柴本幸

私にとって言葉を綴るという行為は、生きる上でなくてはならないものです。「文字」というツールを使うからこそ、生まれる世界があり、そこにしかない自由があります。
例えばあまりにあまりにあまりに、あまりに美しい朝焼けを見たとする。思わずカメラにはおさめるものの、その場で瞬時に言葉にするのは正直難しい。だから胸に湧き上がる感情をできるだけ体で覚えておいて、イメージを足してみる。
或いは、いくつもの感情が蠢いて、どこにもぶつけることができないでいる時。取捨選択せず、片っ端から文字にして、静かに眺めてみる。すると不思議なことに、カゴの中のものを1つ1つ風呂敷に拡げるように、丁寧に取り上げるだけで、嫌だ嫌だと逃げていた感情と、素直に向き合えたりする。
人は言葉によって傷つき、言葉によって救われます。上澄みを取り去って出てきた真実を伝えたからと言って、人との距離が縮まるとは限らない。受け手がどう取るのか誰にもわからないからこそ、無限の可能性が拡がる。それが言葉の面白さです。
言葉の綾、とはよく言ったもので、名言と呼ばれるようなキラキラとした一文に、救い難い影が潜んでいることもあれば、一見暗くみえる言葉の羅列に、強い希望の光が宿っていることもある。その真意を汲み取り、体にしっかりと染み込ませた上で、私にしか紡ぐことのできない言葉を発信していきたい。それが3ヶ国語でできるようになればと思うけれど、あまり焦らずにね。

One thought on “柴本幸

  1. shinichi Post author

    言葉というものとの付き合い方

    by 柴本幸

    柴本幸オフィシャルブログ

    https://ameblo.jp/yukishibamoto/page-3.html

    この間初めてお会いした方に、あなたの文章好きでよく読んでたのに、最近ブログの更新がなくて残念、というお言葉を頂きました。

    だいぶ年配の方だったのですが、そんな風に読んでくださっていたなんて、とても嬉しくて。せっかくなので、今「言葉」について感じていることを、書いてみることにします。

    私にとって言葉を綴るという行為は、生きる上でなくてはならないものです。「文字」というツールを使うからこそ、生まれる世界があり、そこにしかない自由があります。

    今年の始めにインスタグラムを始めて、1つの内容を3つの言葉で伝えるにはどうすべきかと試行錯誤してきましたが、心の整理をしたり、自由に言葉の世界を飛び回ることができるのは、日本語であることに変わりありません。

    例えばあまりにあまりにあまりに、あまりに美しい朝焼けを見たとする。思わずカメラにはおさめるものの、その場で瞬時に言葉にするのは正直難しい。だから胸に湧き上がる感情をできるだけ体で覚えておいて、イメージを足してみる。モネの朝焼けの絵。朝露に濡れた樹々の香り。そして言葉に置き換えてみる。「朝露を含む葉一枚一枚に、木漏れ日が真紅のまだらを散らし、大輪の花が揺れているように見えた。」もう少しいいのがありそうだけれど、その楽しみ方は人それぞれ。

    或いは、いくつもの感情が蠢いて、どこにもぶつけることができないでいる時。取捨選択せず、片っ端から文字にして、静かに眺めてみる。すると不思議なことに、カゴの中のものを1つ1つ風呂敷に拡げるように、丁寧に取り上げるだけで、嫌だ嫌だと逃げていた感情と、素直に向き合えたりする。これはどちらかというと、言葉遊びというより、自己分析に近いのかもしれませんね。

    私の中で、口語としての日本語と、文章としての日本語には大きくズレがあります。口に出すときの躊躇や選び癖を考えると、文章の方がある意味自由かもしれない。苦しい状況を文字に置き換えて、まっすぐにぶつかりすぎる自分を、うまく逃がす術も身につけました。これは多かれ少なかれ誰もがやっていることでしょう。

    人は言葉によって傷つき、言葉によって救われます。上澄みを取り去って出てきた真実を伝えたからと言って、人との距離が縮まるとは限らない。勇気を持って直球を投げたことで、大事な人に去られてしまった経験は皆さん身に覚えがあるでしょう。渾身の思いで紡いだ優しさが一番の凶器になることもあれば、意図せず投げた小さな一言が、誰かの人生を大きく変えることもあります。受け手がどう取るのか誰にもわからないからこそ、無限の可能性が拡がる。それが言葉の面白さです。

    だからこそ、口語としても、文字としても、言葉というものと、逃げることなく、もっともっと深く向き合っていきたいのです。直球を投げることを恐れず、変化球を増やすことに貪欲でいたい。対人、対自分、どちらも自由自在に動かすなんて不可能だけれど、多くの失敗を繰り返して、それを糧に日々生きていけばいい。

    そのためにも、まずは自分の心の芯を鍛えたい。言葉の表面上の煌めきに酔ったり、騙されることのないように、さらに強く、太くしなやかに。言葉の綾、とはよく言ったもので、名言と呼ばれるようなキラキラとした一文に、救い難い影が潜んでいることもあれば、一見暗くみえる言葉の羅列に、強い希望の光が宿っていることもある。その真意を汲み取り、体にしっかりと染み込ませた上で、私にしか紡ぐことのできない言葉を発信していきたい。それが3ヶ国語でできるようになればと思うけれど、あまり焦らずにね。

    今私は、母国語である日本語があるからこそ、異国の地に、異国の言語に身を投じることができます。その幸せに感謝して、言葉というものに貪欲に挑む日々でありたいと思います。

    長々お付き合い頂きありがとうございました。

    また機会があったら、日々思うことをこちらに書きますね。

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