八巻和彦

 これまで述べてきたようなわれわれの生きている世界の状況によって,われわれはこれまでの人類が経験したことがないほどに頻繁に多種多様な〈なじみのないもの〉,〈異いなるもの〉(E.: strange; F.: étrange; D.: fremd)と遭遇せざるをえない。それは,人や物だけではなく,技術や情報,状況でもある。しかし人間は〈なじみのないもの〉に対しては,生命体としての自己保存本能から自ずと警戒感と恐れを抱き,場合によっては敵意さえも抱くことになる。それは,子どもに顕著であるが,大人であっても精神的に余裕のない状態にある場合には,あるいは自身を取り巻く状況を客観的にながめることができない人は,容易にそのような状態に陥る。これは人々に強い不安感を醸成し,ひいては社会全体を不安定にしかねない危険性をはらんでいる。
 なぜならば,その不安感はそれを解消(解決)するためのはけ口を身近かに存在する〈なじみのないもの・異なるもの〉に求めると共に,そうすることで逆に自己の存在を絶対的に肯定しようとするショーヴィニズムを容易に育むからである。
 この具体例を20世紀前半のヨーロッパに見出すことができる。当時,急速な資本主義社会化とそれを基礎で支える役割を果たした近代の科学・技術の荒波にもまれたヨーロッパの人々は,自分たちの不安感と苦境の原因を身近に存在する〈異なるもの〉としてのユダヤ人になすりつけて,彼らを社会から排除するばかりか抹殺しようとさえしたのである。これは,E.フロムが有名な著作『自由からの逃走』において活写している通りである。
 そして現代欧米では,その市民が抱く不安感と直面する苦境の原因がどこに求められようとしているのだろうか。自己の社会内に暮らしているイスラーム教徒(ムスリーム)に対して,そのような悪意と疑いの眼差しが向けられてい るのではないだろうか──自分たちの社会の必要性によって招き入れたムスリームなのであるにもかかわらず。また,東アジアの日本と韓国と中国では,相互に相手をそのように見立てようとしているのではないだろうか──広く視野を取れば,お互いに文化的には極めて近いことが容易に見出せるにも関わらず。
 いずれにしても,プリミティヴな防御反応に過ぎないのであるが,あなどることのできない危険性をはらむ心理状況である。

One thought on “八巻和彦

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *