自然は自らの美しさを知らないから美しく、奥ゆかしい。
その美しいという感覚は、愛がなければ持つことができません。
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どんな命も、愛するからこそ美しいと思うんです。
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美しいものに出会うと気持ちは今でもドキドキします。
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自然は美しいから美しいのではなく、愛するから美しいのです。
自然は自らの美しさを知らないから美しく、奥ゆかしい。
その美しいという感覚は、愛がなければ持つことができません。
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どんな命も、愛するからこそ美しいと思うんです。
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美しいものに出会うと気持ちは今でもドキドキします。
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自然は美しいから美しいのではなく、愛するから美しいのです。
スペシャル対談~藤本裕子が各界トップに迫る
画家 熊田千佳慕さん
http://www.30ans.com/specialtalk/backnumber/200806.html
花と語り、虫と遊び、絵を描いて暮らす
「みつばちマーヤの冒険」や「ファーブル昆虫記」など、色彩豊かで緻密な昆虫や花の作品を数多く制作し、生物画家としてその世界を確立している熊田千佳慕さん。「日本のプチ・ファーブル」と異名をとり、97歳の今も毎日、虫や花と遊び、筆を握っている。小さな命に語りかけるやさしい眼は、限りなく澄んでいた。
ライフワークである
「ファーブル昆虫記」の制作は、命続く限り
藤本 『ヴィサン』では長い間、連載でお世話になりました。今日は読者のリクエストもあって、おじゃましました。よろしくお願いします。
熊田 創刊時から描いていましたからね。当時、横浜の高島屋で個展を開いたのですが、そのときは、たくさんの人が見に来てくださってね。
藤本 近々の個展のご予定はありますか。
熊田 来年は高島屋を起点に全国を回ります。最後は銀座の松屋です。
藤本 読者の皆さんも、喜んで足を運ばれると思いますよ。先生は絵をお描きになって、何年になりますか。
熊田 幼稚園の頃からなので、90年以上。ずっと続けてきたことだけが誇りです。ぼくから「描くこと」を取ってしまったら、何も残りません。今も毎日描いているし、一生、絵を描き続けたいと思っています。
藤本
「ファーブル昆虫記」のシリーズを描いていらっしゃるそうですね。
熊田
実際の「ファーブル昆虫記」の中から100匹の虫を選び、描いていますが、今やっと60枚が完成したところです。あと40枚もあるから、のんびりはしていられません。
藤本
一枚の絵を描くのに、どのくらいの時間がかかるのですか。
熊田
年に3枚ですね。80歳になって、それまで全然見えなかったものがどんどん見えるようになってきたんです。70歳のときはツルツルの葉っぱを描いていましたが、よく見たら凸凹があることがわかったんです。虫の羽根にも凹凸や模様がある。それを細かく描き始めたら、とんでもなく時間がかかってしまって。
80歳を過ぎて、どんどん
目がよくなってきたんです
藤本 視力は大丈夫ですか。
熊田 耳もよく聞こえるし、眼鏡をかけることもありません。きっと神様が、もう先がないから、もっとよく見ろって言っているんでしょね。
藤本 ごほうびかもしれませんね。
