鳥越恵治郎

「国家」とは、自由をはじめ国民のもつあらゆる天賦の基本生存条件のみならず、個人の資質そして個人の努力により取得した精神的・肉体的・物質的資産あるいはその潜在能力を強権的に搾取・没収し、もって強固不変の「国家体制」を維持することを根源的究極的目的とする「国民に対する暴力装置」にほかならない。日本と言う国はその典型的な一例である。

27 thoughts on “鳥越恵治郎

  1. shinichi Post author

    第37話: USA第51州の実態

    【日本という怪しいシステムに関する一見解】

    by 鳥越恵治郎

    これが正論だ!!

    井原医師会

    http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

    筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。一体それはどこから来るのだろうか?。小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。

    そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、操作)をもって国民を飼い馴らしている。いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。

    まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。

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  2. shinichi Post author

    第37話:USA第51州の実態

    【日本という怪しいシステムに関する一見解】

    by鳥越恵治郎

    http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

    ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。一体それはどこから来るのだろうか?。小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、操作)をもって国民を飼い馴らしている。いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。(『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)

    ※日本の「戦争被害受忍論」(最高裁判所昭和62年6月26日第二小法廷判決)戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところ(戦争受忍義務)であって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところというべきである。(奥田博子氏著『原爆の記憶』、慶應義塾大学出版会、p.73)

    ※昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。記者:「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」。天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)

    ※「日本」何と言う不思議な国であろう。歴史的結果としての日本は、世界のなかできわだった異国というべき国だった。国際社会や一国が置かれた環境など、いっさい顧慮しない伝統をもち、さらには、外国を顧慮しないということが正義であるというまでにいびつになっている。外国を顧慮することは、腰抜けであり、ときには国を売った者としてしか見られない。その点、ロシアのほうが、まだしも物の常識とただの人情が政治の世界に通用する社会であった。(司馬遼太郎氏著『菜の花の沖<六>』より引用)

    ※この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望がない。(村上龍氏著『希望の国のエクソダス』より引用)

    ※国家の詐術を鶴見さんは、アメリカによる原爆投下にみる。

    「原爆はなぜ落とされたか。それも二つも。公式にはアメりカ兵の被害を少なくするためとされている。しかし、それはウソだ。当時の日本に連合艦隊はなく、兵器を作る工場もない。米軍幹部は大統領に原爆投下の必要はないと進言もしていた」投下の主な理由は二つあるという。「一つは、原爆開発の膨大な予算を出した議会に対し、原爆の効果を示したかったから。つまりカネのためなんだ。そして2個の原爆は種類が異なっていた。二つとも落として科学的に確かめようというのが第2の理由。人間のつくる科学には残虐性が含まれているんだ」。このウソをアメリカ政府はいつまでつき続けるのか、と鶴見さんは問う。「アメリカという国家がなくなるまででしょう」。いちどきに何十万もの人を殺す原爆ができて、国家はより有害なものになった、という。「日本はそのことにいまだに気づかず、世界一の金持国である米国の懐に抱かれてしまい、安心しちゃっている。すさまじいことですよ」。(『戦後60年を生きる鶴見俊輔の心』朝日新聞朝刊2005年11月25日号p.21)

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    【この国の戦争とは】

    <幸徳秋水の非戦論>日清戦争は仁義の師だとか、膺懲の軍だとか、よほど立派な名義であった。しかもこれがために我国民は何ほどの利益恩沢に浴したのであるか、数千の無邪気なる百姓の子、労働者の子は、命を鋒鏑(刀と矢、武器)に落として、多くの子を失うの父母、夫を失うの妻を生じて、しかして齏(もたら)しえたり、伊藤博文の大勲位侯爵、陸軍将校の腐敗、御用商人の暴富である。(『日本人』第192号。190.3.8.5)(山室信一氏著『憲法9条の思想水脈』朝日新聞出版、pp.148-149)

    <日本軍の自分たちの兵士に対する残虐性>日本の軍隊の伝統には独特な要素があった。例えば、ドイツ軍では「敵を殺せ」とまず命じられたが、日本軍は殺すこと以上に死ぬことの大切さを説いた。この日本軍の自分たちの兵士に対する残虐性は、19世紀後半の近代化の初期段階においてすでに顕著に現れている。1872年に発令された海陸軍刑律は、戦闘において降伏、逃亡する者を死刑に処すると定めた。もちろん良心的兵役拒否などは問題外であった。軍規律や上官の命令に背くものは、その場で射殺することが許されていた。さらに、江戸時代の「罪五代におよび罰五族にわる(ママ)」という、罪人と血縁・婚姻関係にある者すべてを処罰する原則と同様に、一兵士の軍規違反は、その兵士のみならず、彼の家族や親類にまで影響をおよぼすと恐れられていた。個人の責任を血族全体に科し、兵士個人に社会的な圧力をかけることで、結果的に規律を厳守させていたのである。この制度によって、兵士の親の反対を押さえつけ、兵士による逸脱行為はもちろんのこと、いかなる規律違反も未然に防止できたのである。さらに、警察国家化が急激に進むにつれて、1940年代までに、国家の政策に批判的な著名な知識人や指導者が次々と検挙・投獄され、国家に反する意見を公にすることは極めて困難になった。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.7-8)結局において、軍法会議から裁判の通知はおけないが、憲兵隊から死刑になった、つまり死亡したということを知らされ、それによって死亡通知を書いた。裁判を省略されているという疑いが濃厚である。つまり、”略式処刑”というものは無かったとは言えないように思われるのである。判決書(ほか一切の訴訟記録)は存在しないうえにに前科通知もなされた形跡がない。本人が事実適法な裁判を受けたとする証拠はない。(NHK取材班・北博昭氏著『戦場の軍法会議』NHK出版、p.180)

    <日本の軍隊:兵士の人格と生命の完全な無視>自発性を持たない兵士を、近代的な散開戦術の中で戦闘に駆り立てるためには、命令にたいする絶対服従を強制する以外にはなかった。世界各国の軍隊に比べても、とくにきびしい規律と教育によって、絶対服従が習性になるまで訓練し、強制的に前線に向かわせようとしたのである。そのためには、平時から兵営内で、厳しい規律と苛酷な懲罰によって兵士に絶対服従を強制した。それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従する習慣をつけさせるまで行なわれた。兵営内の内務班生活での非合理な習慣や私的制裁もそのためであった。「真空地帯」と呼ばれるような軍隊内での兵士の地位も、こうした絶対服従の強制のあらわれであった。このような兵士の人格の完全な無視が、日本軍隊の特色の一つである。すなわち厳しい規律と苛酷な懲罰によって、どんな命令にたいしても絶対に服従することを強制したのである。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.4-5)

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    兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴であった。圧倒的勝利に終った日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦死、戦傷死者はわずか1417名に過ぎないのに、病死者はその10倍近くの11894名に達している。・・・これは軍陣衛生にたいする配慮が不足し、兵士に苛酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。日清戦争では悪疫疾病に兵士を乾したが、日露戦争の場合は兵士を肉弾として戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。・・・旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。・・・日露戦争後の日本軍は、科学技術の進歩、兵器の発達による殺傷威力の増大にもかかわらず、白兵突撃万能主義を堅持し、精神力こそ勝利の最大要素だと主張しつづけた。その点では第一次世界大戦の教訓も学ばなかった。兵士の生命の軽視を土台にした白兵突撃と精神主義の強調が、アジア太平洋戦争における大きな犠牲につながるのである。兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが、補給の無視であった。兵士の健康と生命を維持するために欠かせないのが、兵粘線の確保であり、補給、輸送の維持である。ところが精神主義を強調する日本軍には、補給、輸送についての配慮が乏しかった。「武士は食わねど高楊子」とか、「糧を敵に借る」という言葉が常用されたが、それは補給、輸送を無視して作戦を強行することになるのである。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.10-11)

    <権力は弱みをついて脅すのだ>

    「天皇のために戦争に征ったという人もいるが、それは言葉のはずみであって関係ないですね。それより、戦争を忌避したり、もし不始末でもしでかしたら、戸籍簿に赤線が引かれると教えられたので、そのほうが心配でしたね。自分の責任で、家族の者が非国民と呼ばれ、いわゆる村八分にあってはいけんと、まず家族のことを考えました」(戦艦『大和』の乗員表専之助氏の述懐)(辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.276)

    <戦争は権力のオモチャだ>国家権力は国民に対する暴力装置であり、その性格は佞奸邪知。その行動原則は国民をして強制的、徹底的に情報・言論・行動・経済の国家統制の完遂を目論むことである。従って異論や権力に不都合な論評や様々な活動は抹殺、粛清される。畢竟、国家権力とは、国民を蹂躙・愚弄・篭絡する「嘘と虚飾の体系」にほかならないということになる。さらに言えば「戦争」は権力に群がる化物どものオモチャである。犠牲者は全てその対極に位置するおとなしい清廉で無辜の民。私たちは決して戦争を仕掛けてはならないことを永遠に肝に銘じておかなければならない。(筆者)

    <戦争は起きる>誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。(辺見じゅん氏著『戦場から届いた遺書』文春文庫、p.13)

    <人間の屑と国賊>人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出してしまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚者にほかならない。(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)

    <軍人はバカだ>(古山高麗雄)軍人はバカだからです。勉強はできますよ。紙の上の戦争は研究していますよ。だけど人間によっぽど欠陥があったんですよ。(保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.93)

    <軽蔑する人たちは>(吉本隆明)ぼくの軽蔑する人たちは戦争がこやうと平和がこやうといつも無傷なのだ。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.618からの孫引き)

    <戦争を扇動するのは>(ヴォーヴナルグ)戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ。(辻原登氏著『許されざるもの<上>』毎日新聞社、p.276)

    <非情な国家権力を弾劾する>(鶴彬)手と足をもいだ丸太にしてかへしコウリャンの実りへ戦車と靴の鋲胎内の動きを知るころ骨がつき鶴彬:本名喜多一二(かつじ)、M42生、プロレタリア・リアリズム「川柳」作家の先頭に立って軍国主義体制に抵抗。S12.12.3に治安維持法違反の容疑で逮捕された。留置場内で赤痢にかかり豊多摩病院に隔離され、S13.9.14未明にベッドに手錠をくくりつけられたまま獄死した。(荘子邦雄氏著『人間と戦争』朝日新聞出版、pp.280-282より)

    <内村鑑三「戦争廃止論」(1903年6月)>

    「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人間を殺すことである、しこうして人を殺すことは大罪悪である、しこうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.209)

    <戦争をなくす国にせなあかん>そういえばぼく、ハルビンで日本人が人民裁判にかかってるのを見ました。警察署長とか、特務機関の人がつかまってね。この人民裁判は、それに参加した人民がもう、”タース(殺せ)!”の一言ですよ。この人間はこういうことをしたから”タース”人民裁判とはそんなものです。どっちにしたって、勝ったものが負けたものを裁くのに、言い訳も何もない。だから戦争に負けた国の人間はあわれだ。自分たちがあわれな目に遭うてきたから、こんど、よその国をあわれな目に遭わせていいと、そういうことは成り立たないから、ぼくらは日本を戦争をなくす国にせなあかん、と思う。(藤山寛美氏著『あほかいな』日本図書センター、p.81)

    <戦争は大資本家や大地主の金儲けのため>恥ずかしいことだが、今までおれは戦争は台風のように自然に起こるものだとばかり思っていたが、とんでもないことだった。戦争は大資本家や大地主の金儲けのためだったのだ。直接の仕掛人は軍隊だが、彼らはそのうしろで巧妙に糸を引いていたのだ。表面では「聖戦」だの「東洋平和のため」などともっともらしいことを言いながら、その実、戦争は願ってもない金儲けの手段だったのだ。そう言われれば、おれの乗っていた武蔵の場合にも、それがそのまま当てはまる。武蔵は三菱重工業株式会社長崎造船所でつくった艦だが、むろんあれだけの大艦だから、請け負った三菱はきっとしこたま儲けたにちがいない。おそらく儲けすぎて笑いがとまらなかったろう。しかもそれをつくった三菱の資本家たちは誰一人その武蔵に乗り組みはしなかった。それに乗せられたのは、たいていがおれのような貧乏人の兵隊たちだったのだ。そしてその大半は武蔵と運命を共にしたが、おれたちがシブヤン海で悪戦苦闘している間、三菱の資本家たちは何をしていたのか。おそらくやわらかな回転椅子にふかぶかと腰を沈めて葉巻でもふかしながらつぎの金儲けでも考えていたのに違いない。(渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)、p.247-248より)

    ◎儲けてゆくのはかれらだ。死んでゆくのはわれわれだ。(阿部浩己・鵜飼哲・森巣博氏著『戦争の克服』集英社新書、p.198より)◎「尻ぬぐいをするのはいつでもイワンだ」(ロシアの諺、戦争を始めるのは資本家やファシストだが、尻ぬぐいをさせられるのは無名の兵隊だ)。(高杉一郎氏著『極光のかげに』岩波文庫、p.83より)

    <華族や政府の高位・高官は自己安全に狂奔していた>

    「金持や政財界で、死んだ人がいますか。憲兵や特高とつながりのあった有力者たちには、情報が流れている。長岡では、空襲のまえに避難勧告の伝単が多量にまかれていた。それなのに、一般の市民にはすこしもつたえられていない。神風が吹く、日本はかならず勝つ。こんなバカな宣伝をして市民を愚弄していたんじゃありませんか。そんな人たちはみな、捕虜収容所のほうへ逃げて助かっているんだ。子供をもつ母親たちは、子供を抱きかかえたまま、死んだんじゃありませんか。いまだに忘れられません。・・・」(長岡市、新保和雄氏の話より)(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.93)

    <ひっ殺してゆけと言った>私の連隊である戦車第一連隊は戦争の末期、満州から連隊ごと帰ってきて、北関東にいた。東京湾や相模湾に敵が上陸すれば出撃する任務をもたされていたが、もし敵が上陸したとして、「われわれが急ぎ南下する、そこへ東京都民が大八車に家財を積んで北へ逃げてくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすればよろしいのでありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀が、「軍の作戦が先行する。国家のためである。ひっ殺してゆけ」といった。(司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)

    <今後2千万人の日本人を殺す覚悟で・・・>会談中に大西軍令部次長が入室し、甚だ緊張した態度で雨総長に対し、米国の回答が満足であるとか不満足であるとか云ふのは事の末であつて根本は大元帥陛下が軍に対し信任を有せられないのである、それで陛下に対し斯く斯くの方法で勝利を得ると云ふ案を上奏した上にて御再考を仰ぐ必要がありますと述べ、更に今後二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用ふれば決して負けはせぬと述べたが、流石に両総長も之れには一語を発しないので、次長は自分に対し外務大臣はどう考へられますと開いて来たので、自分は勝つことさえ確かなら何人も

    「ポツダム」宣言の如きものを受諾しようとは思はぬ筈だ、唯勝ち得るかどうかが問題だと云つて皆を残して外務省に赴いた。そこに集つて居た各公館からの電報及放送記録など見て益々切迫して来た状勢に目を通した上帰宅したが、途中車中で二千万の日本人を殺した所が総て機械や砲火の餉食とするに過ぎない、頑張り甲斐があるなら何んな苦難も忍ぶに差支へないが竹槍や拿弓では仕方がない、軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り烈しい、最早一日も遷延を許さぬ所迄来たから明日は首相の考案通り決定に導くことがどうしても必要だと感じた。(昭和20年8月13日、最高戦争指導会議でのできごとを東郷茂徳が日記に残しており、上記引用は保阪正康氏著『<敗戦>と日本人』ちくま文庫、p.242-243より)

    <「散華」(さんげ)>

    「散華」とは四箇法要という複雑な仏教法義の一部として、仏を賞賛する意味で華をまき散らす事を指す。軍はこの語の意味を本来の意味とは全く懸け離れたものに変え、戦死を「(桜の)花のように散る」ことであると美化するために利用したのである。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店より)

    <政府によって「殺された」>戦争の最大の皮肉は、若者たちが最期の瞬間が近づくにつれて、ますます愛国心を失ってゆくという事実である。入隊後の基地での生活を通じて、日本の軍国主義の真相を目のあたりにした若者たちは、情熱も気力も失いながら、もうどうしようもなく、死に突入して行った。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.35-36)隊員やその遺族が証言するように、彼らは政府によって「殺された」のである。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.49)

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    【対米従属への訣別のために】

    保守ナショナリストの間にも、対米従属状態への不満がないわけではない。しかし彼らの多くは、日米安保体制への抗議を回避し、「アメリカ人」や「白人」への反感という代償行為に流れてしまっている。彼らのもう一つの代償行為は、改憲や自衛隊増強の主張、そして歴史問題や靖国神社、国旗・国歌といったシンボルの政治だが、これもアジア諸地域の反発を招き、さらに対米従属を引きおこす結果となる。・・・アジア諸国の対日賠償要求をアメリカの政治力に頼って回避した時点から、日本の対米従属状態は決定的となったのである。さらに保守勢力の代償行為は、対米関係をも悪化させる。アメリカの世論には、日本の軍事大国化を懸念する声が強い。・・・さらに複雑なのは、対米軍事協力法案であるガイドライン関連法は、自衛隊幹部すら「要するに我々を米軍の荷物運びや基地警備など、使役に出す法律」だと認めているにもかかわらず、「日本の軍事大国化の徴候」として報道する米メディアが少なくなかったことである。そのため、第九条の改正はアメリカ政府の意向に沿っているにもかかわらず、米欧のメディア関係者の間では、「第九条を変えるとなれば、米欧メディアの激しい反応は確実」という観測が存在する。すなわち、対米従属への不満から改憲や自衛隊増強、あるいは歴史問題などに代償行為を求めれば求めるほど、アジア諸国から反発を買い、欧米の世論を刺激し、アメリカ政府への従属をいっそう深めるという悪循環が発生する。この悪循環を打破するには、アメリカ政府への従属状態から逃れてもアジアで独自行動が可能であるように、アジア諸地域との信頼関係を醸成してゆくしかない。その場合、第九条と対アジア戦後補償は、信頼醸成の有力な方法となるだろう。(小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.820)

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    【『超帝国主義国家アメリカの内幕』(国際収支赤字の克服戦略)】

    この新たな帝国主義の国家資本主義形態が目新しいのは、経済的余剰を吸い上げるのが国家自体だということだ。今日のドル本位制を通じて国際収支による搾取を推進するのは中央銀行であって、民間企業ではない。この金融的基軸通貨帝国主義を真の超帝国主義に変えるのは、すべての国ではなく一国だけに与えられた赤字垂れ流しの特権である。信用創造の中心国の中央銀行(と、その外交官が支配する国際的通貨機関)のみが、他の衛星国の資産や輸出品を買い取るための信用を創造できるのだ。一方、この型の帝国主義は、資本主義に特有なものではない。ソビエト・ロシアは、仲間のCOMECON諸国を搾取するために、貿易、投資、金融のル-ルをつかさどる機関に支配権を行使していた。ルーブルの非交換性という条件のもとに、貿易の価格決定および支払システムを支配することで、ロシアは、アメリカが非交換性のドルを発行して仲間の資本主義国を搾取したのと同じく、中央ヨーロッパの経済的余剰を自分の懐に入れていた。ロシアが自国にきわめて都合のいいやり方で衛星国との貿易条件を決めていたのも、アメリカが第三世界に対して行っていたのと同じだった。ちがうのは、ロシアが燃料や原料を、アメリカが穀物やハイテク製品を輸出していたことぐらいである。戦術の集合として理論的に見れば、国家資本主義的帝国主義と官僚社会主義的なそれとは、政府間的な手段に頼るという点で互いに似通っている。アメリカと同じくソビエト・ロシアも自らの同盟国をカで威圧したのである。ヤコブ・ブルクハルトは一世紀前にこう述べた。「国家は、政治や戦争、その他の大義、そして”進歩”のために負債を背負い込む・・・未来がその関係を永遠に尊んでくれると仮定するわけだ。商人や会社経営者から信用をいかにして食い物にするかを学んだ国家は、破綻に追いやれるものならやってみろと国民に挑戦する。あらゆるペテン師と並んで、国家は今やペテン師の最たるものとなっている」。(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、徳間書店、pp59-60)

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    1.歴史的考察(★:背景、◎:スローガン等、■:動き、☆:国民性・国民意識、※:注釈)

    ※国家あるいは権力者にとって、民(平民)の命なぞ考慮に値しないという精神は今も昔も変わらなく、時にはあからさまに、時には潜在して続いていることを、我々は決して忘れてはならない。

    ◎軍人勅諭「世論に惑わず政治に拘らず、只々一途に己が本文の忠節を守り、義は山獄よりも重く、死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」、「下級のものは上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」(明治15年、山県有朋)◎教育勅語「天皇の尊厳、臣民の忠誠」「義勇公に奉ずべし」等(明治23年)

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    ★天皇の「統帥大権」:旧憲法第十一条:「天皇は陸海軍を統帥す」この統帥大権は行政権の範疇外のものとなっており行政府とは別個に、天皇に直接隷属する統帥部がそれを管掌する仕組みだった。※統帥部:参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)であり、そのそれぞれの長官たる参謀総長および軍令部総長が天皇の陸軍または海軍に対する統帥権の行使をそれぞれ輔翼(ほよく)した。(ちなみに輔弼(ほひつ):各国務大臣が天皇の行政権行使を輔佐すること)※ここにおいて行政府(=軍政、陸軍省と海軍省)と統帥部(参謀本部、軍令部)は、いずれも天皇に直属する並立の独立機関であった。(「統帥権の独立」)★天皇の「編成大権」:旧憲法第十二条:「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」※当時はこの条文を拡大解釈(?)し、軍の編制、装備、兵力量(統帥と軍政との

    「混成事項」)については、一般的には行政府(内閣=軍政)に帰属すべき一般行政権の範疇外に属するとみなされることが多かった。これにより統帥部は常に行政府(内閣=軍政)に口を出し、混成事項の決定に干渉し、この決定は閣議に付議する必要はなく内閣総理大臣に報告するだけという慣習があった。(以上、瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より引用)※統帥権の行使及びその結果に関しては議会において責任を負はず、議会は軍の統帥指揮並びに之が結果に関し質問を提起し、弁明を求め、又はこれを糾弾し、論難するの権利を有せず。(陸大で教えられた『統帥参考』より。保阪正康氏著書『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.25)★参謀総長の「帷幄上奏権」欽定憲法体制の下では、内閣の承認抜きに、軍事上の決定んいついて天皇の裁可を求める権限が参謀総長には、認められていた。この権限は、軍は内閣、議会の指示を受けず、また責任も負わず、軍の最高指揮権および命令権をもつ天皇に直属するとする天皇の統帥権独立に由来するものであった。★天皇制国家は、天皇の「神聖不可侵」を原則とし、天皇の責任を問うことができない「君主無答責」の建前をとっていた。すべての行為は指揮命令系統にもとづくものとしながら、最高責任者である天皇は責任を問われないという無責任きわまりない体系であった。つまり責任はすべて指揮官にありながら、最高指揮官である天皇に責任はないという矛盾にみちた原理に立っていたのである。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.13)

    ※敗戦(昭和20年)までの「天皇制」は、それを利用した軍部や軍属属僚にとっては国民に対する「暴力機関」だったと公言しても、言い過ぎではないと筆者は思うのである。【天皇制イデオロギーの二面性】(久野収)(群小思想家のひとりにすぎない)久野収も、戦前の天皇制イデオロギー体系を宗教になぞらえて説明している。それは、天皇制イデオロギーの二側面を仏教の顕教と密教に見立てたもので、確かに巧みな譬喩であり、今に至るまで一種の定説と化している。1956年の『現代日本の思想』(岩波新書)が、顕教密教という譬喩の出てくる最も初期の著作である。・・(中略)・・。少し長くなるが、次に引用してみよう。

    「天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあらわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民の中に徹底的にしみこませ、ほとんど国民の第二の天性に仕あげるほど強力に作用した。しかし、天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、天皇の権威はむしろシンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほとんど全面的に分割し、代行するシステムが作りだされた。注目すべきは、天皇の棒威と権力が、『顕教』と『密教』、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤〔博文〕の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教tは天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民エネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である」要するに、戦前の天皇制は一般国民には、神のごとき絶対的権威として現れ、国政の枢要を担う高学歴エリート層には、単なる制度・機関にすぎなかった、ということである。顕教密教とは、日本では空海が明確化した仏教上の教理概念で、広く衆生にも理解されるように顕らかに説かれたのが顕教、真理が理解できる者にのみ密かに説かれたのが密教、という区分である。天皇性にも同じ二側面が観察でき、尋常小学校卒業程度の大多数の国民には、顕教として天皇は神であると教え、高等教育を受けるエリートには、密教として、天皇は神ならぬ単なる機関にすぎないと教える。これが天皇制イデオロギーの狡知である、と久野収は言うのだ。久野収の見事な説明に、私は異論を唱える必要を感じない。というのは、天皇制イデオロギーの二面制については、顕教密教という言葉こそ使っていないものの、戦前に教育を受けた多くの人がそう認識しているからである。しかも、久野のような”革新的”な人ばかりでなく、”保守的”な人も同じようにそう認識している。(呉智英氏著『危険な思想家』メディアワークス、pp.160-161)

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    ◎【富国強兵・殖産興業への道】徳川時代のものと隔絶して作られた新しい無私無謬の「官僚制度」の主導のもとで近代工業社会への三つの施策が推進されていった。(この三つの制度はだいたい昭和16年頃に完成した)。1.資本蓄積:銀行制度、郵便貯金制度※国民の持つ金を吸い上げる制度2.全国同一規格の統一大市場の形成(規格大量生産を目指す)※輸送と情報の統一:郵便、鉄道、海運、教育の統一。近代的度量衡(メートル法)を採用3.人材育成:大量生産現場で働くための、辛抱強さ・協調性・共通の知識と技能の保持。この三条件を備えた人材育成が目論まれた。※独創性や個性のない人材を育成するための教育制度が作られていった。◎選挙権について国会に国民を代表する衆議院を置き、地租15円以上の納税者45万人、全人口の約1%に選挙権を与えた。これを手始めに普通選挙の推進が始まり普通選挙法(1925年)を経て政党政治は躍進した(1905より~1930頃まで)

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    ●明治30年(1897年)、日本が金本位制を導入(松方正義)したとき金0.75gを1円とした。(2009.3.31日、金1g=3100円、円/ドル=97円。1円は2009年の2325円に相当)

    ●北清事変(義和団事件)(1900年6月)義和拳と白蓮教の流れをくむ義和団が「扶清滅洋」をスローガンに清国を侵略・分割した各帝国に半旗を翻し、1900年6月には日本とドイツの外交官を殺害した。大軍を送ることができたのはロシアと日本(イギリスはボーア戦争で、アメリカはフィリピンで紛争をかかえて忙しかった)のみで、結局義和団は鎮圧され、西太后と光諸帝は都落ちして逃げた。この戦争で日本は連合軍の2/3にあたる22000人の兵士を派遣し、初めてアジアに関する国際問題で欧米列強と共同歩調を取った。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.65-68)

    ●従軍記者光永星郎が”電報通信社”(現『電通』)を設立

    ●石油時代の幕開け(1901年1月10日)アメリカ、テキサス州ボーモント郊外のスピンドルトップという小さな丘から原油の大量の噴出(ハミル兄弟の快挙)(ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、p.58)

    ・ロックフェラー医学研究所設立(1901年1月)

    ●現代サウジアラビアの成立(1902年)クウェートに亡命していたサウード家のアブドゥルアジーズによるリャード奪還。この第三次サウード王朝がアラビア半島の大半を平定し1932年9月にサウジアラビア王国と名前を変えた。(保阪修司氏著『サウジアラビア』岩波新書、p.10)

    ●1903年ヘンリー・フォードがガソリン・エンジンを搭載したモデルAを導入エネルギーの主役は徐々に石炭から石油に変わりつつあった。(スタンダード・オイル(ロック・フェラー所有)、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティシュ・ペトロリアムなどが有名)<世界の石油需要>

    ・1900年50万バレル/年

    ・1915年125万バレル/年

    ・1929年400万バレル/年

    ●福沢諭吉没(明治34年(1901)2月3日、脳出血、享年66歳)

    「宇宙の間に我地球の存在するは大海に浮べる芥子の一粒と云ふも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は、此芥子粒の上に生れ又死するものにして、生れて其生るる所以を知らず、死して其死する所以を知らず、由て来る所を知らず、去て往く所を知らず、五、六尺の身体僅かに百年の寿命も得難し、塵の如く埃の如く、溜水(たまりみず)に浮沈する孑孑(ぼうふら)の如し」(岳真也氏著『福沢諭吉(3)』、作品社、p.403)

    ●奥村五百子が近衛篤麿の後援を得て”愛国婦人会”を結成。(1901年2月)”愛国婦人会”は1937年には会員数338万6000人と公称されたが、1942年には大政翼賛会の下部組織の”大日本婦人会”に統合された。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.71-73)

    ●日英同盟が成立(1902年1月)これによってイギリスは清国に、日本は満州を含む清国と韓国に対して特殊権益をもつことを相互に承認し、一国が交戦した場合には他の国は中立を保って他国の参戦防止に努めること、またもし第三国が参戦した場合には締約国は参戦して同盟国を援助することとなりました。このことは、日露が交戦した場合にも、露仏同盟を結んでいるフランスの参戦を抑える効果をもち、またイギリスでの戦費調達のための外債募集が可能となったことを意味しています。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.98)

    ●ライト兄弟、飛行機で世界初飛行。(1903年、明治36年12月17日)

    ●第二インターナショナル(1904年8月)また、1904年8月、オランダのアムステルダムで開催された第二インターナショナル(国際社会主義者大会)第6回大会に出席した片山潜は、ロシア代表プレハーノフとともに副議長に選出され、ともに自国政府の戦争に反対する非戦の握手をかわしました。大会では、つづいてフランス代表から提出された「日露戦争反対決議案」を満場一致で可決しています。こうした世界各国の社会主義者との交流については、『平民新聞』に「日露社会党の握手」、「万国社会党大会」などの記事によって詳細に報告されていました。置かれた状況の違いによって手段もまた異ならざるをえなかったにせよ、日露戦争の時代、日露両国の社会主義者によって、反戦・非戦活動のための連帯の声が交わされていたのです。そして、本格化しはじめた日本の社会主義運動が、貧富の格差是正と生産手段の公有という本来の目的と並んで、戦争に反対する非戦・反戦運動として展開せざるをえなかったのは、戦場に送られて死を強制され、しかも戦費の負担を強いられるなど、戦争の災厄を最も過酷な形で押し付けられるのが労働者と農民であったことからすれば必然的なことであったのです。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.180-181)

    ●東清鉄道(チタ==ウラジオストク)経由のシベリア鉄道が全通(1904年9月)し、日本軍の作戦展開の大きな脅威となった。

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    ◎明治の医師養成制度明治36年までは医師になるには、大学の医学部を卒業するほかに、医術開業試験を直接受験するという制度があった。済生学舎はその受験のための医学校だった。しかしこの学校は専門学校令公布とともに明治36年突然閉校になった。(帝大閥の牛耳る医学界において済生学舎出は徹底的に差別されていた。野口英世はその顕著な一例)(浅田次郎氏著『壬生義士伝』、文藝春秋、pp.112-115)

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    ☆気がついたときは戦争になっていた。こうして主戦論の浸透は、事実以上にロシアに対する脅威感をあおり、同時に政府を「恐露病」と罵倒することになります。原敬によれば、こうした批判にさらされた政府もまた「少数の論者を除くのほかは、内心戦争を好まずして、しかして実際には戦争の日々近寄るもののごとし」(『原敬日記』1904年2月5日)という自制のきかない状況に自らも落ち込んでいく様子を率直に告白しています。原はまた表面的には開戦論が世論を指導していたようにみえて実態とは異なっていたことを「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり。政府が最初七博士をして露国討伐論を唱えしめ、また対露同志会などを組織せしめて頻りに強硬論を唱えしめたるは、かくしてもって露国を威圧し、因てもって日露協商を成立せしめんと企てたるも、意外にも開戦に至らざるをえざる行掛を生じたるもののごとし。…しかして一般国民、なかんづく実業者は最も戦争を厭うも、表面これを唱うる勇気なし。かくのごとき次第にて国民心ならずも戦争に馴致せしものなり」(『原敬日記』1904年2月1言日)と観察していました。ここには、戦争に踏み込むときの、自分でも望んでもいないにもかかわらず、制御しきれないままに、流されていって取り返しがつかなくなるという心理過程が示されているのではないでしょうか。そして、このように自らが決断したという明確な自覚もないままに、戦争がいつの間にか近寄ってきて、「気がついたときには戦争になっていた」という思いのなかで、多くの日本人は日露戦争を迎え、さらにその後も同じような雰囲気のなかで「流されるように」いくつかの事変と戦争へと突入していくことになります。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.108-109)

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  3. shinichi Post author

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    1905年(明治38年):日露戦争(国家存亡の戦い、1904.2.8~1905.9.5)日本の背後ににはイギリス、アメリカ、ロシアの背後にドイツ、フランスのある帝国主義戦争であり、その餌食となったのは朝鮮や中国であった。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.8)※日露戦争の歴史的意味この一連の過程、すなわち日本が韓国保護国化の権利を獲得するために、アメリカとはフィリピン、イギリスとはインドなどの植民地支配とを、その対象国の意志とは全く無関係に交換条件として決定した過程にこそ、日露戦争の歴史的意味が示されています。また、ポーツマス条約においても遼東半島の租借権などを、これまた主権をもっていたはずの清国の意志とは無関係に、ロシアから譲渡させましたが、清国に中立を宣言させたのも、この講和条件に関与させないためでした。しかも、日本は日露開戦直後、清国に対して「戦争の終局において毫も大清国の土地を占領するの意志なき」(『日本外交文書』日露戦争I、第690号文書)旨を通告していたのですから、これにも違約します。(以上、山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.130-131)

    ・日本連合艦隊が旅順港外のロシア艦隊攻撃(1904.2.8)

    ・ロシアに宣戦布告(1904.2.10)

    ・第二回旅順港閉鎖作戦(1904.3.27):広瀬武夫戦死

    ・乃木希典、遼東半島上陸(1904.6.6)

    ・旅順のロシア軍要塞攻撃開始(1904.7.26)

    ・遼陽会戦(1904.8.25)

    ・徴兵令改正、後備兵役10年に延長(1904.9.28)

    ・沙河会戦始まる(1904.10.9)

    ・児玉源太郎総参謀総長、第三軍司令部到着(1904.12.1)

    ・第三軍、203高地を占領(1904.12.5)

    ・旅順のロシア艦隊壊滅(1904.12.15)

    ・奉天会戦~奉天占領(1905.3.1~3.10)

    ・日本海海戦(1905.5.27)

    ・黒海で戦艦ポチョムキンの反乱(1905.6.27)

    ・樺太ロシア軍降伏(1905.7.31)

    ・ポーツマスで講和条約締結(1905.9.5)

    ・日露講和条約批准(1905.10.14)

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    ・第二次日韓協約(1905.11.17)韓国では乙巳(ウルサ)条約といい、これに賛成した大臣たちは5人は乙巳五賊(ウルサオジョク)と言われて今でも非難されている。(この項、山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.132より)※日露戦争後の人種問題日露戦争後において人種問題が現実的な意味をもったのは、ドイツよりもアメリカやオーストラリアなどでした。日露戦後の対日感情の悪化と日本の興隆に対する恐怖心が、アメリカの日本人移民への攻撃に利用されます。早くも1906年にはカリフォルニアでの日本人学童の入学拒否や州議会での日本移民制限決議などの動きが出、1924年の日本人労働者の低賃金とストを理由とする日本人排斥移民法の成立へと至ります。また、地理的に近接しているために日本からの脅威を強く感じていたオーストラリアでは、日露戦後に首相ディーキンによって「北太平洋の黄色人種」への不信が表明され、白豪主義による黄色人種の締め出し政策が採られました。さらに、ニュージーランド、南アフリカでも日本人移民が禁止され、カナダでも入国が制限されることになっていきました。こうして黄禍論という明確な表明はされなくとも、人種的な偏見が政策に反映されたのも20世紀の特徴のひとつでした。太平洋戦争は、「鬼畜」や「黄色で野蛮な小牧い猿」と相互が痛罵しあうことで戦意を高めながら戦われた人種戦争となりましたが、その戦争に至るまでにも、人種的偏見による紛議が陰に陽に積み重なってきていたわけです。しかし、そうであったからこそ、日本は同じ黄色人種のアジア諸民族とも距離をとるような外交政策を採らざるをえなくなります。なぜなら、日露戦争での勝利は、日本が必死で否定していた欧米とアジアとの対立という構図をさらに浮きあがらせる結果となったため、日本は黄禍論を否定するためにも外交的にはアジアと意識的に距離をとり、欧米との協調路線をとらざるをえないというディレンマに陥ったからです。そして、欧米との同盟や協定などに従ってアジア諸民族の独立運動を抑圧し、「アジアの公敵」とみなされていきました。しかしながら、1930年代以降の中国への進攻によって、欧米との敵対が避けられなくなったとき、日本は再び「黄色人種の指導者」「アジアの盟主」として自らを位置づけ、植民地からの欧米追放を訴えて、「大東亜戦争」を戦うための名目とせざるをえなかったのです。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.153-154)

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    <余談:千人針>愛国婦人会(奥村五百子、1901年2月)などの活動として知られる千人針の風習が本格化したのは、日靂戦争の時からでした。千人針は千人結びともいい、出征兵士の武運長久を祈るために、白木綿の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作って贈るものでした。これは「虎は千里往って、千里還る」との故事からうまれ、寅年生まれの女性に年齢の数を縫ってもらえばさらに効果があるといわれました。赤い糸そのものにも災厄をよける意味がこめられていたと思われます。昭和になると五銭と十銭の穴あき硬貨をかがりつけて「死線(四銭)を越えて、苦戦(九銭)を免れる」という語呂合わせで無事を祈りました。危難にむかう人のために、多くの人が力を合わせて無事や幸運の祈願をこめるものとして、千という字は象徴的意味をもちました。古来長寿の動物とされた鶴が千羽そろったものがことさら吉兆とされたことに由来する千羽鶴もそのひとつであり、第二次世界大戦後には病気平癒や平和を祈って折られるようになりました。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.73-74)

