NHK

日本では国宝「桃鳩図」の作者として憧れの対象となった北宋の皇帝・徽宗。美術史に残る傑作を多く残したが、中国での評価は全く異なっている。水滸伝の英雄たちが世直しを求めた時代の皇帝が徽宗。その時代に北宋は滅亡。徽宗は美におぼれて政治をおろそかにした「亡国の天子」として蔑まれてきた。だが最近その実像に新しい光が当たりつつある。黄河畔の農村からは、徽宗の救貧対策の痕跡が発見された。

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  1. shinichi Post author

    水滸伝

    https://ja.wikipedia.org/wiki/水滸伝

    『水滸伝』(すいこでん)は、明代の中国で書かれた伝奇歴史小説の大作、「四大奇書」の一つ。

    施耐庵(あるいは羅貫中)が、それまでの講談(北宋の徽宗期に起こった反乱を題材とする物語)を集大成して創作されたとされる。なお、「滸」は「ほとり」の意味であり、『水滸伝』とは「水のほとりの物語」という意味である(「水のほとり」とは、本拠地である梁山泊を指す)。

    水滸伝の来歴

    水滸伝の物語は実話ではない。しかし14世紀の元代に編纂された歴史書『宋史』には、徽宗期の12世紀初めに宋江を首領とする三十六人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されている。講談師たちは12世紀中頃に始まる南宋の頃には早くも宋江反乱の史実をもとに物語を膨らませていったと推定され、13世紀頃に書かれた説話集『大宋宣和遺事』には、宋江以下三十六人の名前と彼らを主人公とする物語が掲載されている。

    15世紀頃にまとめられた水滸伝では、三十六人の豪傑は3倍の百八人に増やされた。また、荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改め、梁山泊は朝廷への忠誠心にあふれる宋江を首領とし、反乱軍でありながらも宋の朝廷に帰順し忠義をつくすことを理想とする集団と設定され、儒教道徳を兼ね備え知識人の読書にも耐えうる文学作品となった。とは言え、反乱軍を主人公とする水滸伝は儒教道徳を重んじる知識人にはあまり高く評価されず、もっぱら民衆の読む通俗小説として扱われた。その風潮の中で、明末の陽明学者で儒者の偽善を批判した李卓吾が水滸伝のような通俗小説を高く評価したことはよく知られている。同じ時期に農民反乱を扇動する作品であるとして禁止令が出されており、また清代には京劇の題材にとられ、108人が皇帝に従うという展開が西太后などに好まれた。

    中国共産党では、「投降主義」的であると見なされ、降伏経験のある幹部や原則主義的な立場から見て妥協的であるとされる幹部への間接的な批判として水滸伝批判が行われた。1975年の毛沢東の名による水滸伝批判では、宋江が前首領の晁蓋を棚上げして実権を握り、自ら首領となった挙句に朝廷に帰順したことが革命への裏切りであるとして非難され、批判的に読むための連環画形式のものも出版された。これは「四人組による周恩来批判であった」と後に解釈された。

    文化大革命が党によって全面批判された後は、このような政治的位置付けは行われなくなり、京劇の上演なども復活している。

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  2. shinichi Post author

    芸術を愛好した皇帝 北宋・徽宗の明と暗

    by 穆梅香

    http://www.epochtimes.jp/jp/2013/03/html/d80177.html

    中国歴代の皇帝は、その個人に初めから権威があったわけではない。つまり、権威の象徴は個人ではなく、あくまでも天から授かったとされる皇宮の玉座にある。その前提の上で、覇権争いの末、その玉座についた人物に対して、後天的に絶大な権威が与えられるのである。

     だからこそ皇帝たる人物は、自身がその地位にふさわしい権威を付与されるよう、努力しなければならない使命をもつ。そのような皇帝の使命という視点から、文人皇帝として名高い北宋・徽宗について考えてみる。

     尊敬される皇帝の条件

     具体的には、古代の聖賢がのこした万巻の書を読んで勉学に励み、儒教道徳に基づく理想的な文治政治を実践し、太平の世を実現して、天下万民の尊敬を集める賢帝になることである。賢帝とは、皇帝自らが中国伝統文化の保護者であり、また実践者であることを指す。

     それをなし遂げた代表的な皇帝が、唐の太宗(李世民)であろう。

     李世民は、唐王朝の創業者である父・李淵(高祖)をよく支え、隋末唐初の群雄割拠のころには、武将として有能な働きをみせた。唐の第2代皇帝に即位して太宗となった李世民は、側近の魏徴(ぎちょう)に「皇帝である自分に誤りがあれば遠慮なく諫言するように」と命じた。魏徴もそれに応じて、皇帝に間違いがあれば、憚ることなく厳しく諌めた。