熊田 見るのではなく、見つめて、見極めるということを、神様が教えてくださった。だから、この目を通して描いた絵は、神様へのレポートだと思っています。
藤本 描いた絵は、絶対に売らないそうですね。
熊田 お金儲けではありませんから、そんなことをしたら罰が当たる。毎日が発見で、楽しくてたまりません。
藤本 先生にとって、絵を描く意味って何でしょう。
熊田 命や自然の大切さを子どもたちに伝えたい。そしてお母さんたちにも知ってもらいたい。原画展に来た外国人は必ずこう言うんです。
藤本 実は正直言いますと、私は虫が苦手なほうで…。娘たちもしっかり親を見て育ち、虫が苦手になってしまっています。でも先生とお会いし虫の絵を見て、今までにない不思議な感じがするんです。孫には、ぜひこの感じ方を伝えたいと思います。
熊田 どの虫も懸命に生きています。その健気さ、かわいいもんですよ。
藤本 先生が描かれる虫は、とてもやさしい目をしていますね。
熊田 目は必ず、最後に描くんです。虫になって無心に描く。
藤本 単なるリアリズムではなく、ファンタジーのようなものを感じるんです。それが、多くの人を惹きつけるのではないでしょうか。
熊田 「ファーブル昆虫記」に、ガマガエルがオサムシを食べようと睨んでいる絵があるんです。このときは、自分が食べられてしまうような気がして、おそろしくて途中で絵が描けなくなってしまったんです。悩んだ結果、そこに、実際は出てくるはずのないミツバチを飛ばしたんです。一瞬だけ、ガマガエルが目を離す。
藤本 その隙に逃げて命拾いをする。
熊田 虫が生きていくのは大変です。このときもう完全に、私はオサムシになっていた。初めて思いました。「私は虫である。虫は私である」と。
藤本 虫になってこそ、伝えられる命のメッセージなのでしょうね。虫も一生懸命に生き、その役目をこなしている。そんなことに気づきます。
熊田 自然は美しいから美しいのではなく、愛するから美しいのです。
藤本 そんな風に思うようになったのは、いつ頃のことですか。
熊田 70歳を過ぎてからでしょうね。
藤本 イタリア・ボローニャの国際絵本原画展で入賞された頃ですね。
熊田 出版社が勝手に展覧会に出してしまってね。それまでぼくの絵に見向きもしなかった人たちが、外国で評価されたら掌を返したようになって。あのときは癪に障りましたね。
藤本 本当にいいものをわかる人が少ない世の中ですね。
熊田 人間に感性がなくなってしまったんですね。今、一番悲しいのは、子どもたちにどんどん自然に対する感性がなくなってきていることです。ある幼稚園では、子どもが草むらに入ると先生が怒るんだそうですよ。
藤本 子どもたちが、自然を知らずに大人になってしまう…。
熊田 こんな都会にも自然はたくさんあります。ちょっと窓を開ければ、アウトドアですよ。
藤本 虫の声も聞こえるし、鉢植えのお花にはハチがいっぱい!
心と体で感じることが大事
熊田 小さい子には、体でそういう自然を感じる力があります。
藤本 孫が2歳のときに、一緒にベランダの花の水遣りをしていたら、「お花がおいしいおいしいって言ってるね」と言うんです。誰もそんな風に教えていないのに。
熊田 感じることが大切なんです。お母さんたちが、教えたり、押し付けたりしてはダメなんです。
藤本 先生は、どんな子ども時代を過ごされましたか。
熊田 体が弱くて、「10歳まで持たないだろう」と言われていました。ですから、家の庭で花や虫たちと遊んで過ごすことが多かったですね。父は勉強の「べ」の字も言わず、ぼくが虫と遊んだり、絵を描いていたりしたら笑顔でした。小学校3年生のときに、初めて「ファーブル昆虫記」を見せてくれたのも父でした。
藤本 お医者様だそうですね。
熊田 父はドイツで医学を学び、帰国後、横浜で開業医をしていました。家には西洋のものがたくさんあり、「ヨーロッパにはこんな本もあるよ」と見せられたのです。驚いたと同時に、「将来、絶対にこの虫たちの絵を描きたい」と、ぼくの「夢」になったのです。一日中花や虫たちと遊んでいても、偉い先生になれるんだと。