    ★【国家が命を翻弄した時代】:軍神(?)乃木希典による命の無駄使い。(100万人の日本兵動員、死者約12万人といわれる)<茂沢祐作『ある歩兵の日露戦争従軍日記』草思社、p.168より>

    ・・・糧食の給与を受けることが出来ないので、この次の兵站部へ行くことを急いで、午前八時頃に舎を出かけ三道溝の糧餉部へ行ったが、ここは取次所で分配出来ぬとにべもなくはねつけられ、仕方なくなく吸足(びっこ)を引きずった。

    ・・・稷台沖まで来たら糧餉部があったから給与を願ったら、酔顔紅を呈した主計殿と計手殿がおられて、糧食物はやられぬが米だけなら渡してやろうとの仰せありがたく、同連隊の兵三名分一升八合の精米を受領証を出してもらい受け、敬礼して事務室を出たが、その時にカマスに入った精肉と、食卓の上のビフテキ、何だか知らぬが箱入りの缶詰をたくさん見た。あれは何にするのであろう。飾っておくのかしらん。一同が今日六里ばかりの行軍に疲れたので、舎を求めて夕食を食べるとすぐに寝た。(筆者注:戦場では、ごまめの一兵卒はいつも空腹で使い捨てなのである)。☆国民性・国民意識:「勤勉」・「努力」・「忍耐」(この頃は、あるいは強制的に作られたかも知れないが、自己を律する高邁な意識があった)。

    ●日露講和会議(ポーツマス):米大統領ルーズベルトの好意ある斡旋1.旅順と大連の租借権の取得2.南満州鉄道の入手3.樺太の南半分の獲得(明治38年9月5日調印、10月16日批准して公布)

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    ※(日本の)調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」(社長は徳富蘇峰)を除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園で開かれた全国大会は、参集するもの三万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署二、交番二一九、教会一三、民家五三を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。(司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』より引用)

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    ●第二次日韓条約(韓国保護条約、1905年8月22日、明治38年):日韓併合京城(漢城)の日本の韓国統監府(初代統監、伊藤博文)がおかれたがこれに伴い、韓国の各地で激しい反日運動が起こった。※日本は自らの独立を守ることを、近代のとば口で自らに誓った。その誓いは、道義的には、他者の独立もまた尊重するべきものでなければならないはずである。だが、日本はその道義を破った。・・・「道義」を踏みにじらなければ生きて行けない、という自覚を、日本は近代の中で身につけてしまった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)※内村鑑三「日露戦争より余が受けし利益」日露戦争直後の1905年11月、内村は「日露戦争より余が受けし利益」という演説において、「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するものであります」と述べて、「東洋平和のため」という名目による主戦論のさらなる肥大化を懸念します。その後の歴史の推移を知っている私たちには、この予言は的確な洞察を含んだものとして響きますが、日露戦勝に歓喜していた当時の日本人の多くにとっては、内村の指摘など単なる空言にすぎなかったのでしょう。なぜなら、戦勝の意義や戦争というものの本質とは何か、を省みるよりも、勝利によって勝ち得た韓国や南満州における権益をいかに維持し、拡大していくか、のほうがはるかに切実な「現実問題」として現れてきていたからです。そして、統治する空間が拡大したことは、その先により広い空間の獲得を要求することになります。しかも、それは山県有朋の主権戦と利益線の議論がそうであったように、けっして植民地獲得のための拡張としてではなく、あくまでも自国防衛のためとして正当化されます。日露戦争の開戦にあたって「自個生存の権利のために戦うなり。満州守らざれば朝鮮守らず、朝鮮守らざれば帝国守らざればなり」(「宣戦の大詔を捧読す」1904年2月)として、それを自存のための戦争と唱えた徳富蘇峰は、韓国を併合すると、つぎには「日本の防衛は、朝鮮においてし、朝鮮の防衛は南満洲においてし、南清洲の防衛は内蒙古においてす」(「満蒙経営1913年)として、清洲から内蒙古への拡張を主張します。そして、中国の主権回復運動にさらされると、「満蒙は日本の生命線」として死守することが日本生存のための唯一の道とされ、それが1931年の満州事変を引きおこし、満洲国を作るとそれを守るために華北を越え、さらに中国全土へと戦線を拡張していかざるをえない、という間断なき戦争の連鎖を引きおこしていったのです。そして、いったん領土拡張が自己目的化してしまえば、それがなんのためなのか、という意味を問い直すことさえできなくなります。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.206-207)

    ・数々の王族や文豪を苦しめた梅毒の病原体(スピロヘータ・パリダ—>トレポネーマ・パリドゥム)が発見された。(シャウデン、ホフマン、シュルツェ)(1905年5月24日)

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    1906年(明治39年)■「医師法」制定。第8条:「医師は医師会を設立することを得、医師会に関する規程は内務大臣之を定む」■各府県に医師会が相次いで誕生。

    ★ロシアも日本も互いに仮想敵国として軍備や軍事施設を充実し、日本は徐々に軍事主導国家に変貌していった。※明治40年(1907年)の国家予算は6億3500万円で、そのうち陸軍関係は1億1100万円、海軍関係は8200万円で、軍事費比率は31%に達していた。明治40年代からは、日本の軍事費比率はつねに30%以上になった。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用)

    ・世界最初の軍用機ライト・ミリタリー・フライヤーが作られた。(1908年、明治41年)

    ・ワッセルマンが梅毒の血清反応による診断法(ワッセルマン反応)を確立

    ●イギリスが海軍全艦の動力源を石炭から石油に切り替えた。(1908年)ドイツに対抗するためで、原油資源のないイギリスにとっては大きな賭けだった。これ以来イギリスは中東からの石油の安定供給のため、地中海に海軍を配備した。・・・中東ではヨーロッパやアメリカの外交官が、石油をもっと入手しやすくするため一部の国境を変更した。こうした国境改定がとくに盛んだった時期に、フランスのある外交官は、いみじくもこう発言した。「石油を制する者、世界を制す」。(ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.68-69)

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    1907年(明治40年)★「帝国国防方針」策定。同時に精神主義・精神教育の徹底さて、陸軍は日露講和を「やや長期なる休戦」と考えて再度の日露戦争を想定し、海軍は満洲をめぐる対立からアメリカを仮想敵国とした大建艦計画をたてていました。これに基づいて1907年、初めて策定されたのが「帝国国防方針」です。そこでは「一旦有事の日に当たりては、島帝国内において作戦するがごとき国防を取るを許さず、必ずや海外において攻勢を取るに在らざれば我が国防を全うする能わず」として、それまでの防衛型の守備方針から外征型の前方進出方針へと転換しました。そして、「将来の敵と想定すべきものは露国を第一とし、米、独、仏の諸国これに次ぐ」と仮想敵国を明示しました。つまり、日露戦勝によって「第一等国」となったということは、世界最強の国家にも匹敵できる軍備を備えることと考えられたのです。しかし、軍備の拡張とともに政府が留意したのは、次なる戦争を遂行していくための国民をいかに形成していくかという問題でした。その国民形成のためには現行の教育体制では「道徳および国民教育の基礎を作り、国民の生活に必要なる普通教育の知識・技能を得せしめんこと頗る困難」として、1908年から義務教育年限を4年から6年に延長しましたが、この体制は1947年に義務教育9年制になるまで続きます。また、日露戦争中の1904年4月から小学校教科書は、文部省が著作権をもつ国定教科書になり、忠君愛国や滅私奉公を軸とした臣民の育成が図られました。さらに、日露戦争から得た戦訓として、いかに軍備の拡張を図るにしても日本の国力では消耗戦に耐えられない以上、これを精神力で補うしかないという方針が採られます。1908年の『軍隊内務書改正理由書』には、「未来の戦闘においても吾人は、とうてい敵に対して優勢の兵力を向くること能わざるべし。兵器、器具、材料また常に敵に比して精鋭を期すること能わず。吾人はいずれの戦場においても寡少の兵力と劣等の兵器とをもって無理押しに戦捷の光栄を獲得せざるべからず。これを吾人平素の覚悟とするにおいて、精神教育の必要なること一層の深大を加えたること明らかなり」とありますように、精神教育によって「物質的威力を凌駕する」という日本軍隊の特徴がうまれてきます。この精袖教育が、1882年の『軍人勅論』で強調された「死は鴻毛(鴻の羽毛、きわめて軽いことのたとえ)よりも軽しと覚悟せよ」という天皇の命令と接合して、兵士は「一銭五厘」の郵便料金の召集令状(赤紙)でいくらでも召集できるという使い捨ての思想となるとともに、軍隊内での私的制裁が日常化し、さらには捕虜などに対するビンタ(平手打ち)などの虐待をうむ土壌となったのです。こうして、日露戦争で砲弾の補給不足に悩んだ陸軍は、火力が補充できない場合においても刀、銃剣などによって敵を斬り、突き刺して戦う白兵戦を重視する方針をとります。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.212-213)

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    1909年(明治42年):この年までに日本の主要鉄道網が完成この時期をきっかけとして日本資本主義が商品経済の支配網を全国のすみずみまで作り上げ、自給自足をたてまえの古い部落組織をつき崩しはじめた。

    ・伊藤博文がハルピンの駅頭で強烈な反日主義者安重根に暗殺される。(1909年、明治42年10月)

    ●渋沢栄一(1840~1931)の偉業(明治42年に古稀を迎えた)

    「金銭資産は、仕事の滓である。滓をできるだけ多く貯えようとするものはいたずらに糞土のかさねを築いているだけである」。

    明治四十二年六月、古稀を迎えた栄一は、第一銀行、東京貯蓄銀行、東京銀行集会所などもっとも関係の深いものをのぞき、これまで関係していた企業から退任することを発表した。取締役会長として在任したもの。東京瓦斯会社、東京石川島造船所、東京人造肥料会社、帝国ホテル、東京製綱会社、東京帽子会社、日本煉瓦製造会社、磐城炭鉱会社、三重紡績会社、日韓瓦斯会社。取締役として在任したもの。大日本麦酒会社、日本郵船会社、東京海上保険会社、高等演芸場、日清汽船会社、東明火災保険会社。監査役として在任したもの。日本興業銀行、十勝開墾会社、浅野セメント会社、沖商会、汽車製造会社。相談役として在任したもの。北越鉄道会社、大阪紡績会社、浦賀船渠会社、京都織物会社、広島水力電気会社、函館船渠会社、日本醍酸製造会社、小樽木材会社、中央製紙会社、東亜製粉会社、日英銀行、萬歳生命保険会社、名古屋瓦斯会社、營口水道電気会社、明治製糖会社、京都電気会社、東海倉庫会社、東京毛織会社、大日本塩業会社、日新生命保険会社、品川白煉瓦会社、韓国倉庫会社、日本皮革会社、木曽興業会社、帝国ヘット会社、二十銀行、大日本遠洋漁業会社、帝国商業銀行、七十七銀行。顧問として在任したもの。日本醤油会社、石狩石炭会社、東洋硝子会社。この外に、京釜鉄道会社清算人、日活火災保険会社創立委員長、大船渡築港会社創立委員長、東武煉瓦創立委員長、日英水力会社創立委員長、韓国興業会社監督創立委員長などの役職を辞任した。これらの諸事業のほか、関係を絶った小企業の数はおびただしかった。(津本陽氏『小説渋沢栄一<下>虹を見ていた』NHK出版、p.305)

    ★歩兵重視の肉弾攻撃の強要。死を恐れぬ精神力の鍛錬。※歩兵操典(明治40年11月)の綱領第3項より

    「攻撃精神は忠君愛国の至誠と献身殉国も大節とより発する精華なり。武技之に依りて精を致し、教練之に依りて光を放ち、戦闘之に依りて捷を奏す、蓋し勝敗の数は必ずしも兵力の多寡に依らず、精練にして且攻撃精神に富める軍隊は毎に寡を以て衆を破ることを得るものなり」(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)

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    1910年(明治43年)★帝国在郷軍人会創設日露戦争前後から各地につくられはじめた予・後備兵と町村有志の親睦団体であった尚武会や軍人会、軍人共励会などを統合する全国統一組織として、陸軍省の指導下に1910年、帝国在郷軍人会が創設されます。在郷軍人会は「軍隊と国民とを結合する最も善良なる連鎖となる」ことを目的に掲げ、郷土の名誉という観念をより所にして、軍人精神の鍛錬と軍事知識の増進によって戦時動員を準備します。また、会員の相互扶助、軍人遺族の救護などの活動を進めました。当初は陸軍のみの組織でしたが、1914年からは海軍を含むことになり、以後、国民思想の統制にも積極的に関与していきます。そして、1935年の天皇機関説事件においては機関説撲滅運動や国体明徽運動を展開し、満洲への武装移民の送出にも積極的に関与していきます。1936年には在郷軍人会令が公布されて、戦時下の国民の動員と統合の主体としての役割を担いましたが、それは日露戦後から進められてきた義務教育-ー青年会ー-徴兵ー-在郷軍人会を通じて全土を兵営とし、軍隊内の秩序を社会にもちこんで国民を「良兵良民」として、生涯にわたって管理していく体制をつくることに他なりませんでした。そして、1941年1月に東條英機陸相によって示達された「戦陣訓」で、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱を受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と説かれたように、良兵とは、捕虜となることを恥として、戦って死ぬことを厭わない兵士のこととされました。それを内面化するために郷党や家門に対する

    「恥」を常に意識させる必要があったのです。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.214-215)

    ●韓国併合(1910年、明治43年8月):朝鮮統督府設置(初代統督、寺内正毅)韓国に対する統治方法の問題点(奥宮正武氏『大東亜戦争』より)1.日本政府は、併合と同時に、それまでの韓国の領土の名称を朝鮮と改めてしまった。2.日本の国家神道を朝鮮人に強制した。そして、京城の中心部にある高台に朝鮮神宮を建立した。3.日本語の学習を義務づけ、韓国語による教育を制限した。4.朝鮮人を「皇民化」するとの意図のもとに、彼らの姓名を日本式の姓名の改めさせた。(5.昭和13年朝鮮人より志願兵募集。昭和19年朝鮮でも徴兵制施行)。

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    ・「大逆事件」(1910年、明治43年):幸徳秋水、管野須賀子らによる明治天皇暗殺未遂事件(ただしこの事件は当時の政府が無政府主義者、社会主義者、またその同調者、さらに自由・平等・博愛といった思想を根絶するためにしくんだ国家犯罪だったことが明らかになっている)。これより日本の社会主義運動はきびしい冬の時代を強いられることとなった。

    ・中国辛亥革命勃発(武漢にて、1911年(明治44年)10月10日)翌年(明治45年)中華民国成立。孫文は臨時大総統に選出されたが、実権は袁世凱が握っており、孫文は約1か月後に辞任した。※日本の中央政府は、常に孫文らの「理想」に対して冷淡であり、むしろ孫文らに対抗する地に足のついた「現実的」な勢力を応援した。辛亥革命に対しては清朝を支持し、その後は袁世凱を支持した。袁の死後は北方軍閥の段祺瑞を尊重した(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)。(注:袁世凱は西太后の首席軍事顧問で、西太后死後の当時は隠居中だったが、改めて権力掌握のチャンスを掴んだ(S.シーグレーブ『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、p.169))。

    ・マリー・キュリーがラジウムの単離に成功(1911年)。

    ・駆梅剤(砒素剤=サルバルサン)が初めて人体に試された。

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    1912年(明治45年、大正元年):明治天皇崩御

    ・孫文が中華民国の臨時大統領に就任(前記、1912年1月1日、南京)

    「三民主義」(民族・民主・民生)

    ・清国滅亡(1912年2月)とともに、満州所在の陸軍部隊の動きが活発さと怪しさを増していった。(「このまま満州に居座り続けようではないか」)

    ・袁世凱、中華民国大統領に当選(1913年、大正2年10月16日)。清帝退位強制、国民党解散、国会停止など傍若無人の独裁。(—>孫文日本へ亡命、1914年孫文が東京で「中華革命党」を結成)

    ・アメリカで中央銀行設立を決定。世界の仲間入りを果たす。

    ・ロックフェラー財団創立(1913年)

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    ***********************明治から大正へ**************************

    ★【大正デモクラシー】※大正デモクラシーとは(日露戦争の戦後体制に関して考察)文明国をアピールするためには、戦中(日露戦争)においても言論の自由を露骨に抑庄することはできませんでしたが、この事件(1905年9月の日比谷焼き打ち事件。国民の政治に対する意識や行動の高まりと、それを利用しての政府による統制強化)を通じて治安妨害を理由とする新聞

    ・雑誌の発行停止権が内務大臣に与えられることになり、全国で29誌紙が延べ39回にわたって発行停止の処分を受けました。こうして内務省保安局がメディアの生殺与奪の権を握ることとなり、また、死者17名を出した一連の焼打ち事件をうけて、1908年刑法において集団による抗議行動も「騒擾罪」として重罰化されました。日露戦争という国家目標を終えた政府の次の課題が戦時体制から戦後経営体制に向けての再編であったとき、この事件は内務省主導の治安体制の強化にとって、このうえないきっかけと正当化根拠を与えることになったのです。日露戦争中にもかかわらず、影響力をもった社会主義思想は、戦後こうして整えられた言論統制、治安維持の体制によって窒息させられていき、ついに1910年の大逆事件というフレームアップに至り、社会主義運動のみならず言論・結社・集会の自由そのものが「冬の時代」に入っていくことになります。大正デモクラシーとは、こうした治安体制の中で閉塞状況にあった諸権利を獲得するための民主主義的改革要求の運動と思潮だったのです。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.156-156)

    ■普通選挙への流れの促進(吉野作造:民本主義で憲政の常道を説く)立憲君主制の概念が定着<--(敵対関係)-->Nationalist・右翼団体■さらに大正時代は社会問題・社会運動・社会主義が話題の中心でもあった。■大正は「婦人」の時代でもあった。(関川夏央氏『白樺たちの大正』より)人々の意識は「日本人」から、「男」と「女」のジェソダーの別へと向けられ、女性の自己主張がはじまった。第二の波は第一次大戦好況によってもたらされた。そこに「主婦」と「勤労女性」という区分けが新たに生じたのは、好況と人々の会社員化によって「中流」意識が日本人に芽生えたからであった。その背景には女性のための中等教育の著しい普及があった。大正二年に高等女学校数は全国で二古十四校、生徒数は六万八千人であった。それが大正8年には274校、10万3000人となり、大正10年には417校、15万5000人に急増した。さらに大正15年には663校、29万7000人に達した。大正年間に学校数で三倍強、生徒数で四倍強となったのである。

    「大正時代のいわゆる『新しい女』を産み出した基盤は、この中等教育の機会に恵まれた新中間層の女性群であった。彼女らは良妻賢母主義の美名のもとに、家父長制への隷属を強いられていた従来の家庭文化のあり方に疑問を抱き、社会的活動の可能性を模索しはじめる。男性文化に従属し、その一段下位に置かれていた女性文化の復権を要求しはじめる。婦人の家庭からの解放を説き、女性の社会的進出と婦人参政権の獲得を繰返し取り上げた『婦人公論』が、そのオピニオン・リーダーであったことはいうまでもない」(「大正後期通俗小説の展開」前田愛、『近代読者の成立』)

    ※大正デモクラシーの時代は、日本の近代に短く咲いたあだ花でしかなかった。言論の自由は、時の政府が適当と認めたものに限っての自由であり、軍国主義の靴音とともに言論弾圧の時代へと入ってゆく。(『司馬遼太郎が語る雑誌言論100年』より)※大正後半期から昭和初期頃までは栄養学がブームになっており素人もビタミンや酵素ということばを盛んにつかい、食物の成分を気にていた。まるで平成10年代の日本のようである。いつの時代も平和ボケた時代の人々はこうなのだろうか。(筆者私見)

    ★【人間の狡猾さと残忍さが浮き彫りにされる時代の到来】

    ・「シーメンス事件」:大掛かりな収賄事件(大正3年摘発)(検事総長:平沼騏一郎、主任検事:小原直)日本帝国海軍上層部と、大手貿易会社<三井物産>、およびドイツ最大の電機企業コンツェルン<シーメンス>と、イギリスの武器製造会社<ヴィッカース>が関わった疑獄事件。ここに登場するワルどもは、シーメンス東京支社のヘルマン(証拠隠滅、贈賄)、ロイター通信社のプーレーとブランデル(贓物故買、恐喝)、松本和中将(当時約41万円の収賄)、沢崎寛猛大佐(収賄)、藤井光五郎少将(収賄)、山本条太郎など三井物産関係者(文書変造行使、贈賄)どもである。(後半部は、三好徹氏著『政・財腐蝕の100年』講談社、pp.23-24より)平沼騏一郎(岡山・津山藩)は薩摩閥の海軍(斎藤実海軍大臣ら)や三井財閥の逆襲をこわがって適当なところで撤退した。(三好徹氏著『政・財腐蝕の100年』講談社、pp.192-198より)

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    1914年(大正3年):第一次世界大戦勃発(7月28日~1918年(大正7年)11月11日)※セルビアvs[オーストリア・ハンガリー+ロシア(スラブ系)]サラエボ事件:セルビアvsオーストリア(1914.6)ドイツvsフランス(ロシアの同盟国):植民地モロッコ争奪ドイツvsベルギー(ドイツの入国を拒否)ドイツvsイギリス(ベルギーの同盟国):建艦競争ドイツvs日本(イギリスの同盟国)※三国協商:イギリス・フランス・ロシア(後で+イタリア)<世界の結果:3王朝の崩壊>1.ロシア:ロマノフ朝崩壊:ロシア革命(1917.11)2.ドイツ:ホーエンツォレルン朝崩壊—>ワイマール共和国3.オーストリア:ハプスブルグ帝国崩壊

    ●日本の対応(火事場どろぼうに匹適)など1.ドイツに宣戦布告し、山東半島(当時、ドイツの租借地)の青島とその付近を攻略(大正3年8月23日~11月7日)。2.日英同盟がありながら、英国を主とする連合国に武力をもってする協力を十分にしなかった。(—>日英同盟破棄(1921年))3.フランスから欧州戦線への陸軍部隊派遣要請があったが拒否。4.シベリア出兵のさいに、日本と米英の間で意見の相違があった。5.こうして米英というアングロサクソンの国との緊密な関係がなくなり、日本が世界から孤立せざるを得なくなった。

    ※第一次世界大戦日本の好景気を呼び、「戦争恐るるべからず」という風潮を呼ぶ。☆国民:「戦争は儲かる」(■大戦景気=戦争バブル)☆軍人:「ロシア・ドイツ恐るるに足らず」☆政府:「欧米の独善を排す」(近衛内閣)

    ※石橋湛山の慧眼(第一次世界大戦とその後の日本への警告)此問題に対する吾輩の立場は明白なり。亜細亜大陸に領土を拡張すべからず、満州も宜く早きにおよんで之れを放棄すべし、とは是れ吾輩の宿論なり。更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。(『東洋経済新報』大正3年11月15日号「社説」)而して青島割取に由って、我が国の収穫するものは何ぞと云えば、支那人の燃ゆるが如き反感と、列強の嫉悪を買うあるのみ。其の結果、吾輩の前号に論ぜし如く、我が国際関係を険悪に導き、其の必要に応ぜんが為めに、我が国は、軍備の拡張に次ぐに拡張を以ってせざるべからず。(同上、大正3年11月25日号「社説」)(加藤徹氏著『漢文力』中央公論新社、pp.10-11より孫引き)

    ※通貨膨脹、物価高騰、生活費昂上となり、国民全体の収入が増えた。■歳入:7億3000万円(大正3年)—–>20億8000万円(大正11年)第一次世界大戦が終わってからは、歳入は減り続け、昭和2年の金融恐慌に至る。(昭和5年において国債(公債)残高60億円)(–>昭和5年、蔵相井上準之助は緊縮財政、金解禁を推進)※第一次大戦後の日本は、農業国から準工業国へと変質しつつあった。農民の占める割合は50%を切った。

    ★【国家存亡の戦いから、侵略戦争へ。狂気の政府と軍人の台頭】

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    ・対華二十一か条要求(1915年、大正4年1月、第二次大隈内閣–>袁世凱)(「『軍閥抬頭』序曲」(若槻礼次郎))※孫文の日本への期待が裏切られた。※中国の排日運動激化の一大転機となった。

    ●世界における本格的な毒ガス戦のはじまり(1915.4.22)ベルギーの町、イーブル付近の塹濠で好適な風が吹くのを待っていたドイツ軍は、午後5時30分から大量の塩素ガスをフランス・アルジェリア軍に向けて放射しはじめた。(吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.1)

    ・1915年に初めて初歩的な戦闘機が戦場に投入され、ドイツと連合国が大空の支配権をもって争った。

    ・<フセイン・マクマホン書簡>(1914~1916)イギリスはアラブ人に対して、独立アラブ国家創設を約束したが、誠実にそれを履行しようとはしなかった。あろうことかイギリスはフランスとの密約<サイクス・ピコ協定>によって、オスマン帝国のアラブ地域を両国で分割支配することを意図していた。

    —————–<余談>—————–

    1083年から1099年までのパレスチナはセルジュク・トルコが支配した。1099年からは十字軍が各地を支配し、その状態が、十字軍がサラディンに敗れる1291年まで続いた。パレスチナ人には十字軍の末裔だと主張する者が多いが、文化的にはアラブ文化が支配的だった。大多数を占めるアラブ人はパレスチナ人と呼ばれた。少数派のユダヤ教徒はユダヤとは呼ばれず、レヴァント人のつけた「イスラエル人」という名称でユダヤ教徒であることが示された。次いでオスマン・トルコがパレスチナを征服し、1517年以後この地を支配したが、1918年にロレンス大佐(「アラビアのロレンス」)率いるアラブ人の英雄的な戦いによって、パレスチナから駆逐された。ロレンスはロイド=ジョージを首班とする自国政府に騙され、アラブ人は「三枚舌」外交で騙された。まれに見る権謀術数やあからさまな欺瞞を経て、結局はトルコの支配から、国際連盟によるイギリスの委任統治に変わっただけだった。パレスチナにはさまざまな民族が住んでいて、フェニキア人、シリアから来たアルメニア人、アンモン人、モアブ人、そしてアラブ系のナバテア人が入り交じっていた。ローマに征服された当時のパレスチナには、十分に発達した、それとわかる部族国家が31あった。(ジョン・コールマン博士『石油の戦争とパレスチナの闇』太田龍監訳、成甲書房、p103)

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    ●近代ヤクザ山口組誕生(1915年、大正4年)ヤクザは光彩陸離として下層民の先頭に立つ。(宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.40)

    ●筑豊の吉田磯吉は福岡全県区から衆議院議員に当選、中央政界に進出。憲政会(のちの民政党)の院外団(政党のゲバルト部隊=「羽織ゴロ」

    「政治ゴロ」=「ハカマ屋」)のまとめ役となり、この結果ヤクザが院外団をまとめることによって、政党政治と民間暴力の癒着が始まった。(宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.44)

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    1916年(大正5年)~1918年(大正7年)■「大日本医師会」誕生(会長:北里柴三郎)

    ・理化学研究所創設(1917年、大正6年)

    ・大正6年4月20日の総選挙で憲政会(加藤高明)は政友会(原敬)に敗れた。第一党の座は政友会に移り、これ以後10年間憲政会は第二党に甘んじた。—>

    ●日本最初の本格的政党内閣として原敬総裁の政友会内閣の誕生(1918年、大正7年(—>1921年原敬暗殺))

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    ・1916年、アメリカ・ニューヨーク市でポリオが大流行。8900人のうち2400人が亡くなった。(スティーヴンD.レヴィット、スティーヴンJ.ダブナー『超ヤバい経済学』望月衛訳、東洋経済新聞社、p.183)

    ・ロシア革命(1917年、大正6年):レーニン登場

    ・張作霖、北京政府に対し満州の独立を宣言。日本政府は満州において張作霖を支援。

    ・アメリカがドイツに対して宣戦布告(1917年4月6日)。

    ・金輸出禁止(大正6年、1917年9月)

    ●内務省が阿片製造を四社に限定(これまでは星製薬一社に限定されていた)星製薬株式会社、株式会社ラヂウム商会(–>武田薬品)、三共株式会社大日本製薬株式会社(星製薬株式会社は1915年から阿片製造をしていた)なお平成の現在、武田薬品、三共製薬、大日本製薬の3者が特権的にモルヒネを製造し莫大な利益をあげているはずである。(倉橋正直氏著『日本の阿片戦略隠された国家犯罪』より)

    ・英国バルフォア外相が英シオニスト会長ロスチャイルド卿にユダヤ人国家建設を約束(第一次世界大戦中のイギリスの中東地域占領。ユダヤ人と先住のアラブ系パレスチナ人との紛争の始まり)

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    <バルフォア宣言>(1917年11月2日)イギリス政府がパレスチナにユダヤ人国家の創設を宣言したものとされているがこれは当時のイギリスの外務大臣だったアーサー・バルフォアのライオネル・ロスチャイルド卿宛の書簡だったという。

    イギリス政府は、パレスチナにユダヤのための民族郷土を建設することに賛成し、この目的の達成を容易にするため、最善の努力を払うものである。ただし、パレスチナに現住する非ユダヤ人民の市民的・宗教的権利、および他の諸国におけるユダヤの享受する諸権利と政治的地位が損なわれるようなことは許されない旨、明確に了解される。(ジョン・コールマン博士『石油の戦争とパレスチナの闇』太田龍監訳、成甲書房、pp117-118)

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    ・石井・ランシング協定調印(中国での機会均等、門戸解放、日本の特殊地位の承認など)

    ●シベリア出兵(1918年、大正7年8月2日):満州が再び脚光を浴びはじめた。

    ●「米騒動」(大正7.8.3~)米の買い占めで米価が高騰(一升(1.5kg)10銭(T3)–>34銭(T7.6)–>45銭(T7.7))、富山県の海岸地帯にはじまった「米騒動」が全国に広がった。寺内内閣はこの鎮圧のために軍隊を出動させたために総辞職に追い込まれた。(—>原敬(賊軍かつ平民だった:閨閥のはじまり)内閣の成立、大正7年9月25日。薩長主流の藩閥政治の終焉)

    ●朝日新聞への弾圧(白虹事件):政客のような記者の否定、政府の反対勢力としての新聞の役割の終わり(大正7年12月8日)(詳細は、関川夏央氏『白樺たちの大正』173-198頁を参照)

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    ・戦闘爆撃機登場。飛行機による近接航空支援の確立(1917~1918年)

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    ●第一次世界大戦終結(1918年11月)800万人以上が死亡(ロシア:180万人、フランス:140万人など)主戦場となったフランスの繊維産業は壊滅的打撃をうけた。イギリス、フランス、ドイツの金総保有量は戦争が終わったときはわずか20億ドル程度にすぎなかった。

    ・スペイン風邪(インフルエンザ、H1N1)の猛威(1918~1919年)世界で2500万人以上(4000万人ともいう)が死亡。日本では2300万人が罹患し38万人余り(これも一説びは約15万人)が死亡。近代演劇の旗手、島村抱月(47歳)もこのインフルエンザで死亡した。

    ●ワイマール共和国成立(1918年11月9日

    >1933年ヒトラー独裁体制により終焉)社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国成立を宣言した。これにより1919-1933年までドイツは14年間のマルクス主義制度(ワイマール共和制)下にあった。しかしこの体制は腐敗、頽廃、犯罪の蔓延などで大きく混乱・荒廃し、ナチ党・ヒトラーの台頭を加速した。

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    1919年(大正8年)★労働者の目覚め、労働運動の芽生え。

    ・神戸川崎造船所で8時間労働と賃上げを要求してストライキ。

    ・コミンテルン(第三インターナショナル)結成レーニン主導のもと、ロシア共産党を中心に各国の共産党を糾合。(ただし、ロシアの方針転換にともない1943年解散)

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    ・「三・一事件(3月1日)」:朝鮮半島の京城・平壌・義州で一斉に争乱が起こった。独立を願う朝鮮民族運動。日本は弾圧し死者1200人以上。

    ・「北京五・四運動(5月4日)」:アジア的専制制度(家族制度=儒教)の打倒運動※五・四運動は外国勢カを標的にしたばかりでなく、外国と結びつく中国人すべてをも標的にした。これは中国革命における新しい要素であり、商工業者や秘密結社を不安にした。租界内あるいはその周辺の邸宅で、安全かつ快適に暮らしている上海の資本家の立場からは、革命は邪道に入ってゆくように見え、彼らの生活と中国経済に対する支配力を脅かすように見えた。北京における学生運動の指導者の一人は穏健な知識分子で、名前は陳独秀(チエントウシウ)、北京大学文学院の院長〔文学部長〕で、そこの図書館では毛沢東が働いていた。陳は北京大学にいた二年間で中国の先進的知識分子のリーダーとなり、雑誌『毎週評論』を舞台に、革命的左翼の新思想を広めた。この雑誌は可能な限り多くの読者を獲得するために、日常的な口語文で書かれていた。五・四運動が北京で勃発したとき、彼は衰世凱を弾劾するパンフレットを発行し、そのため三カ月間の投獄と拷問を味わった。釈放後、彼は大学の職を辞して上海に移った。そして1919年秋には、そこで若い無政府主義者、社会主義者、マルクス主義者たちの中心にいた。・・・上海における、陳独秀と彼の無害かつ動揺しがちな知識分子のグループは、レーニンおよびマルクスの教義は現下の中国の情勢に適合するものであり、それを実践するためには、中国に共産党を創立しなければならないと決定した。共産主義インターナショナルの代表、グレゴリー・ヴォイチンスキーが討論に加わったことが、彼らがこの結論に到達するのにあずかって力があったのは明らかである。陳独秀の大学在職時代の同僚や学生たちの援助で、中国各地にマルクス・レーニン主義の研究グループが組織された。湖南省の省都、長沙でこの組織にあたったのが、若き日の毛沢東であった。(S.シーグレーブ『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、pp.213-214)

    ●ベルサイユ講和条約(1919年6月28日)オスマントルコ帝国は細かく解体され、ソヴィエト連邦が国際的に承認された。敗戦国ドイツのは巨額の戦争賠償金が課せられた。

    ・ドイツにおいて民主主義的社会主義を唱え、ドイツ共産党を離れたローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが暗殺された。

    ・この頃ドイツはハイパーインフレに見舞われていた。(—>有能な財政家、ヒャルマー・ホラース・グリーリー・シャハトにより1920年代初頭に終結)

    ●最初の陸軍特務機関(対外情報機関)設置(1919年)ウラジオストク、ハバロフスク、ブラゴベシチェンスク、ニコラエフスク、吉林、ハルピン、チタ、イルクーツク、オムスクなど極東ロシア地域に設置。(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.42)

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    ・武者小路実篤はこの年の年初に「新しき村」を宮崎県日向の山奥に建設することを決めた。(関川夏央氏『白樺たちの大正』より)

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    1920年(大正9年)■国際連盟に日本は常任理事国として参加。日本はいちおう軍事大国となった。(その実、内情は火の車)★日本は表向きの好況で投機熱が煽られていた。しかし内実は戦争関係の不自然な政府の支出と戦時中の浪費性向と熟慮の停止からおきた好景気の外観でしかなかった。案の定大正9年3月15日から株式市場は大暴落し不況は全国に始まりだした。(城山三郎氏著『男子の本懐』より)

    ・大正バブルの崩壊=戦後恐慌(大正9年3~4月)

    ・官営八幡製鉄所でストライキ発生、溶鉱炉の停止。

    ・上野公演で最初のメーデーが開かれた。

    ・労働争議や労働者のデモンストレーションは各地で頻発するようになった。※資本家と労働者の葛藤(原敬内閣はこれを放置していると見られた)

    「今日の世界に於いて、尚ほ階級専制を主級する者、西には露国の過激派政府の『ニコライ、レニン』あり、東には我原総理大臣あり。(拍手起り『ノウノウ』と呼び其他発言する者多く、議場騒然)。若し私は此・・・(『懲罰々々』と呼び其他発言する者多し)、終わりまで御聴きなさい。其提げて立つ所の階級が『レニン』は労働階級である。原首相は寧ろ資本家階級であると云うことは違うけれども、倶に民本主義の大精神を失うことは同じである。(拍手起り『ノウノウ』と呼ぶものあり、議場騒然)」(永井柳太郎の演説より)

    ●「米騒動」:米価高騰に対する群衆の反乱(全国500箇所以上での暴動)

    ●原敬内閣(第43回議会)での軍需費の大幅な増大(一般歳出の半分)。

    ・日本で初めて国勢調査が実施される(1920年7月、大正9年)。東京市の人口:217万人(—>1932年、昭和7年、575万人)

    ・学歴志向の高揚大学生+高等専門学校生数の増加:86000人(T10)–>126000人(T14)中学+高等女学+実業学校生の増加:445000人(T10)–>744000人(T14)

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    ●インドの天才数学者ラマヌジャンが32歳で病死(1920.4.27)

    ・中国共産党発足(1921年7月、大正10年)コミンテルンの支持。しかしコミンテルンは中国革命の中心的担い手は国民党であるとして、中国共産党に対して国民党との連合戦線をはるよう求めた。(—>「第一次国共合作」(1924.1)へ)

    ・ワシントン会議(1921~22年、大正10~11年)この会議は大幅な軍縮を提案したが、同時に日英同盟破棄につながった。(アメリカ中心の日本封じ込め体制)

    ・ムッソリーニの台頭(1922年、大正11年)

    ●イーライリリー社、はじめての産業規模でのインスリン生産を始める(1922年6月、大正11年)。ただしインスリンで助かるかそれが裏目に出るかは紙一重の差だった。純度と力価の問題が残っていた。

    ・ドイツの戦後インフレ4.2マルク/ドル(戦前)–>8(1918年)–>62.5(1921年)–>6000(1922年)–>15000(1923年、初頭)–>15万(1923年、夏)–>4.2レンテンマルク(戦前に比して1兆分の1になった1923年11月)

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    ●「バーデン・バーデンの盟約」(1921年、大正10年10月27日)永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次がドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンのホテルで深夜まで話し込んだ。今ではなかば伝説と化している「盟約」とは、(1)長州閥専横人事の刷新、(2)軍制改革(軍備改編、総動員体制の確立)の大目標に向けて同志を結集すること。(—>「一夕会」—>満州事変へ(注:戦後に岡村寧次が語ったこと))

    ・原敬暗殺(1921年、大正10年11月4日)

    ・大隈重信没(1922年、大正11年1月10日)

    ●山県有朋病死(1922年、大正11年2月9日)陸軍内部の出身地閥による派閥闘争の終焉

    ●全国水平社の創立宣言(1922年、大正11年3月2日):京都岡崎公会堂松本治一郎、西光万吉、阪本清一郎、米田富、山田孝野次郎、柴田啓蔵ら

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    1923年(大正12年)

    ●関東大震災(大正12年9月1日午前11時58分44秒):日本の工業力への大打撃。死者・行方不明者10万5千余人。被災者300万人、被害総額55億円(GDPの半分)。(東京市長:後藤新平)

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    そのうち、私たちは空地を出て、歩き始めました。誰かが歩き出したら、みんなゾロゾロと歩き出しただけで、誰も行先があるわけではありません。亀戸天神に近づく頃、避難民の群は大きく膨れ上って、私たちは、道幅一杯の長い行列になってノロノロと流れて行きました。みんな黙っています。しかし、時々、行列の中から、見失った家族の名前を呼ぶ叫びが聞こえます。私たちも、思い出したように、妹や弟の名前を呼びました。けれども、あの空地にいた時、柳島尋常小学校の子供たちはみんな焼け死んだ、と誰かが言っていましたので、もう諦めていました。感情が鈍くなっていたというのでしょうか、悲しみを鋭く感じるのでなく、自分というものの全体が悲しみであるような気分でした。家族の名前を呼ぶ声が途絶えると、行列の中から、時々、ウォーという大きな坤き声のようなものが起ります。それを聞くと、私の身体の奥の方から、思わず、ウォーという坤き声が出てしまいます。その夜は、東武鉄道の線路の枕木に坐って、燃え続ける東京の真赤な空をボンヤリと眺めていました。(清水幾太郎ら『手記・関東大震災』1975より)(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、p.4)

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    ※後藤新平の復興計画(チャールズ・ピアーズの協力)1)遷都すべからず。2)復興に30億円(2011年換算では175兆円)を要すべし。3)欧米最新の都市計画を採用採用して我が国にふさわしい新都を造営せざるべからず。4)新都市計画実施のためには地主に対し断固たる態度を取らざるべからず。(『文藝春秋』2011年6月号、pp.96-97)※蔵相井上準之助は国内初のモラトリアム(9月7日、支払猶予令)を公布した。東京は廃墟と化し、景気は益々後退。大量の不良債権が発生。政府は「震災手形」を発行し、それを政府保証で日銀に割り引いて引き取らせることで、結果的に不良債権をごまかし続けることになった(大正12年9月27日、日銀震災手形割引損失補償令を公布)。この時の日銀の手形の再割り引きは4億3000万円に上った。※震災手形:関東大震災により、特に建築、土木、不動産関係の手形が紙クズ同然になったが、政府はそれを「震災手形」化してとりあえず急場を凌いだ。しかし悪徳業者は、震災以前の不良債権まで「震災手形」に紛れ込ませ、市中の不良債券を日銀に引き受けさせることになった。結局これによる赤字財政は、後々まで悪い影響を残すことになった。※流言飛語の飛び交うなかで、多数の在日朝鮮人が虐殺され、社会運動家の大杉栄と伊藤野枝、橘宗一(6歳)が憲兵隊(甘粕正彦大尉ら)によって惨殺された(大杉事件(9.16))。大正デモクラシーの終焉を象徴する事件だった。(「一致行動」のみに長けていて「個人性格」を持ってない「集団」(大衆)の登場)

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    例えば警察は、東京下町の住民を本所被服廠跡の一方所に誘導したため、集まった4万の群衆の衣服に火が移り、3万8000人が焼死した。東京市内の死者は6万といわれているので、その6割をこえる人々は警察の強権的な誘導によって死んだことになる。また、「朝鮮人来襲」の流言を拡げたのも警察であった。震災の翌日、9月2日、政府は米騒動のときでさえとらなかった戒厳令(この場合は行政戒厳)を施行し、五万の軍隊で「朝鮮人来襲」にそなえた。警察の呼びかけによって、青年団、在郷軍人、消防隊などを軸として自警団が組織され、彼らは各地でーーただし火災被害の少ない地域でーー朝鮮人を惨殺していった。殺された朝鮮人は、政府の発表では231人とされているが、実数は10倍を越えるといわれている。ほかにも、多くの中国人が殺された。このような官民一体の大量虐殺の情勢のなかで、多くの社会主義者や無政府主義者が殺害されていった。大杉栄、伊藤野枝らも東京憲兵隊の甘粕正彦大尉に

    「国家の害毒」として殺されたのである。しかも、官憲と自警団による犯罪は詳しく調べられることはなく、責任を問われることもほとんどなかった。(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.2-3)

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    ※伝染病の流行(吉村昭氏『関東大震災』文春文庫、p.246)災害地の衛生状態は最悪だったが、その具体的なあらわれとして、伝染病の流行が見られた。震災直後には、東京府一帯に赤痢が大流行して2619名の患者を出し、それが衰えた後、腸チフスが猖獗をきわめた。その罹病者は4675名にのぼり、中でも北豊島郡などでは9、10月の2カ月間に700余名の発病者が出た。その他、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳膜炎、天然痘がそれぞれ流行し、伝染病患者は総計14364名という平年の2倍以上の数に達し、死者1827名を数えた。※見事な学生の羅災者救援さらに学生たちは、「東京羅災者情報局」を作った。今でいう、情報ネットワーク作りである。彼らは東京市と協力し、全市にわたる避難者名簿を精力的に作成し、尋ね人探しを容易にした。全市および隣接町村に散っているすべての傷病者収容所を訪ね、その氏名、住所リストを作った。区役所と警察を歩き、死亡者名簿を作成した。また、歩いて調べた正確な焼失区域地図を作って、新聞を通して公表したのである。9月2日には戒厳令が布かれ、地方の人が東京に入ることは難しく、親族の安否を尋ねることもできなかった。学生の作ったデータは、人々の不安をやわらげたのだった。末弘教授は、「平素動(やや)ともすれば世の中の老人達から、私事と享楽とにのみ没頭せるものゝ如くに罵られ勝ちであった現代の学生が、今回の不幸を機として一致協力文字通り。寝食をすら忘れて公共の為めに活動努力し、以て相当の成績を挙げることが出来たことは、平素学生の「弁護人」たる私としては此上もない嬉しいことである」と書いている。阪神間の大学教授で末弘教授と同じ思いを今回持った人もいるであろう。72年前の権威的な社会でのこと、民衆の自立の力は弱く、学生の救援活動はきわめてエリート的である。それにしても、避難民の自治を促し、警察やマスコミが今日やっている情報センターとしての機能をはたしていったことに、私は感心する。学生たちの救護活動から、3カ月後に東京帝大セツルメント(会長は末弘厳太郎)が作られ、2年後の東京本所における活動に発展していく。私たちはこんなボランティアの歴史があったことをすっかり忘れている。昭和の全体主義があり、戦争があり、敗戦から経済復興、そして富裕な80年代社会へ移りゆく間に、新しい出来事の記憶は、それ以前の人々の反応の記憶をかき消してしまったのである。(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.72-73)

    ●大杉事件(大正12年9月16日)憲兵隊分隊長甘粕正彦が、社会主義無政府主義者大杉栄と妻伊藤野枝、甥の橘宗一(6歳)を絞殺の上、空井戸に放り投げた。まことに残虐な行為だった。(付録:大杉栄に同調していた無政府主義者(新聞『労働運動』同人)和田久太郎、村木源次郎、山鹿泰治、岩佐作太郎、水沼辰夫、和田栄太郎、近藤憲二ら)

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    【大杉栄『生の闘争』の中の『鎖工場』より】おれは再びおれのまわりを見た。ほとんど怠けものばかりだ。鎖を造ることと、それを自分のからだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によって左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。こんなやつらをいくら大勢集めたって、何の飛躍ができよう、何の創造ができよう。おれはもう衆愚には絶望した。おれの希望はただおれの上にかかった。自我の能力と権威とを自覚し、多少の自己革命を経、さらに自己拡大のために奮斗努力する、極小の少数者の上にのみかかった。おれたちは、おれたちの胃の腑の鍵を握っているやつに向かって、そいつらの意のままにできあがったこの工場の組織や制度に向かって、野獣のようにぶつっかってゆかなければならぬ。(松下竜一氏著『ルイズ』講談社、p.95より)

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    夜、芝生や鳥小屋に寝ていると、大勢の兵隊が隊伍を組んで帰つて来ます。尋ねてみると、東京の焼跡から帰つて来た、と言います。私が驚いたのは、洗面所のようなところで、その兵隊たちが銃剣の血を洗つていることです。誰を殺したのか、と聞いてみると、得意気に、朝鮮人さ、と言います。私は腰が抜けるほど驚きました。朝鮮人騒ぎは噂に聞いていましたが、兵隊が大威張りで朝鮮人を殺すとは夢にも思つていませんでした。…………軍隊とは、一体、何をするものなのか。何のために存在するのか。そういう疑問の前に立たされた私は、今度は、大杉栄一家が甘粕という軍人の手で殺されたことを知りました。……私は、判らないながら、大杉栄の著書を読んでいたのです。著書の全部は理解出来ませんでしたが、彼が深く人間を愛し正義を貴んでいたことは知つていました。人間を愛し、正義を貴ぶ。細かいことが判らなくても、私には、それだけでよかつたのです。それが大切だつたのです。その大杉栄が、妻子と共に殺されたのです。殺したのが軍人なのです。軍隊なのです。日本の軍隊は私の先生を殺したのです。軍隊とは何であるか。それは、私の先生を殺すものである。それは、私の先生を殺すために存在する。……(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、p.5)

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    ●トルコ共和国が正式に誕生(1923.10.29、PM8:30)大統領選挙では”トルコの父”ケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)がトルコ共和国初代大統領に選出された。—>カリフ制の廃止。政教分離の確立。

    ●虎ノ門事件(1923年12月27日):難波大助が摂政宮(後の昭和天皇)をステッキ銃で狙撃。

    ●レーニン死亡(1924(大正13)年1月21日)

    ●憲政会(加藤高明)第一党に復帰(大正13年5月10日、第15回衆院選挙)

    >加藤高明内閣(護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)内閣)成立(大正13年6月9日)斎藤隆夫(憲政会)の5年来の夢であった普選法案(衆議院議員選挙法改正法律案)が陽の目をみることになった。

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    ・1924年はインド独立運動史にとって記念すべき年だった。1.ヴィール・サルバルカル(ブラーミン出身の文民政治家)の帰国2.マハトマ・ガンジーの釈放不可触民解放についてはガンジーはあくまでも表面的な保護者でしかなく、何ら彼らの現実を変える事が出来なかった。アンベードカルは不可触民解放の現実的指導者であり、二人は互いの力量を認めながらも激しく対立した。3.ビームラーオ・アンベードカル(インド不可触民解放の父)が政治の表面に姿を表わす。(ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』山際素男訳、光文社新書より)

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    1925年(大正14年):ラジオ放送開始■「治安維持法」(日本を戦争に向かわせることになる大悪法)成立(内務大臣:若槻礼次郎、大正14年3月19日)治安維持法は思想弾圧のための法律で最高刑は死刑。昭和16年に全面改正され、取り締まり範囲の拡大、予防拘禁まで採用された。

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    ※第一条「国体もしくは政体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的」として結社を組織したり、これに加入したものは十年以下の懲役か禁錮に処する。

    ●●「国体」とは●●当時の憲法の基本秩序である天皇主権と資本主義経済秩序をいう。(長谷部恭男氏著『憲法とは何か』岩波新書、p.23)

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    ※星島二郎の反対演説

    「反動内閣が天下を取りまして、此の条文を楯に取ってもし言論を圧迫し、結社を圧迫するならばーー私が仮に当局者となってやるならば此法案の一条でもって、日本の大部分の結社を踏み潰すことが出来る」と警告した。(結局、同法は衆議院では246対10人の大差で可決された。反対者のなかには星島のほかに、尾崎行雄、坂東幸太郎の二名ののちに同交会のメンバーとなる議員の名が見られる。このときの星島の危惧が現実のものになるには、それからあまり時間はかからなかった)。(楠精一郎氏著『大政翼賛会に抗した40人』朝日新聞社、pp.57-58)■「普通選挙法」成立(大正14年3月29日—>5月5日公布)(上記2法はセットで成立していた)

    ●孫文死亡(北京にて、肝臓癌、1925年3月12日、59歳)いわゆる「大アジア主義」演説(於神戸1924年11月28日)

    「・・・あなたがた日本民族は、西方覇道の手先となるか、それとも、東方王道の干城となるか、それは日本国民が慎重におえらびになればよいことです」。資本主義=重財而徳軽共産主義=重物而軽人亜州主義=重人並重徳(=アジア主義)(孫文は、この演説のなかで井伊直弼が安政条約を結んだ1858年から明治27年(安政の不平等条約解消)までの36年間の日本が、欧米の植民地であって独立国ではなかったと規定した)

    ●日本がイスタンブールに大使館を設置(1925年3月)トルコとの外交関係成立。日本としては10番目、アジア地域でははじめての大使館であった。初代大使は小幡酉吉。「日土貿易協会」も設立され初代理事長は山田寅次郎。

    ・イギリスが1ポンド=4.86ドルで金本位制に復帰(1925年4月)当時の大蔵大臣はウインストン・チャーチルだった。イギリスはこの後、コスト高の炭坑業界にはじまり、失業者続出の大不況に見舞われることになる。

    ・フランスのフラン大暴落1ドル=5.4フラン(1918年)–>11フラン(1918年)–>49フラン(1926)

    ●5・30事件(1925年5月30日)日本資本の内外綿紡績工場の争議中に日本人監督が組合指導者の一人を射殺し十数人を負傷させたことに端を発した大惨事。これをきっかけの中国全土に反帝国主義運動が拡大。

    ・大正天皇崩御(48歳、大正14年12月25日)

    >昭和(「百姓昭明、協和万邦」、昭和元年は1週間のみ)

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    ・南京に国民政府誕生、北京へ向かい北伐開始(1926.7)。満州(張作霖)との軋轢。(—>山東出兵(1927.5))※北伐:各地の軍閥を攻撃して帰順させようとした。

    ○国民党左派(宋慶齢):武漢を目指して北西へ進軍

    ○国民党右派(蒋介石):南昌、上海に向けて進軍

    ・1926年11月、国民党左派が武漢を攻略、国民政府は武漢に移転。

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    ●若槻内閣誕生(大正15年1月30日)—>●田中義一内閣への変遷議会構成は憲政会165・政友会161・政友本党87の議席数(政友会は犬養総裁の革新倶楽部を吸収)。この内閣は朴烈怪写事件・金融恐慌など激しい政争。経済的混乱で倒れ(1927年、昭和2年)、田中義一内閣という久しぶりの政友会内閣ができた(1927年、昭和2年4月)。

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    ***********************大正から昭和へ**************************

    ※「大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。この魔法はどこからきたのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました。・・・国というものを博打場の賭けの対象にするひとびとがいました。そういう滑稽な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。そういうことがパターンになっていたのではないか。魔法の森の、魔法使いに魔法をかけられてしまったひとびとの心理だったのではないか。・・・あんなばかな戦争をやった人間が不思議でならないのです」(司馬遼太郎氏『雑談「昭和」への道』より)

    ※「参謀」という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略を企んでは国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。(司馬遼太郎氏、『この国のかたち<一>』より)

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    1927年(昭和2年)から1939年(昭和14年、第二次世界大戦勃発)まで【日本の政治経済の激動時代:20世紀末~21世紀を考える試金石の時代】

    ●政友会と民政党(憲政会と政友本党の合流;1927.6)という二大政党政治が始まった。★首相:田中義一(政友会)、昭和2~4年(政友会217・民政党216)★徴兵制について(以下、清水寛氏著『日本帝国陸軍と精神障害兵士』不二出版より抜粋引用、pp.22-63)徴兵令・明治6年(1873)–>新徴兵令・明治22年(1889)–>兵役法・昭和2年(1927)1.「徴兵令」時代国家武装の具として、一般兵役義務(「必任義務」)として国民皆兵を掲げようとした。(免役要件は士族階級・有産階級に有利)。2.新「徴兵令」時代徴兵要員を確保するため主として免役条項の整理改定。日清・日露戦争への大兵力動員とその後の侵略戦争が可能となった。3.「兵役法」時代(徴兵令全文改正)国家全体を軍事化するという徹底した必任義務としての徴兵制動員兵力総数

    ・昭和6年(1931)=満州事変:27万8000人

    ・昭和12年(1937)=日中戦争開始翌年:130万人超

    ・昭和16年(1941)=大東亜戦争突入:240万人超

    ・昭和20年(1946)=敗戦:716万5000人(当時満17歳以上45歳以下の日本国籍を有する男子は約1740万人)このほか特別志願兵令や特別志願兵制度によって朝鮮と台湾で「志願」という名の実質的強制徴兵が(植民地で)行われた。

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    <孤高の政治家、斎藤隆夫氏の発言より(昭和3年)>さなきだに近時国民思想の流れ行く有様を見ると、一方には極端なる左傾思想があると共に、他の一方には極端なる右傾思想があり、而して是等思想は悉く其向う所は違っているけれども、何れも政党政治とは相容れない思想であって、彼らは大なる眼光を張って、政党内閣の行動を眺めて居る。若し一朝、政党内閣が国民の期待を裏切り、国民の攻撃に遭うて挫折するが如き事があるならば、其時こそ彼等は決河の勢(決潰した堤防を河水が流れ出す勢い)を以て我政治界に侵入して政治界を撹乱し、彼等の理想を一部でも行おうと待設けて居るのである。故に、今日は政党内閣の試験時代であると共に、政治界に取っては最も大切なる時である。

    ・・・我々が政党政治の運用を誤れる現内閣を糾弾せんとするのは、決して微々たる一内閣の存廃を争うが如き小問題ではなくて、実に将来に於ける政党内閣の運命延いて憲法政治の運命に関する大問題である事を記憶せられたいのであります。(松本健一氏著『評伝斎藤隆夫』、東洋経済、p234-235より引用)

    ■田中義一(政友会)内閣は長州・陸軍閥の田中義一を首相に戴き、内務大臣は司法次官・検事総長出身の鈴木喜三郎とした、政党内閣とは縁もゆかりもない、実質的には官僚・軍閥内閣であった。(松本健一氏著『評伝斎藤隆夫』より引用)※現内閣(田中内閣)は政党内閣の本領を全然没却して、党利党略の為めに、国家民衆の利益を犠牲に供して憚らねものである。(昭和3年、斎藤隆夫(民政党))

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    <幻の「田中上奏文」:日本語原文は存在しない>1927年、日本政府の首相、将軍の田中[義一]は天皇への覚書の中で次のように述べた。「明治天皇の遺訓により、我々の第一歩は台湾征服であり、第二歩は朝鮮を獲得すべきことにあった(これはすでに実現した)。今は、満洲、モンゴル、中国の征服という第三の歩をすすめなければならない。これが達成されれば、我々の足は残りのアジアすべてに及ぶであろう」。(シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.7-11)

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    <蒋緯国の追憶(1990.5)>本来なら、あのころの中国と日本は友好的であるべきでした。それなのに日本は、中国の領土を日本のものとし、そこを前面の歩哨に押したてて日本自体の国防の安全地帯にしようとしたのです。ロシアの南下をくい止めるために共に連合して助けあって対抗しなければならなかったのにですよ。なぜこうならなかったかを見ていけば、あのころのお国の田中義一内閣がもっとも大きな誤ちを犯したということになる。彼の内閣のときから中国を侵略し、共産中国をつくる元となる役割を果たしたといっていいでしょう。私は田中首相が中国を攻めてきたという言い方はしませんが、彼の戦略が間違っていたとの断定はしてもいいでしょう。お国の誤りは第二段階(蒋緯国:いつ誰と協力し、いつ拡張するのか、つまり生存を賭けた戦いを行うのか、どのように拡張したら効果があがるのかを考えること)の失敗だったということです。(保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.71)

    ■「健康保険法」施行。医療保険における診療報酬の支払いとレセプトの審査は、基本的には地域医師会の仕事だった。※診療報酬はこの時より昭和17年度(医療国家統制開始)までは、政管健保の診療報酬は政府と日本医師会の診療契約に基づいて人頭割り請負方式で支払われた。また組合健保の診療報酬は、個々の組合と医師会との契約で決められた。

    ・震災手形損失補償公債法案、震災手形前後処理法案(震災手形二法)の審議経営難に陥っていた鈴木商店とメインバンクの台湾銀行救済目的

    ●金融恐慌:莫大な不良債権の顕在化。銀行は続々と破綻。鈴木商店、川崎造船所の経営難の表面化。台湾銀行破綻。大阪の近江銀行の支払い停止と閉鎖。4月21日にモラトリアムの緊急勅令(—>5月10日)。

    –◇日本のマルクス主義の崩壊(現実的破綻)◇–

    ■「三・一五」事件:共産党一斉検挙(昭和3年、1928.3.15)これによりプロレタリア文化運動は壊滅に瀕した。(橋浦泰雄ら「ナップ」(全日本無産者芸術連盟)を結成)(昭和4年4月16日にも再び残った共産党の大物が一斉検挙された。つまり戦争に反対する勢力が、治安維持法違反ということで、田中義一内閣の時に一斉に監獄に入れられた)。■これに続く1930年代はコミンテルン(共産主義運動の国際組織)の強い統制下(共産主義と共産党の不乖謬性)で、プロレタリア文化運動は柔軟さを失い瓦解して行くのであった。(一例:マルクス主義理論家福本和夫の失脚)※共産主義は極度に体系的な理論であり、それが神格化されてしまい、日本において具体的現実によって検証される機会を喪失していった。※「集団転向」(昭和4年)共産党指導者たちの集団転向とその声明文は国家主義と戦争肯定の思想を謳っており、日本の大陸侵略への口実を与え、戦争合理化の根拠ともなった。※河上肇『獄中独話』(昭和8年)共産主義の実践の断念を声明。しかしその理想と理論への確信は微動もしないこともまた明白に述べている。

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    ・(余談)第一回日本オープン(旧程ケ谷コース)開催この当時はゴルフは特権階級の占有物で、軍艦成金赤星弥之助の六男赤星六郎が優勝。赤星六郎は唯一のアマチュアのチャンピオンだった。

    ・アメリカ、バージニア州で最高裁が断種措置を許可した。(1927年)

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    ・1927年3月21日蒋介石(右派)の部下の白崇禧将軍の北伐軍が上海郊外の龍華に到着。これを機に上海の労働者は一斉蜂起し、3月23日上海は労働者の管理下に入った。(ソ連、スターリンの強力な指導があった)

    ・汪兆銘(宋慶齢とともに左派、孫文後継)が武漢国民政府首席に就任

    ●蒋介石反共クー・デタ(1927年4月12日):反共列強の歓迎があった。

    「青幇(チンパン)」(上海やくざ集団、ボスは杜月笙)と蒋介石の関係についてはスターリング・シーグレイブ『宋王朝』(田畑光永訳、サイマル出版会)を参照。これにより第一次国共合作が崩壊。

    ●蒋介石(「青幇」の殺し屋?)が南京に国民政府樹立(1927年4月18日)蒋介石は政権基盤維持のための資金調達に関しては、脅し、ゆすり、たかり、強制没収、誘拐身代金強奪など悪の限りを尽くした。また南京政権に反目する指導者(北洋軍閥ー段祺瑞・張作霖の系譜)や作家などを冷酷非常に葬り去った。(—>「北伐」へ)

    ・1927年7月14日、宋慶齢(孫文未亡人)は蒋介石と絶縁。同時に兄弟・姉妹の宋一族とも決別した。(宋一族の宋子文は蒋介石の(脅しによる強制的な)資金源。すでに武漢国民政府の汪兆銘も蒋介石側に立っていた)。

    ・宋慶齢は蒋介石夫人宋美齢の姉。その生涯を通じてソ連のスパイだったことは、現代においても秘匿されている。(ユン・チアン『マオ<上>』講談社、p.237)

    ・1927年11月ソ連でスターリンがトロツキーら反対派を除名。スターリンはこの後中国革命支援を止めてしまった。

    ・1927年12月1日、蒋介石と宋美齢と結婚。

    ・アメリカ、ウォール街の株価が急上昇。1924年末から1928年初頭にかけて2倍になっていた。(—>1928年8月に頂点—>公定歩合6%に引き上げをきっかけに世界恐慌)

    ・エルネスト・チェ・ゲバラ誕生(1928年6月14日~1967年10月9日戦死)

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    ●初めての「普通選挙法」による総選挙(1928年、昭和3年2月20日)革新、無産政党が躍進。ただしこの動きは満州事変に向かう軍事的な動きが後戻りできないまでに始まっており、田中義一内閣は労農党関係の団体に解散命令をだしたり、共産党への大弾圧を行い、昭和3年7月には「特高」までも設置した。

    ●張作霖爆殺事件(関東軍参謀河本代作大佐ら、1928年、昭和3年6月4日)昭和陸軍の体質があからさまに発揮された重大な事件であった。つまり昭和の日本は早くも権力の空隙をあらわにしていた。どこに権力があり、だれが責任をとるのかという指導力の核心が分裂してしまっているがために、当事者能力を欠いていた。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)この事件は政治家と陸軍の総意でもみ消され、首相田中義一は孤立してしまっていた(—>天皇激怒–>田中義一辞職–>田中急死–>宇垣一成(=昭和陸軍=長州閥)のはじまり)。この張作霖爆殺事件処理のゴタゴタは「沈黙の天皇」(半藤一利氏著『昭和史1926->1945』平凡社、p46)をつくりあげ、陸軍が横暴を極めるようになってしまった。これにより張作霖の息子、張学良は反日政策をとるようになった。張学良軍20万、関東軍14000の対峙。(石原莞爾、板垣征四郎、河本大作、花谷正らの身勝手な満蒙政策の具現化。—>柳条湖事件(1931年、昭和6年9月18日)—>満州事変へ)※<関東軍とは>関東州(遼東半島の南端部で満州地方の南端、軍港旅順と貿易港大連などを擁した)と南満州鉄道・満鉄附属地(拓務省関東庁管轄)を警備するために設けられたのが関東軍である。1935年8月頃からは満鉄総裁・副総裁人事、満州電々などの人事を蹂躙し、さらには満州国の人事や組織へも傍若無人に介入しはじめた。(古川隆久氏著『あるエリート官僚の昭和秘史』芙蓉書房出版、p.76などより)※張作霖爆殺は日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったことは、実際にはスターリンの命令でナウム・エイティンゴン(トロツキー暗殺に関与)が計画し、日本軍の仕業にみせかけたものだという。(ユン・チアン『マオ<上>』講談社、p.301)

    ・奉天軍閥の張学良が国民党に帰順、蒋介石が北京占領をもって北伐を完了。全中国を概ね統一(昭和3年、1928年10月10日)。

    「宋王朝」:宋子文は蒋介石の資金源だった。「宋家」のルーツについてはスターリング・シーグレイブ『宋王朝』(田畑光永訳、サイマル出版会)を参照(「宋」はもともとは「韓」だったという)。

    ●不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約、パリ条約)の締結(1928年8月)不戦条約は国際連盟第5回総会(1924)においてフランスが提案し採択された「国際間紛争の平和的解決のための保障協定(ジュネーヴ平和議定書)」の思想を踏まえて作られたもので、1928.8月に日本を含め15か国が調印した。条約は1929.9月に発効し1938年までに64か国が締結することになった。しかしこの条約は自衛権に基づく武力行使についての定義や解釈が曖昧で、結局日本が自衛権を拡張解釈して満州事変(1931年)を起こし有名無実のものとなってしまった。そして遂に日本は国際連盟脱退(1933年)に行き着くのであった。

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    ★『大学は出たけれど』(昭和4年、小津安二郎監督の映画)が世相を物語る。※林芙美子『十年間』より(満州は有識無産・失業青年の受け皿)大学を出ても職業への部門は閉ざされ、知己はなく、何等の進歩性もない世界が広がり、青年は涙を忘れ、一日だけの怠惰に日を過ごしてゐたと云いっていゝ。民衆からは力強い正義感と云ふものが忘れられ、信念と云ふものが希薄だったやうに私は思ふのだ。迷える若人たちは何かを探し求めてゐた様子だった。ーー思想や土地や人間や職業を・・・(川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より孫引き引用)

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    ●「一夕会」の誕生(昭和4年、1929年5月19日)午後六時富士見軒にて発会。集るもの大佐、中佐、少佐級で一夕会と命名された。会合は、毎月一回を標準として行なわれ、だいたいにおいて、討議よりも懇親を深め、会員の団結を鞏固にするというのが目的のようであった。会員を重要なポストにつかせ、それぞれの職域で上司を補佐して会の意図するところを実現せるよう、お互に協力しようとするにあった。それにこの一夕は、先に結成されていた同人会、もしくは双葉会と称していたものと、国策研究会(木曜会・無名会)といわれた会との大同団結であったことも注目すべきである。ところでこの一夕は、第一回の会合で重大な申合せを行なっている。『満州事変(一)』(稲葉正夫)によると、(イ)陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること(ロ)荒木、真崎、林の三将軍をもりたてながら正しい陸軍を建て直すことという二点である。一夕会のメンバーは次のとおり。十四期、小川恒三郎。十五期、河本大作、山岡重厚。十六期、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、小笠原数夫、磯谷廉介、板垣征四郎、土肥原賢二。十七期、東条英機、渡久雄、工藤義雄、飯田貞固。十八期、山下奉文、岡部直三郎、中野直。二十期、橋本群、草場辰巳、七田一郎。二十一期、石原莞爾、横山勇。二十二期、本多政材、北野憲造、村上啓作、鈴木率道、鈴木貞一。二十三期、清水規矩、岡田資、根本博。二十四期、沼田多稼蔵、土橋勇逸。二十五期、下山琢磨、武藤章、田中新一。(高橋正衛氏著『二・二六事件』中公新書、p.145)

    ●ヒトラーが28歳のハインリヒ・ヒムラーをSS(Schutzstaffel:ナチ親衛隊)帝国指導者に任命した。(ジョージH.ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、p.23)

    ●世界大恐慌(1929年~、昭和4年10月24日):ニューヨーク株価の大暴落。「暗黒の木曜日」※アンドルー・メロン(当時の財務長官、大富豪)のフーヴァーへの助言

    「労働者、株式、農場主、不動産などの一切を整理し・・体制から腐敗を一掃するのです」※ラッセル・レフィングウェル(モルガン商会)

    「救済策はこうです。チッカーを見守り、ラジオを聴き、密造のジンを飲み、ジャズのリズムに合わせて踊るのを人々にやめさせるのです。・・そして、倹約と労働を旨とする古い経済と繁栄に戻ることです」※1931年に合衆国の金準備が減りはじめたとき、卸売り物価は24%下回っており、失業率は15%を越え、3000もの銀行が倒産していた。(1929年9月4日以降の暴落からルーズベルト政権が発足してニューディール政策を始める1933年までの間にアメリカ全国で約6000の銀行が倒産。540億ドルあったアメリカのマネーサプライは405億ドルと25%が吹っ飛んだ(徳川家広『バブルの興亡』講談社、p.92))※1931年5月11日、オーストリア、ウィーンの銀行、クレディット・アンシュタルト倒産(ラルフ・ホートリー:「恐慌の激しい発作を、世界中の金融の中心地に伝染させた」)※ローズベルトの爆弾発言(J・M・ケインズが支持、1933年7月3日)

    「金との厳密な関係を回復させることによって、為替レートを安定させようという努力は、いわゆる国際的な金融業者の古臭い狂信であり、安定した為替レートは正しく見える誤信である」(P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)

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    ■小選挙区性の提案:「カネのかからぬ選挙」「政情の安定」を理由※小選挙区性に対する尾崎行雄の批判

    「選挙区は小さいほど金がかかるのであり、小党を出られなくして議席の多数が大政党に集中すれば、政情は一見安定するように見えるが、多数が無理を通すことになる。選挙費用の節約と政情の安定を理由とする小選挙区性の提案は、そのあまりのバカバカしさに抱腹絶倒の外はない」※「民主主義の数理」(小林良彰氏論文、数学セミナー、1999年10月号、P8)かなり単純化したモデルであるが小選挙区制と多数決民主主義の矛盾を数学的に指摘している。結論として曰く、・・・1.多数決民主主義に基づいて小選挙区で決定を行うと、小選挙区で議員を選ぶ時と、国会で議決するときの合計2回多数決を行う事になる。多数決を二回重ねれば51%の51%、すなわち26%の有権者の意見が全体を支配することになる。小選挙区制度は民主主義における多数決原理を根本から否定しかねない選挙制度である。2.定数1の小選挙区性下で行われる選挙における候補者が選挙に勝とうとする限り、すなわち得票差最大化行動を取る限り、候補者の政策は同じものになる。つまり小選挙区制においては政策によって選挙が争われることはない。このため我々有権者は形式的選択権を与えられても実質的選択権を剥奪されてしまっているということになる。3.因に、比例代表制においては、多数決を国会の議決の時に一回しか使わないため、多数決民主主義をそのまま反映する。

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    ■このころ浜口雄幸内閣の金解禁政策(昭和5年1月11日)が裏目に出て、日本は経済不況のどん底にあった(—>満州開発が切望されていた)。

    ・為替相場の乱高下—>その操作と悪用。円レートが実勢より高く設定されており輸出不振

    ・緊縮財政に伴うデフレ経済の推進(円レート維持)

    ・求人数激減(資本家と労働者の対立、労働争議)

    ●金解禁政策とは金を自由に輸出することができる金輸出解禁政策で、金本位制復帰のための措置。世界恐慌は金本位制によって発生し伝播したという結論がでている。(高橋洋一氏著『恐慌は日本の大チャンス』講談社、p.151)

    #昭和5年は昭和恐慌の年だ。翌年の6年にはGNPは、昭和4年に比べて18%のマイナス、個人消費は17%のマイナスという目を被うような惨憺たる不況だ。雇用者数は18%も減り、農産物価格は、20%以上も下がった。町には失業者があふれ、失業率は20%を越した。農村の小作農は、4割ぐらいに達する小作料を負担していた上に、農産物価格が暴落したので、生活に困り、欠食児童と娘の身売りが激増した。こうした農村の貧しさに怒り狂った青年将校は、テロに走って、政府要人を暗殺した。若いインテリは、小作農争議、労働争議を指導し、社会主義運動にのめり込んでいった。(竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)#昭和5年日本最初のトーキー映画が上映された。日本での第一作は田中絹代主演の『マダムと女房』で昭和6年だった。(徳川夢声『夢声自伝』講談社文庫)#<金本位制度(金輸出を認める(=金解禁)制度)について>金本位制は、その国の紙幣通貨を金との互換性によって保証するものである。それゆえに通貨の信用度はきわめて高いが、同時に通貨発行量が、国家の保有する金の量によって決められてしまう。金本位制をとる国家間の貿易では、輸出競争力のない国の金が、強い国へと流入していくことになり、結果として国内の通貨供給量がどんどん収縮してゆく。金本位制は、経済的な体力を必要とする厳しい経済体制である。

    ■昭和5年1月11日の金輸出解禁後、半年もたたないうちに2億円余りの金が流出した。この額は、解禁のために英米と結んだ借款の額にほぼ等しいものであった。生糸、綿糸といった主要輸出品の価格が1/3まで暴落した。デフレは緊縮を上回って加速し、労働者の解雇、賃下げが一般化し、労働争議が頻発した。失業者は300万人に及び、率にしておよそ20%を遥かに越えた。

    ■経済の大混乱、政治の混迷は軍部を活気付かせてしまった。農村の困窮、米価や繭価の下落、婦女子の身売り、欠食児童増加(全国20万人)などが社会問題化し、不満が堆積していた。

    ■海軍練習航空隊予科練習生制度の創設(昭和5年5月29日)昭和5年5月29日に教育制度改正があり、勅令により、海軍練習航空隊令が制定され予科練習生制度が創設された。(鳥越注:地方や農村の貧しいが有能な人材を集めて訓練し、戦争に駆り出そうという腹づもりだったのであろうか)。

    ・乙種予科練習生:S5.5.29創設、S5.6.1第一期生入隊

    ・甲種予科練習生:S12.5.18創設、S12.9.1第一期生入隊

    ・丙種予科練習生:S12.10.1創設・入隊

    ・乙種予科練習生(特):S17.12.7創設、S18.4.1第一期生入隊(倉町秋次『豫科練外史<1>』教育図書研究会、1984年、p.82)

    ■青年将校運動の原点となった「桜会」結成(昭和5年9月末)橋本欣五郎中佐:参謀本部第二部第四班(ロシア班)

    「国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力を行使するも辞せず」桜会趣意書:塾々(つらつら)帝国の現状を見るに・・・高級為政者の悖徳(はいとく)行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家・華族、国家の将来を思わず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、縻爛(びらん)文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の自己保存主義等々邦家のため寔(まこと)に寒心に堪へざる事象の堆積なり。然るにこれを正道に導くべき事責を負ふ政権に何等之を解決すべき政策の見るべきものなく・・(秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<上>』より引用)

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    ・ガンジーのダンディ行進(1930年3月)3月12日マハトマ・ガンジーが解放運動の大号令をかけて、インド国中を不服従闘争で満たし400kmの道を徒歩で行進しダンディの浜辺で海水から塩を作りイギリス独占の塩専売法を破った。(第二次不服従運動開始)

    ・インド「被抑圧階級第一回会議」開催(1930年8月8日ナグプール)不可触民解放の父、アンベードカルはダンディ行進を批判しつつもインド独立(スワラージ)と不可触民自らの向上・自立を叫んだ。(ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』山際素男訳、光文社新書より)

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    ●ロンドン軍縮条約締結(1930年、昭和5年4月22日)(首相:浜口雄幸、外相:幣原喜重郎)軍閥と結託した政友会(犬養毅、鳩山一郎ら)は、この軍縮条約締結を「統帥権干犯」だと非難し、民政党内閣を葬ろうとした。・・・それは結論的にいえば政党政治を自己否定し、その責任内閣制から独立した聖域に軍部=統帥権をおくものだった。さらにロンドン軍縮条約締結前後のゴタゴタで海軍の良識派だった山梨勝之進や掘悌吉らがいなくなり、強硬派のアホども(加藤寛治、末次信正ら)が主流となり、対米強行路線へと動き出した。

    <「統帥権干犯」=”魔法の杖”(司馬遼太郎氏、前述)>軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相であろうと誰であろうと他の者は一切口だし出来ない、口だしすれば干犯になる(半藤一利氏著『昭和史1926->1945』平凡社、p46)

    ※鳩山一郎の大ボケ演説(昭和5年4月25日、衆議院演説)政府が軍令部長の意見を無視し、杏軍令部長の意見に友して国防計画を決定したという其政治上の責任に付て疑を質したいと思うのであります。軍令部長の意見を無視したと言いますのは、回訓案を決定する閣議開催の前に当って、軍令部長を呼んで之に同意を求めたと云う其事実から云うのであリます。・・・陸海軍統帥の大権は天皇の惟幄に依って行われて、それには(海軍の)軍令部長或は(陸軍の)参謀総長が参画をLて、国家の統治の大権は天皇の政務に依って行われて、而してそれには内閣が輔弼の責任に任ずる。即ち一般の政務之に対する統治の大権に付ては内閣が責任を持ちますけれども、軍の統制に閑しての輔弼機関は内閣ではなくて軍令部長又は参謀総長が直接の輔弼の機関であると云うことは、今日では異論がない。……然らば、政府が軍令部長の意見に反し、或は之を無視して国防計画に変更を加えたということは、洵に大胆な措置と言わなくてはならない。国防計画を立てると云うことは、軍令部長又は参謀総長と云う直接の輔弼の機関が茲にあるのである。其統帥権の作用に付て直接の機関が茲にあるに拘らず、其意見を蹂躙して輔弼の責任の無いーー輔弼の機関でないものが飛び出して来て、之を変更したと云うことは、全く乱暴であると言わなくてはならぬ。・・・(松本健一氏著『評伝斎藤隆夫』、p238より引用)

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    ・満州への定住者19万人(昭和5年発行、馬郡健太郎著『大支那案内』)

    ・牧口常三郎が創価教育学会を発足させた(1930年、昭和5年)。同時に刊行した『創価教育学体系』(全4巻)の第一巻には柳田國男、新渡戸稲造らが序文を寄せ、創価教育学支援会のメンバーだった犬養毅(政友会総裁)が題字を揮毫した。

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    牧口:「所詮宗教革命によって心の根底から立て直さなければ、一切人事の混乱は永久に治すべからず」。(島田裕巳氏著作『創価学会』新潮新書、pp.31-32)

    ・台湾、霧社事件(1930年、昭和5年10月)高砂族の抗日暴動。日本軍が抗日派の約500人を大量虐殺した。(柳本通彦氏著『台湾・霧社に生きる』(現代書館)などを参照)

    ・中国国民党は、国民会議において、基本的外国政策を決定し、その中で関税権の回収、治外法権の回収、最終的には租借地や鉄道など全てを回収することを謳った。(昭和6年5月)

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    ★政党は、外からは、「経済失政への不満」と「国家改造運動」に包囲され、内からも「腐敗と堕落」により墓穴を掘っていった。(首相:斎藤実(S7~9)–>岡田啓介(S9~11)–>広田弘毅(S11~12)–>林銑十郎(S12)–>近衛文麿(S12~14、第1次)–>平沼麒一郎(S14)–>阿部信行(S14~15)–>米内光政(S15.1.16~S15.7.16)–>近衛文麿(S15~16、第2~3次)–>東条英機(S16~19)–>小磯国昭(S19~20)–>鈴木貫太郎(S20)–>東久邇宮稔彦(S20)–>幣原喜重郎(S20~21))

    ※昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリートの力は、信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど強大になっていた。政党は相対立するエリートの主張や彼らの野心の調整機関として機能できなくなり、権力は官僚と軍部の手に急速に移っていったのである。しかし、その結果、今度は調整者不在下で生じる軍部や官僚の内部での不和や分裂そのものが、内閣の一貫した政策の立案やその履行上の重大な妨げとなってきた。(ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)

    ——-◇当時の資本主義日本の状況◇——-

    在野の経済評論家高橋亀吉は、『資本主義日本の現在の流れとその帰趨』(昭和4年1月号、「中央公論」に掲載)で当時の資本主義日本の腐敗堕落を分析して、その流れの行く先を鋭く指摘した。以下一部を抜粋するが、当時の政界財界の大デタラメの様子がよくわかる。しかも70年経た現在と酷似していることに注目。

    さて、いまわが資本主義の現状をみるに、大略、次の四点を結目として、その生産力は多かれ少なかれ萎縮し、あるいは退歩しつつあることを発見する。(1)営利行為の反生産化(2)資本権力の反生産化(3)資本家階級による資本の食い潰し(4)資本家階級の腐敗堕落いったい、資本主義制度の原動力たる営利行為は、はじめ、生産力の増進というベルトを通じてつねに働らいていたものであった。・・・しかるに、わが資本主義のようやく成熟するや、資本家は、生産力増進というがごとき努力を要するベルトによる代わりに、あるいは資本力による独占、あるいは政治的諸特権等、楽に金儲けのできる他のベルトを利用して、その営利行為を逞うするにいたった。・・・しからば、いうところの政治的特権に出る営利行為の追求とは、そもそもいかなる方法による営利行為であるか。試みに、その重なる手段を例示せばじつに左(注:原文は縦書き)のごときものがある。(イ)保護関税の引き上げによる利得。(ロ)「国家事業」その他の名によって補助金を得ることによる利得。(ハ)「財界救済」ないしは「国家事業」救済等の名による利得。(ニ)鉄道、鉱山、水力電気、電気供給路線、ガス等の特許、国有土地および林野の払い下げ、国営事業の請負、用地買上げ、等々による「利権」ないし「特権」による利得。(ホ)国産品奨励その他の名により、高価にて政府買上げの特約による利得。(ヘ)低金利資金貸下げの名による利得。(ト)預金部資金貸付けの名による同資金食荒らしによる利得。(チ)特種銀行の貸出という名による資金の濫用による利得。(リ)米価調節その他による利得。(ヌ)税金免除、脱税看過、課税軽減、その他による利得。その他、細かな点をあげれば際限もない。右の中、多くは説明なくともその意味を理解していただくに難くないと思うが、・・・(ハ)についてはたんに最近のことのみをあげるも、震災手形関係二億七百万円、台湾銀行および日銀特融関係七億円、という巨額を国民の負担で貸し付け(事実においてはその過半をくれてやったわけ)、なお、この外にも預金部の金数千万円が同様に濫費せられ、・・・(ホ)の代表的のものとしては、わが兵器、造艦、その他の軍需品、国有鉄道の車両、機関車等の注文のごときである。(ヘ)および(ト)にいたっては政界の「伏魔殿」として有名であって、・・・(チ)に至っては、台湾、朝鮮両銀行の大不始末が何よりも雄弁であるが、このほか、多少の程度の差はあるが、他の特種銀行も同じく食い荒らされている。たとえば坪十銭くらいで買った荒地数百町歩が、坪一円くらいの担保で某々銀行より貸し出され、それが選挙費になれりというがごとき、・・・また、地方農工銀行がつねに政争の具に供せられているごとき、いずれもその片鱗である。・・・以上のごとく、資本主義そのものは、その営利行程その他において、その生産力の抑圧、減耗、退化をもたらしつつある。その結果はいうまでもなく資本主義的発展の行き詰まりであり、その衰弱であり、大衆の生活難加重であり、資本主義に対する積極的否定運動の勃興である。・・・(–>この風潮は昭和の初め頃の資本主義の否定・修正から社会主義運動の発展につながっていった)。

    —◇政界財界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭◇—

    ・浜口雄幸首相が凶弾に倒れる。(1930年、昭和5年11月14日–>昭和6年死亡)浜口雄幸首相は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、昭和5年4月、ロンドン海軍軍縮条約に調印し右翼や野党(政友会)に

    「統帥権干犯」として糾弾されていた。以後昭和史は滅亡に向かう。(北一輝の扇動、佐郷屋留雄の凶行)※北一輝『日本改造法案大綱』(大正8年刊)より

    「国民は生活不安に襲われており、西欧諸国の破壊の実例に学ぼうとしている。財政・政治・軍事権力を握っている者は、皇権にかくれてその不正な利益を維持しようと努力している。われわれは全国民の大同団結を実現して、天皇にその大権の発動を求め、天皇を奉じて国家改造の根底を完成しなければならぬ」。

    ・民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日本の舵取りにふさわしいと主張するようになった。

    ●満州事変(1931年、昭和6年9月18日~昭和8年5月塘沽(タンクー)停戦協定)(”毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争”)

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    日本の新聞は一度だって戦争を未然に防いだことはなかった。事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、いまも本質的には変わっていない。それはなぜなのかと自問したほうがいい。報道企業を単に主観的な社会運動的側面から見るだけでなく、市場原理のなかでの狡猾な営利企業という実相からも見ていかないと。前者はもともと幻想だったのですが、きょうびはその幻想や矜持も薄れて、営利性がとてもつよくなっています。そうした営利指向も権力ヘの批判カを削ぎ、戦争めく風景に鈍感になることとつながっている。(辺見庸『抵抗論』毎日新聞社、2004年、p.157)

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    ※柳条湖事件:午後10時20分、奉天郊外の柳条湖で関東軍の指揮下にある独立守備隊の将校が満鉄線を爆破。これを中国軍(張学良)の攻撃と詐称し、板垣は独断で独立守備隊第二大隊と第二十九連隊(川島正大尉、河本末守中尉)に、北大営の中国軍と奉天城を攻撃するように命じた。(田中隆吉はS46.2月の東京裁判にむけてのウールワースの非公式尋問において、この事件が関東軍の仕業であることを明言した。しかし正式な尋問においては明言を避けた)。※満州国独立承認、日満議定書締結。※この満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、次級参謀石原莞爾中佐(陸軍参謀本部作戦部長建川美次は黙認した)※錦州爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃—>国際連盟に対する挑戦。(1931年、昭和6年10月8日)※この事件頃より軍部にファシズムが台頭。中央の命令を無視した関東軍の動きと、それに呼応した朝鮮軍(司令官林銑十郎中将)の動きに対して、時の首相、若槻礼次郎やその他の閣僚はただただ驚くばかりであった。しかも所要の戦費の追認までしたのであった(責任者たちの厳罰はなかった)。満州事変は政党政治にもとづく責任内閣制も幣原の国際協調政策も一気に吹き飛ばしてしまった。※民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。

    ●軍部によるクー・デタ計画(昭和6年(1931年)、三月事件、十月事件)とくに十月事件は、民間右翼(大川周明、北一輝、井上日召ら)と陸海軍青年将校・中堅将校が図った大掛かりなクー・デタ(未遂)事件。これらの首謀者(「桜会」=橋本欽五郎ら)は軽い判決で、事件そのものは闇に葬り去られた。(北一輝:国家社会主義者:「資本家と政治家に対決する兵士と農民の結合」)

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    「三月事件は、小磯(国昭・陸軍省軍務局長)、建川(美次・参謀本部第二部長)、二宮(治重・参謀次長)、橋本(欣五郎・中佐)、重藤(千秋・中佐)など陸軍の一部が、宇垣(一成)陸相を担いで政権を奪取するために企てた陰謀でした」。また同事件に民間から呼応した人物として右翼の大川周明の役割も強調した。(東京裁判にむけてのサケットによる木戸幸一への尋問より)(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.123)

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    ・中国共産党は1931年(昭和6年)11月7日、江西省瑞金で第一会全国ソビエト代表者大会を開いて、中華ソビエト共和国臨時政府を成立させた。(中国共産党と蒋介石の対立激化)。毛沢東はモスクワにより首長に任命され

    「中央執行委員会首席」という肩書きを与えた。但し紅軍のトップは朱徳だった。さらに上海から周恩来が党書記として赴任し最高権力を与えられた。周恩来はモスクワで訓練されたプロ集団を使って、卓越した行政能力と粛清という恐怖のもとで共産党による統治を確立した。(ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.180-185)

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    ★若槻内閣総辞職(昭和6年(1931年)12月11日)若槻内閣総辞職は、浜口雄幸ー幣原喜重郎的政策、つまりは国際連盟・ワシントン条約的国際秩序に対する協調政策が、完全に歴史の舞台から姿を消したことを意味した。—>挙国一致的連立内閣構想—>大政翼賛へ。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)★犬養毅内閣(昭和6年12月)は発足と同時に金輸出再禁止(大蔵大臣、高橋是清)を行った。浜口雄幸と井上準之助の二年半にわたる苦労は水の泡と消えた。そしてこれ以後の日本経済は果てしないインフレへと転げ込んでいった。犬養毅内閣はまた、戦前最後の政党内閣となってしまった。「憲政の神様」が幕引役とは、まことに歴史の皮肉としかいいようがない。(5・15事件:海軍将校を中心とするクー・デタ未遂事件。昭和7年5月15日)

    ●桜田門事件:李奉昌(リポンチャン)が桜田門外の警視庁正面玄関付近で昭和天皇の乗った馬車に手榴弾を投げた。

    ●第一次上海事変(1932年、昭和7年1月28日)日本軍の謀略で田中隆吉中佐と愛人川島芳子が組んで仕掛けた事変。(半藤一利氏著『昭和史1926->1945』平凡社、p92)この軍事衝突は日中関係において必然だった。中国側の抗日意識・ナショナリズムは、遅かれ早かれ、日本と対決せざるをえないものだったし、日本側もまた、大陸から手を引く意思がない以上、それをさけることができなかったのである。投入戦力約5万人、戦死者3000人余りに達したが、日本側が得たものは何もなかった。英国は徐々に中国支援へと傾いていった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)※『肉弾三勇士』(1932年、昭和7年2月22日)江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵は、爆薬を詰めた長さ3mの竹製の破壊筒を持って上海近郊の中国防護線の鉄条網に突っ込み、このため陸軍の進軍が可能となった。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)これは後に「散華」とか「軍神」という歪められた実質のないまやかしの美辞麗句と共に、日本人全員が見習うべき国への犠牲の最高の模範という美談・武勇談として軍に大いに利用され、日本人の心に刻み込まれた。(ただし、彼らの命は導火線の長さをわざと短くしたことで、意図的に犠牲にされていた)。

    注釈:「散華」(さんげ)とは四箇法要という複雑な仏教法義の一部として、仏を賞賛する意味で華をまき散らす事を指す。軍はこの語の意味を本来の意味とは全く懸け離れたものに変え、戦死を「(桜の)花のように散る」ことであると美化するために利用したのである。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)

    ●「血盟団事件」(首謀者:国家主義者(民間右翼)、井上日召)1.井上準之助蔵相の暗殺(1932年、昭和7年2月9日)※浜口、井上は民生党内閣において通貨価値守護の義務感を捨てず、不評だった緊縮財政を敢えて推進していた。これはまた肥大する軍事予算を圧縮する意図もあった。<井上準之助蔵相の政策(緊縮財政、金解禁など)>イ.昭和5年度以降、一般会計で新規公債を計上しない。ロ.特別会計での新規公債計上を半分以下にする。ハ.ドイツ賠償金600万円以上を全て国債償還に充当。ニ.「金解禁」(金本位制への復帰)これまでの金輸出禁止(金本位制度一時停止(大正6年~昭和5年))を解除し金本位制への復帰。(緊縮財政、消費節約、輸入抑制と一体で施行)。この「金解禁」は当時の日本にとっては円を大幅に切り上げることになるが、国内経済の体質改善のために敢えて行った。これはまた国内不採算企業に市場からの撤退を強いた。

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    ※日本の「グローバル化」。結局、このために日本は1929に始まった世界恐慌に巻き込まれ、日本は昭和恐慌となり第不況に見舞われた。大胆な構造改革は”凶”となった。※関東大震災後、復旧為に外国からたくさんの物資を購入したため、海外貯蓄の金が減少した。すると日本の金の価値が徐々に下落し、大正12年の49$50/100円が大正13年末には38$50/100円と円が下落してしまった。この為替相場の激落で国民は金輸出禁止の影響を痛感した。※レート換算で円を払うより金の現物支払いが有利※当時の緊満財政、公債発行、国民の浪費状態、輸入超過状態、物価高騰、高い生活費、為替相場低落の状態で金輸出禁止を解除(金解禁=金本位制への復帰)すると、ますます輸入超過が助長され、外貨準備高は底をつき、日本は激しい財政破綻を招来する恐れあり。(金本位制は、この当時のグローバルスタンダードだった)ホ.財政の整理緊縮、国民の消費節約、勤倹力行の奨励。

    2.団琢磨(三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)金融恐慌時代には必ず自国通貨を守ろうという運動がある。しかしその裏で秘かに自国通貨を売りまくって、為替差益を稼ごうとする卑しい人間が存在する。それは概ね裕福な財閥、大富豪、上流階級の人間だろう。団琢磨の暗殺の背景に三井物産の「円売りドル買い」があった。※四元義隆(当時東大生、三幸建設工業社長)

    「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、ご都合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。そんな大事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。これではいかん、(と決起した)ということだった」。

    ★浜口雄幸、井上準之助の死後、軍部の横暴と圧力(テロの恐怖)によって政党が実権を失い、日本は転落の一途を辿った。

    ●「満州国建国宣言」(東三省=吉林省・黒龍江省・遼寧省)日本政府と関東軍(土肥原賢二ら)によりごり押し独立(1932年、昭和7年3月1日)。中華民国からの独立、五族協和・王道楽土(なんのこっちゃ?)を謳う。東京では(二葉会–>)一夕会系の中堅幕僚らの支持。昭和9年愛新覚羅溥儀は皇帝になり、帝政に改組された。(—>「満州は日本の生命線」)

    ※満州国建国は昭和陸軍の軍人たちに軍事力が人造国家をつくりあげることが可能だという錯覚を与えた。その錯覚を「理想」と考えていたわけである。これが明治期の軍人たちとは根本から異なる心理を生んだ。つまり軍事は国家の威信と安寧のために存在するのではなく、他国を植民地支配する有力な武器と信じたのである。その対象に一貫して中国を選んだのである。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用)※因に日満と中国国民党の間では、昭和8年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定(関東軍と中国軍の間で締結、満州国の存在を黙認させる協定)から昭和12年7月の廬溝橋事件までの4年2か月の間、一切の戦闘行為はなかった。※たしかに当時の満州国は発展しつつあった。だがその手法は、満州協和会といった民間日本人や、満州人、中国人、在満朝鮮人らを徹底して排除した、陸軍統制派と新官僚とによってなされたものだった。つまり、<二キ三スケ>という無知無能連中(東条英機、満州国総務長官星野直樹、南満州鉄道総裁松岡洋右、日本産業鮎川義介、産業部長岸信介)に牛耳られていた。残念ながらこの盤石になりつつあった満州は、石原莞爾の目指したものではなかった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

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    ・オタワ会議(昭和7年7月):自由貿易帝国主義からの撤退イギリス帝国がその自治領や植民地を特恵待遇にして経済を守るという、植民地ブロック経済(スターリング・ブロック)を採用。(次いでフランス、アメリカも同様の措置をとった)

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  7. shinichi Post author

    ・リットン調査団の満州踏査(昭和7年2月~8月、10月に報告)

    ○柳条湖事件は日本の戦闘行為を正当化しない。

    ○満州国は現地民の自発的建国運動によって樹立されたものではない。<解決策提示>1.日中双方の利益と両立すること2.シビエトの利益に対する考慮が払われていること3.現存の、諸外国との条約との一致4.満州における日本の利益の承認5.日中両国間における新条約関係の成立6.将来における紛争解決への有効な規定7.満州の自治8.内治および防衛のための保障9.日中両国間の経済提携の促進10.中国の近代化のための国際的協力(子細にみれば、日本に不利なものでは、けっしてない)(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

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    ●五・一五事件(1932年、昭和7年5月15日(日)):犬養首相(政友会)射殺海軍士官と陸軍士官学校候補生、それに橘孝三郎の農本主義団体が加わっての凶行。彼等のスローガンは政党政治打倒、満州国の承認、軍部独裁国家樹立といった点にあったが、この事件は図らずも国民の同情を集めた。これにより政党政治(内閣)の終焉が明らかとなった。(統帥権の干犯をたてに民政党内閣を攻撃し、それによって政党政治の自滅へと道を開いた犬養は、みずから軍人の独走の前に身をさらさなければならなくなってしまった)。橘孝三郎を除く全ての犯人は昭和15年(1940年)末までに釈放された。※橘孝三郎:昭和5年(1930)に「愛郷塾(自覚的農村勤労学校)愛郷塾」)を創立したトルストイ(農民生活の気高さを賛美したロシア貴族)信奉者。<以下(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、pp.59-60)より>第一次大戦によって西洋文明の崩壊がはっきりした、と橘は語った。

    「われわれはナショナリズムに回帰し、完璧な国家社会を要望する国家社会主義的計画経済原理に立って、日本を再編成しなければならないのだ」、と彼は説いた。「マルクス主義が救済策を提供することはあり得ない。マルクスが考察したのは工業化ずみの国家であるのに反して、日本は小独立農民の国家である。農民を犠牲にして工業によって豊かになったイギリスを模倣するという誤ちを近代日本はおかしてしまったが、日本は農民の国なのであって、金本位制で利潤を都市に流出する資本主義は、その農民の国を破壊しっつあるのだ」。その当時の事態をこと細かく説明するのはむずかしくないが、救済策ということになると、このトルストイの旧使徒は理想に燃えて幻影を追ったのであった。「日本はその個人主義的な産業文明を一掃して、ふたたび独立自営農民の国にならなければならない」と彼は語った。

    「対外進出と国内革新は同時に進められねばならない。満州の馬賊は大した問題ではない。日本が打倒しなければならないのは、アメリカと国際連盟なのだ。・・・国民は金権政治家の道具と化した腐敗した議会から解放されなければならない。・・・「われわれが求めているのは、自治農村共同体社会にもとづいた代議組織である」。++++++++++++++++首謀者古賀中尉:

    「五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死のほかに、いったい何をもたらしたのだろうか。まず、国家改造運動の真意が、公判を通じて国民の前に明らかになった。血盟団の評価も変った。国賊と呼ばれた小沼正義や菱沼五郎らも、国士と呼ばれるに至った。この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らなかったのではないか、と私は思っている。私たちの抱いた信念はたしかに歴史の流れに転機をもたらした」(立花隆氏「日本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」文藝春秋2002;9月特別号:433ページより引用)

    ※青年将校運動は浅薄であると同時に狂暴であり、その浅薄さがその持つよこしまな力をつつみ隠していたのである。街頭演説に訴える精神とは違った色に染められてはいるが、質的には変わるところのない、未熟で偏狭な精神の持ち主である青年将校は、陸海空軍を通じて蔓延していた精神構造の典型であった。(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、pp.45-46)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++※以下、陸軍参謀本部刊行『統帥参考』より(以下、司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』より孫引き)

    「統帥権」:・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ。従テ、統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。

    「非常大権」:兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度ニ於テ、直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲法第三十一條ノ認ムル所ナリ。

    ※昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領』『統帥参考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、”統帥国家”を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ★五・一五事件事件前後の”日本の変調のはじまり”について

    「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有志らにより首相の犬養毅が惨殺された。にも拘らず、当時の一般世論は加害者に同情的な声を多く寄せていた。年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがために立ち上がった」と涙ながらに訴えると、多くの国民から減刑嘆願運動さえ起こつた。マスコミもそれを煽り立て、「動機が正しければ、道理に反することも仕方ない」というような論調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気が生まれていったのである。どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世相を顧みてみると、その理由の一端が窺える。第一次世界大戦の戦後恐慌で株価が暴落、取り付け騒ぎが起き、支払いを停止する銀行も現れていた。追い討ちをかけるように、大正十二年には関東大震災が襲う。国民生活の疲弊は深刻化していたのだ。昭和に入ると、世界恐慌の波を受けて経済基盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。

    「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍は何の承認もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建国した。中国の提訴により、リットン調査団がやって来て、満州国からの撤退などを要求するも、日本はこれを拒否。昭和八年には国際連盟を脱退してしまう……。だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶりにも、国民は快哉を叫んでいたのである。戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頃の日本を称して「変調をきたしていった時代」と評していた。確かに、後世の我々から見れば、日本全体が常軌を逸していた時代と見えよう。またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせていた。憲法学者、美濃部達吉による「天皇機関説」問題だ。天皇を国家の機関と見る美濃部の学説を、貴族院で菊池武夫議員が「不敬」に当ると指摘したのである。しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の認識として捉えられていた。天皇自身が、側近に「美濃部の理論でいいではないか」と洩らしていたほどであった。しかし、それが通じないほどヒステリックな社会状況になっていたのである。天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」と決議された。文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇から一掃してしまう。続いて文部省は、それに代わって「国体明徽論」を徹底して指導するよう各学校に通達したのであった。「天皇は国家の一機関」なのではなく、「天皇があって国家がある」とする説である。(さらに「国体明徽論」は、「天皇神権説」へとエスカレートしていった)。

    ・・・この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右翼が多く台頭してきたのであった。

    「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託している二つの

    「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と主張した。天皇自身が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下してくれる「親政」を望んだのである。「二・二六事件」を起こした青年将校たちも、そうした論の忠実な一派であった。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.57-60より)

    ★民政党の経済政策の破綻。政友会の大陸積極策とその帰結としての満州事変。政党政治の帰趨はもとより、内外の情勢の逼迫が政党政治の存続を困難にしていた(政党政治の自己崩壊)。

    ●海軍大将斉藤実の「挙国一致内閣」(昭和7年5月22日~昭和9年7月)の成立政党政治の終焉の象徴(政党内閣・政党政治・議会政治の機能不全)※1932年(昭和7年)以降の数年間は、国策の遂行に必要な専門知識を保持すると自負する官僚と軍部エリートの優越性が、大幅に認められるに至った点で特徴的である。この結果軍部の政治支配の増大をもたらし、ひいては日本軍国主義の確立をもたらした。<大衆の政治参加の問題:官僚の画策>1.鎮圧による支配(内務省警保局)2.既存の選挙過程の「浄化」地方の名望家と政党の連携を弱体化させるような施策(「選挙粛清運動」、後藤文夫、丸山鶴吉ら)3.政治的異端分子を「粛清」選挙運動に吸収敵対する側の一方(社会大衆党)を支持吸収して既成政党の弱体化を図った。

    ※軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。日本の安全保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を実行するためには、全国の資源を軍事と重工業に集中しなければならなかった。そのためには、陸軍が非常に関心をもっていた貧困化した農民の利益や、政党が多くの場合その利害の代表であった地方の農業・商工業団体の利益を犠牲にしなければならなかった。結局のところ陸軍も政党もその政策決定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。この選択は1945年の不幸な結果をもたらしただけでなく、戦時中の国民生活に大きな影響を与えた。それにもかかわらず、政党は支配集団の一員としての使命感から、一貫して軍事的膨脹主義を支持した。政党のこのような政策は誤ちであり不賢明なものであったことは後に明らかになった。(ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ●熱海事件(第3次共産党検挙)(1932年、昭和7年10月30日)風間委員長以下、中央地方の幹部は軒並み逮捕され共産党は事実上壊滅状態となった。(松村(M)はスパイだった)

    ▼▼▼▼▼昭和十年代は人間の顔をした悪魔が日本を支配した▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼多くの国民は無知に埋没し、悪魔は国民を蹂躙した▼▼▼▼▼

    ★【軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭】(昭和陸軍には戦術はあっても、哲学も世界観も何一つなかった)※ファシストが何よりも非であるのは、一部少数のものが暴力を行使して、国民多数の意思を蹂躙することにある。※ファシズムとは社会学的な発想に基づく政治体制である。(福田和也氏)ファシズムは社会を「束ねる」事を目指したことにおいて、ほぼデュケルムの問題意識と重なると云うことができるだろう。ファシズムの様々な政策や運動行為、つまり国家意識の強調、人種的排他差別、指導者のカリスマ性の演出にはじまり、大きな儀式的なイベント、徹底した福祉政策、官僚性をはじめとする硬直した統治機構に対する攻撃、国民的なレジャー、レクレーションの推進などのすべてが、戦争やナショナリズムの高揚という目的のために編成されたのではなく、むしろ拡散され、形骸化してしまった社会の求心性を高めるために構成されていると見るべきだろう。ファシズムが成功したのは、第一次大戦において敗れたドイツや、王政が瓦解したスペイン、王政と議会とバチカンに政治権力が分散し、その分裂が大戦後昂進するばかりだったイタリアといった社会の枠組み崩壊したり、激しい亀裂に見舞われた社会においてばかりであった。(デュケルム(フランス社会学中興の祖)の考え近代社会が大衆化するにしたがって社会がその求心力を失い、社会を構成する成員が帰属意識と共通感覚を失って浮遊しはじめるーーいわゆるアノミー現象が起こる。デュケルムはこうして拡散した社会を改めて「凝集」する事を社会学の任務とした。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋))※日本政治研究会(時局新聞社)の見解

    「日本ファシズムは、国家機関のファショ化の過程として進展しつつある。政党形態をとってゐるファシズム運動は、この国家機関のファショ化を側面から刺激するために動員されてゐるだけである。同じく官僚機構内部に地位を占めながら、かかるファショ化を急速に実現せんとする強硬派と、漸進的にスローモーションで実現してゆく漸進派とのヘゲモニー争奪は、満州事変以後の政局をながれる主要潮流をなしてゐる。そして後者が国家機関における主要支配勢力として政権を握り続けてゐる」。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.16)

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    ※労働運動と左翼および彼らの活動の源泉である民主主義の行き過ぎを弾圧するファシスト流の極端なナショナリズムは、米英両政府と産業界及び多くのエリートの見解ではファシズムは、一般には、むしろ好意的に見られていた。ファシズムへの支持は直ちに表明された。イタリアでファシスト政権が誕生し、それによって議会制度が速やかに崩壊させられ、労働運動及び野党が暴力的に弾圧されると、ヘンリー・フレッチャー大使はその政権誕生を称える見解を表明し、以後はそれがイタリアを始めとする地域に対するアメリカの政策を導く前提となった。イタリアは明白な選択を迫られている、と彼は国務省宛に書いた。

    「ムッソリーニとファシズム」か、「ジオリッティと社会主義」か。ジオリッティはイタリアのリベラリズムの指導的人物だった。10年後の1937年にも、国務省はまだファシズムを中道勢力と見なし続け、彼らが「成功しなければ、今度は幻滅した中流階級に後押しされて、大衆が再び左翼に目を向けるだろう」と考えていたのだ。同年、イタリア駐在の米大使ウイリアム・フィリップスは「大衆の置かれた状況を改善しようとするムッソリーニの努力にいたく感動し」、ファシストの見解に賛成すべき「多くの証拠」を見出し、「国民の福利がその主たる目的である限り、彼らは真の民主主義を体現している」と述べた。フィリップスは、ムッソリーニの実績は「驚異的で、常に人を驚かし続ける」と考え、「人間としての偉大な資質」を称えた。国務省はそれに強く賛同し、やはりムッソリーニがエチオピアで成し遂げた「偉大な」功績を称え、ファシズムが「混乱状態に秩序を取り戻し、放埓さに規律を与え、破綻に解決策を見出した」と賞賛した。1939年にも、ローズヴェルトはイタリアのファシズムを「まだ実験的な段階にあるが、世界にとってきわめて重要」と見ていた。1938年に、ローズヴェルトとその側近サムナー・ウェルズは、チェコスロヴアキアを解体したヒトラーのミュンヘン協定を承認した。前述したように、ウェルズはこの協定が「正義と法に基づいた新たな世界秩序を、諸国が打ち立てる機会を提供した」と感じていた。ナチの中道派が主導的な役割を演じる世界である。1941年4月、ジョージ・ケナンはベルリンの大使館からこう書き送った。ドイツの指導者たちは「自国の支配下で他民族が苦しむのを見ること」を望んではいず、「新たな臣民が彼らの保護下で満足しているかどうかを気遣」って「重大な妥協」を図り、好ましい結果を生み出している、と。産業界も、ヨーロッパのファシズに関しては非常な熱意を示した。ファシスト政権下のイタリアは投資で沸きかえり、「イタリア人は自ら脱イタリア化している」と、フォーチュン誌は1934年に断言した。ヒトラ-が頭角を現した後、ドイツでも似たような理由から投資ブームが起こった。企業活動に相応しい安定した情勢が生まれ、

    「大衆」の脅威は封じ込められた。1939年に戦争が勃発するまで、イギリスはそれに輪をかけてヒトラ-を支持していた、とスコット

    ・ニュ-トンは書いている。それはイギリスとドイツの工業と商業及び金融の提携関係に深く根ざした理由からであり、力を増す民衆の民主主義的な圧力を前にして、「イギリスの支配者層がとった自衛策」だった。(ノーム・チョムスキー『覇権か、生存か』鈴木主税訳、集英社新書、pp.98-99)

    ★【官僚化した軍部の暴走の時代、国家が命を翻弄する時代の再来】☆国民性・国民意識:「やっぱり戦争がないとダメだ、軍部頼むよ」

    「満州には日本の未来がある。一旗あげるチャンスがある」

    <軍部の独善主義とその暴走>※ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそもそも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、幼年学校教育という神秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見せざるを得ません。これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言っていいくらいですが、この幼年校教育というものは、精神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした幼年校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。(注釈)幼年学校→陸軍幼年学校陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリ-卜教育機関。満13歳から15歳までの三年教育。年齢的には中学に相当。前身は1870年(明治3年)、大阪兵学寮内に設置された幼年校舎。1872年(明治5年)、陸軍幼年学校に改称。東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六校があり、卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。幼年学校、士官学校、陸軍大学校と進むのが陸軍のエリートコースといわれた。(昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ、p.22)

    ★【人間の屑と国賊の時代】人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出してしまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚者にほかならない。(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)昭和10年代は人間の屑と国賊が日本にはびこった時代だったといっても言い過ぎにはならないだろう。

    ★【戦争は起きる】誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。(辺見じゅん『戦場から届いた遺書』文春文庫、p13)

    ★日中戦争の特質:中国に対する差別意識この戦争のもう一つの特徴は、日本の中国に対する特別な意識、ある意味では差別意識に基づいていたと言えます。中国人に対しては、これを殺したって構わない。どうしたって構わないという感覚を持っていた。満州事変の経験に鑑みて、日本は対支那軍の戦闘法の研究を始めます。それまで日本陸軍は主たる敵はソ連ですから、対ソ戦の研究をし、対ソ戦の訓練をしていたのですが、満州事変で中国軍と戦うことになったので、改めて中国軍との戦いはどういうふうにやったらいいかという研究を陸軍の学校の一つである歩兵学校でやったわけですが、その教訓を『対支那軍戦闘法ノ研究』というかたちで1933年にまとめています。その中にはいろいろなことが書いてありますが、とくに重要なのは、「捕虜の処置」という項目です。そこには「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必スシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス、特別ノ場合ノ外之レヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。支那人ハ戸籍法完全ナラサルノミナラス特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」と書いてあります。そこには、つまり中国人の人権を認めない、非常に差別的な意識がここに表れていると言えます。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.68-69)

    ★歴代首相斎藤実(S7~9)–>岡田啓介(S9~11)–>広田弘毅(S11~12)–>林銑十郎(S12)–>近衛文麿(S12~14、第1次)–>平沼麒一郎(S14)–>阿部信行(S14~15)–>米内光政(S15.1.16~S15.7.16)–>近衛文麿(S15~16、第2~3次)

    ●F.D.ルーズベルト、アメリカ第32代大統領に就任(1933年3月4日)1.全国銀行休業の上緊急銀行救済法案提出2.失業保険、高齢者福祉の充実3.農産物の生産調整4.様々な公共事業の推進(TVAなど)5.預金者保護(6.サウジアラビアの石油漁り(筆者私論))