     これにより善政を行った唐は大いに栄え、その元号をとって「貞観の治」と呼ばれる最盛期を迎えたことは周知の通りである。

     唐の創業から約300年下った10世紀。907年に唐が滅ぶと、約50年にわたって五代十国時代という戦乱の時代が続いた。これを平定して、960年に宋(北宋)を建てたのが宋の太祖・趙匡胤(ちょうきょういん)である。

     宋の太祖もまた、創業者として非凡の才能を発揮した。唐を滅ぼした原因の一つに、節度使の地方軍閥化がある。太祖はこれを教訓として、節度使の権力を抑える一方、科挙合格者の官僚任命権を皇帝のもとに集めて、文治政治の中央集権化を進めたのである。

     趣味人皇帝の悲劇

     こうして賢帝から始まった宋王朝だったが、北宋末期にでた第8代皇帝・徽宗(きそう)は、25年間も在位しながら、およそ皇帝の器ではない不向きな人物であった。

     ところが、政治面では全く無能だったこの徽宗には、芸術分野における宋代第一の文人という、もう一つの評価がある。

     確かに徽宗の作品は、世界的にも第一級の美術品と言われている。書の分野では痩金体という独特の書体を創出し、絵画では写実的で精密な院体画を確立した徽宗は、後世の人々から「風流天子」と称された。

     その称号は、称賛と揶揄のいずれにもとれるが、中国伝統文化という基準で採点するならば、徽宗は明らかに皇帝として不合格であろう。

     唐の玄宗が歌舞音曲を愛したように、皇帝が芸術を好む文人であること自体が悪いのではない。ただ、徽宗が没頭した芸術は、結局は自分の趣味であり、現実からの逃避的な愛好だった。つまり徽宗の趣味は、もとより天下万民ために役立てるべき中国伝統文化ではなかったのである。

     徽宗は、自らの贅沢のため民衆に重税を課すなど、悪政を繰り返した。また、北方の異民族が虎視眈々と中原の地を狙っているときに、自己の趣味のために南方から造園用の巨石や巨木を運ばせるなど、莫大な国力を浪費したことも災いした。

     1127年、金軍の前に開封は陥落し、北宋は滅ぶ。以後は、南方の臨安(杭州)に都を移し、南宋(1127~1279)として存続する。

     中国伝統文化の真髄

     中国伝統文化とは、皇帝から庶民に至るまで、また漢民族のみならず周辺の異民族まで正しく感化するような、大きく懐深い教育力をもつものである。ただし、それには先述したような必要条件がつく。皇帝自らが、中国伝統文化の保護者であり、また実践者であることだ。

     皇帝が、その使命に則して誠心誠意つとめるならば、唐の太宗や清の康熙帝のように、中国史上の名君として末代まで尊敬される。

     しかし、これに反すれば、暗愚の帝として、あるいは無教養の恐るべき暴君として、歴史は厳しい評価を下すであろう。その結論は、徽宗の例を見るまでもない。皇帝がいなくなった近代以後の中国においても、この原則は変わっていないのである。

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  3. shinichi Post author

    赵佶 (宋朝第八位皇帝)

    https://baike.baidu.com/item/赵佶/209510

    赵佶(1082.11.10—1135.06.05),即宋徽宗(1100年2月23日—1126年1月18日在位),宋神宗赵顼的第十一子、宋哲宗赵煦之弟,宋朝第八位皇帝。先后被封为遂宁王、端王。历任镇宁军节度使、司空、昭德军节度使等要职。

    宋哲宗于元符三年(1100年)正月病逝时无子,向太后于同月立赵佶为帝。第二年改年号为“建中靖国”。宋徽宗即位之后启用新法,在位初期颇有明君之气,后经蔡京等大臣的诱导,政治形势一落千丈,后来金国兵临城下,受李纲之言,匆匆禅让给太子赵桓,靖康之变后与长子钦宗赵桓被金人俘虏北去。金天会十三年(1135年),宋徽宗赵佶驾崩于五国城,时年54岁,绍兴十二年(1142年)三月,徽宗棺椁被迎回南宋,葬于都城绍兴永祐陵(今浙江省绍兴市柯桥区东南35里处)。

    赵佶在位25年,在太上皇位1年零2个月,赵佶善书画。他自创一种书法字体被后人称之为“瘦金体”,热爱画花鸟画自成“院体”。是古代少有的艺术天才与全才,被后世评为“宋徽宗诸事皆能,独不能为君耳!在位时信任蔡京、童贯、王黼等奸臣,败坏朝纲,使得北宋滑向灭亡的深渊,编写《宋史》的史官,也感慨地说如果当初章惇的意见被采纳,北宋也许是另一种结局。并还说如“宋不立徽宗,金虽强,何衅以伐宋哉”。

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