藤本 出会うべくして出会ったというのでしょう。
熊田 幼稚園のときの話です。ぼくは園庭の藤の花に飛んできたクマンバチの背中を触りたくて、ピョンピョンと飛び跳ねていたんです。黄色のビロードのような毛に触れてみたかった。今ならすぐ「危ないからやめなさい」と言われそうですが、園長先生はじっと見守ってくれました。そしてようやく、ぼくがクマンバチの背中に触れたその瞬間、「ゴロちゃん(本名は五郎)、よかったね」と一緒に喜び、ほめてくださったのです。
藤本 初めて小さな命を感じた瞬間。指先に感じたその何かが、今の熊田さんをつくったともいえるでしょう。
小さなものたちに生かされているんです
熊田 幼稚園では大好きな絵をずっと描いていることができたけれど、小学校ではそうもいかず、学校がイヤでなかなか馴染めなかった。教室の隅っこで黙々と絵を描いていると友だちが寄ってきて「わぁ、上手な絵。ぼくにも描いて」と言い出しました。そしたらあっという間にズラーッと列ができてしまったんです。忘れもしない「こいのぼり」の絵です。
藤本 みんなが欲しがるなんて、どれほどお上手だったのでしょう。
熊田 普通は地面の上に家が建っていて、その脇にポールが立っていてこいのぼりが泳いでいる。でもぼくは、屋根とこいのぼりだけを描きました。みんなに「スゴイ!」と言われ、輪の中に入れてもらえたんです。
藤本 五郎少年の画家への夢は、途中で消えることはなかったんですか。
熊田 上級になると体も丈夫になり、野球を覚えました。大好きな野球で食べていけるならと、中日ドラゴンズの前身である「金鯱軍」に籍を入れたんです。そしたら1週間目に父に見つかり、「おまえは絵を描いていればいい」と連れ戻されました。
藤本 お父様は、才能を見抜いていらっしゃったのかもしれませんね。その後は、どうなさったのですか。
熊田 神奈川県立工業高校の図案科を卒業、東京美術学校(現・東京藝術大学)在籍中に日本工房に入社し、化粧品の広告をつくったり、外国向けのグラフ誌「NIPPON」のレイアウトを担当したりしました。
藤本 日本工房という会社は、商業美術のはしりだそうですね。
熊田 当時の仕事はすべて今に生きていますが、商業主義に疑問を感じていたことも事実です。終戦後に勤めた会社でも化粧品のポスターなどを担当。一方で挿絵の仕事も続けていましたが、原色を使った派手な絵に辟易し、「こんなもの、子どもに見せるものではない。絵本が嘘を教えてはダメだ」とついに会社を辞めて、絵本作家になることにしたんです。
藤本 その頃はもう、ご家庭を持っていらっしゃったんですか。
熊田 ええ。家内には相談せずに決めました。その後は営業もしないので、貧乏の連続。家族には苦労をさせました。70歳で認められましたが、いまだに貧乏生活は変わりません。
藤本 何が幸せかといえば、好きなことをやり続けられること。それに、先生の絵は、子どもから大人まで、たくさんの人を幸せにしています。
熊田 ありがたいことに「余命いくばくもない」という人が展覧会に来て、「元気をいただきました」と涙を流しながら話すんです。その人は今もピンピンして活躍しています(笑)。
藤本 先生の絵から、生きるエネルギーというか、魂をいただくのかもしれませんね。
熊田 そんな話を聞くと、うれしくなりますね。楽しみにしていてくださる人がいるから、命続く限り。ですからぼくには、老後はありません。
藤本 来年の企画もありますので、ますますお元気でいてくださいね。何か健康法があれば教えてください。
熊田 特別なことは何もしていません。強いていえば、輪切りにしたレモンを顔にのせ、ビタンビタンと、こうやって思いきりはたくんです。
藤本 ああ、先生、痛い痛い!