    ●ヒトラーの台頭(1933年1月~):ナチ党の一党独裁体制確立(6月14日)※(シモーヌ・ヴェイユの言葉によると)ヒトラーの台頭当時、ナチスは「必要とあらば労働者の組織的な破壊をもためらわぬ大資本の手中に」、社会民主党は「支配階級の国家機関と癒着した官僚制の手中に」、肝腎の共産党は「外国(ソ連)の国家官僚組織の手中に」あって労働者たちは孤立無援だった。(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』の解説(富原眞弓)より、岩波文庫、p.177)1933年1月30日:軍部クーデタの恐れのため、ブロンベルク将軍を国防相に任命して鎮圧を図るが、ヒンデンブルク大統領は不本意ながらヒトラーを首相に任命し、右翼連立政権が成立する。2月1日:ヒトラー首相の強要で、大統領は国会を解散する。広範囲な全権委任獲得を求め、多数を得るために総選挙を選択。2月4日:出版と言論の自由を制限する取締法の通過。2月24日:ナチス突撃隊が共産党本部を襲撃して占拠。2月27日:国会議事堂の炎上(オランダ人共産党貞のルッペを逮捕するとともに、これを機会に共産党議員の逮捕)。2月28日:事実上の戒厳令を閣議で決定する。3月5日:ナチス党が選挙で第一党になる。3月23日:帝国議会で全権委任法(受権法)が成立し翌日に発効。4月1日:ユダヤ人排斥連動の実施。「専門的官職再興法」(ユダヤ人とマルクス主義者を官職から排除できる法律)やナチ党中央委員会(ユリウス・シュトライヒャー)を使った徹底的弾圧。(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房も参照)5月10日:ナチス政府が社会民主党の資産没収。ゲッベルスは非ドイツ的な書籍の焚書を扇動。7月14日:政党新設禁止法によりナチス党の独裁樹立。また、国民投票に関しての法律の実施。「遺伝疾患予防法」制定。10月14日:国際連盟とジュネーブ軍縮から脱退の声明。11月12日:国際連盟脱退の国民投票。95%が政権支持。12月5日:補足命令で患者の遺伝疾患やアルコール中毒などの当局への届け出義務が発生した。12月7日:労働組合の解散命令。12月28日:学校での挨拶は「ハイル・ヒトラー」と規定。1934年4月20日:ハインリヒ・ヒムラー率いる政治警察は中央集権化して絶大な権力をふるっており、ついにプロイセン・ゲシュタポの長官の地位までも手中にした(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房、p.38)6月30日:「長いナイフの夜」、SA突撃隊貝の虐殺と粛清。8月2日:ヒンデンブルク大統領の死去。「国家元首法」の発効でヒトラー首相は大統領を兼任して、合法的に総統に就任して独裁の完成。8月19日:新国家元首への信任の国民投票で89%の賛成。(以上の年表の主要部分は、藤原肇氏著『小泉純一郎と日本の病理』光文社、pp.156-157より)※ニュールンベルク法制定(1935年9月)”ドイツ人の血統とドイツ人の名誉を保護する法”※「水晶の夜」(1938年11月9日~10日):ユダヤ人に対する全国的なポグロム(襲撃)。11月7日ポーランド・ユダヤ人ヘルシェル・グリュンスパンがパリのドイツ大使館の下級外交官エルンスト・フォン・ラートを撃った(グリュンスパンの両親がドイツから追放されたのが動機)のを機会に開始された。(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房、p.151)※アドルフ・アイヒマン(元親衛隊(SS)中佐)無思想で道化のような人間によってファシズムが行われたとき笑うしか対応の仕方がなかった。(ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』)一度おこなわれ、そして人類の歴史に記された行為はすべて、その事実が過去のこととなってしまってからも長く可能性として人類のもとにとどまる。これが人間のおこなうことの性格なのである。

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    アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ。われわれの法律制度とわれわれの道徳的判断基準から見れば、この正常性はすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。※ニュールンベルグ裁判で法廷に呼び出されたポーランド人看守の証言子供を連れている女性はいつでも子供と一緒に焼き場に送り込まれた。子供は労働力としての価値がなく、だから殺された。母親たちも一緒に送られたのは、引き離せばパニックやヒステリーにつながりかねず、そうなると絶滅工程が減速する可能性があり、それを許容している余裕はなかったからだ。母親たちも一緒に殺して、すべてが静かに滑らかに進むようにしたほうが無難だった。子供は焼き場の外で親から引き離され、別々にガス室に送られた。その時点ではなるべく多くの人を一度にガス室に詰めこむことがもっとも優先順位の高い事項だった。親から引き離せばもっと多くの子供だけを別に詰めこむことが可能になったし、ガス室が満杯になったあとで大人たちの頭上の空間に子供を放りこむこともできた。ガス室でのユダヤ人根絶の最盛期には、子供は最初にガス室に送ることなしに、焼き場の炉に、あるいは焼き場近くの墓穴に直接投げこむように、との命令が出されていた。(ライアル・ワトソン『ダーク・ネイチャー』旦敬介訳、筑摩書房、pp.397-398)

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    <以下、クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社より>※ナチの典型的スローガン「パンがなけりゃ、法律なんてくそくらえだ」ヒトラーの「優性至上主義」は障害者、病者を収容所に隔離、隔世することから始まり、果ては「ホロコースト」にまで至った。(※当時の元リトアニア領事代理、杉原千畝は日本政府に反命しユダヤ人の国外脱出を助けた。帰国後彼は非難と左遷の憂き目に会い、名誉が回復されたのは、ほんの最近のことである)。※フォス新聞より現実の矛盾は、暴力で解決することはできないだろう。しかし、民衆のあいだの対立は、暴力によって沈黙させることが可能だ。貧困をなくすことはできないが、自由をなくすことは可能だ。困窮を訴える声を消すことはできないが、報道を禁ずることは可能だ。飢えをなくすことはできなくても、ユダヤ人を追放することは可能だ。・・・ドイツは世界を制覇するか、消え去るかだ。(クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社より)※ヒトラーの脅迫的演説

    ・・・もしドイツ民族がわれらを見捨てるならば、天よ、われらを許したまえ。われらは、ドイツのために必要な道を進むであろう。(同上)(マルクス:「理論もそれが大衆の心をつかむやいなや、物質的な力になる」はファシズムを予告している)※ナチ突撃隊に埓された監獄のなかで

    「・・・だが、最悪なのはそんなことじゃない。共産党と社会民主党がいがみあっているのは知っているだろう。監獄の中でも、おなじ調子だったんだ。こうなった責任を、おたがいにかぶせあってあっていたんだ。悲惨な状況でなかったら、笑いがでていただろう。処刑台の下に来てまで、いっしょに死刑執行人と闘おうとせず、けんかをしているんだからな」(同上)※1933年9月、ヒトラーはナチ党大会で、司令部衛生班に対して「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(LAH)」という名称を正式に与えた。さらに11月19日、LAHの隊員は帝国首相アドルフ・ヒトラーに無条件の特別な忠誠を誓った。ここにおいてヒトラーはLAHをSS(親衛隊)帝国指導者からもナチ党からも切り離して直接自分の指揮下においただけでなく、これによって正規の国防郡と警察とは違う、いかなる法的根拠ももたない独立した軍事組織を創設した。(ジョージH.ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、pp.41-42)※ヒトラーによるSA(国家社会主義運動のための私設革命部隊で、褐色のシャツを着た突撃隊(SA:Sturnabteilung))の粛清(1934年6月30日)レーム事件:ナチ親衛隊によるSA指揮官エルンスト・レーム殺害など(ジョージH.ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、p.24)

    <ナチズムの社会主義的根源>

    「ドイツは観念の世界においては、すべての社会主義的夢の最も信頼のおける代表者であり、現実の世界においては、最も高度に組織化された経済体制の最も有力な建築家であったからーー20世紀はわれわれのものである。いかなる形で戦争が終っても、われわれは代表的国民である。われわれの観念は人類の生活目的を決定するであろうーー世界史は現在、わが国においては人生の新しい偉大な理想を最終の勝利に押し進めているのに反し、同じときにイギリスにおいては、世界史的な原理が最終的に崩壊するというすばらしい光景を露呈しているのである」。1914年にドイツに起った戦時経済は、「最初に実現した社会主義社会であって、その精神は社会主義的精神の最初の積極的な現われであり、単に漠然と要求された現われではない。戦争という緊急事態のもとで、ドイツの経済生活のなかに社会主義的理念が入り込み〔その組織は新しい精神と結びつき〕、そしてこのようにして、わが国の防衛が人類のために1914年の観念、ドイツ的組織の観念、すなわち国家主義的社会主義の民族共同体(Volksgemeinschaft)を生み出したのである。われわれは真にそのことを注意していないが、国家と産業におけるわれわれの全政治的生活は高い段階に上っている。国家と経済は結びついて新しい統一体を形成しているのである。……官吏の仕事を特徴づける経済的責任感はいまやすべての私的活動(原文では企業者と農民の組織、労働組合)に広がつてゆく」。経済生活の新ドイツ的協同組合組織は(プレンゲ教授は未完成であり、不完全であることを認めているが)、「この世で知られている国家の生命の最高の形態である」。最初、プレンゲ教授はなお自由の理念と組織の理念とを調和させようと望んでいた。もっともそれは主として全体に対する個人の完全でしかも自発的な服従によってではあるが。けれどもこうした自由主義的観念の痕跡は、彼の書物からまもなく消え失せた。1916年までに彼の心のなかには、社会主義と冷酷な政治的権力の結合が完全なものとなっていた。戦争の終る少し前に、彼は”DieGlocke”という社会主義の新聞紙上において次のように同胞に訴えている。

    「社会主義はそれが組織化されるべきものであるから、権力政策でなくてはならぬという事実を確認する絶好の時期である。社会主義は権力を獲得しなければならない。社会主義は決して盲目的に権力を破壊してはならない。そして民族間の戦争の際に社会主義にとって最も重要にして緊急な問題は、必ずどういう民族がぬきんでて権力の座につくか、ということでなければならない。というのは、その民族が諸民族の組織の代表的な指導者だからである」。そして彼はついにヒットラーの新秩序を正当化するに役立ったすべての観念を予言しているのである。「組織である社会主義の観点からすれば、絶対的な民族自決権は、個人主義的な経済的無政府状態を意味しないか。個々の民族に対しその経済生活における完全な自己決定権を与えることは好ましいことか。首尾一貫した社会主義は歴史的に決まっている勢力の真の分配にしたがってのみ、民族に政治的な団結権を与えることができる」。(F・A・ハイエク『隷従への道』一谷藤一郎・英理子訳、東京創元社、pp.220-221)

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    ●中国「長征」のはじまり(1934年10月、8万人の行軍)蒋介石は「抗日」より「反共」を優先。江西省南部を中心とする共産党地区にたいし、本格的な包囲掃討作戦を開始。陸軍100万人、空軍200機の国民党の攻勢の前に共産党は根拠地である瑞金を放棄し西南方面に移動。この当時共産党の実権を握っていたのは、李徳(オットー・ブラウン)、博古(秦邦憲)、周恩来の3人の中央委員だったが、この25000里の行軍の間に毛沢東が共産党の指導者の地位を確立。一年に及ぶ「長征」の後、紅軍は陳西省延安に根拠を定めた。(この時、徹底的な抗日を唱える張学良の率いる東北軍は陳西省西安に駐留していた。(—>西安事件、1936年12月12日)日本の侵略は、この中国の内乱に乗じて拡大の一途を辿っていた。(「長征」の行く手には国民党の四重の封鎖線があったはずだが、蒋介石はこの「長征」の主力部隊を意図的に通過させてやった。この詳しい理由は、ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.229-234とpp.240-241(紅軍とモスクワに捕われていた息子・蒋国経との交換交渉)とを参照)。

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    ※「長征」が1935年1月に貴州の遵義にたどりついたとき、今後の方針について会議が行われた、そこには李徳、毛沢東、朱徳、博古、周恩来、陳雲らの政治局員らとともに、劉少奇、林彪、楊尚昆、トウ小平、その後の中国史を飾る主要な人物が際会した。毛沢東はここで黒幕として采配をふるうようになり、ついには絶対的権力を奪取した。(さらに詳細なことは、やはりユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.242-を参照)

    ・ドイツとスウェーデンで強制断種法が制定された。(1934年)

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    ・「滝川事件」(1933年、昭和8年):京大刑法学教授、滝川幸辰氏を追放。

    「国権による自由封じ」の象徴。(黒沢明映画『わが青春に悔いなし』)

    ・挙国一致内閣(海軍大将、斉藤実)の横暴

    「非常時」を叫び、ファッショ的な風潮と言論・思想統制が強まるなか、共産党の弾圧が強まった。(河上肇の検挙、小林多喜二の獄中虐殺など)なお挙国一致とはファシズムにほかならない。

    ●「満州国」否認される。日本、国際連盟を脱退(1933年、昭和8年2月24日)。日本は国際的な孤立を深めていった。※昭和8年頃までに満州での軍事行動は一段落した。関係者は満州国の育成に努力したが、日本の政府や陸軍の配慮は十分でなかった。日本のためだけの利益を追求するのにやっきになっており(満蒙開拓団)、古くからの住民の生活が不当に圧迫された。このことは日本人が他の民族と共存共栄する器量に乏しいことを証明した。

    ・「ゴー・ストップ事件」:大阪府警(粟屋仙吉大阪府警警察部長=S18.7より広島市長・原爆で死亡)と陸軍の喧嘩:国民が軍にたてつくことができた最後の事件(半藤一利氏著『昭和史1926->1945』平凡社、p119)

    ●出版法・新聞紙法改悪(1933年、昭和8年9月5日)当局による新聞、ラジオの統制強化

    ・救国埼玉青年挺身隊事件(昭和8年11月13日、猪又明正氏著『幻のクーデター』参照)

    ・満州事変(1931年)の頃より約5年間ほど共産党(非合法)は相次ぐ弾圧により地下に潜り、労働者たちが反戦ビラを張りまくっていた。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.7)

    ★昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、三宅坂上、日本陸軍参謀本部)、建物こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。・・・ここは左手の皇居と右手の国会議事堂や首相官邸のちょうど中間にある。国政の府が直接に天皇と結びつかないように、監視するか妨害するかのごとく、参謀本部は聳立していたことになる。書くまでもないことであるが、参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ統帥大権を補佐する官衙である。・・・しかし1937年(昭和12)7月の日中戦争の勃発以来、11月には宮中に大本営も設置され、日本は戦時国家となった。参謀本部の主要任務は、大本営陸軍部として海軍部(軍令部)と協力し、統帥権独立の名のもとに、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦争に勝つことにある。次には来たるべき対ソ戦に備えることである。そのために、議会の承認をへずに湯水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許されている。大本営報道部の指導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そのもので、・・・日本軍は中国大陸の奥へ奥へと進撃していった。三宅坂上の参謀本部は・・・民衆からは常に頼もしく、微動だにしない戦略戦術の総本山として眺められている。・・・特に日本陸軍には秀才信仰というのがあった。日露戦争という「国難」での陸の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸軍大学校出の俊秀たちのおかげであったと、陸軍は組織をあげて信じた。とくに参謀本部第一部(作戦)の第二課(作戦課)には、エリート中のエリートだけが終結した。・・・そこが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである。・・・そこでたてられる作戦計画は外にはいっさい洩らされず、またその策定については外からの干渉は完璧なまでに排除された。・・・このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判された。・・・彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く、・・・はてしなき論議のはてに、いったん課長がこれでいこうと決定したことには口を封じただ服従あるのみである。・・・参謀本部創設いらいの長い伝統と矜持とが、一丸となった集団意志を至高と認めているのである。そのために作戦課育ちあるいは作戦畑という閉鎖集団がいつか形成され、外からの批判をあびた。しかし、それらをすべて無視した。かれらにとっては、そのなかでの人間と人間のつきあい自体が最高に価値あるものであった。こうして外側のものを、純粋性を乱すからと徹底して排除した。外からの情報、問題提起、アイディアが作戦課につながることはまずなかった。つまり組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という近代主義とは無縁のところなのである。作戦課はつねにわが決定を唯一の正道としてわが道を邁進した。(以上、半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より若干改変して引用)※これから約60年経た現在、状況は何も変わらなかった。霞が関にたむろする見せかけのエリート集団が、平成の大不況のシナリオの主役となり、わが日本を経済的壊滅の危機に瀕しせしめている。将来を見通す知恵も知識もなく滄桑の変にさえも鈍感で新しいパラダイムを創造できず、過去に学ばない一群の特権的な役人が権力を握って、秘密主義・形式主義・画一主義で煩瑣で独裁的な政治を行い、そのなれの果てを今我々被支配者階級は、またしても否応なく味わわされているのである。

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  8. shinichi Post author

    ————-<軍人どもの内閣諸機関への介入>————-

    ・陸軍が対満事務局の設置に成功(1934年)これにより外務省と拓務省の発言権が奪われ、満州問題は全面的に陸軍将校の統制下におかれることになった。<関東局(駐満日本大使の監督下)ー関東軍の設置>関東局が1934年12月26日付けで設置され、駐満日本大使は実際には関東軍司令官が兼任したため、結局軍人が満州問題を全面的に取り扱う事になった。(古川隆久氏著『あるエリート官僚の昭和秘史』芙蓉書房出版、pp.19-21)

    ・内閣審議会および直属下部機関の内閣調査局を新設(1935年、岡田内閣)とくに内閣調査局は軍人どもが文官行政に関与する新しい経路になった。しかも内閣調査局は内閣企画庁へと発展的に改組され、政府のもとに行政各省の重要政策を統合する要、総動員計画の中心となっていった。

    ・現役将官制の復活(1936年、広田内閣)陸軍大臣は陸軍によって、海軍大臣は海軍によってのみ統制されることとなり、陸海軍いずれかが現役将官から大臣候補者を推薦することを拒否すれば、気に入らない内閣の組閣を妨害したり、内閣の存続を妨げることが可能になった。(後述、「平民宰相広田弘毅の苦悩」を参照)

    ・「不穏文書臨時取締法」(広田内閣、1936年)これにより、少しでも反政府的・反軍部的なものはすべて、即、取り締まられることとなった。

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    ★明治~大正~昭和と日本は富国強兵・殖産興業への道を官僚主導のもとで強制的に歩んでいった。しかし資本蓄積、統一規格品大量生産(メートル法採用)、教育改革(統一規格化した人材育成)は国民や議会の大反対を招き、日本の官僚は

    「議会が権威を持っているかぎり、近代工業国家にならない」と思うようになった。官僚は次々と汚職事件、疑獄事件をデッチあげ議会(政治家)の権威を失墜させようと目論んだ。「帝人事件」はその頂点であった。

    ●「帝人事件」(1934年、昭和9年)官僚が帝国議会の権威失墜を目論んでデッチ上げた大疑獄事件。昭和12年「本件無罪は証拠不十分に非ず。事実無根による無罪である」という判決で被告の名誉は守られたが、民主主義は守られなかった。この間に「2.26事件」が起こって法律が改正されたので、帝人事件以後議会内閣は終戦までできなかった。(行革700人委員会『民と官』より)

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    「帝人事件」は当時、枢密院副議長の座にあった平沼騏一郎が、腹心の塩野季彦を使って政党寄りの斎藤実内閣を潰すために疑獄事件を仕組んだものだった。端的にいえば戦前の議会政治の息の根を止めたのがこのデッチ上げ疑獄事件だった。(文藝春秋2009;5月号:113-115)

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    彦坂忠義氏(当時東北帝大理学部物理学科助手)が原子核の「核模型論」を提唱(1934年)。しかし当時は大御所ニールス・ボーアの「液滴模型論」が主流で相手にされなかった。結局1963年にイェンゼンやメイヤーが全く同じ図形でノーベル賞を受賞したのである。日本は全くナメられていたのであった。(『20世紀どんな時代だったのか思想・科学編』より)

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    ●永田鉄山(総動員国家推進者、陸軍統制派)暗殺される(陸軍派閥抗争)(1935年、昭和10年8月12日)—>二・二六事件(昭和11年2月26日)へ陸軍皇道派の相沢三郎中佐は、永田鉄山が社会主義者、実業界の大物、狡猾な官僚らと気脈を通じたことを理由として永田鉄山を斬殺した。(東条英機は、このあと永田鉄山に代わり、統制派のエース格となっていった)※相沢三郎中佐:「この国は嘆かわしい状態にある。農民は貧困に陥り、役人はスキャンダルにまみれ、外交は弱体化し、統帥権は海軍軍縮条約によって干犯された。これらを思うと、私は兵士練成の教育に慢然と時をすごすことはできなかった。それが国家改造に関心を抱いた私の動機である」(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、p.91)

    ※永田鉄山殺害は、軍を内閣の管理下におこうとした政府の企画への陸軍の反革命だった(皇道派と統制派の対立抗争の帰結)。

    詳細に語らなかったけれど、弁護人の鵜沢ははっきりと理解していたように、弁護側が主張したのは、陸軍とは、そのメンバーを合意なしには代えてはならないとする、三長官(筆者注:陸軍統制の三長官は参謀総長、陸軍大臣、教育総監だった)の恒久的寡頭制によって管理される自主的な自治団体だ、と見なすことであった。この自治団体は「天皇の軍隊」であり、それを内閣の管理下におこうとするいかなる企図も、「軍を私的軍隊に変えること」なのである。したがって、相沢のような人物の、たとえ言葉になってはいないにしても、頭のなかでは、天皇は帝位に装われたお神輿にすぎないことになる。1000年の歴史が、これこそまさしく日本の天皇概念であることを立証している。天皇は神人、つまり、国家の永遠性の象徴である。天皇は、その職にある人間が行なう進言には異議をさしはさむことなく裁可する自動人形(オートマトン)である。1868年の明治維新は、天皇にそうした地位を創りだしたのだと言えよう。永田殺害は、陸軍の反革命の一部だったのである。(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、p.101)※鈴木貞一(企画院総裁)が戦後に曰く

    「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」。

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    ●”統帥権”による謀略的な冀東政権が華北に誕生(1935年、昭和10年)日本からの商品が満州国にはいる場合無関税だったが、これにより華北にも無関税ではいるようになった。このため上海あたりに萌芽していた中国の民族資本は総だおれになり、反日の大合唱に資本家も参加するようになった。

    ・参謀本部によるいわゆる「天皇機関説」(美濃部達吉博士)への攻撃ともかくも昭和十年以降の統帥機関によって、明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだといっていい。(司馬遼太郎氏)

    「天皇機関説」:国家を法人とみなしたときに、その最高機関を天皇と考えること。法人企業の最高機関を社長と考えることと同じ。こののち、昭和10年3月国会で「国体明徴決議」なるものが通り、天皇絶対主権説が日本の本当の国体とされ、天皇機関説は公式に国家異端の学説として排除された。<国体明徴決議>国体の本義を明徴にし人心の帰趨を一にするは刻下最大の要務なり。政府は崇高無比なる我が国体と相容れざる言説に対し直に断乎たる措置を取るべし。右決議す。

    ※天皇機関説は高度に抽象的な法学概念がかかわる問題で、あまり一般人の関心をよぶ問題ではなかったのに、浜口内閣時代、ロンドン軍縮条約が結ばれたとき、政府が軍部の反対を押しきってそのような条約を結ぶ権利があるかどうか(そういう権利は天皇大権=統帥権に属するから、政府が勝手に軍備にかかわる条約を結ぶと統帥権干犯になるのかどうか)の議論がおきたとき、美濃部が天皇機関説をもとに政府の行動を支持したところから、天皇機関説はにわかに政治的な意味を帯び、ロンドン条約に反対する軍部や国家主義者たちから激しく攻撃されるようになった。(立花隆氏「日本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」文藝春秋2002;9月特別号:439ページより引用)

    —–陸軍内部の派閥抗争(昭和7年頃より激化)—–

    ○統制派:青年将校たちも含め、軍人は組織の統制に服すべし。天皇機関説を奉じ、合法的に軍部が権力を手に入れ、そして国家総動員体制(高度国防体制)をつくってゆこうと主張するグループで陸軍上層部に多かった。エリート中心の近代化された国防国家を目指し、官僚的だった。(渡辺錠太郎教育総監(S11.2暗殺)、永田鉄山陸軍省軍務局長(S10.8に暗殺)、林銑十郎ら)

    ○皇道派:国体明徴運動(今の腐敗した国家は日本の天皇の意に沿う国家ではないから、理想的な国家をつくろう)に熱心で非合法によってでも権力を握ろうとし、そして天皇親政による国家を目指すグループで青年将校に多かった。(農民出身の兵士たちと兵舎で寝起きをともにしており)農民・労働者の窮状に深い同情をもっていた(精神主義的)。(荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎ら)

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    <高見順『いやな感じ』角川文庫、p.425より>

    「……。どえらい戦争をはじめたら、きっと日本は、しまいには敗けるにきまってる。どえらい敗け方をするにちがいない。だって今の軍部の内情では、戦争の途中で、こりゃ敗けそうだと分っても、利口な手のひき方をすることができない。派閥争い、功名争いで、トコトンまで戦争をやるにきまってる。そうした軍部をおさえて、利口な手のひき方をさせるような政治家が日本にはいない。海軍がその場合、戦争をやめようと陸軍をおさえられれば別問題だが、海軍と陸軍との対立はこれがまたひどいもんだから、陸軍を説得することなんか海軍にはできない。逸る陸軍を天皇だっておさえることほできない。こう見てくると、戦争の結果は、どえらい敗戦に決まってる。そのとき、日本には革命がくる」

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    ●中国共産党「八・一」宣言(1935年8月1日):抗日統一戦線の呼びかけ

    「全ての者が内戦を停止し、すべての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」

    ●牧野伸顕が内大臣を更迭される。(昭和10年12月26日)吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔は反戦の”三羽がらす”だったが、東条らにより身の危険さえある圧力を受けていた。

    ★農民は「富国強兵」の犠牲者だった。農民は明治政府の重要政策であった「富国強兵」の犠牲者であった。後進国が自らの原始的蓄積によってその資本主義を発展させる「富国」のために農民は犠牲を求められた(地主金納、小作物納の租税体系と地租の国税に占める割合をみても判る)。同時に「インド以下」といわれた農民は「強兵」のためにはあたかもグルカ兵のように、馬車馬的兵士として使われた。「富国」と「強兵」とは農民にとって本来結合しない政策であった。この農民の二重苦にもかかわらず、隊附将校は「富国」のために強兵を訓練し、「強兵」と生死をともにする立場に立たされていた。そして幕僚は「富国」への体制に専念した。この「富国強兵」策のもつ矛盾は、大正九年の経済恐慌、昭和二年の金融恐慌、昭和五年の農業恐慌によって激化された。このことは、「武窓に育って」社会ときりはなされていた青年将校に、軍の危機イコール国の危機であるという彼ら特有の信念を、いよいよ自明のものとしてうけとらせるのに十分であった。(高橋正衛氏著『二・二六事件』中公新書、p.148)

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    <高見順『いやな感じ』角川文庫、p.154より>

    「……。あの・・中尉は俺にこう言ってた。軍人として国のために命を捧げるのはいいが、今の日本の、金儲けしか眼中にないような資本家階級のために命を捨てるんではやりきれない。奴らの手先をつとめさせられるのは、かなわない。こう言うんだが、あれも俺と同じ水呑み百姓のせがれなんだ。今のような世の中では、百姓が可哀そうだ。地主に搾取されてる百姓も惨めなら、資本家に搾取されてる労働者も惨めだ。彼らを縛ってる鎖を断ち切るために、世の中の立て直しが必要だと、こう言うんだ。自分たち軍人が、喜んで命を捧げられる国にしなければならない。今みたいでは、兵隊に向って、国のために命をささげろと言うのが苦痛だ。これでは、兵隊を戦場に連れて行って、むざむざ殺すのに忍びない……」

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    ●二・二六事件(1936年、昭和11年2月26日):岡田内閣終焉–>テロの恐怖陸軍内部で国家改造運動をすすめていた皇道派青年将校(栗原安秀、村中孝次、磯部浅市ら)たち約1500名が起こしたクー・デタ未遂事件。緊縮財政を推進し、軍事支出をできる限り押さえようとした岡田内閣が軍部の標的にされ、高橋是清蔵相、内大臣斉藤実、渡辺錠太郎教育総監らが暗殺された。歩兵第一・三連隊、近衛兵第三連隊の20人余りの将校と部下約1500名が参加し、約1時間ほどの間に日本の中枢を手中に治めてしまった。皇道派の首魁は真崎甚三郎、決起隊の中心人物は野中四郎(のち自決)だった。(歩兵第三連隊安藤輝三大尉の決意と兵を想う気持ちを覚えておこう)。(真崎甚三郎の卑怯、狡猾さは忘れてはならない)。※あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の中で飛び出して見たのは愚かであった。(竹島継夫の遺書より)※国民よ軍部を信頼するな。(渋川善助)ここで真崎甚三郎を縛ってしまったら、日本の陸軍は全滅するといってもいい。そこで、当時、北一輝のところに若い将校が出入りしていたものだから、結局北一輝らのこの責任を押しつけて、死刑にした。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.13)※昭和史に造詣の深い高橋正衛氏によれば「二・二六事件は真崎甚三郎の野心とかさなりあった青年将校の維新運動」(『二・二六事件』、中公新書、p.175)と結論づけられるが、真崎の卑しさとでたらめは粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<下>』(講談社、pp.129-136)にも簡潔にまとめてある。日本ではいつもこういう卑怯で臆病なものどもがはびこるのである。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++蹶起趣意書謹んで惟るに我神洲たる所以は、万世一神たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育を遂げ、終に八紘一宇を完ふするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国、神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ、今や方に万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我欲を恣にし、至尊絶体の尊厳を藐視し僭上之れ働き、万民の生々化育を阻碍して塗炭の痛苦に呷吟せしめ、随って外侮外患日を逐ふて激化す所謂元老重臣軍閥官僚政党等は此の国体破壊の元凶なり。倫敦海軍条約並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件或は学匪共匪大逆教団等利害相結で陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、其の滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、寔に故なきに非ず而も幾度か頸血を濺ぎ来って今尚些も懺悔反省なく、然も依然として私権自欲に居って苟且偸安を事とせり。露支英米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を睹るよりも明かなり内外真に重大至急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずんば皇謨を一空せん。恰も第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼賛を誓ひ殉国捨身の奉公を期し来りし帝都衛戌の我等同志は、将に万里征途に上らんとして而も顧みて内の世状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さざれば、破滅沈淪を翻へすに由なし茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭し、以て神洲赤子の微衷を献ぜんとす皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを昭和十一年二月二十六日陸軍歩兵大尉野中四郎他同志一同

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    背景:「天皇大権は玉体と不二一体のもの」(磯部「獄中遺書」)であり、さらに天皇と国民は君民一体である。と同時に天皇は彼らにとり政治権力機構から切り離された雲の上の人であった。だから改めるべきは、国民と天皇との間にある障壁にあり、それは、国民の頂上にいて、しかも天皇と直接話し合うことのできる重臣、元老であり、これを支える財閥、軍閥、官僚、政党であった。(高橋正衛氏著『二・二六事件』中公新書、pp.166-167)++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ※陸軍内部の派閥抗争(権力闘争)の極致陸軍士官学校や陸軍大学校から軍の高級官僚が供給されるようになって以来、彼等の人事権が確立し、外部の干渉を排して自らの組織を編成するという、官僚機構独特の行動が目立ちはじめた。ここに陸軍省と参謀本部の内部で、陸軍の主導権をめぐって皇道派と統制派の対立が生まれた。二・二六事件は権力闘争に敗れた皇道派の青年将校のやぶれかぶれの行動であった。いつの時代も官僚は白蟻のごとく国家に寄生しつつ権力闘争に明け暮れている。結局依拠する基盤もろともに壊滅し、時には国家の存亡を殆うくする。日本は21世紀に入っても相も変わらず、全く懲りることなく同じ状況を呈している。

    #私の見るところ、昭和初年代、十年代の初めに公然と軍部に抵抗した言論人はこの桐生を含めて福岡日日新聞の菊竹淳ではないかと思う。それだけにこのような言論人は歴史上に名を刻んでおかなければならないと思うし、またその言論から学ばなければならない。その桐生(筆者注:桐生悠々(政次))だが、二・二六事件から十日ほど後の発行(三月五日の『他山の石』で「皇軍を私兵化して国民の同情を失った軍部」という見出しのもと、次のような批判を行った。

    「だから言ったではないか。国体明徽よりも軍勅瀾徽が先きであると。だから言ったではないか、五・一五事件の犯人に対して一部国民が余りに盲目的、雷同的の讃辞を呈すれば、これが模倣を防ぎ能わないと。だから、言ったではないか。疾くに軍部の盲動を誡めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがあると。だから、軍部と政府とに苦言を呈して、幾たびとなく発禁の厄に遭ったではないか。国民はここに至って、漸く目さめた。目さめたけれどももう遅い」。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.43)

    #軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、すでに好ましくないが、さらに憂うべきことは、軍人が政治を左右する結果は、もし一度戦争の危機に立った時、国民の中には、戦争がはたして必至の運命によるか、あるいは何らかのためにする結果かという疑惑を生ずるであろう。(河合栄治郎「二・二六事件について」、帝国大学新聞(S11.3.9)より引用)

    #二・二六事件の本質は二つある、第一は一部少数のものが暴力の行使により政権を左右せんとしたことに於て、それがファシズムの運動だということであり、第二はその暴力行使した一部少数のものが、一般市民に非ずして軍隊だということである。二・二六事件は軍ファシズムによる「自ら善なりと確信する変革を行うに何の悸る所があろうか」という根本的な社会変革への誤りから出発した事件である。(河合栄治郎、『中央公論』巻頭論文)(高橋正衛氏著『二・二六事件』中公新書、p.23)

    #石原莞爾:石原が中心になってこの事件を終息させたといえる。

    「この石原を殺したかったら、臆病なまねをするな。直接自分の手で殺せ。兵隊の手を借りて殺すなど卑怯千万である」(石原莞爾は統制派の指導者武藤章とともに、鎮圧に向いて動き始めていた)

    「貴様らは、何だ、この様は。陛下の軍を私兵化しおって。即座に解散し、原隊に復帰せよ。云う事をきかないと、軍旗を奉じて、討伐するぞ!」※事件後の陸軍を牽引したのは石原莞爾、梅津美治郎、武藤章だったが、後二者は官僚色、統制色の強い輩であり、精神的に皇道派的な石原莞爾は彼等(幕僚派、東条英機も)との軋轢をもつことしばしばであった。結局このことが石原の軍人としての経歴に終止符をうつことになった。

    #昭和天皇:

    「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」

    「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」

    #斎藤隆夫氏の粛軍演説(『粛軍に関する質問演説』)については松本健一氏著『評伝斎藤隆夫』、東洋経済、pp254-284を参照のこと。ただし斎藤隆夫氏のこの憲政史上に残る名演説も、当時の広田弘毅首相、寺内寿一陸相をして、軍部に対して大した措置をとらせるには至らなかった。結局は皇道派の首脳を退陣させただけで、残った統制派が、我が世の春を謳歌することになっただけだった。

    #この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない。すでに多年来、政府は内蔵する力も、また決意も持たない。軍部と官僚と財界と政党の諸勢力のまぜものにすぎない。以前は強力であった政党も汚職と内部派閥の闘争のため、政治的には全く退化し、国民の大多数から軽蔑されている。(リヒアルト・ゾルゲ『日本の軍部』より引用)※ゾルゲは事件後に陸軍統制派の覇権が確立し、日本は中国征服に向かうだろうということを正確に予言した。

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    #二・二六事件を官僚の視点で整理すると(佐藤優・魚住昭氏著『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社、pp.168-169)魚住・・・、二・二六事件は統制派に対する闘争の面は否めませんよね?佐藤それはそうでしょう。そこで、逆にお聞きします。全共闘運動の中ではいろいろな内紛がありましたが、それぞれのグループは何で対立していたと思いますか。魚住私は全共闘世代よりも少し後の世代で、端から見ている立場でしたが、正直、どこが違うのかよくわかりませんね。佐藤そうでしょ。まさにそれが皇道派と統制派の対立なんです。彼らの中では大変な対立で、場合によっては殺し合わなくてはならなくなるのですが、私たちにはわからないんですよ。全共闘型の内紛が軍事官僚の中で起きたと考えればいいんです。魚住なるほどなあ。二・二六事件を官僚という視点で整理すると、30年代までの平和な時代において軍縮条約が結ばれるなど、軍事官僚の存在意義を問われるような状況が起きた。そんな時代に自分たちの自己保存を図ろうとした象徴的な行動が二・二六事件だったということでしょうか。佐藤そうだと思います。蹶起することで非日常的な状況を日常的な状況にする、つまり、常に軍事官僚の存在意義があり、自分たちの安楽な椅子を増やせるような状況を作り出すということですね。魚住二・二六事件で皇道派は潰されましたが、結果としては少なくとも軍事官僚の自己保存運動としては成功したわけですね。佐藤そう、うまくいったんです。しかし彼らは国家全体が萎縮した(前述より(p.167):軍が動くことの恐ろしさを目の当たりにすることで、マスコミも学者も経済人も政治家も萎縮した)ところで勢力を伸張したものですから、ビューロクラシー(官僚政治)に陥ってしまったのです。社会全体を自分たちが理解し、統治できると。実際、後に1940年体制と呼ばれる統制経済システムの構築に成功しましたね。一方で、戦争を機能的に遂行できるテクノクラート(技術官僚)の側面が弱くなり、太平洋戦争で悲惨な敗北を喫し、軍事官僚システムは崩壊してしまいましたが。しかし、非軍事官僚は整理されずに生き残って、戦後の官僚機構を形成していきます。彼らもビューロクラシーに染まっていた。これは感覚的なレベルですが、現在にまで続く日本の官僚制の宿痾は1930年代の軍事官僚にあるのではないでしょうか。

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    ※久原房之助の失脚一国一党論を掲げて、政友会(鈴木喜三郎、鳩山一郎*)と民生党(若槻礼次郎、町田忠治*)の連合運動に対立していた久原房之助は、1933年末頃より右翼団体、急進的青年将校、エリート官僚を巻き込んで岡田内閣を清算しようと政界・官界・軍部を引っ掻き回していたが、結局二・二六事件をきっかけにして姿を消した。※新たな政権獲得闘争の激化(1937~)1.「主流派」(政友会=鳩山一郎+民生党=町田忠治)指導部と陸軍の正面衝突2.新しい連合勢力の出現石原莞爾大佐+近衛文麿+金融・財閥代表

    ・日独防共協定(1936年、昭和11年11月)成立大島浩中将とナチス・リッベントロップの交渉にはじまる。陸軍武官が大使館の外交ルートに侵食してきたケースの典型例(—>昭和12年11月にはイタリアも参加)

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    ●魯迅(周樹人)死亡(1936年、昭和11年10月19日)肺結核によるものだが、日本人主治医(須藤某)の治療についての謎は今も残る。(周海嬰『わが父魯迅』、岸田登美子ら訳、集英社)

