吉野弘

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

4 thoughts on “吉野弘

  1. shinichi Post author

    祝婚歌

    二人が睦まじくいるためには
    愚かでいるほうがいい
    立派すぎないほうがいい
    立派すぎることは
    長持ちしないことだと気付いているほうがいい
    完璧をめざさないほうがいい
    完璧なんて不自然なことだと
    うそぶいているほうがいい
    二人のうちどちらかが
    ふざけているほうがいい
    ずっこけているほうがいい
    互いに非難することがあっても
    非難できる資格が自分にあったかどうか
    あとで
    疑わしくなるほうがいい
    正しいことを言うときは
    少しひかえめにするほうがいい
    正しいことを言うときは
    相手を傷つけやすいものだと
    気付いているほうがいい
    立派でありたいとか
    正しくありたいとかいう
    無理な緊張には
    色目を使わず
    ゆったり ゆたかに
    光を浴びているほうがいい
    健康で 風に吹かれながら
    生きていることのなつかしさに
    ふと 胸が熱くなる
    そんな日があってもいい
    そして
    なぜ胸が熱くなるのか
    黙っていても
    二人にはわかるのであってほしい

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  2. shinichi Post author

    夕焼け

    いつものことだが
    電車は満員だった。
    そして
    いつものことだが
    若者と娘が腰をおろし
    としよりが立っていた。
    うつむいていた娘が立って
    としよりに席をゆずった。
    そそくさととしよりが坐った。
    礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。 
    娘は坐った。
    別のとしよりが娘の前に
    横あいから押されてきた。
    娘はうつむいた。
    しかし
    又立って
    席を
    そのとしよりにゆずった。
    としよりは次の駅で礼を言って降りた。
    娘は坐った。
    二度あることは と言う通り
    別のとしよりが娘の前に
    押し出された。
    可哀想に
    娘はうつむいて
    そして今度は席を立たなかった。
    次の駅も
    次の駅も
    下唇をキュッと噛んで
    身体をこわばらせて—–。
    僕は電車を降りた。
    固くなってうつむいて
    娘はどこまで行ったろう。
    やさしい心の持主は
    いつでもどこでも
    われにもあらず受難者となる。
    何故って
    やさしい心の持主は
    他人のつらさを自分のつらさのように
    感じるから。
    やさしい心に責められながら
    娘はどこまでゆけるだろう。
    下唇を噛んで
    つらい気持で
    美しい夕焼けも見ないで。

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  3. shinichi Post author

    奈々子に

    赤い林檎の頬をして
    眠っている 奈々子

    お前のお母さんの頬の赤さは
    そっくり
    奈々子の頬にいってしまって
    ひところのお母さんの
    つややかな頬は少し青ざめた
    お父さんにもちょっと
    酸っぱい思いがふえた

    唐突だが
    奈々子
    お父さんは お前に
    多くを期待しないだろう
    ひとが
    ほかからの期待に応えようとして
    どんなに
    自分を駄目にしてしまうか
    お父さんは
    はっきり
    知ってしまったから

    お父さんが
    お前にあげたいものは
    健康と
    自分を愛する心だ

    ひとが
    ひとでなくなるのは
    自分を愛することをやめるときだ

    自分を愛することをやめるとき
    ひとは
    他人を愛することをやめ
    世界を見失ってしまう

    自分があるとき
    他人があり
    世界がある

    お父さんにも
    お母さんにも
    酸っぱい苦労が増えた
    苦労は
    今は
    お前にあげられない

    お前にあげたいものは
    香りのよい健康と
    かちとるにむづかしく
    はぐくむにむづかしい
    自分を愛する心だ

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