熊田 これくらいやらないとダメなんです。でも時々、頭がクラクラしちゃう(笑)。それともうひとつ大切なのは「ときめき」です。ぼくの場合は、描かなくなったらおしまいだ。小さなものたちを愛おしみ、生かされているようなものです。
藤本 今日は楽しいお話をありがとうございました。これからもずっと、描き続けてくださいね。虫のお友だちにも、よろしくお伝えください。
対談を終えて
千佳慕という名にしたのは39歳のとき。ファンから手紙が届いたという。「五郎という名前でいたら、命を落とします。千人の佳人に慕われるように『千佳慕』という名にしなさい」。しかも、「改名したら3か月後には効果があらわれ、3年後には財宝を手に入れることができる」とあった。半信半疑だが、極貧生活から抜け出したいと改名。3か月後を心待ちにしたが、待つだけで結果があるわけがない。「なんだ、いんちきだったのか」と思ったが、「3年後」に期待し、そのまま今に至る。今ではすっかりその名が定着し、むしろ「五郎さん」に違和感すら覚える。が、「親からもらった名前。感謝してサインには『g 』の字を入れている」という。
熊田千佳慕の言葉 私は虫である
命が生まれてきた根はみんな一緒。どんな命も、愛するからこそ美しいと思うんです。98歳まで現役で、虫や花を愛し描き続けた細密画家。“プチ・ファーブル”と呼ばれた著者が遺した未発表「語録ノート」を中心に、珠玉のメッセージを多数掲載。
『熊田千佳慕の言葉 私は虫である』
https://yuki-wan.at.webry.info/201008/article_22.html
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暮らす――流れのままに
仕 事――手を通して伝わるもの
道 ――ひたすらに描く
自 然――無心の美しさ
虫たち――小さな命
いのち――愛するから美しい
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わざわざ休日を作ったり、遊びの時間を作ったりすることが 《ゆとり》 であると思うのは大きな間違いである。
生活の中の小さなゆとり。
身のまわりにあるものに愛を感じ、美しさを感じ楽しいひとときを持ち、生活の中に豊かな感性を持つことが本当のゆとりである。
現在騒がれている学校や社会のゆとりは、只、単なる休む時間であり遊ぶ時間である。精神的なものを伴っていない。
古来日本人は花鳥風月を愛する心を持ち、豊かな感性を持った生活をしていたのである。そこに本当のゆとりがあったのである。
ゆとりとは作るべきものでなく、自ずからできるものである。
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今も現役だから、僕には老後がない。
大体、年齢なんて人間が作ったもの。
僕は数字が大嫌いなんですよ(笑)。
ときめかなくなっちゃったら、おしまい。
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それにしても、幼少の頃、父に教えられた「足るを知る」という言葉が、これほど身にしみる生活をすることになるとは、思ってもみませんでした。
世間的な見栄を捨て、とことんビンボーズの生活に入ると、それまでいかに無駄が多かったかが見えてきて、逆に気持ちが楽になりました。
無駄な贅肉が取れ、すっきりしましたが、それに馴れるまでは、やはり大変でした。
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ボロ家で地震や台風に怯(おび)え、つぎはぎだらけの衣服を身にまとい、ささやかな食事をいただく生活をしながらも、いざ外出する時には、兄のおさがりや妻がバーゲンで見つけてくれたスーツを、横浜ハイカラ風に颯爽(さっそう)と着こなし、ダンディーな紳士になりきりました。これぞ、ビンボーズの美学といえましょう。
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忍耐はつらいがその実(み)は甘い。
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小川に流れる木の葉みたいに、流れて生きる。
他力で活かされていると思うと楽ですよ。
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さあ、これからはサラリーは入らず、原稿料だけの作家生活。
せっかく、立ち直りかけた家計もあやうくなり、いよいよ、本格的なビンボーズ時代の到来となりました。
僕はこの年を、「ビンボーズ元年」と名づけています。
「ビンボー」ではなく、「ビンボーズ」とするのは、ビンボーがひとつではなく、いっぱいあるから。
それに、「ズ」をつけると、野球チームみたいで、楽しくなります。
貧乏というと、暗く悲しいイメージがありますが、こんなことを言うだけで、すこしでも明るく暮らしていけるのなら、それにこしたことはありません。