    ●中国西安事件(1936年、昭和11年12月12日):張学良、葉剣英による蒋介石監禁。毛沢東もこれを扇動した。張学良が西安に赴いた蒋介石に、滅共ではなく抗日民族統一戦線をつくるよう迫って軟禁した。中国共産党(周恩来ら)の調停で蒋介石は解放され、これによって、第二次国共合作(昭和12年8月)が実現した。(蒋介石夫人宋美齢の活躍。コミンテルンからの除名という、毛沢東に対するスターリンの脅しもあったらしい)<張学良のアピール>1.南京政府を改組し、各党派を参加させて、救国の責任をとること2.すべての内戦を停止すること3.上海で逮捕された愛国領袖の即時釈放4.全国のすべての政治犯の釈放5.民衆の愛国運動の解放6.人民の集会、結社、すべての政治的自由の保障7.孫文総理の遺嘱の切実なる遵守8.救国議会の即時召集(『中国共産党資料』第八巻)

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    ・スペイン内乱(1936~1939年):航空力が現実的に試された。都市爆撃で都市は破壊したが、人々の戦意を奪うことはできなかった。爆撃機は予想外に撃墜されやすいことも判明。航空輸送の重要性も判明。(リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦湾岸戦争」服部省吾訳、東洋書林より引用)

    ・1937年4月26日、ドイツのコンドル部隊が、バスクの山村ゲルニカを強襲空爆して死者千数百人を出して壊滅させた。再建されて僅か4年のドイツ空軍力の飛躍的充実を見せつけるとともに戦略爆撃のおそるべき破壊力をも見せつけた。

    ★1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)までの短期間に、突然、論理的に整合性があり、極めて効率的で、戦時中のみならず戦後日本の奇跡の経済成長の礎石となった戦時経済システムができあがったことは驚嘆に値することを認識しよう。※国家の理想は”正義と平和”にあるという日本の良識の最高峰であった東大教授・矢内原忠雄氏は、度重なる言論弾圧により昭和12年12月2日、最終講義を終えて大学を去った。以下学ぶ事の多い終講の辞より。

    植民地領有の問題をとって考えてみても、種々の方面から事をわけて考えねばならない。研究者は一定の目的を以て行われている現実の政策をも学問的に見て、それが正しいかあるいは利益があるかを決すべきであり、実行者がやっているの故を以てそれを当然に正しいとか利益があるとかいうことは出来ない。

    ・・・大学令第一条には大学の使命を規定して、学術の蘊奥並びにその応用を研究し且つ教授すること、人格を陶冶すること、国家思想を涵養すること、の三を挙げている。その中最も直接に大学の本質たるものは学問である。もちろん学問の研究は実行家の実行を問題とし、殊に社会科学はそれ以外の対象をもたない。また学問研究の結果を実行家の利用に供すること、個々の問題について参考意見を述べること等ももとより妨げない。しかしながら学問本来の使命は実行家の実行に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤めることではない。現在は具体的政策達成のためにあらゆる手段を動員している時世であるが、いやしくも学問の権威、真理の権威がある限りは、実用と学問的の真実さは厳重に区別されなければならない。ここに大学なるものの本質があり、大学教授の任務があると確信する。大学令に「国家思想を涵養し」云々とある如く、国家を軽視することが帝国大学の趣旨にかなわぬことはもちろんである。しかしながら実行者の現実の政策が本来の国家の理想に適うか否か、見分け得ぬような人間は大学教授ではない。大学において国家思想を涵養するというのは、学術的に涵養することである。浅薄な俗流的な国家思想を排除して、学問的な国家思想を養成することにある。時流によって動揺する如きものでなく、真に学問の基礎の上に国家思想をよりねりかためて、把握しなければならない。学問的真実さ、真理に忠実にして真理のためには何者をも怖れぬ人格、しかして学術的鍛錬を経た深い意味の国家思想、そのような頭の持主を教育するのが大学であると思う。国家が巨額の経費をかけて諸君を教育するのは、通俗的な思想の水準を越えたところのかかる人間を養成する趣旨であることを記憶せよ。学問の立場から考えれば戦争そのものも研究の対象となり、如何なる理由で、また如何なる意味をそれが有つかが我々の問題となる。戦争論が何が故に国家思想の涵養に反するか。戎る人々は言う、私の思想が学生に影響を及ぼすが故によくないと。しかし私はあらゆる意味において政治家ではない。私は不充分ながらとにかく学問を愛し、学生を愛し、出来るだけ講義も休まず努力して来ただけで、それ以外には学生に対して殆んど何もしなかった。学生諸君の先頭に立つようなことは嫌いだった。しかし私がこうして研究室と教室とに精勤したということがよくないというなら、それは私の不徳の致すところだから仕方がない。私は不充分ながら自分が大学教授としての職責をおろそかにしたとは思わない。しかし私の考えている大学の本質、使命、任務、国家思想の涵養などの認識について、同僚中の数氏と意見が合わないことを今回明白に発見したのである。もっとも、意見の異る人々の間にあってやって行けないわけではない。いろいろの人々、いろいろの傾向が一つの組織の中に統一せられることは、大学として結構であり、学生に対しても善いのである。考えや思想が一色であることは、かえつて大学に取って致命的である。故に私は他の人々と意見が異うからという理由で潔癖に出てゆくわけではない。私は何人をも憎みまた恐れるわけではない。地位を惜しむものでもなく、後足で砂をかけ唾を吐いて出てゆくのでもない。私は大学とその学生とを愛する。私はゴルフをやるでなし芝居を見るでなし、教室に来て諸君に講義し諸君と議論することが唯一の楽しみであった。それも今日限りで、諸君と、また諸君の次々に来る学生等と、相対することも出来なくなるのだ。しかし私の思想が悪いというので大学に御迷惑になるとすれば、私は進んで止める外はないのである。私の望むところは、私が去った後で大学がファッショ化することを極力恐れる。大学が外部の情勢に刺戟されて動くことはあり得ることであり、また或る程度必要でもあろうが、流れのまにまに外部の動く通りに動くことを、私は大学殊に経済学部のために衷心恐れる。もしそういうことであるなら、学問は当然滅びるであろう。・・・現象の表面、言葉の表面を越えたところの学問的真実さ、人格的真実さ、かかる真実さを有つ学生を養成するのが大学の使命である。これが私の信念である。諸君はこれを終生失うことなくして、進んで行かれることを望む。私は大学と研究室と仲間と学生とに別れて、外へ出る。しかし私自身はこのことを何とも思っていない。私は身体を滅して魂を滅すことのできない者を恐れない。私は誰をも恐れもしなければ、憎みも恨みもしない。ただし身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように……。(矢内原忠雄氏著『私の歩んできた道』日本図書センター、pp.106-110)

    ★歴代首相広田弘毅(S11~12)–>林銑十郎(S12)–>近衛文麿(S12~14、第1次)–>平沼麒一郎(S14)–>阿部信行(S14~15)–>米内光政(S15.1.16~S15.7.16)–>近衛文麿(S15~16、第2~3次)–>東条英機(S16~19)–>小磯国昭(S19~20)–>鈴木貫太郎(S20)–>東久邇宮稔彦(S20)–>幣原喜重郎(S20~21)

    ★ここまで発展してきた医師会も日中戦争から、大東亜戦争へと続戦時体制の中で、戦争遂行のための国家総動員体制の中に組み込まれた。(広田弘毅内閣への軍部の数々の嫌がらせや組閣僚人への妨害工作)#寺内(お坊ちゃん)大将の横やり

    「これには(閣僚予定者)、民政・政友の両党から二名ずつ大臣が入っている。これでは政党政治に他ならない。政党出身者は各党一名に限ると、軍からかねがね希望していたはずであり、一名ずつに減らさぬ限り、軍は承知できない。陸軍大臣を辞退する」(この時陸軍は、新大衆政党結成と陸軍大将林銑十郎ないし近衛文麿内閣樹立を画策していた。–>●荻窪会談、昭和36年~37年、林銑十郎、安保清種海軍大将、結城豊太郎(銀行家)、小原直(岡田内閣法相)、永井柳太郎(民生党)、前田米蔵(政友会)、中島知久平(政友会)、山崎達之輔(政友会–>昭和会)、後藤文雄(文官)、有馬頼寧(産業組合)ら)

    ※平民宰相広田弘毅の苦悩(軍部大臣現役武官制の復活<--最悪!!)広田弘毅は二・二六事件に対して粛軍を断行した。しかしこれは軍部内部の派閥争い(統制派による皇道派締め出し)に利用され、軍部が全面的に反省の意を示したことにはならなかった。そればかりか、陸軍より「粛軍の一環として、軍部現役大臣(軍部大臣現役武官制)への復帰」という提案が出され、広田弘毅は「現役将官のなかから総理が自由に選任できる」ことを条件にそれを認めた。しかし、たとえ条件つきでも軍部大臣現役武官制のもとでは、どんなときにも陸軍主導の内閣を作ることができるようになってしまった。(広田弘毅は、このことを軍部暴走の追随として後の東京裁判で弾劾されることになった。さらに彼は当時の悪名高い愛国主義団体(アジア主義を掲げる国家主義的団体)”黒龍会(首領:頭山満)”の親睦団体である”玄洋社”で、青年時に教育されていた。この事実も彼の判決に不利に作用した。歴史は皮肉なものである)。 ※浜田国松による軍部政策批判(1937年、昭和12年1月21日)政友会、浜田国松は第70議会(広田内閣、寺内陸相)において、軍部の改革案と政策決定への軍の関与に対して激しく批判した。#「独裁強化の政治的イデオロギーは、常に滔々として軍の底を流れ、時に文武烙循の堤防を破壊せんとする危険あることは国民の均しく顰蹙するところである」(--->広田内閣は致命的な分裂へ)

    #「軍部は野放しのあばれ馬だ。それをとめようと真向から立ちふさがれば、蹴殺される。といって、そのままにしておけば、何をするかわからん。だから、正面からとめようとしてはだめで、横からとびのって、ある程度思うままに寄せて、抑えて行く他はない」(以上、城山三郎氏著『落日燃ゆ』より部分的に引用)

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    ☆余談<昭和12年、三木清『学生の知能低下について』(文藝春秋5月号)>昔の高等学校の生徒は青年らしい好奇心と、懐疑心と、そして理想主義的熱情をもち、そのためにあらゆる書物を貪り読んだ。・・・しかるに今日の高等学校の生徒においては、彼等の自然の、生年らしい好奇心も、理想主義的感情も、彼等の前に控えている大学の入学試験に対する配慮によって抑制されてゐるのみでなく、一層根本的には学校の教育方針そのものによって圧殺されてゐる。・・・或る大学生の話によると、事変後の高等学校生は殆ど何等の社会的関心ものたずにただ学校を卒業しさへすれば好いといふやうな気持ちで大学へ入ってくる。それでも従来は、大学にはまだ事変前の学生が残ってゐて、彼等によって新入生は教育され、多少とも社会的関心をもつやうになり、学問や社会に就いて批判的な見方をするやうになることができた。しかるに事変前の学生が次第にすくなくなるにつれて、学生の社会的関心も次第に乏しくなり、かやうにして所謂「キング学生」、即ち学校の過程以外には「キング」程度のものしか読まない学生の数は次第に増加しつつあると云はれる。(文藝春秋2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

    ☆余談<「少国民世代」>

    「少国民世代」などとも呼ばれるこの世代は、敗戦時に10歳前後から10代前半であった。敗戦時に31歳だった丸山(筆者注:丸山眞男)など「戦前派」(この呼称は丸山らの世代が自称したものではなかったが)はもちろん、敗戦時に25歳だった吉本など「戦中派」よりも、いっそう戦争と皇国教育に塗りつぶされて育ったのが、この「少国民世代」だった。1943年の『東京府中等学校入学案内』には、当時の中学校の面接試験で出された口頭試問の事例として、以下のようなものが掲載されている。

    「いま日本軍はどの辺で戦っていますか。その中で一番寒い所はどこですか。君はそこで戦っている兵隊さん方に対してどんな感じがしますか。では、どうしなければなりませんか」。「米英に勝つにはどうすればよいですか。君はどういうふうに節約をしていますか」。「日本の兵隊は何と言って戦死しますか。何故ですか。いま貴方が恩を受けている人を言ってごらんなさい。どうすれば恩を返す事ができますか」。こうした質問は、児童一人ひとりに、君はどうするのかという倫理的な問いを突きつけ、告白を迫るものだった。(小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.657)

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    ★この後広田内閣が倒れて、首相選びと組閣は混迷を極めた。軍人(幕僚派)の横暴、横やり、いやがらせが続き、結局大命は林銑十郎に下った。林銑十郎の組閣も陸軍、海軍、官僚が幕僚派、満州派(石原莞爾、十河信二、板垣征四郎、池田成彬、津田信吾)に分かれて次々と容喙し、「林銑十郎内閣は支那と戦争しないための内閣だ(石原莞爾)」という言葉にこめられた対中融和政策が永遠に葬られた。(昭和12年1~2月)

    ●文部省より『国体の本義』という精神教育本を発行(昭和12年4月)。橋川文三はその著(『昭和ナショナリズムの諸相』)のなかで興味深い指摘をしている。次のようにである。

    「(ファシズムの)推進力となった団体といいますか、主体ということと同時に、その主体のさまざまなアピールに応える共鳴盤といいますか、そういったものを合わせて考えないと、推進力という問題はでてこないのではないかと思います。ここで共鳴盤として考えたいのは、具体的に申しますと、農村青年とか、一般知識人とか、学生という階層にあたるわけです。はじめから右翼的な団体があって、それがそのままファシズムを作りあげたのではなく、それに共鳴する大衆の側、あるいは中間層、その層にいろいろ問題があったわけです。だからこそファシズムという一つの統合形態を生みだしえたと考えるほうが妥当ではないかということです」共鳴盤という言い方が示しているのだが、それは権力を動かすグループと「臣民」化した国民がともに声を発し、それが山彦のようにこだまして反応しあうその状態といっていいのではないか。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.126-127)

    ******************************

    「久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、眞に我が国独自の立場に還り、萬古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米攝収醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すベきである」この訴えが、『国体の本義』(全百五十六頁)の全頁にあふれている。現在、この冊子を手にとって読んでもあまりにも抽象的、精神的な表現に驚かされるのだが、なによりも天皇神格化を軸にして、臣民は私を捨てて忠誠心を以て皇運を扶翼し奉ることがひたすら要求されている。昭和十二年四月には、この冊子は全国の尋常小学校、中学校、高校、専門学校、大学などのほか、各地の図書館や官庁にも配布されたというのである。この『国体の本義』は、前述の庶民の例の代表的な皇国史『皇国二千六百年史』を誘いだす上部構造からの国益を前面に打ちだしてのナショナリズム滴養の書であった。橋川文三がその書(『昭和ナショナリズムの諸相』)で説いたように、まさに共鳴盤の役割を果たしていたといっていい。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.128-129)

    ******************************

    「明き清き心は、主我的・利己的な心を去って、本源に生き、道に生きる心である。即ち君民一体の肇国以来の道に生きる心である。こゝにすべての私心の穢(けがれ)は去って、明き正しき心持が生ずる。私を没して本源に生きる精神は、やがて義勇奉公の心となって現れ、身を捨てて国に報ずる心となって現れる。これに反して、己に執し、己がためにのみ計る心は、我が国に於いては、昔より黒(きたなき)き心、穢れたる心といはれ、これを祓ひ、これを去ることに努めて来た」こういう説得が、この『国体の本義』の骨格を成している。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.139-140)

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    ●支那事変(日中戦争、1937年、昭和12年7月7日~):南京陥落(12月13日)※廬溝橋事件(昭和12年7月8日未明)が発端。(S12.6第一次近衛内閣発足)北京郊外の廬溝橋に近い野原で、夜間演習中の第一連隊第三大隊が、国民党軍から発砲を受けた。当時の中国、特に華北情勢は、蒋介石の南京政府と共産党、冀察政権(宋哲元政務委員長)三者のきわめて微妙なバランスと相互作用の上に形成されていた。(なお国民党はナチス・ドイツと極めて緊密な関係にあり、同時に日本は日独伊防共協定の締結国として大事な政治上のパートナーであって、日中が対立することはドイツの世界戦略にとって頭痛の種となっていた)※支那事変は厳密には重慶に位置する蒋介石政権に対する軍事行動だった。日本はあえて「支那事変」と称した。それは「戦争」と宣言した場合主として米国が日本に対する物資の輸出を禁絶するであろうと虞れたからである。(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)※陸軍参謀本部作戦部長は石原莞爾だった。石原は作戦課長の武藤章らの強硬論と対立し、期せずして日中戦争不拡大派となっていた。#「自分は騙されていた。徹底していたはずの不拡大命令が、いつも裏切られてばかりいた。面従腹背の徒にしてやられたのだ」。※日中戦争がなぜ起きたのかを理解するには、浦洲国建国以降の日本の対中国政策という問題とともに、北清事変以来、中国の主権下に列強が自由に設定した場所に日本軍が30年余にわたって駐屯し続けて領土の分離工作を進めるとともに、連日、夜間演習をおこなっていたという史実にも目をむけておく必要があるのではないでしょうか。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.76)

    ※国家至上主義の台頭(軍人の思い上がり)

    「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う必要はない」。※戦争拡大派:見よ!、ワルどものオン・パレードを!!南次郎(朝鮮総督)、小磯国昭(朝鮮軍司令官)、東条英機(関東軍参謀長)、富永恭次・辻政信(いずれも東条英機の輩下)、寺内寿一、梅津美治郎、牟田口廉也、陸軍省の大部分の阿呆ども(田中新一(陸軍省軍務局軍事課)、武藤章(陸軍省軍務局作戦第三課、この男は”悪魔の化身”といっていい)、陸軍大臣杉山元など)近衛文麿、広田弘毅※日本史上最悪の悪魔の歌の慫慂(「軍人も国民もみんな死ね!!」)『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめかえりみはせじ』どうだ!!、この国のばけものどもが、国家をあげて慫慂したこの歌の非人間性を、こころ行くまで味わい給え!!。(当時の兵隊さんは、「海に河馬、みみずく馬鹿ね・・」と揶揄していたが・・・)※南京攻略戦を書いた石川達三氏著『生きている兵隊』は1/4ほど伏字で昭和13年発表されたが翌日発禁となった。

    ・<余談1>日中戦争勃発とともに日本から人気女流作家が中国に取材に出かけた。吉屋信子(「主婦之友」より、昭和12年8月)と林芙美子(「東京日々新聞」より、昭和12年12月)だった。

    ・<余談2>昭和12~13年にかけて、スターリンは赤軍参謀長トゥハチェフスキー以下の赤軍将校5000人を国家反逆剤で死刑にした。(津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.19)

    ・トラウトマン工作(昭和12年11月)の失敗中国側に対する余りにも身勝手で横暴な和平条件に蒋介石は回答せず。

    ・「通州事件」(1937年、昭和12年7月29日)冀東政権(冀東防衛自治政府=日本の傀儡政権)の保安隊が日本軍の誤爆(保安隊兵舎の誤爆)の報復として日本の守備隊、特務機関、一般居留民を200人あまり虐殺した。当時の「支那に膺懲を加える」というスローガンはこの事件がきっかけだった。(川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)

    ・”後方勤務要員養成所(後の中野学校)”が陸軍兵務局内に設立された。(1937年12月)(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.46)

    ●中国、第二次国共合作成立(1937年、昭和12年8月)。※中国における排日抗日の気運の昂揚(「救国抗日統一戦線」)

    ・対中国政策における石原莞爾の孤軍奮闘(1935~1937年、昭和10~12年頃)(注意:石原は以前、関東軍次級参謀として満州事変の企画立案をした)#「支那と戦争しちゃいかん」#「日本は今戦争ができる状態じゃない。日満支結合してして大工業を興した後でなければ戦争はできない。これから十年は戦争はできない」#「支那事変をこのままにして戦争を起こして英米を敵にしたら、日本は滅びる」(以上、井本熊夫氏(元東条英樹秘書官)へのインタビュー(『沈黙のファイル』、共同通信社編)より引用)※いやはやまったく、張作霖爆殺事件や満州事変の首謀者(石原・板垣)がよく言うよと言いたい。ただし、この頃の参謀本部では石原や参謀次長の多田駿、戦争指導班の秩父宮、今田新太郎、堀場一雄、高嶋辰彦らは、軍事的に冷静な目をもった良識派だった。中国の目まぐるしい政変と経済的復興に伴い、日本の対中姿勢も転換を余儀なくされていた。

    ●第二次上海事変(1937年、昭和12年8月13日)中国空軍が上海の日本軍の戦艦出雲を空爆する。指揮官はアメリカ軍人シェンノート(宋美齢の要請)。しかし中国空軍は租界を誤爆(?)したり、着陸失敗など惨憺たる有様だった。西欧諸国はこの誤爆を全て日本の責任として報道、日本は不当にも西欧列強から手ひどく指弾され、英国はついに蒋介石支援を決意した。結局、この第二次上海事変では、蒋介石側の溢れる抗戦意欲、ドイツの協力指導による焦土作戦の緻密さ、英米各国の蒋介石政権への固い支持が明らかになった。しかし参謀本部はこの脅威を一顧だにしなかった。このとき日本では松井石根を司令官とする上海派遣軍が編成され、昭和12年8月14日に派遣が下命された。蒋介石は15日に総動員令を発動し、大本営を設置、陸海空軍の総司令官に就任。これより日中衝突は全面戦争へと発展した。昭和12年11月までに死傷者は4万余に達した。

    ★日中全面戦争に至り死傷者が急増した。「一撃膺懲」などという安易なスローガンのもと、何の見通しもないまま激しい総力戦へと引きずりこまれていった国民が、憤激したのは当然だった。しかしこのような事態にたいし、政府は国民の精神、気分自体を統制しようと試みはじめた。近衛首相は上海事変たけなわの9月11日に、日比谷公会堂で国民精神総動員演説大会を開催、事変への国民的な献身と集中を呼びかけた。9月22日には、「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議決定された。10月半ばには、国民精神の昂揚週間が設けられ、政財界など民間の代表を理事に迎え、各県知事を地方実行委員とする国民精神総動員中央連盟が結成された。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より要約)

    ★戦争拡大派が2カ月で片付くと予想した戦闘は、中国軍の烈しい抵抗で思いもかけない規模に拡大することになった。とくに上海に戦火が波及してからの激戦で、日本軍の苦戦がつづき、次々に増援兵力を送らなければならなくなった。このため兵力も、弾薬や資材も、予想もしなかった規模にふくれ上った。もともと日本陸軍は、対ソ戦争を第一の目標としていた。中国との戦争が拡大しても、対ソ戦の準備を怠るわけにはいかなかった。そして対ソ用の現役師団をなるべく動かさないで中国に兵力を送るために、特設師団を多数動員した。特設師団というのは現役2年、予備役5年半を終了したあと、年間服する年齢の高い後備役兵を召集して臨時に編成する部隊である。1937年後半から38年にかけて、多数の特設師団が中国に派遣されることになった。現役を終ってから数年から十数年も経ってから召集された兵士たちが、特設師団の主力を構成していたということになる。また彼らの多くは、結婚して3人も4人も子供があるのが普通だった。

    「後顧の憂い」の多い兵士たちだったといえる。上海の激戦で生じた数万の戦死者の多くが、こうした後備兵だったのである。それだけに士気の衰え、軍紀の弛緩が生じやすかったのである。軍隊の急速な拡大による素質の低下、士気、軍紀の弛緩も、掠奪、暴行などの戦争犯罪を多発させる原因を作ったといえる。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.15)

    ★戦時体制下の思想弾圧日中戦争の長期化は国内の戦時体制強化を促し、戦争に対して非協力的であったり、軍部を批判する思想・言論・学問は弾圧・排除の対象となった。日中戦争勃発四カ月後の1937年11月には、ヨーロッパの反ファシズム人民戦線運動を紹介した中井正一らの『世界文化』グループが検挙され、『世界文化』は廃刊となった。翌12月、コミンテルンの人民戦線戦術に呼応して革命を企図しているとして、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、向坂逸郎ら約400名が一斉検挙され、日本無産党・日本労働組合全国評議会は結社禁止となった(人民戦線事件)。次いで、翌38年2月には、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎ら教授グループが検挙され、治安維持法違反で起訴された(教授グループ事件)。(松井慎一郎氏著『戦闘的自由主義者河合榮治郎』社会思想社、p.193より)

    ●南京事件(1937年、昭和12年12月13日)※南京攻略戦の範囲についてはS12.12.1(大本営が南京攻略を命令)からS13.1.8(南京城占領後治安回復)までと考える(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.27より)。また南京大虐殺に関する論争やいやがらせなどについては笠原十九司氏の『南京事件と三光作戦』(大月書店)という名著がある。一読されたい。※当時の外相広田弘毅は特にこの事件のため後の東京裁判で文官としてただ一人死刑になった。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++奥宮正武氏著「大東亜戦争」、89~93ページが真実に近いだろう。杉山陸相、松井大将、朝香宮・柳川・中島中将など破廉恥で獰猛な軍人のなせるわざであった。米内海相、広田外相の外交上の苦労推して知るべしであろう。(なお外相広田弘毅は和平に熱心ではなかったという説もある。最近の文献では文藝春秋2003(10)、p272-274も参照)

    —————

    11月20日勅令により大本営が設置され、呼称は事変のままで、宣戦布告もないままに、本格的戦時体制が樹立された。第一回の大本営での御前会議で、下村定(戦線拡大派)は、その上司多田駿(戦線拡大反対派)を無視して「南京其ノ他ヲ攻撃セシムルコトヲモ考慮シテ居リマス」という説明文を加筆した。参謀本部の秩序は酷く紊乱していた。当時は、統帥権の独立によって、議会の掣肘を受けない軍にとって、天皇に対する忠誠と畏敬の念こそが最大にして最後の倫理の基盤であったはずだ。それがかような形で侵されるとすれば、いかなる抑止が可能であるか、暗然とせざるをえない事態であった。南京を陥落させることによって、支那事変の収拾の目途がまったく立たなくなるということさえ予見できない無知無能連中が参謀本部を支配していた。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++<この頃の右翼>1.「観念右翼」(「日本主義者」)競争的政党制と選挙手続きを否定。あらゆる対立政党を解消して、天皇に議員選挙権を奉還し、衆議院に政府との共和を表明する新たな単一勢力を樹立しようとした。時の枢密院議長平沼麒一郎(国粋主義的色彩の強い国本社の主宰)がその中心人物だった。2.「革新右翼」日本をナチやファシストのような全体主義の国にしようと画策。中野正剛(東方会)、橋本欣五郎陸軍大佐、末次信正(内相)らが際立った指導者だった。さらに、かつての左翼運動に中心的存在であった「社会大衆党」もこの「革新右翼」の一翼というべき様相を呈した。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ●近衛最大の失政:「・・仍て、帝国政府は爾後国民政府を対手とせず・・」これをもって、蒋介石政権との決別が決まった。(昭和13年1月16日)しかしこの声明は、近代日本史上、屈指の大失策であったことは明らかである。※当時の陸軍内部の日中和平派は、参謀次長多田駿、戦争指導班の高嶋辰彦、堀場一雄、それに秩父宮だった。※石原莞爾(満州より東京を俯瞰、昭和13年5月12日)

    「・・私は事件(支那事変、南京事件)が始まったとき、これは戦いを止める方がいいといった。やるならば国家の全力を挙げて、持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべきものだと思った。然しどちらもやりません。ズルズル何かやって居ます。掛声だけです。掛声だけで騒いで居るのが今日の状況です。・・私は3か月振りで東京に来ましたが、東京の傾向はどうも変です。満州も絶対にいいことはありませんが東京はいい悪いではありません、少し滑稽と思ひます。阿片中毒者ー又は夢遊病者とかいう病人がありますが、そんな人間がウロウロして居るやうに私の目には映ります」(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

    ——————<近衛文麿の正体>——————

    (戦犯指名におけるE・H・ノーマンの近衛批判)過去10年ばかりのあいだに内政外交を問わず重大な曲り角があるたびに、近衛はいつも日本国家の舵を取っていたこと、しかもこのような重大な曲り角の一つ一つでかれの決定がいつも、侵略と軍およびその文官同盟者が国を抑えこむ万力のような締めつけとを支持したことを明らかにせずにはいない。近衛が日本の侵略のために行ったもっとも貴重なつとめは、かれだけがなしえたこと、すなわち、寡頭支配体制の有力な各部門、宮廷、軍、財閥、官僚のすべてを融合させたことであった。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.74)

    ******************

    当時朝日新聞記者であった、むのたけじ(武野武治)氏は「自分に都合の悪い質問を受けたりすると、不快感をむき出しにして、顔にも足にも表現した・・・この人は、自分以外の何千万人にもかかわる責任ですら、ある日ぽいと捨て去るのではないか、と不安になったんです」と言う。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.21)

    ●三つの戦時統制法を制定(近衛内閣)

    ・輸出入品等臨時措置法:重要物資の軍需産業への重点配分

    ・臨時資金調整法:企業設立、増資、配当、起債、資金借入の規制

    ・軍需工業動員法※議会における国家総動員法案の審議がはじまる。(S13.2、近衛内閣)斎藤隆夫、牧野良三、池田秀雄らは、戦争と国家総動員ならびに非常時における国民の権利と義務の規制などの問題は、ひとり天皇のみが扱いうるものであることをはっきりと主張して国家総動員法案の議会通過に反対した(憲法と天皇主権を楯にした)。

    ●精神障害兵士の問題1938年、国府台陸軍病院(現、国立精神・神経センター国府台病院)が全陸軍の精神障害兵士の診療・研究の中心をなす<特殊病院>として改組された。(清水寛氏著『日本帝国陸軍と精神障害兵士』不二出版、p.80)

    ●「国家総動員法」が正式に公布された(1938年、昭和13年4月1日)

    「本法ニ於イテ国家総動員トハ戦時(戦争ニジュンズベキ事変ノ場合ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最ム有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」(同時に「電力国家管理法」も公布された)※「国家総動員法」の内容国民を好き放題に徴用できる、賃金を統制できる、物資の生産・配給・消費などを制限できる、会社の利益を制限できる、貿易を制限できる・・・つまり戦争のために国民はもっている権利をいざとなったら全面的に政府に譲り渡すというもの。

    ・第四条「政府は戦時にさいし、国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所により×××することを得る」(”×××”の部分は文言が入ってない。つまり何でもあり)(半藤一利氏著『昭和史1926->1945』平凡社、p219)

    *******<「国家総動員法」の本質:軍人は人的資源だ>*******

    Hさんの母親から気がかりなことを聞いた。NHK『日曜討論』(2003年6月8日)で、自衛隊イラク派遣の推進者、山崎拓自民党幹事長(当時)が、「自衛隊という資源を、人的資源を我々が持ってる以上、しかもそれに膨大な予算を費やして維持してるわけだから、それを国際貢献に使わないという手はないわけで」と、薄ら笑いを浮かべながら発言した、と。

    「資源というのは消費するものですよね。人間を資源というのはおかしい。自衛官を使い捨てにするような発想が表れていると思います」と言う彼女は、我が子の痛ましい死を通して得た鋭敏な直覚によって、たとえ比喩であっても裏側にある本音を、小泉政権にそして国家そのものに潜む人命軽視の体質を見抜いたのだ。そしてHさんの母親から後日、電話があり、「人的資源」という言葉が気になって調べたら、それが国家総動員法のなかに出てくるのがわかったと知らされた。確かに国家総動員法(1938年公布)の第一条には、「本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズべキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」とある。ここでは人間は、人格も意思も認められず「統制運用」される対象として物資と一緒くたに扱われている。「人的資源」の発想の源は、かつて国民を戦争に駆り立てたあの国家総動員法にあるのだ。戦前~戦中~戦後を通じて国家の非情な本質は連続性を持つという事実を踏まえて、状況を見抜いていかなければならないことを痛感する。(吉田敏浩氏著『ルポ戦争協力拒否』岩波新書(2005年)、pp.102-103)

    ***************************************************************

    ※この法律は立法権制限の最たるものであり、これがその後8年間の政府の議会に対する関係を変えた(議会と政党の役割がかつてないほどまでに低下した)ことには疑問の余地がない。統帥権を法令化したこの法律をもって「軍が日本を占領した」(司馬遼太郎)。

    ※軍部は美術家も総動員して戦争画を制作させ、戦意高揚・戦争協力を押し進める方針を打ち出した。(「聖戦美術展」、アホクサ!!)

    ■政友会両派の指導者である中島と久原は、政党制度の競争的性格を根本的に修正して、議会を恒久的に支配できるような単一の新政党を結成し、その新政党を国家のための国民動員の機関とすることを提唱していた。これは当時の内務省をはじめとする官僚どもの立場と共通であった。じつにおぞましい時代だった。

    +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++※大本営の特設:天皇の統帥権行使を輔翼すべき戦時の最高統帥機関として参謀本部と軍令部の二位一体的に機能するように設置。単一化した機構の下に統帥と軍政との統合、調整及び陸海軍の策応協同を適切敏活ならしめる。(大本営は陸軍部と海軍部に分かれていた)※「大本営政府連絡会議」と「戦争指導」(「戦争指導」:「戦略」と「政略」の統合と調整)戦略(大本営、「用兵作戦」)と政略(行政府、外交、財政、教育)の統合と調整を行うために天皇を輔佐する固有の国家機関は当時、法的にも実質的にも存在せず、大本営と政府の申し合わせにより「戦争指導」に関する国家意志の実質決定機関として「大本営政府連絡会議」が設置された。※「御前会議」:天皇の御前における「大本営政府連絡会議」をいう。枢密院議長が統帥部、行政府に対し第三者的立場で出席し大局的見地から意見や勧告を陳述した。(以上、瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より引用)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++■日中戦争勃発とともに文部省は「修文錬武」をスローガンに全国の学校に軍事教練の強化と集団勤労の実施を指令した。(魚住昭氏著『渡邊恒雄メディアと権力』より)■厚生省が新設された。(1938年、昭和13年1月11日)内務省の薬務行政はすべて厚生省に移管された。(—>この後約8年間、厚生省が阿片政策を担当)

    ・1938年、里見甫は上海の陸軍特務部から阿片配給組織をつくるよう命令された。—>「宏済善堂」(「火煙局」=「里見機関」)※阿片販売は日本政府・軍部の国家的プロジェクトだった。(岸信介と東条英機はアヘンで繋がっていたという話もある)※阿片に関与したものども原田熊吉、畑俊六、里見甫、福家俊一、塩沢清宣、児玉誉士夫(田中隆吉の供述より)。

    ●南京攻略後は慰安婦が制度化された。

    ・満蒙開拓青少年義勇軍応募が始まる(1938年、昭和13年)数え歳16~19歳の青少年を国策で満州へ移民させた。彼らは後にソ満国境の警備に配されたし、徴兵年齢に達したら関東軍に召集された。

    ・ソ連極東地方内務人民委員部長官リュシコフ大将が満州国に亡命リュシコフによれば満ソ国境のソ連軍は飛行機2000機、戦車1900輛に達していたが、関東軍はそれに対して飛行機340機、戦車170輛だった。しかし関東軍はこの大きな差に対し何も対策を立てなかった。最後の死を恐れない白兵戦と大和魂に根ざす感情的な強がりが、このあとのノモンハン事件の大惨敗の伏線になった。

    ・「ペン部隊」:昭和13年8月に内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍作家を組織した。菊地寛が中心になって人選した(各班約10名、女性1名ずつ)。陸軍班:久米正雄、尾崎士郎、片岡鉄兵、岸田国士、瀧井孝作丹羽文雄、林芙美子ら海軍班:菊地寛、小島政二郎、佐藤春夫、杉山平助、吉川英治吉屋信子ら(川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)

    ・張鼓峰事件(ハーサン湖事件、1938年、昭和13年8月)

    「ソ連軍の武力偵察」という参謀本部の中堅幕僚のちょっとした思い付きと一師団長の功名心の犠牲となって、多くの日本人兵士が無駄に死んでしまった。参謀本部作戦課は火遊び好きな幼稚なものどもの集まりだった。※田中隆吉中佐の述懐

    「私の連隊は、野砲、山砲、垂砲合計36門を装備していた。二百数十門のソ連砲兵隊と射撃の応酬をしたが、敵の弾量の豊富なことはおどろくばかりで、こちらは深刻な弾丸不足に悩むばかりであった。どれほど旺盛な精神力をもってあたっても、強大な火力のまえには所詮蟷螂の斧であることを、身をもって知った。私は日本陸軍のなかで、日露戦争以後、近代装備の砲兵と戦った最初の砲兵連隊長である。張鼓峯の一戦のあと、私は日本の生産力をもって、近代戦をおこなうのは到底不可能であると、上司にしばしば意見を具申したが、耳をかたむけてくれる人はいなかった」(津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.24)

    ・陸軍参謀本部の漢口作戦、広東攻略作戦(1938年、昭和13年9~10月)日中の戦局はさらに長期消耗戦にはいっていった。※近衛内閣(ことごとくに思慮分別のない阿呆な内閣であった)

    「東亜新秩序の建設こそが日本の聖戦の目的」

    「抗日容共政権を殱滅する」「蒋介石政権は中国全土を代表せず」

    ・蒋介石が重慶を戦時首都とした(1938年10月)。1938年2月からの約5.5年、日本軍は重慶に無差別爆撃を繰り返した。

    ●内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処するために精神総動員を強化する計画を提出(1938年、昭和13年11月26日)※情報委員会を通じて内閣から中央連盟傘下の全国の諸組織(青年団、在郷軍人会、婦人会、農村の産業組合)に連なる強力な動員機構を樹立しようとした。これこそは国民を一気に「統合」しようとする構想であった。

    —————————

    ●ケマル・アタチュルク逝去(57歳)(1938.11.10、AM09:05)約20年前、オスマン・トルコ帝国は無謀な世界戦争を挑んで敗北し、国土は白人列強によって分割解体されようとしていた。そして殆どの国民が飢えと病気に苦しめられ、何よりもすべての希望を失っていた。しかし「灰色の狼」が彗星のように現れた。彼はどんな苦難にも負けなかった。彼は国民を叱咤激励し、ついに侵略者と売国奴を打ち破り祖国を守り抜いた。(三浦伸昭氏著『アタチュルク』文芸社、pp.446-447)

