八巻和彦

 現代では,輸送技術と通信技術の驚異的な発達によって,誰でもが「自分の生きる世界」の拡大を実感せざるをえなくなっている。
 具体的に言えば,上述の労働市場の拡大に伴う自己の地位の不安定化の原因になっている事態であり,また,日々使用する食料や物資が遥か遠くの国から 運ばれてきたものであるという事態である。つまり自分の生を支える世界がやみくもに拡大しているという実感である。
 同じ理由によって,逆に自分が生まれ育った場所でさえも,将来にわたって自分の慣れ親しんだものとして存在し続けるという展望をもちにくくなっている,という事態も生じている。
 この両方の事態の結果としてわれわれは,あたかも一人の幼い子どもがいきなり広い舞台に連れ出されたような感覚をもつようになっている。つまり,自分の立ち位置が分からない不安と恐れである。
 そもそも人間は誰でも,自分なりの原点を確保し,それを基にして世界についての自分なりの座標を描くことで,安心して生活しているものである。しかし現代ではその座標が描きにくくなっている。広大な世界のなかで自分の居場所を確保できないだけではなく,自分の故郷(Heimat)に居てさえも故郷に居るような気がしない,つまり居心地の悪さ,不気味さ(unheimlich)を感じさせられることが多くなっているのである。つまり,われわれはいわば故郷を失った者として,根こぎされた者(dérasiné)として生きることを余儀なくされつつあると言うことができよう。
 この心理状態は,アイデンティティの喪失感という,より深刻な問題を惹起する可能性が強い。そして,この喪失感を埋めるために,「宗教復興」とか「スピリチュアリティ・ブーム」と称されるような現象が人々の間で生じているとみなせるだろう。

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