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僕の人生は、七十歳がルネッサンスで、花開いた。
それまでは泥水の中にいるような人生(笑)。
八十代の時は、もう本当に青春でした。
でも普通、その歳を過ぎたら、いつ死んでもおかしくありませんから、見落としたものがあったら大変だと、もう一度よく庭を見直してみた。
そうしたら、花びらとか葉っぱの上にある見えないものが見えてきて、僕の絵が細かくなったんです。
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うそやごまかしがないように描くのは、
小さな人たちに見てもらうため。
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僕の絵は、非常に細かい絵ですから、ひとつの作品を仕上げるのに、とても時間がかかります。たとえば、これを時給に換算したら、ほんのわずかな額にしかならないでしょう。
しかし、物がよく見える目と、筆先で細かく描く画法は、神様からいただいた大切な宝物。だから、どうしたってビンボーズになる。これはもう、宿命なのです。
僕にとって、絵を描くということは、神様に与えられた道を歩き続けること。すなわち、生きることにほかなりません。お金云々は二の次の話。
しかしそうは言っても、一家が食べていくのに、お金は必要です。だから家内には、本当に苦労のかけっぱなし。ただ、家内からはいつも、うちはビンボーだけれども、暗くじめじめしたところがまったくない、と言われます。それが、せめてもの救いです。
ビンボーズは宿命ですが、心は思い切りハイカラに、これからも生きていこうと思います。
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望みはない。
望みを持つと打算につながるから、
僕はひたすらに、
ひたすらに描く
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神と言うのは、他に言葉がないから言っているのであって、
物質を支配している自然の大きな力のことです。
植物とか昆虫とか描いていると、そういうものを感じるんです。
僕は、八十年以上、この仕事を続けていますが、
僕にとって、この仕事は、神様へのレポートなんですよ。
地球という惑星は、こういうところです、と。
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あせっても春は来ないし
忘れていても春は来る
自然はきわめて自然である。
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虫や花たちは今日を悔やんだり、明日を思い悩んだりせず、今この瞬間だけを懸命に生きています。
その生涯を精一杯まっとうしようと、最後まで命を燃やし続けるのです。
そのことに気がついたら、花や葉が枯れ落ちて土に還っていく姿まで美しいと感じるようになりました。
自然は自らの美しさを知らないから美しく、奥ゆかしい。
その美しいという感覚は、愛がなければ持つことができません。
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年輪というと語弊があるけれど、生まれつきの枯れ葉なんてないわけですよ。
歴史があるんだね、枯葉に至る。
緑の葉が少しずつ衰えて、最後は土に還る。
キザな表現かもしれないけど、あいつにだって青春があった。
そんな思いを込めて、よおく観察すると、茶色の奥に薄い緑が見える。
最後の命を燃やしているんですね。
《おれと同じだな》 そう思うと、よけいに愛おしくなる。
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害虫と言って人は駆除しようとするけれど、
神様がそういうふうにその虫を作られたわけでしょ。
生まれた時からお前の食べるものは、なすだきゅうりだと教えられて、だからそればかり食べている。
虫にしたらそれがどうして悪いのかわからないですよ。
人間のエゴでしょ。
生まれた時から害虫なんて言われたら、全くかわいそう。
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虫と同じ目の高さにならないと、彼らの本当の姿は見えない。
だから僕は腹這いになる。
そうやって気づいたんです。虫は僕であり、僕は虫であると。
人間様がいちばん偉いような顔をしているけれど、虫から見れば、所詮は同じ生き物。動物でも植物でも、根は一緒です。
この地球の上で共生している存在であり、お互い大切な仲間なんです。
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命が生まれてきた根はみんな一緒。
今は、もう、ゴキブリでも可愛くて仕方ない。
パン屑まきながら、「寒い冬を一緒に越せたね」と話しかけているんです。
どんな命も、愛するからこそ美しいと思うんです。