    ●ナチスドイツの科学者、O.ハーンとF.シュトラスマンが中性子によるウランの核分裂実験に成功(1938年、昭和13年12月17日)

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    ●中支那派遣軍の身勝手で傲慢な発言(1939年、昭和14年1月)

    「今事変は戦争に非ずして報償なり。報償の為の軍事行動は国際慣例の認むる所」(加藤陽子氏著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、p.20-21)

    ・日本軍海南島占領(1939年、昭和14年2月)

    ●「国民徴用令」が閣議決定にて公布、施行(1939年、昭和14年)帝国臣民を徴用して、戦争遂行のための総動員業務に従事せしめるというもの。こういうものが簡単に閣議決定のみで公布、施行された時代があったのだ。

    ・「満州開拓青少年義勇軍」計画(1939年、昭和14年4月29日)

    ・日本軍重慶を無差別爆撃(昭和14年5月):近代戦の最も恐るべき実例がアメリカの雑誌『ライフ』で提供され、アメリカ市民は大きな衝撃をうけた。以来アメリカの世論は大きく動いた。

    ・「梅機関」設置(1939年、昭和14年5月)王兆銘を上海に迎えるため、参謀本部の影佐禎昭大佐によって設置された。この「梅機関」は中野学校卒業生や憲兵隊を招いて上海で本格的なインテリジェンス活動を行った。(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.61)

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  10. shinichi Post author

    ●ノモンハン事件(1939年、昭和14年5~9月):制空権の重要性を証明この敗戦を堺に日本は南方進出を決定。関東軍、服部・辻らの暴走で、「元亀天正の装備」の下にソ連の近代陸軍と対戦させられた兵士約18000人の戦没者を数えた。中には責任を押しつけられて自殺させられた部隊長もあった。(「元亀天正の装備」については司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』を参照)

    #第一戦の将兵がおのれの名誉と軍紀の名のもとに、秀才参謀たちの起案した無謀な計画に従わされて、勇敢に戦い死んでいった・・。(半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)<特に”ハルハ河渡河作戦”の無謀さ>(師団長園部和一郎中将の親書より)

    「・・・小生がハルハ河渡河作戦を非常に無謀と思ったのは、第一、上司のこの作戦はゆきあたりばったり、寸毫も計画的らしきところのなき感を深くしたこと。第二、敵は基地に近く我は遠く、敵は準備完全、我はでたらめなるように思われ、第三、敵は装備優良、我はまったく裸体なり。第四、作戦地の関係上、ノモンハノンの敵は大敵なり。要するに敵を知らず己れを知らず、決して軽侮すべからざる大敵を軽侮しているように思われ、もしこの必敗の条件をもって渡河、敵地に乗りこむか、これこそ一大事なりと愚考致したる次第なり」(津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.278)

    #ソ連・モンゴル軍の情報混乱作戦計画の中で、また準備処置の中で特別の位置を占めていたのは、敵に、我が軍が防衛態勢に移っているかのような印象を与えるために、情報を混乱させる問題である。このため、各部隊には、

    「防衛線に立つ兵士の手引き書」が配られた。構築された防衛施設についての嘘の状況報告と技術物資の質問表とが手渡された。全軍の移動は夜間にだけ行われた。待機位置に集結される戦事の騒音は、夜間爆撃機と小銃・機関銃掃射の騒音によってかき消された。日本軍には、我が諸部隊によって、前線中央部が強化されつつあるかのような印象を与えるために、前線中央でだけラジオ放送が行われた。前線に到着した強力な音を立てる放送所は、くい打ちの擬音を放送して、あたかも、大防衛陣地の工事をやっているかのように見せかけた。日本兵には戦車の騒音に慣れっこにさせるために、襲撃前の10~12日間は、消音装置をはずした自動車何台かが前線に沿って絶えまなく往復した。こうした方策すべては極めて効果的であることが明らかになった。日本軍司令部は、我が軍の企図をはかりかねて、全く誤解に陥ってしまった。

    —————————

    ソ・モ軍はこのように工事や戦車の悪日を放送したのみならず、「レコードやジャズの音」をひびかせ(田中誠一「陣中日記」)、あるいは「日本軍の兵隊の皆さん、馬鹿な戦争はやめて内地の親兄弟、妻子のいるところへ帰りなさい。馬鹿な戦争をして何になるのですか。命あっての物種、将校は商売だ」などと戦線離脱をすすめる放送を「1日数十回放送した」という。(山下義高「ノモンハンに生きた私の記録」)

    —————————

    (シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.49-50)

    #信じられないようなことだが、陸軍にあっては「戦車は戦車である以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力も同じである」とされ、この不思議な仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問を抱かなかった。現場の部隊も同様であり、この子供でもわかる単純なことに疑問を抱くことは、暗黙の禁忌であった。戦車戦術の教本も実際の運用も、そういうフィクションの上に成立していたのである。じつに昭和前期の日本はおかしな国であった。(司馬遼太郎氏著『歴史と視点』より引用)

    #幼年学校、陸士、陸大を通じての大秀才であった辻政信の、ソ連の戦力に対する偵察が、実に杜撰きわまりないものであった事実は、何を意味するものであるのか。頭脳に片々たる知識を詰めこむことを重視するばかりで、現実を正確に観察する人間学の訓練を受けなかった秀才が、組織社会の遊泳術ばかりに長じていても、実戦において眼前の状況に対応するには歯車が噛みあわず、空転することになる。辻参謀は根拠なく軽視したソ連軍機械化部隊と戦闘をはじめるまで、自分が陸軍部内遊泳の才を持っているだけで、用兵の感覚などという段階ではなく、近代戦についての知識がまったくといっていいほど欠落していることに気づいていなかった。日露戦争からわずか二十三年を経ただけで、日本陸軍は大組織の内部に閉じこもり、派閥抗争をもっぱらとする、政治家のような官僚的軍人を産みだしていたのである。時代遅れの武装をしていた中国国民軍、中共軍を相手に戦闘しているあいだに、日本軍も時代遅れになった。歩兵戦闘において世界に比類ない威力を備えているので、いかなる近代兵器を備えた敵国の軍隊にも、消耗を怖れることなく肉弾で突っこめば勝利できるという錯覚を、いつのまにか抱くようになっていたのである。(津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.276-277)

    #鈍感で想像力の貧困な、無能きわまりない将官たちが、無数の若い将兵を血の海のなかでのたうちまわらせて死なせるような、無責任かつ残酷きわまりない命令を濫発している有様を想像すれば、鳥肌が立つ。彼らを操っているのは、無益の戦闘をすることによって、国軍の中枢に成りあがってゆこうと考えている、非情きわまりない参謀であった。罪もない若者たちの命を、国家に捧げさせるのであれば、なぜ負けるときまっているような無理な作戦をたて、恬として恥じるところがないのか。作戦をたてる者は、戦場で動かす兵隊を、将棋の駒としか思っていないのかと、残酷きわまりない彼らの胸中を疑わざるをえない。(津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.288-289)

    #・・・(筆者注:ノモンハン惨敗、日本軍潰滅敗走のなかで)辻参謀はいきなり司令部壕から飛び出し、某中尉以下約40名の前に立ちふさがる。将兵の瞳孔は恐怖のために拡大しているようであった。辻は右第一線全滅と報告する彼らを、大喝した。

    「何が全滅だ。お前たちが生きてるじゃないか。旅団長、連隊長、軍旗を見捨てて、それでも日本の軍人かっ」潰走してきた兵は辻参謀に詫び、彼の命令に従い、背嚢を下し、手榴弾をポケットに入れて前線に戻ってゆく。(津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.452)

    #停戦協定(昭和14年9月14日)あと、ノモンハンの惨敗の責任隠しのため、自決すべき理由の全くない3人の部隊長が自決させられた。歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐、第23師団捜索支隊長井置栄一中佐(部下の無駄死にを防いだ)、長谷部理叡大佐(陣地撤退)の3名だった。(津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.488-490)

    #日本防衛軍全軍総指揮官、第23歩兵師団長小松原の卑怯さはじめに忘れないうちに—-一つ、特徴的なエピソードを述べておきたい。こ頃、我々は、関東軍(すなわち、事実上、仝満洲戦線の)司令官植田将軍が、ハルハ河事件との関係で解任されたという、驚くべきニュースを受けとった。ところが、それにすぐそれに続いて、ハルハ河で全滅した第六軍団司令官小松原将軍が勲章を受けとった。何勲章だったか、青銅の鷲〔鷲はナチス・ドイツの勲章〕だったか、黒いトビだったかの。その頃の日本配層の心理のある特性を考えに入れなければ、この知らせは、ほんとに謎のようなものだ。小松原将軍は、かれの部隊が我が軍の包囲網によって閉じられたその次の日、この包囲網から脱け出して後方へ、満洲へと飛び去った。捕虜となった将校たちが証言していたころによると、表向きは、満洲の奥へとさらに前進して行く我が軍に反撃を準備するたであったかもしれないが、じつは、単に自分が助かるためだったようだ。

    ・・・小松原は、ハルハ河で壊滅した後、ほとんど手中には何もなく、大急ぎでかき集められるだけの兵を集めた。すなわち鉄道大隊2個、若干のバルガ騎兵、包囲から脱出したどれかの連隊の残党、独立警察連隊ーーこれらの手勢をもって、我が軍からかなり離れたところに防禦線を敷いた。たぶんその頃の実際の力関係を考えてであろうが、それはとても防御とは呼ぺぬ、名ばかりの防禦であった。・・かくもわずかな兵力をもって、何倍もの優勢な敵に抗した「見事な防禦」という満洲国境の物語は、東京ではもしかして、すこぶる英雄的に見えたかもしれないが、麾下の二個師団を、むざむざ絶滅の包囲の中に投げ込んだこのへまな将軍は、本当ならば、日本の誠実の概念からすれば、突然勲章など受けとるかわりに、腹切りをすべきだったのだ。・・・はっきりしていることは、日本軍部というものは、その特有の精神構造からして、誰が率いる部隊であれ、無防備の前線を目の前にして、あえて国境を越えようとしないとか、他国の領土に突進したりしないなどということは考えもしないだろう。もしそんなことが考えられないとすれば、誰かがソビエト・モンゴル軍を阻止したとしなければならなかった。その時点で、それをやれたとしたら警察隊と鉄道隊員を率いた小松原将軍だけだった。一見して説明のつかない、ハルハ河における日本軍司令官の軍功のものがたりはこのように見える。(シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.157-159)

    #「戦後の辻参謀(元陸軍大佐、辻政信)は狂いもしなければ死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活が終わると・・・、立候補して国家の選良となっていた。議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった。・・・それからもう何十年もたった。この間、多くの書を読みながらぽつぽつと調べてきた。そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて幅のある、ケタはずれに大きい『絶対悪』が二十世紀前半を動かしていることに、いやでも気づかせられた。彼らにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばならないのである。・・・およそ何のために戦ったのかわからないノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人々が死に、あっさりと収束した。・・・」(半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)

    ※この事件での貴重な戦訓(制空権の重要性)が生かされることなく大東亜戦争が指導された。過去に学ばない無知無能の関東軍であった。

    ・独ソ不可侵条約締結(1939年、昭和14年8月28日)(—>第二次世界大戦へ)日本では対ソ戦の有利な戦いを練るために、ドイツと軍事同盟を結ぼうかと盛んに議論している最中に、ヒトラーとスターリンが手を結んでいた。

    ————-<スターリンの実像を垣間見る>———–

    同志諸君!十月革命の偉大なる大義は無惨にも裏切られてしまった…何百万もの罪なき人民が投獄され、いつ自分の番が回ってくるか知るよしもない…同志諸君は知らないのか。スターリン一味はまんまと極右(ファシスト)クーデターをやってのけたのだ!社会主義はもはや新聞の紙面に残っているだけだ。だが、その新聞も絶望的なほど嘘にくるまれている。スターリンは真の社会主義を激しく憎悪するがゆえに、ヒトラーやムッソリーニと同じになった。己の権力を守るためなら国家を破壊し、残忍なドイツ・ファシズムの格好の餉食にしてしまうのだ…・。この国の労働者たち(プロレタリアート)はかつてツアーと資本家どもの権力を打ち倒した。ファシストの独裁者とその一味も打倒できるはずだ。社会主義を目指す闘いの日、メイデーよ、永遠なれ!反ファシスト労働者党(マーク・ブキャナン『複雑な世界、単純な法則』阪本芳久訳草思社、p.252)

    ——————————————————-

    ※モロトフ・リッペントロップ秘密協定この独ソ不可侵条約締結の際にスターリンの側近のソ連外相モロトフとナチス・ドイツの外相リッペントロップの間に結ばれた秘密協定で、ポーランド分割、沿バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)とモルダビアをソ連に割譲することなどが取り決められていた。この中にはスターリンとヒトラーの醜悪極まりない政策がはっきりとみてとれる。(佐藤優氏著『自壊する帝国』新潮社、pp.153-155)

    ・「朝鮮戸籍令改正」(1939年、昭和14年12月26日)日本人として暮らす朝鮮人に「創氏改名」を強制

    ・創価教育学会が教育団体から宗教団体(現世利益を強調)へと性格を変えるようになった(—>勢力拡大)。

    ★第二次世界大戦勃発(1939年、昭和14年9月1日)1939年9月1日ドイツが突然ポーランドに進駐。その後約1年あまりの間にドイツはヨーロッパの中央部を殆ど制圧しイギリス・フランスとの戦いに入った。

    ※われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているがそのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるのだろうか。(司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)

    ●ヒトラー「T4作戦」を命令(1939年10月)戦争遂行に不用と思われる、知恵遅れ・精神障害者をガス殺によって安楽死させた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.141)

    ●アメリカが原爆開発に着手(1939年、昭和14年10月)

    「ウラン諮問委員会」を設置した。

    ●「創氏改名」(1939年11月)朝鮮民事令改正の名目で「創氏改名」が公布された(翌年2月実施)。※「おい日本の兵隊、イルボンサラミ(日本人)、あんたたちは、何の権利があって私たちの伝統的に何百年も続いた朝鮮、朴の名前を、変な日本名の木村に切り替え使わせているのか!!」木村上等兵の朝鮮名は、朴(パク)といった。しかし、1940年2月から実施された創氏改名によって、朝鮮人に日本式の氏を新しく創り、名乗らせることを事実上強要したのである。同年8月までの半年で、全世帯の8割、322万人が創氏した。儒教を重んじる朝鮮では、家をとても大切にする。創氏改名は、何百年も続いてきた自分の家系、祖先を否定される屈辱的な行為だった。呆然とするトウタの前で、母親はまくし立てた。

    「これは日本人が、朝鮮人を同じ人間と思っていなかったからだろう。バカにしているからだ!!」何か言おうとすると、口を利くのも汚らわしいという表情でトウタを睨んだ。

    「バカ者、なんで来た!!絶対に許さない」母親はドアをバンと思い切り閉め、それきり出てこなかった。(神田昌典氏著『人生の旋律』講談社、p.59)

    ●日本軍の毒ガス散布の一例(1939年、昭和14年12月16日)尾崎信明少尉の回想記より(嘔吐性ガス『あか』を散布)かくて〔敵陣は〕完全に煙に包まれたのである。四五本の赤筒もなくなった。やがて「突っ込め!」と抜刀、着剣…。しかし、壕の所まで行って私は一瞬とまどった。壕の中には敵があっちこっち、よりかかるようにしてうなだれている。こんなことだったら苦労して攻撃する必要もなかったのではないか、と錯覚さえしそうな状景だった。しかし、次の瞬間「そうだ、煙にやられているんだ。とどめを刺さなきゃ」と、右手の軍刀を横にして心臓部めがけて…。グーイと動いた、分厚い綿入れを着ており、刀ごと持って行かれそうな感触。「みんなとどめを刺せ!」(中略)遂に敵は全員玉砕と相成った。(吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.86-87)

    ____________________
    1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年、大東亜戦争終結)まで

    「大東亜戦争」:1941年12月10日に大本営政府連絡会議で、

    「支那事変を含め大東亜戦争と呼称す」と決めた。★第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの攻勢(1940年最初の半年)ドイツ機甲師団とそれを率いるグデーリアンの活躍。ナチス・ドイツがノルウェー・デンマークを占領(4月)、西部戦線での戦端を開き(5月)フランス(ダンケルク撤退)、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに進攻。パリ陥落(6月24日)。イギリスの苦境。

    ※これらの欧州大戦は、日本の指導者たちの目には、日本の東南アジア進出を正当化し「東亜新秩序」から「大東亜共栄圏」拡大構想推進の千載一遇のチャンスと見えた。またアメリカが対日全面禁輸の措置にでるまえに東南アジアの資源を確保する必要があった。

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    ※さてサケットの尋問は、「木戸日記」の記述に沿って、日本の南部仏印進駐、独ソ戦開始をめぐる問題をへて、1941年7月2日の御前会議へとたどりつく。この御前会議は、陸海軍の方針を基本的に受け入れた

    「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を原案どおりに決定したもので、その核心は要するに、第一に南進政策の実現のためには「対英米戦を辞せず」の方針を、第二に「独『ソ』戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決」するとの方針を、最高国策として決定したことにあった。つまり対米兵戦と対ソ戦をどちらでも行うよう準備するという「南北併進」政策が国家意思として設定されたのである。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社,p.136)

    ・日米通商航海条約破棄(昭和15年1月26日)日本は軍事用を主とする物資の入手が困難となった。それによる不利を補うため、日本は資源の豊富な仏領インドシナに注目。フランスとの軋轢を生んだ(北部仏印への強行進駐(S15.9.23),南部仏印へ進駐(S16.7.28))

    ・南京に汪兆銘政府成立(昭和15年3月30日)日本が蒋介石と決別したあと、いちるの和平への望みをもって王兆銘をかつぎだし、国民政府の正統であることを誇示するように青天白日旗を戴いて成立させた。この政府は陸軍中央部に巣食っていた中国蔑視の考えに、日中和平論者の影佐禎昭参謀本部第八課長らが抵抗するかたちで作られたが、基盤は明らかに脆弱だった。また王兆銘自らも行動原則や行動理念のない言行不一致の政治家だった。

    ・満州への定住者約86万人(昭和15年)

    ・日本がウラン爆弾に「ニ号研究」として取り組みはじめた。(昭和15年3月)しかしこの研究は、日本ではあまりにも課題山積で荒唐無稽の試みに近かった。(海軍の原爆研究は「F研究」とよばれ昭和15年8月に始まったが、戦状逼迫にてたち切れとなった。昭和天皇の強い嫌悪もあった)。

    ・天才的暗号解読家のフリードマンは、数学的正攻法で97式印字機の模造機を作成、日本外務省電報を悉く解読した。このとき以来日本の外交機密はアメリカへ筒抜けになった(1940年夏)。また日本海軍の戦略暗号も1942年春に破られた。

    ★無謀な戦争に最後まで反対していた米内光政海相、海軍次官山本五十六中将、軍務局局長井上成美少将、教育局長高木惣吉、衆議院議員斎藤隆夫氏の名前を忘れないでおきたい。※井上成美

    「軍人の本分は国民を守ることにある。そして将たる者は、部下を大勢死なせてまで戦果を求めるべきでない」(加野厚志氏著『反骨の海軍大将井上成美』より)協力しあって最後の最後まで戦争早期終結を望んでいた海軍大臣米内光政とは、「最後に護るべきもの」が違ったため、袂を分かった。※斎藤隆夫(立憲民政党代議士、兵庫県但馬選挙区)(昭和15年2月2日、第75帝国議会、午後3時~4時30分『支那事変の処理方針に関する質問演説』)

    「一たび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する。これが戦争である。・・・弱肉強食の修羅道に向かって猛進する、これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。この現実を無視してただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べたてて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない。・・」(『20世紀、どんな時代だったのか』(戦争編、日本の戦争)読売新聞社編より引用)(当時、米内光政内閣)斎藤隆夫:「いまのままでは世間は闇だよ。おれの演説を議会速記録から削除するような秘密主義で、どこに文明国の政治があるか。政府も政府なら議員も議員だ。わけもわからずギャーギャー騒いでおる。日本国中に真の政治家は一人もいやしないよ。滑稽じゃないか、みんな後ろ鉢巻きで騒いでおるよ」(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.22)※山本五十六(当時第二航空戦隊、航空参謀、奥宮正武少佐の述懐より)

    「そのすぐれた見識から、米英との戦争には絶対反対し、それがいれられなくなると国家の将来を知りながらも、こんどは国家の運命を双肩に担って立たなければならなかった大将の心事は、私ごときが筆紙に尽くすことは、とうていできないことである」(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督伊藤整一』より)

    ★米内内閣の成立と終焉(昭和15年1月16日~昭和15年7月16日)米内内閣は、在職半年、終始陸軍ファッショの倒閣運動の矢面に立たされ、ついにそのボイコットに、支え得ずして倒れた。そこには、阿部内閣の退陣の際、陸軍の内閣を期待していたことが裏切られたため、陸軍を感情的にしたことも争えないが、それはむろん主な理由ではなく、欧州におけるドイツの一時的な成功に幻惑され、いわゆる東亜新秩序を、一気に実現しようとするファッショ的風潮が、一時に堰を切って流れ出していたと見るべきであろう。ともあれ、一方に陸軍、他方に近衛・木戸・平沼ラインの猛烈な攻撃をうけながら、終始中道を見失わないですすみ、滔流を隻手をもってせきとめていた米内内閣が退陣するや、たちまちにして三国同盟が成立し、太平洋戦争突入の足場をつくって行くのである。(実松譲著『米内光政正伝』光人社、p.206)

    ★第二次近衛内閣成立(昭和15年7月22日):日本史上最低最悪の内閣だった陸相東条英機海相吉田善吾:日独伊三国軍事同盟締結に反対なるも病弱・疲労困憊で役立たず。(–>後任及川古志郎)外相松岡洋右:名誉欲が強く権謀術数に長けた専断拙速猪突猛進の危険人物・釣針のように曲がったペテン師

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    組閣五日後の七月二十七日、新内閣と大本営との連絡会議がひらかれ、そこで「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が決定された。その結果近衛は、(1)支那事変の徹底遂行、(2)南方武力進出、という二大冒険を敢えてせざるを得なくなった。そもそも、この「時局処理要綱」は、陸軍がいわゆる”ヒトラーのバスに乗りおくれるな”と叫んで政戦両略の大転換を行なったその根拠として作成したものであり、米内内閣末期の七月三日、参謀本部と陸軍省の首脳会議で決定したのであった。この要綱には、対英一戦の覚悟のもとに、武力を媒介として南方への勢力進出を試みようとする陸軍の考え方が反映していた。また外交政策の面では枢軸提携を強化し、さらにソ連とも協調して旧秩序勢力と対決する方針も打ち出されていたのである。この「時局処理要綱」の内容は、いうまでもなく日本の針路に画期的な影響を与えるものである。だから、こうした重大な国策ーー国家の運命に超重大な影響を及ぼすーーは、わが国の生死の問題として超真剣に取り扱うべきであり、長い時間をかけて検討し、熟慮に熟慮を重ねても慎重にすぎることはなかったのだ。にもかかわらず、近衛内閣は成立早々、わずか三時間の論議で大本営のお供えものを鵜呑みにしてしまった。それは軽率以上のものであり、そこに日本の悲運が胚胎していたのである。思えば、まことに腑甲斐のない”挙国”内閣のスタートであった。(実松譲著『米内光政正伝』光人社、pp.211-212)

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    ●日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)富永恭次と佐藤賢了の軍紀違反による横暴。昭和陸軍”三大下剋上事件”の一つ。(他は満州事変、ノモンハン事件)

    ●●●●●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)●●●●●
    ※これがくだらない大東亜戦争へのノー・リターン・ポイントだった。※近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論でいたが、ヒトラーとソ連の対立が根強く、実現ははじめから不可能であった。またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作戦の礎石と考えていた。※過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒れていた。(当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、その後任候補を差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に追い込んだり、新内閣の陸(海)軍相候補を差し出すことを拒否して内閣成立を阻止したりすることができた。総理大臣は法的に全く無力であった)。<米内光政の名言>

    「同盟を結んで我に何の利ありや。ドイツの為火中の栗を拾うに過ぎざるべし」

    「ヒトラーやムッソリーニは、どっちへ転んだところで一代身上だ。二千年の歴史を持つ我が皇室がそれと運命を共になさるというなら、言語道断の沙汰である」

    「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる怖れあり」

    「バスに乗りおくれるなというが、故障しそうなバスには乗りおくれた方がよろしい」(阿川弘之氏著『大人の見識』新潮新書、p.123))※近衛の失策(近衛は日本を戦争に向かわせた重大な犯罪人)三国同盟に反対していた吉田善吾海軍大臣(山本五十六・米内光政

    ・井上成美の海軍英米協調・反戦トリオの流れをくむ)を神経衰弱にして辞任させ、後任に戦争好きの及川古志郎を海軍大臣に推薦した。(『小倉庫次侍従日記』(文藝春秋2007年4月号)より)

    ・関東軍情報部発足:柳田元三少将(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.43)。対ソ諜報活動が中心。

    ●日本軍の中国に対する熾烈な毒ガス攻撃と効力試験(1940年8月以降)(吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.111-132)

    ●日本軍の中国に対するペスト攻撃(状況証拠のみしかないが・・・)

    ・1940.10.4:淅江省ツーシンへ。腺ペスト蔓延が24日続き21名死亡。

    ・1940.10.27:淅江省寧波(ニンポー)へ。34日続き100名死亡。

    ・1940.11.28:淅江省金華(キンホウ)へ。

    ・1941.11.4:湖南省常徳(チャントウ)へ。11歳少女が腺ペスト発症(エド・レジス氏著『悪魔の生物学』、柴田恭子訳、河出書房新書より)

    ●「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜の大量殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐殺として問題なのは三光作戦である。中国共産党とその軍隊である八路軍が、日本軍の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作り上げたのにたいして、日本軍とくに華北の北支那方面軍は、1941年ごろから大規模な治安粛正作戦を行なった。これは日本軍自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼしつくす作戦)と名づけたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底的に破壊焼却し、無人化する作戦であった。実際に北支那方面軍は、広大な無人地帯を作ることを作戦目的に掲げている。中国側はこれを「三光政策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだのである。三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、長期間にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数もはるかに多くなっている。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.18-19)

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    ・1940年11月、大統領選挙に勝利したルーズベルトは本格的に対中支援の具体化に乗り出した。

    ・1941年3月、中国とアメリカとの間に武器貸与協定が結ばれる。

    ●1941年6月頃、ヒトラーが捕虜収容所における大量殺害を命じた(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.141)。ただし、パーベル・ポリヤーン『二つの独裁の犠牲者』(原書房)には”最終解決”がヒトラーにより口頭でヒムラーとハイドリヒに下達されたとされている。またこの指令自体は「バルバロッサ計画」の有機的な一部で1941年3月13日付けの「特別な分野のための指示」に、またSS(親衛隊)と陸軍との相互関係・相互協力を規定した1941年4月28日付の最高司令部と帝国保安本部(RSHA)との特別協定に大雑把にかかれていたという。(パーベル・ポリヤーン『二つの独裁の犠牲者』長勢了治訳(原書房)p.102)

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  11. shinichi Post author

    ★「大政翼賛」への道(1940年後半は日本がひたすら堕落してゆく時代だった)■全政党が解党、日本から政党が消えた。(昭和15年8月15日)1940年1月中旬に米内内閣組閣時、既成政党所属の多数の議員と小会派所属の議員は、こぞって自分たちの党を解散して、陸軍と協力して新しい大衆政党を結成しようという雰囲気に満ちあふれていた。(既成政党の内部分裂と小政党乱立が背景)※新体制促進同志会個人主義・民主主義・議員内閣・多数決原理・自由主義

    ・社会主義を弾劾して報国倫理の確立と指導原理の信奉を要求した。※ただし、政党の正式解散後にもその指導者たちの影響力は一貫して存続した。つまり彼等は戦争中にも、非政党エリートや右翼や政党内反主流派などの攻撃から身を守り、終戦時には国政に参加する準備が出来上がっていた。これは戦中政治の際立った特徴である。■新体制準備会(1940年、昭和15年8月28日、近衛内閣)

    「世界情勢に即応しつつ能く支那事変の処理を完遂すると共に、進んで世界新秩序の建設に指導的役割を果たすためには、国家国民の総力を最高度に発揮して、この大事業に集中し、如何なる事態が発生するとも、独自の立場において迅速果敢、且つ有効適切にこれを対処し得るよう、高度国防国家の体制を整えねばならぬ。而して高度国防国家の基礎は、強力なる国家体制にあるのであって、ここに政治、経済、教育、文化等あらゆる国家国民生活の領域における新体制確立の要請があるのである。

    ・・・今我国が、かくの如き強力なる国内新体制を確立し得るや否やは、正に国運興隆の成否を決定するものと言わねばならぬ」(詳しくは、ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社、211~221ページ参照)※ただし、この近衛の新政治体制への熱意は、支那事変早期解決が絶望となって以来、戦時経済統制体制に世論を統一し、皇室と国家に対する国民の一体感を強め、体制エリートの諸集団が戦時動員に不可欠と考えたいかなる政策をも遂行するための手段として、新体制を発展させることだけになった。

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    ★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(1)★

    帝国憲法は日本臣民に向って結社の自由を許して居る。此の由由は何ものの力を以てするも剥奪することは出来ない。政党は此の難攻不落の城壁を有し、其の背後には政民両党共に三百余万の党員を控え、更に其の背後には国民も亦之を監視して居る。凡そ政治上に於て是れ程強い力はなく、政党は実に此の強い力を握って居る。尚其の上に此の戦争は前記幕末維新の戦争の如く、戦えば江戸を焦土と化し、多数の人命、財産を損する如きものではなく、是とは全然反対に、憲法上に与えられたる全国民の自由擁護を目的とする堂々たる戦争である。然るに此の政治上の戦いに当たりて、政民両党は何をなしたか。戦えば必ず勝つ。而も其目的は国民の自由を擁護すべき堂々たる聖戦であるに拘らず、敢然起って戦うの意気なく、却って降伏に後れぎらんことを惧れて六十年の歴史をなげうち、国民の失望を無視して我れ先きにと政党の解消を急ぐに至りては、世界文明国に其の類例を見ざる醜態である。

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    ■大政翼賛会発足(1940年、昭和15年10月12日発会式)政党が解消されて、戦争にたいする異論(反対論)が完全に封じられてしまった。※「近衛の構想の新体制」は「政治性」が取り除かれ、それに伴う近衛の変節とともに、国民精神動員運動を主軸とする運動に変化して発展することになった。そこで新体制準備会で用意されていた「中核体」(総理大臣への顧問組織であり、職能・文化組織推進機関)は『大政翼賛会』、国民運動は「大政翼賛運動」と呼ばれるようになった。※「国民の歌」としての指定『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめかえりみはせじ』※陸軍は翼賛会の地方活動を支配するために、「中核体」が持つ可能性に大きな期待をかけていた。また海軍も他の諸集団(例えば日本青年党(橋本欣五郎)、東方会(中野正剛)、青年団

    ・壮年団(後藤隆之助)、産業組合(有馬頼寧))も大政翼賛運動の中心的存在になることを熱望した。(内務官僚と名望家の反発)※内務省は翼賛会府県支部の設立にあたって、知事の優越的役割を確保した。さらに内務省は町村にその官僚的支配を伸張し翼賛会下部組織の確立によって部落会や町内会の指導権を確保しようと躍起になった。(陸軍と内務省の衝突)※翼賛会議会局への参加を拒否したのは、鳩山派と社会大衆党社民派のみであった。※大政翼賛会は内閣・議会・軍部の関係に何の変化ももたらさなかった。これは大政翼賛会に関して最も驚くべき点である。

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    ★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(2)★

    次は大政翼賛会である。浅薄なる革新論から出発して、理論も実際も全く辻褄の合わざる翼賛会を設立し、軍事多端なる此の時代に多額の国費を投じて無職の浪人を収容し、国家の実際には何等の実益なき空宣伝をなして、国民を瞞着して居るのが今日の翼賛会であるが、之を設立したる発起人は疑いもなく近衛公である。其の他のことは言うに忍びないが、元来皇室に次ぐべき門閥に生れ、世の中の苦労を嘗めた経験を有せない貴公子が自己の能力を顧みず、一部の野心家等に取巻かれて国勢燮理(治める)の大任に当るなど、実に思わぎるの甚だしきものである。是が為に国を誤り実毒をのこす。其の罪は極めて大なるものがある。

    —————————————

    ★軍隊というのはカルト教団だ(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社)あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人間として扱われません。そこには権力者が決めた階級があるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言うようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り立たない。福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の下に人を作りました。彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導しました。その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民として罰しました。階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日本のトップの人であることは、それはそれでよく、私はいわゆる天皇制を支持する国民の一人です。けれども、アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけられるとうんざりします。・・・軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えることがなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだのセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)

    ・・・あのころ(鳥越注:昭和10年代)のわが国はカルト教団のようなものでした。あの虚偽と狂信には、順応できませんでした。思い出すだに情けなくなります。自分の国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざというときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹くと言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。祖国のために一命を捧げた人の英霊だの、醜の御楯だのと言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊といわれている。しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿げたことは言いませんよ。・・・戦前(鳥越注:大東亜戦争前)は、軍人や政府のお偉方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、非国民なのです。やむにやまれぬ大和魂、などと言いますやなにが、やむにやまれぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤するためにやたらに作られ、使われました。八紘一字などという言葉もそうです。中国に侵略して、なにが八紘一宇ですか。統計をとったわけではありませんから、その数や比率はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わせていた人も少なくなかったと思われますしかし、すすんであのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったのではないか、と思われます。(p106)

    ★1941年(昭和16年)、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発にいたるまで

    ・東条英機が軍内に「戦陣訓」を発する(下記、昭和16年1月8日)。※東条は一国を指導する器ではなかった。それどころか関東軍参謀長すらもまともに務まらない資質しかもっていなかった。卑しく臆病で嫉妬心が強く、権威主義的な男であった。

    戦陣訓序夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を發揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる虞なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇國の使命を體し、堅く皇軍の道義を持し、皇國の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。惟ふに軍人精紳の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅論に炳乎として明かなり。而して戦闘茲に訓練等に關し準據すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に共の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅論を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具體的行動の憑據を示し、以て皇軍道義の昂揚を圖らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

    「第七死生観」死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を盡くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

    「第八名を惜しむ」恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

    ※死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生きることを喜びとすべきである、というのであった。日本軍の兵士は、「大義に生きる」という死生観を理想としたのである。しかしここでつけ加えておかなければならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた者のほうがこのような死生観をもっていなかったということだ。たとえば、この戦陣訓を軍内に示達した当の東條英機は、戦争が終わったときも責任をとって自決していないし、あろうことか昭和二十年九月十一日にGHQ(連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときにあわてて自決(未遂)を試みている。東條のこの自決未遂は二重の意味で醜態であった。・・・(中略)・・・

    「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受けるようなことがあってはならない、生を惜しんでのみっともない死に方はその恥をのこすことになるという教えであり、故郷や家族の面子を考えるようにとの威圧を含んでいた。これもまた兵士たちには強要していながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活のなかで並み外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚たちもいた。戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別格であるというのが、昭和陸軍の実態でもあった。私は、太平洋戦争は日本社会を兵舎に仕立てあげて戦われてきたと考えているが、その伝でいうなら、この戦陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者に都合のいい〈臣民の道〉であった。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.199-203より抜粋)

    ・新聞紙等掲載制限令公布(昭和16年1月11日)

    ・日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)これによりソビエトは実質的には満州国を承認。スターリンの中国軽視は毛沢東のスターリンへの不信感を高めた。さらにアメリカも強い不快感を持ち、ソビエトとの経済交流を中止し、ルーズベルトは重慶政府(蒋介石)へP-40戦闘機100機を提供した。

    ・米大統領が国家非常事態宣言、アメリカが臨戦態勢に入る。(昭和16年5月)

    ●独ソ戦開始(昭和16年6月22日)独ソ戦は日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意義すらも、根本的に打ち砕くものであった。

    ・日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大軍を満州に集結(昭和16年7月2日)。

    ●●●●●日本軍が南部仏印に進駐(昭和16年7月28日)●●●●●軍事的には無血占領であったが、政治的には陸軍の見通しの甘さが浮き彫りになっただけで、ここですでに敗戦なのだった。また日米開戦の

    「ポイント・オブ・ノーリターン」を形成したといえるだろう。※太平洋の平和維持について、一縷の望みを託していた日米間の国交を調整するという両国政府の交渉を、文字通り暗礁に乗り上げさせ、交渉の前途をすっかり暗くさせてしまった(実松譲著『米内光政正伝』光人社、p.86)※『仏印進魅の第一の目的は、仏印におけるわが諸目的を達成するにある。第二の目的は、国際情勢がこれに適する場合、仏印を基地として迅速な行動を開始するにある。仏印占領後の次の計画は蘭印に対する最後通告の発送である。シンガポール占領には、海軍が主な役割りを担当する。……われわれは航空部隊と潜水部隊をもって、断固として英米軍事力を粉砕する。近く仏印に進験する兵力は第二十五軍である』(筆者注:広東在駐の日本総領事が日本陸軍から得た「仏印進駐計画」の詳細な情報を外務省に暗号で送ったが、ことごとく解読されていた)

    ・・・(中略)・・・こうして、米国はわが方の”平和進駐”の真意を事前に察知することが出来、その報復措置などについて、あらかじめ準備を進めたのであった。すなわち、アメリカは、二十六日、日本の在米資産を凍結し、イギリスもオランダもアメリカにならって同じ措置をとった。またこの日マッカーサー将軍を司令官とする極東軍部隊が編成された。こうして日本を取り巻くA・B・C・D(米・英・中国・オランダ)包囲陣というものが、現実に完成されることになった。さらに8月1日、アメリカはかねてから準備していた石油の日本への輸出禁止をもって、日本軍の南部仏印進駐に報復したのだ。石油が得られないならば、日本の海軍は絵に描いたモチと化するであろうし、大陸軍もまた、”裸の兵隊”となり兼ねないであろう。武力をもって南方の石油を手に入れない限り、わが国は立往生することになり、相手の言うままに屈するよりほかにない。”この際、打って出るほかなし”の考えとなった。こうして、南部仏印進駐→対日全面禁輸→対米戦というレールが敷かれたのである。(実松譲著『米内光政正伝』光人社、pp.90-91)

