路が病床でタバコを吸っていても大目に見ていた。「いまの越路吹雪には厳しい愛が必要だ」と考えていた岩谷にとって、これは許しがたいことであり、3度目の入院を前に時子は越路のもとを訪れ「内藤さん、あなた(越路に)甘いんじゃないの。あなたもあなたよ。睡眠薬もタバコもやめなけりゃあ、胃の痛みは治らないって、お医者さまもおっしゃったでしょう。もし、あなたが私のいうこと守れなかったら、私はあなたの仕事からいっさい手をひかせてもらうわ」と心を鬼にして一対一で説得し、その日から越路は睡眠薬とタバコをやめたという。

    作詞家として

    マネージャーとして活動する一方で、1952年に越路が出演していたシャンソンショー「巴里の唄」の劇中歌として『愛の讃歌』で時子にとって自身初めてとなる訳詞・作詞をした。以降、『愛の讃歌』をはじめとする越路が歌うシャンソンの訳詞を手がけたのをきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』、岸洋子『夜明けのうた』、弘田三枝子『夢見るシャンソン人形』、沢たまき『ベッドで煙草を吸わないで』、園まり『逢いたくて逢いたくて』、加山雄三『君といつまでも』、佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』など数多くのヒット曲を生み出してきた。

    一方、オリジナルの詞にとらわれず独自の解釈で詞を当てることもある。例としては、エディット・ピアフが歌った『愛の讃歌』は元の歌詞が「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容であるのに対し、時子訳詞では一途な愛を貫くという讃歌になっている。美輪明宏が時子にそのことを訊ねたエピソードがNHK人間講座「美輪明宏愛と美の法則(2005年3月21日)」で放映された。

    モダニズム作詞家だった岩谷はヨーロッパに行ったことがなかった。ハワイに一度行ったきりだという。「現地を体験していないからこそリアル、というパラドクスがここにある。しかし、それが『文学』の力だともいえる」。

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