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人間も虫や花と同じ生き物としての仲間です。
命も重さも同じです。
最近、身のまわりのささいなことから愛を感じる心を忘れてしまい、悲しい事件が増えているように感じます。
いつの間にかなくしてしまった、愛を感じる心を気づかせてくれるのが小さな命たちです。
人々がそのころに気づいてくれたら、もっと素敵な世の中になるのではないでしょうか。
微力ながらそんな思いも抱きながら、私は絵を描いています。
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人間は歳とったり、成功したりすると、
「何とかは何とかでなくちゃいけない」と覚えたい。
だけど、僕は今も何もわからないまま、今も結論が出ていない。
だから生きるんでしょ。
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今月、私は九十八歳となりました。
人生の秋深いところに住んでいますが、心の中には、いつも春風が吹いています。
このギャップをうまく中和しながら生きていくことが、この年代の過ごし方であると知りました。
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自分の体が思うように動かず、イライラすることもあります。
そんな時でも、美しいものに出会うと気持ちは今でもドキドキします。
もしかしたら、年齢を重ねるほどに、この 《ときめく心》 は大切なものだと言えるかもしれませんね。
熊田五郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/熊田五郎
熊田 五郎(くまだ ごろう、1911年(明治44年)7月21日 – 2009年(平成21年)8月13日)は、日本のグラフィックデザイナー、絵本画家、挿絵画家、童画家。絵本画家としては、熊田 千佳慕(くまだ ちかぼ)というペンネームを用いていた。
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1911年(明治44年)7月21日、現在の横浜市中区住吉町に生まれる。父・熊田源太郎は耳鼻科医、長兄・精華は開港派の詩人。横浜市立尋常小学校、鶴見町立鶴見小学校を経て、神奈川県立工業学校図案科に進学する。1929年(昭和4年)には東京美術学校鋳造科に入学。1933年(昭和8年)には兄・精華の親友であった山名文夫に正式に師事する。そのつてで翌年、名取洋之助の日本工房(第2次)に入社。
グラフ誌『NIPPON』のグラフィックデザイン、レイアウト等を、山名とともに担当する。山名が日本工房を退社(資生堂に復帰)した1936年(昭和11年)以降は、東京高等工芸学校出身の藤本東五とともに『NIPPON』誌制作に携わった。表紙こそ1936年の『NIPPON』日本語版(1936年12月)と11号(1937年5月)の2号のみであるが、1936年から1937年の2年間は土門拳とコンビを組んで『NIPPON』のほとんどのレイアウトを手がけている。土門の出世作となった『NIPPON』8号の「伊豆の週末」、9号の「日本の水兵」などは、いずれも熊田のレイアウトの代表作でもある。
1937年(昭和12年)10月以降、日本工房は河野鷹思・亀倉雄策らが本格的にデザインに加わり、熊田は折り本『日本』の制作を自宅で手がけるようになる。しかし、完成を見た翌年3月頃よりのちは体調を崩し、以降、日本工房の仕事はあまり行わなかった。1939年(昭和14年)末には日本工房を退社。1943年(昭和18年)には神奈川県立工業学校の同級生であった高橋錦吉の薦めで日本写真工芸社に入社している。
なお、近年広く知られるようになった早稲田大学の1936年度と1937年度の卒業アルバムも、写真が土門、レイアウトが熊田によるもので、日本工房の平和な時代を象徴するとともに、土門と熊田の親しい関係を示すものとして興味深い(朝日新聞2006年3月28日および朝日新聞〈夕刊〉2006年5月29日参照)。早稲田以外にも、日本工房では1936年と1937年に東京女子高等師範学校(現・お茶の水大学)と慶應義塾大学の卒業アルバムが作られたようであるが、現物が確認できるものは少ない。
第二次世界大戦後は、1949年(昭和24年)のカネボウ退社ののち、挿絵や絵本のための画家に転身して活躍する。花や昆虫といった自然界を対象とした作品が多く、ジャン・アンリ・ファーブルの『昆虫記』をテーマにした『ファーブル昆虫記』などが代表作である。70歳となった1981年(昭和56年)には、絵本の国際展として名高い、イタリアはボローニャの国際絵本展に招待出品し、以後、国際的な評価も確立する。1989年(平成元年)には小学館絵画賞(第38回)、1996年(平成8年)には神奈川県文化賞を受賞。
2009年(平成21年)8月13日未明に誤嚥性肺炎のため横浜市の自宅で死去した。享年98。
熊田すぎ子