    ●アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結(昭和16年8月1日)<軍令部総長、永野修身の上奏>こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たちはすっかり混乱している。軍令部総長の永野修身は、アメリカが石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇に対米政策について恐るべき内容を伝えている。

    「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態となれば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半で消費しつくすから、むしろ、この際打って出るほかはない」と上奏しているのだ。天皇は木戸幸一に対して、「つまり捨鉢の戦争をするということで、まことに危険だ」と慨嘆している。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.215)

    ●中国、宜昌にて日本軍が大量の毒ガス攻撃(昭和16年10月7日~11日)催涙ガス(クロロピクリン、クロロアセトフェノン)、嘔吐性ガス(アダムサイト)、イペリット、ルイサイト、青酸ガス、ホスゲンなどを使った悪魔どもの悪あがきのヤケクソ攻撃だった。(吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.134-144)

    ●大本営政府連絡会議(「御前会議」での追認、昭和16年10月4日)近衛文麿が内閣を投げ出した。近衛文麿:「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.85より)

    ●「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」(昭和16年11月16日、大本営政府連絡会議、石井秋穂・藤井茂原案):戦争終結への発想はお粗末な現実認識とともに無責任で他力本願(ドイツ・イタリア頼み)だった。一方針(略)二日独伊三国協力シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図ル(一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル(イ)濠洲印度二対シ政略及通商破壊等ノ手段二依り英本国トノ連鎖ヲ遮断シ其ノ離反ヲ策ス(ロ)「ビルマ」ノ独立ヲ促進シ其ノ成果ヲ利導シテ印度ノ独立ヲ刺戟ス(二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム(イ)近東、北阿、「スエズ」作戦ヲ実施スルト共ニ印度二対シ施策ヲ行フ(ロ)対英封鎖ヲ強化ス(ハ)情勢之ヲ許スニ至ラハ英本土上陸作戦ヲ実施ス(三)三国ハ協力シテ左ノ諸方策ヲ執ル(イ)印度洋ヲ通スル三国間ノ連絡提携二勉ム(ロ)海上作戦ヲ強化ス(ハ)占領地資源ノ対英流出ヲ禁絶ス三日独伊ハ協力シテ対英措置卜並行シテ米ノ戦意ヲ喪失セシムルニ勉ム(一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル(イ)比島ノ取扱ハ差シ当り現政権ヲ存続セシムルコトトシ戦争終末促進二資スル如ク考慮ス(ロ)対米通商破壊戦ヲ徹底ス(ハ)支那及南洋資源ノ対米流出ヲ禁絶ス(ニ)対米宣伝謀略ヲ強化ス其ノ重点ヲ米海軍主力ノ極東ヘノ誘致竝米極東政策ノ反省卜日米戦無意義指摘ニ置キ米国輿論ノ厭戦誘致二導ク(ホ)米濠関係ノ離隔ヲ図ル(二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム(イ)大西洋及印度洋方面ニ於ケル対米海上攻勢ヲ強化ス(ロ)中南米ニ対スル軍事、経済、政治的攻勢ヲ強化ス(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.226-227)

    ●東条内閣成立(昭和16年10月18日、木戸幸一の推薦、第三次近衛内閣総辞職(10月16日))

    「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」よくもこんな発想ができたものだ。悪魔の内閣としか表現のしようがない。※中島昇大尉(BC級戦犯、死刑判決)の述懐(昭和21年6月)

    「捕虜になると国賊扱いにする日本国家のあり方が、外国捕虜の残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜の虐待は日本民族全体の責任なのですから個人に罪をかぶせるのはまちがっていませんか。・・・私は国家を恨んで死んで行きます」

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    ・陸海軍大臣の任務(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)1.国の行政全般の議に参画する国務大臣2.陸海軍省の主管大臣3.「編成大権」に関する天皇の輔佐役4.大本営の構成員

    ・「国民学校令」:国家による教育統制の完成。ナチスのフォルクスシューレをそのまま真似た勅令。

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    ●通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡された。(昭和16年11月26日)中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪兆銘政府の不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和に入っての日本の歴史を全て白紙に戻すという内容だった。(—>日米開戦へ)

    ●昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の正式決定)

    「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」。東条英機「一死奉公」の羅列:東条にとっては、国家とは連隊や師団と同じであり、国民は兵舎にいる兵士と同じだった。

    ●大東亜戦争(太平洋戦争)開戦(昭和16年(1941)12月8日午前3時25分:ホノルル7日午前7時55分、ワシントン7日午後1時25分)当時日本政府の視線は、戦争の日米戦争としての側面に集中したが、世論のレベルではむしろ日本の対アジア侵略の側面があらためて強調された。開戦そのものについても、戦争が真珠湾攻撃によってではなく、タイ、マレー半島への日本陸軍の無警告による先制攻撃で始まったことに注意が向けられた。時間的にも真珠湾で空襲の始きる午前3時25分(日本時間)より1時間以上早い午前2時15分に日本陸軍俺美支隊がマレー半島(英領)コタバルに上陸し、激戦を始めていた。また真珠湾空襲開始のほぼ30分後手前4時)から日本軍がタイの各地に続々と進攻、上陸を行い、タイ領マレー半島でも地上戦闘がタイ軍との間で行われた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.128-129)

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    ※重松譲(当時ワシントン駐在武官(海軍))の証言

    「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍がゴリ押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進駐にある。私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカにいたのだが、アメリカ人が不倶戴天の敵に思っているヒトラーにすり寄った日本を、いかに軽蔑したか、よくわかった。その日本がアメリカと外交交渉をしたところで、まとまるわけはなかったんだ」

    「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのために利用されただけだ」(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)

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    ※「木戸日記」の存在ともかく提出された日記は、天皇を頂点とした昭和政治史の中枢を検証する第一級の政治資料であった。法廷では、検察側の天皇免責の方針によって、天皇の言動に関する記述は、いっさい活用されなかった。しかし素直に日記を読めば、太平洋戦争開戦にいたる道は、天皇と、木戸など天皇側近の主体的決断という要因を入れなければ、歴史的に説明がつかないことは明らかだ。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.113)

    ※腰ぬけ知識人だらけの国戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況下で、自分の身を守るために、迎合や密告、裏切りなどに手を染めた。積極的に戦争賛美に加担しなかったとしても、ほとんどすべての知識人は、戦争への抗議を公言する勇気を欠いていた。こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバネになったと同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。たとえば、法政大学教授だった本多顕彰は、戦中をこう回想している。

    それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、どうしてあんなにまで腰ぬけだったのであろう。なかには、緒戦の戦果に狂喜しているというような単純な教授もいたし、神国日本の威力と正しさを信じてうたがわない教授もいるにはいた。……けれども、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさんにはいなかったはずである。だのに、われわれは、学園を軍靴が蹂躙するにまかせた。……〔軍による〕査察の日の、大学教授のみじめな姿はどうだったろう。自分の学生が突きとばされ、けられても、抗議一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだけではなかったか。…………心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽忠報国を説く。それが学者の道だったろうか。真理を愛するものは、かならず、それとはべつの道をあゆまねばならなかったはずである。真に国をおもい、真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにいる学生を真に愛する道は、べつにあったはずである。……反戦を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに欠けていたことが、われわれを不幸にし、終生の悔いをのこしたのである。

    こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけではなかった。南原繁は、学徒出陣で大学を去っていった学生たちを回想しながら、こう述べている。「私は彼らに『国の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え』とは言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。もし、それを言うならば、みずから先に、起って国家の戦争政策に対して批判すべきべきであった筈である。私は自分が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時に、今日に至るまで、なおそうした態度の当否について迷うのである」。(小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.177-178)

    ※「歴史的意思の欠落」日本は真に戦争か和平かの論議を論議を行ったといえるだろうか。

    ・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」をおさめるとはどういう事態をさすのか。その事態を指導者たちはどう予測していたのだろうか。まさかホワイトハウスに日章旗を立てることが「勝利」を意味するわけではあるまい。・・・実際に戦争の結末をどう考えていたかを示す文書は、真珠湾に行きつくまでのプロセスでは見当たらない。・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会議で決まった

    「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」というのがこれにあたる。

    ・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を覆滅して自存自衛体勢を確立し、そのうえで蒋介石政府を屈服させるといい、イギリスはドイツとイタリアで制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の意思なし」といったときが、この戦争の終わるときだという。この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの甘さに目を回した。ここに流れている思想は、すでて相手の意思にかかっているからだ。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思いこみだけがある。日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するというが、それは具体的にどういうことだろうか。自存自衛体勢を確立したときとは一体どういうときか。アメリカ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦いを挑んできたならば日本はどう対応するつもりだろうか。蒋介石政府を屈服させるというが、これはどのような事態をさすのだろうか。ドイツとイタリアにイギリスを制圧してもらうという他力本願の、その前提となるのはどのようなことをいうのだろうか。しかし、最大の問題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのことは当のアメリカ政府と国民のまさに意思にかかっているということではないか。・・私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入っていった指導者の責任は重いと思う。こんなかたちで戦争終結を考えていたから、3年8か月余の戦争も最後には日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の面子のみで戦うことになったのではないかと思えてならないのだ。

    ・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまりにも拙劣な政策決定のプロセスがある。・・・戦争という選択肢を選ぶなら、もっと高踏的に、もっと歴史的な意義をもって戦ってほしかったと思わざるをえない。(筆者注:保阪正康氏はこのあと戦争の「歴史的意思」を概観している。まことに明晰で説得力のある考察だが、長くなるので略す。読者各自ぜひ通読されたい)(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用、334ページ~)

    ※そしてもう一つ押さえておかなければならないことがある。実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。1922(大正11)年、ワシントン会議において軍艦の保有比率の大枠をアメリカ5、イギリス5、日本3、と決められてしまった。その反発が海軍の中でずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海軍大将らの画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一気に「大艦巨砲」主義の道を突き進んでいく経緯があった。対米英戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占めていく。特に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていったのだ。「三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六、井上成美などは、むしろ少数派であった。私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たちだと思う。特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守られていた昭和8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見書で「アメリカはアジア太平洋への侵攻作戦を着々と進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽にアメリカを支援している。それに対抗し、侵略の意図を不可能にするには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を図ることが絶対条件」と説いていた。いわば対米英強硬論の急先鋒であった。また弁が立ち、松岡洋右など政治家とも懇意とするなど顔が広かった。その分、裏工作も達者であった。そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過激な強硬論者であった。昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが作られた。会は4つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。以後、海軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことになる。中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになつていった。この「第一委員会」のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持っていくよう画策していたのである。・・・(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.87-88より)

    ★大東亜戦争勃発(太平洋戦争、昭和16(1941).12.8~20年(1945).8.15)※開戦の原動力となった中心的悪魔ども近衛文麿(東条の前の無責任首相)東条英機、木戸幸一(「銀座の与太者」)、東条を首相に推薦)#東条英機の与太弁

    ・「戦争が終わるとは平和になったとき」

    ・「畢竟戦争とは精神力の戦いである。負けたと思ったときが負けである」(筆者注:H14年から5年の長きに亘って首相の座にあり日本をさらにボロボロにした、小泉某によく似ているではないか)。#木戸幸一(「銀座の与太者」)のやったことアメリカとの戦争を回避しようとする願い、その試みを木戸はすべて潰しました。「国策遂行要領」から対米戦争の準備、決意を取り除こうとする、水野修身の望みを、内大臣の木戸は素知らぬ顔で通しました。対米外交交渉の基本方針の画定に秩父宮を参画させようとした高松宮の願いを、木戸は巧みに葬りました。陸軍大臣と中国撤兵の是非をめぐって総辞職した近衛文麿を、木戸は再度、首相に選ぼうとは露ほども考えませんでした。最後に山本五十六の参内したいという切願を木戸は容赦なく阻止し、平和を選ぶことができたであろう最後の機会を踏みにじりました。いったい、木戸幸一はどういうことを考えて、戦争を選んだのでしょう。(鳥居民氏著『山本五十六の乾坤一一擲』文藝春秋、pp.242-274)

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    陸軍省軍務局(武藤章(局長)、佐藤賢了(軍事課長))陸軍参謀本部(田中新一)星野直樹(東条内閣書記官長)岡敬純・長野修身(海軍)石原広一郎(民間、南進運動に積極的)(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、pp.224-230)※「大東亜の地域」:おおむねビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジア大陸、並びにおおむね東経180度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋海域を示しインド、豪州は含まれない。また「大東亜戦争」とは、単に大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いのものに過ぎなかった。(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)(筆者注:まったく、何と言う言い逃れであろうか)

    ■官僚化した軍部が彼我の国民の命を無駄に費やした戦争日本陸軍は(1)その8割が旧式機で構成されている戦闘機隊を主力とし(2)一度も実践に投入したことがない新型戦闘機に頼って、欧米の航空先進国の空軍に立ち向かった。※「陸軍は(わずかに)隼40機で、対英、米戦争につっ走った」(三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)■陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)

    ・20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できない。

    ・空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)

    ・海軍向け、陸軍向け戦闘機。スロットル・レバーの操作が真反対

    ・ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)のライセンス料の二重払い。同じエンジンを別々の独立した会社に依頼。

    ・陸軍の高射砲、海軍の高角砲

    ・陸軍の”センチ”、海軍の”サンチ”(”サンチ”はフランス流?)(三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)■バカバカしい、教育といえぬ兵隊教育

    「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった言葉がある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。なぜこういう状態を現出したのか、どうしてこれほど現実性が無視できるのか、これだけは何としても理解できなかった。そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」の原因であった。第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格をもつ指導者がいた。ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン、蒋介石、ヒトラーーたとえ彼らが、その判断を誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であろうと狂的人物であろうと、少なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物がいたわけである。確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあったであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」(筆者注:対米戦教育)をはじめたが、何を教えてよいやらだれにも的確にはわからない、などというアホウな話は出てこない。確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなのだ。だが、それでは一体なぜそういう事態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていないー-確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど聞かされたがー-。(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.44-45)■後方思想(兵站、補給)の完全なる欠乏日本軍内部:「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」

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    兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を行うというのが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、兵站や補給はその次というのでは、大本営で作戦指導にあたる参謀たちは、兵士を人間とみなしていないということであった。戦備品と捉えていたということになるだろう。実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱いにしない作戦にと変わっていったのだ。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

    ※そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、”現地自給”だった。熱帯ジャングルの豊かさという、今日までつづくひとりよがりの妄想があったのだろう。土地の農民さえ、戦争が始まると、商品として作っていた甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作物に切り換えている。食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが考え出したのは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。格別に新しい思想ではない。山へ入って田畑を耕し折あらばたたかう。つまり屯田兵である。ある司令官の指導要領は次の如く述べている。

    「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナドヲ栽培シ、現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ後方ヨリ補給ス。ナホ自活ハ戦力アルモノノ戦力維持向上ヲ主眼トス」この作戦の虚妄なることは、実際の経過が明らかにしているが、なおいくつか指摘すると、作物収穫までには時がかかるが、その点についての配慮はいっさい見られない。「戦力アルモノ」を中心とする自活は、すでにコレラ、マラリア、デング熱、栄養失調に陥った者を見捨てていくことを意味する。こうして多くの人間が死んだ。(鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:168)

    ※井門満明氏(当時兵站参謀)

    「兵站思想には戦争抑止力の意味があります。というのは、冷静に現実を見つめることができるからです。冷徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人間としてみることになり、それが日本には欠けていたということになります」(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より孫引き)■日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。それはわずかな財産にしがみついてすべてを失うケチな男に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つき、得るところは何もない。結局中途半端の者には戦争の能力はないのだ。われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も知らない。(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、p.95)

    ■死者約310万人:日本国民の実に1/25(しかも若者)が戦死した。(戦場での傷病により戦後亡くなった者を含めると500万人を越える?)■「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」への数々の違反1.シンガポールでの抗日華僑義勇軍約5000人の殺害(1942年2月、辻政信)2.「ラハ事件」:アンボン島侵攻作戦時豪州兵集団虐殺(1942年2月、責任者:畠山耕一郎)3.米・比軍の約8万5000人の「死の行進」(フィリピン、バターン半島、1942年4月。約120km。責任者:本間正晴中将(1946.4.3に銃殺刑に処せられる)。但し本間正晴は「穏健な人道主義者」とされている。文芸春秋2007;6:119-120)米兵1200人、フィリピン兵16000人が死亡(虐殺、行方不明)。4.オランダ領インドネシア、ボルネオ島を主とする捕虜の虐待5.タイ北西部、泰緬鉄道(筆者注:ビルマへの補給を確保するためタイのノンプラドックからビルマのタムビザヤ間415kmに建設された鉄道)建設に関する多数の捕虜の死亡(1942~1943年)。(連合国捕虜65000人、アジア人労働者30万人を導入。うち16000人が飢餓と疾病と虐待により死亡)。6.その他

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    <古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.284-285より>帝国陸軍はシンガポールで、何千人もの市民を虐殺したし、帝国海軍はマニラで、やはり何千人もの市民を虐殺した。シンガポールでは、同市に在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指定の場所に集めた。約二十万人を集めて、その中から、日本側の戦後の発表では六千人、華僑側の発表では四万人の処刑者を選んで、海岸に掘らせた穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込み、あるいはそれでは手間がかかるので、船に積んで沖に出て、数珠つなぎにしたまま海に突き落とした。抗日分子を粛清するという名目で、無愛想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺したのだそうである。日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直後にそれをしたが、マニラでは玉砕寸前の守備隊が、女子供まで虐殺し、強姦もした。アメリカの発表では、殺された市民の数は八千人である。これには名目などない、狂乱の所行である。

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    #明治38年式歩兵銃でM1カービン機関銃に歯向かった#前線の下士官の一人は「これは戦争とは言えなかったな」と呟いた。

    ※日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種華麗で粋狂な夢想」に酔いつづけた。※太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしくはその

    「会議」というものが押したのである。そのベルが押されたために幾百万の日本人が死んだか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもいない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」というきわめて抽象的な存在にすぎないのである。(司馬遼太郎氏著『世に棲む日々<三>』より引用)※まったく馬鹿な戦争をしたもんだと、黒い海を見つめていた。それにしても腹がたつのは東京の馬鹿者たちだった。何が一億総特攻だ。これが一億特攻か。話のほかだ。怒りがますます込み上げた。こうなったらなにがなんでも日本に帰り、横浜の日吉台の防空壕に潜んでいる連合艦隊の参謀たちに毒づいてやる。そうしなければ、死んでいった者どもに、何といってわびればいいのだ。(巡洋艦『やはぎ』、原為一艦長)

    ●開戦前の参謀本部:田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信班長(この3人の徹底した対米開戦派に牛耳られていた)※服部と辻はノモンハン大敗北の元凶。※特に辻政信は「作戦の神様」と言われていた。(◎_◎)

    「我意強く、小才に長じ、いわゆるこすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男なり」(山下奉文評)※服部卓四郎はおめおめと生き残って、あろうことか敗戦後もGHQ情報部ウィロビー将軍などと結びついて再軍備を画策した。性懲りのないアホウはいつの世も存在するものだ。※このほかの腐敗卑怯狡猾悪魔軍人の典型例を掲げておこう。荒木貞夫、真崎甚三郎、川島義之、山下奉文、福栄真平、富永恭次、寺内寿一、山田乙三、牟田口廉也

    ●一縷の望み:東郷茂徳外務大臣(当時、1942年元旦、外務省にて)

    「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」この東郷茂徳は1948年、極東軍事裁判でA級戦犯にされ、憤慨しつつ獄中で亡くなった。東郷外相は、外務省によって戦犯にされたという疑いが濃厚なのである。

    ★[無残な結果]:真珠湾奇襲という卑怯で悪辣な行動は後に禍根を残した。南方戦線での兵の使い捨てと玉砕。他民族を差別・蹂躙。※特殊潜航艇:潜水艦から発射する魚雷に人間を搭乗させて百発百中を狙うという考えで5隻の特殊潜航艇が出撃した。この悪魔の考えは後に昭和18年5月頃「人間魚雷」へとさらに堕落したのであった。

    ・「言論出版集会結社等臨時取締法」発布(S16.12):言論統制

    ●マレー作戦(シンガポール攻略など、S16.12.8~S17.2.15)司令官山下奉文ほか、西村、松井、牟田口が関わった。シンガポールは昭南島と市名を変えられ軍政が敷かれ、日本軍は住民から言葉を奪った。山下奉文:「これから、お前らを天皇陛下の赤子にしてやる。ありがたいと思え。・・・」(何たる傲慢、何たる無知か。唖然として絶句しかない)

    ●比島攻略戦開始(S16.12)フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦までの3年8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。フィリピンの日本軍は、住民と敵対し虐殺の行為者となっていた。(後半部は藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』pp.112-113より)

    ・マニラ陥落(S17.1.2)

    ・ロンドンのセント・ジェームス宮殿にドイツに国土を占領された亡命政府が集まり、戦争犯罪に関する連合国間の最初の国際会議が開催され、戦争犯罪処罰の宣言を発表(S17.1)

    ・ダグラス・マッカーサー:”Ishallreturn.”フィリピン、コレヒドール島(S17.5陥落)を脱出(S17.3.12)。後には在オーストラリアの連合軍と密接に連絡する地下ゲリラ組織が残った(残置諜報)。(ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人コロニーがあった。日本人移民がほとんど政府の力を借りずに築いた町だった。戦争当時約2万人が住んでいたが戦争の被害者となった(鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:165)。

    ●シンガポール占領(S17.2.15)

    ●ラングーン(イギリス領ビルマ)を占領(S17.3.8)

    ●ジャワ島に上陸(S17.3.1)しオランダ軍を降伏させた(S17.3.9)。日本軍は各国・地域の首都を占領すると、まもなくして軍政を開始しました。フィリピンは陸軍第十四軍、ジャワ島は第一六軍、マラヤとスマトラ島は第二五軍、ビルマは第一五軍がそれぞれ担当し、オランダ領ボルネオやセレベス(スラウェシ)島以東の島々は、海軍が担当しました。日本軍は、イギリス領マラヤやオランダ領東インドという枠組みでもなければ、戦後独立した国家とも違う枠組みで、統治したのです。ここで勘違いをしてもらっでは困るのは、軍政と言ってもそのトップが軍人であっただけということです。実際に行政を司った人のなかには、日本の官庁から派遣された官僚などが多く含まれていました。また、「資源の獲得」に従事したのは、軍から受命した一般企業で、積極的に進出しました。海軍担当地域は、「未開発」地域が多いとみなされたことから、日本が永久確保すべき地域とされ、「民政」がおこなわれました。しかし、「民政」とは名ばかりで、陸軍に勝るとも劣らない強権的な

    「軍政」がおこなわれました。いずれも、軍人が大きな力をもっていましたが、官も民も積極的に協力しました。その意味で、軍人だけに戦争責任を押しっけるのは、問題があると言えます。(早瀬晋三氏著『戦争の記憶を歩く東南アジアの今』岩波書店、p.9)。

    ●ドーリトル空襲:日本本土・東京が初めて空襲される(S17.4.18)アメリカ空母ホーネットから発進したB25が東京、名古屋、関西方面を初空襲。(作戦名『シャングリラ』、S18年ルーズベルトにより命名される)。当時の防衛総司令官東久邇宮稔彦は捕虜となった米人を処刑してしまった。

    ●妨害と干渉の翼賛選挙(S17.4.30、第21回総選挙)近衛文麿は衆議院議員の任期を法律を作って1年先延ばしして選挙を行った(国家の方針に全員一致で賛成する翼賛議会体制の確立)。投票率83.1%で翼賛政治体制協議会からの推薦候補は381人(466人中)と80%以上が当選。非推薦候補は85人のみ。非推薦候補鳩山一郎:「だんだんと乱暴の干渉をきく。憲法は実質的に破壊さる。選挙にして選挙に非らず。当局は蓮月尼の歌でもよく味へ。討つ人も討たるる人も心せよおなじ御国の御民ならずや」(清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、p.40)

    ・早川忠氏(筆者の親友早川芳文君の父君、T15.11.5生~H8.1.11病没)乙種第18期飛行予科練習生(1476名)として、土浦海軍航空隊に入隊。16歳(S17.5.1)(倉町秋次『豫科練外史<4>』教育図書研究会、1991年、p.286)

    ・珊瑚海海戦(MO作戦、S17.5.7~8)空母対空母の初めての激突。翔鶴航行不能、ヨークタウン大破、祥鳳とレキシントン沈没で痛み分け。日本の侵攻作戦はここまで。

    ●ミッドウェー海戦での惨敗(S17.6.5)正規空母四隻、重巡一隻を喪失。優秀なパイロットと整備員を失う。密閉型格納庫方式の採用が空母の命取りになった。さらに航空機損失322機、失った兵員3500名に達する壊滅的敗北を喫した。(作戦の責任者は順調に昇進した。お笑い種である)。澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』(文春文庫)によれば、淵田(美津雄)戦史(淵田・奥宮共著『ミッドウェー』)の中の「運命の五分間」説が大ウソであって、現実は艦隊司令部の”敵空母出現せず”の思い込みからきた作戦ミスだった。淵田は中佐であり海軍指揮官であり、事実までねじ曲げる軍隊の恐ろしさが、ここにも首をだしている。

    ●服部卓四郎と辻政信の独断による最悪のポート・モレスビー陸路攻略の無謀さ(S17.7.18-S18.1.1)標高4073mのスタンレー山を越えてニューギニア北岸のブナからポート・モレスビーをめざすという行程は実際距離340kmの陸路進行で無謀極まりない作戦だとわかっていたが、田中-服部-辻という相変わらずのバカ参謀どもにより独断で行われ、飢餓地獄で終わった。辻はここでも責任を問われなかった。(藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、pp.37-43)

    —————–

    「食糧の欠乏は、的弾以上の徹底的損害を我が軍に与えるようになってきた。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を消耗しきってしまい、頬は落ち髪は伸び放題となり、眼球は深く凹んで底に異様な光が残った。そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、裸足で棒のようにやせた腕に飯盒をぶらさげ、草を摘み水を汲んで歩く姿はどこにも二、三十才の年齢は見られず、老いさらばえた乞食といった様子だった。・・・この栄養失調の衰弱した体に一たび下痢が始まりマラリアがあたまをもたげると、血便を下し、40度前後の高熱に襲われ・・・発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は戦友の心づくしの粥すら欲しないようになり、水ばかり飲んで喘いでいるのだった。

    ・・・患者はたいてい1週間も発熱を続けると脳症を起こしてうわごとを言い始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉のようにあっけなく死んだ。・・・(結局)7割は病死だった」(小岩井第二大隊長の回想録より)(藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、pp.45-46)

    ●ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗(S17.8.7~S18.2)ガダルカナル戦は補給を全く無視して陸軍部隊を送り込み、戦死者の3倍もの餓死者を出すという悲惨なな結果を迎えた。まさに大東亜戦争の全局面を象徴するような戦闘となった。(藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、p.22)(「い」号作戦:ガダルカナルを巡っての航空決戦。このガダルカナルこそは大東亜戦争の縮図だ。大本営と日本軍の最も愚かな部分がこの戦いの全てに現れている)。第一次ソロモン海戦。陸海軍兵隊約3万1000人のうち約2万800人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。多くの熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減(893機の飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。※井本熊男(当時参謀本部作戦課)の回想

    「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感しなければならぬのは、当時大本営にありて、この作戦を計画、指導した、洞察力のない、先の見えぬ、而も第一線の実情苦心を察する能力のない人間共(吾人もその一人)でなければならぬ」※藤木参謀(ガダルカナル作戦大失敗の馬鹿参謀)曰く

    ・・・一支隊の命運はそれこそ鴻毛の如し、従容として悠久の大義に生くる悦びとして受け入れるべきであり、戦争ではよくあることであります。その一つ一つに過度の感情移入は禁物であります。(ゴミだな。こいつは)(福井孝典氏著『屍境』作品社、p.18)※大本営発表

    「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」(あほか?狂っとる)※撤退にあたっての陸軍司令部よりの命令(最低!!)

    「新企画実行の為行動不如意にある将兵に対しては皇国伝統の武士道的道義を以て遺憾なきを期すること」(飯田進氏著『地獄の日本兵』新潮新書、p.41))

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    ●横浜事件(S.17.9~10頃)太平洋戦争下の特高警察による、研究者や編集者に対する言論思想弾圧事件。(特高:特別高等警察=思想の取り締まりが任務)1942年、総合雑誌『改造』8、9月号に細川嘉六論文〈世界史の動向と日本〉が掲載されたが、発行1ヵ月後,大本営報道部長谷萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難し、これをきっかけとして神奈川県特高警察は、9月14日に細川嘉六を出版法違反で検挙し、知識人に影響力をもつ改造社弾圧の口実をデッチ上げようとした。しかし,細川論文は厳重な情報局の事前検閲を通過していたぐらいだから、共産主義宣伝の証拠に決め手を欠いていた。そこで特高は細川嘉六の知友をかたっぱしから検挙し始め、このときの家宅捜査で押収した証拠品の中から,細川嘉六の郷里の富山県泊町に『改造』『中央公論』編集者や研究者を招待したさい開いた宴会の1枚の写真を発見した。特高はこの会合を共産党再建の会議と決めつけ、改造社、中央公論社、日本評論社、岩波書店、朝日新聞社などの編集者を検挙し、拷問により自白を強要した(泊共産党再建事件)。このため44年7月、大正デモクラシー以来リベラルな伝統をもつ『改造』『中央公論』両誌は廃刊させられた。一方、特高は弾圧の輪を広げ、細川嘉六の周辺にいた、アメリカ共産党と関係があったとされた労働問題研究家川田寿夫妻、世界経済調査会、満鉄調査部の調査員や研究者を検挙し、治安維持法で起訴した。拷問によって中央公論編集者2名が死亡、さらに出獄後2名が死亡した。その他の被告は、敗戦後の9月から10月にかけて一律に懲役2年、執行猶予3年という形で釈放され、『改造』『中央公論』も復刊された。拷問した3人の特高警察官は被告たちに人権蹂躙の罪で告訴され有罪となったが、投獄されなかった。(松浦総三(平凡社大百科事典より))

    ●「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」国民には強制的な言論統制がなされていた。この年(昭和18年)の初めから「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」という命令が内務省や情報局からだされた。カフェとかダンスといった語はすでに使われず、野球のストライクもまた「よし一本」という具合に変わった。電車のなかで英語の教科書をもっていた学生が、公衆の面前で難詰されたり、警察に告げ口されたりもした。とにかく米英にかかわる文化や言語、教養などはすべて日常生活から追い払えというのだ。まさに末期的な心理状態がつくられていく予兆であった。指導者たちが自分たちに都合のいい情報のみを聞かせることで国民に奇妙な陶酔をつくつていき、それは国民の思考を放棄させる。つまり考えることを止めよという人間のロボット化だったのだ。ロボット化に抗して戦争に悲観的な意見を述べたり、指導者を批判したりすると、たちまちのうちに告げ口をする者によって警察に連行されるという状態だった。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.154-155より)

    ●ニューギニア東岸、輸送船団壊滅(S18.2.28)昭和十人年二月二十八日、第十八軍の隷下に入る兵士たちを乗せた八隻の輸送船団は、陸海八十機の戦闘機、八隻の駆逐艦に護られながらラバウルを出発しました。しかし、ブナから三百キロ北西のラエ近くで敵空軍の反復攻撃を受け、輸送船はすべて沈んでしまいました。駆逐艦も四隻が沈没しました。第十人軍の司令部要員のほか、三千名の将兵が海に沈んだのです。貴重な武器、弾薬、車両、燃料などを失った僅か八百五十名の将兵が、丸腰のままラエに上陸しただけでした。(飯田進氏著『地獄の日本兵』新潮新書、p.61)

    ・ビスマルク海での日本軍輸送船団壊滅(S18.3.4)アメリカ空軍による新しい攻撃方法(スキップ爆撃)

    ・唖然とする100トン戦車構想どうやって持ち込み、何に使う?実際機能するのか?貧弱な発想の典型。

    ・「い号作戦」(S18.4.7)零戦はじめ合計400機による航空部隊による、ニューギニアのアメリカ軍飛行場攻撃作戦(山本五十六自ら指揮)

    ●連合艦隊司令長官、山本五十六大将戦死(S18.4.18)ラバウル発ブーゲンビル島カヒリ(ブイン)に赴く途中に撃墜された。長官の日程は暗号で打電されたが完全に解読されていた。ミッドウェーの失敗に学ばないバカ丸だしの軍部であった。(暗号解読の実際についてはマイケル・パターソン『エニグマ・コードを解読せよ』角敦子訳、原書房、pp.369-370を参照)

    ●御用哲学者田辺元の体制迎合的講義(1943.5.19)(林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)19日のT(筆者注:田辺元)教授月曜講義「死生」を聴講。すなわち、死は自然現象であり、我々の本性意志のいかんともしがたいものとみる、ストアを代表とする自然観的認識論と、これにたいして、死を現実の可能性とみて、それへの覚悟により蘇生の意義をみるハイデッガーを代表とする自覚存在論的態度を説明し、このいずれも現代の我々の死生の迷いを救うものでないとする。しからば我々を救う死の態度とは”決死”という覚悟のなかにありとT教授は説く。つまり、死を可能性の問題として我々の生を考えるのではなく、我々はつねに死にとびこんでゆくことを前提に現在の生があるという。この場合、死はSein(存在)ではなくしてSollen(当為)であるという。林は、「T教授の論理は、あきらかに今日の我が国の現状の必要性に即応することを考慮した考え方であろう」と鋭く見抜いていた。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.124)

    ●アッツ島玉砕(S18.5.29)大東亜戦争下での初めての玉砕。傷病兵を安楽死させ、2576人全員死亡。(藤田嗣治画伯『アッツ島玉砕』を見よ!!)山崎保代大佐:「傷病者は最後の覚悟を決め、非戦闘員たる軍属は各自兵器を執り、共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり。他に策なきにあらざるも、武人の最後を汚さんことを虞る。英魂と共に突撃せん」※「玉砕」とは

    「玉砕」は、唐の時代に編まれた『北斉書』の一節

    「大丈夫寧可玉砕何能全」に由来すると言われる。大丈夫たる男子は、いたずらに生き長らえるよりは玉のごとく美しく砕け散るほうがよいという意味だが、それを現代に復活させ神がかり的な殉国思想と結び付けたところに、大本営の詐術があった。国家および天皇のためにいさぎよく死ぬことは、生き延びることよりも美しい。実際には戦場で無謀な突撃をして皆殺しにされることを、「玉砕」の二文字は美化し、そのような徒死に向かって国民の意識を誘導する役割をも果たした。(野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』岩波書店、p.207)※清沢洌氏『暗黒日記』(岩波文庫、p.39より)昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞でみると、最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決し、健康者は突撃して死んだという。これが軍関係でなければ、こうした疑問が起って社会の問題となったろう。

    第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎保代大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しからば何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。

    第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完備の如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善後処置をせず、孤立無援のままにして置いたか。

    第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶していればいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるのではないか。

    第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反省が皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけではないか。

    第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐらいのものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々の生命をも奪うであろう。それが国家のためにいいのであるか。この点も今後必ず問題になろう。もっとも一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!※不愉快なのは徳富蘇峰、武藤貞一、斎藤忠といった鼠輩が威張り廻していることだ。(伊藤正徳)(清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.46)※開戦の責任四天王は・・・徳富蘇峰(文筆界)、本多熊太郎(外交界)、末次信正(軍界)、中野正剛(政界)(清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)

    ●東条内閣「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定(S18.6.25)<大東亜戦争の現段階に対処し、教育練成内容の一環として、学徒の戦時動員体制を確立し学徒をして有事即応の態勢たらしむるとともに、これが勤労動員を強化して学徒尽忠の至誠を傾け、その総力を戦力増強に結集せしめんとす>アホか!!

    ・創価学会初代会長・牧口常三郎、二代目会長・戸田城聖(甚一)が治安維持法違反で逮捕された。(S18.7.6)

    ●清沢洌氏の日記より(S18.7.31)毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国において、かくの如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。全く世界の情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。

    ・イタリア無条件降伏(S18.9.8)昨日まで「イタリー、イタリー」といっていたのが、今日は文芸欄その他まで動員しての悪口だ。日本の新聞には小学校生徒の常識と論理もないらしい。(清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.89)

    ●ニューギニア東部サラワケット山越え”地獄の撤退”(S18.9.10)(飯田進氏著『地獄の日本兵』新潮新書、pp.63-69)※ラエ・サラモアからキアリへの標高4000m級の山越え行軍を強いられた部隊の一つである第51師団第三野戦病院の岩田亀索衛生伍長は次のように書いている。

    「ラエより(S18.9.15発)死のサラワケット越え(行程約400km)、前半10日くらいは的包囲のうちの逃避行、虎の尾を踏む思ひの暗夜の難行軍、谷へ転げ落ちる者数知れず、キアリ着(S18.10.15)。ラエ撤退時の兵力約六千、どうにかキアリに着いた将兵は半数の約三千、熱帯とは云へ四千米以上の高山、寒さ、連日の行軍、疲労凍死、餓死数十名が各所に枕を並べて無念の涙を飲み此の山の犠牲となる。今もなほ白骨を晒す姿が目に浮かぶ」(藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、p.57)

    ・ロンドンに連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)が設置(1943.10)され、1944年より活動を開始。

    ●学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇運を扶翼し奉る日はきたのである」。※時まさに連戦連敗、戦争を知らない人間には、戦争をやめる断固たる決意も持ち得なかったということだろう。あきれる他はない。※特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。※1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵された。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)※学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人が戦死(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)※林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の場合1941年9月5日には、林は次のように記す。「日本よ、ぼくはなぜ、この国に敬愛の念を持ちえないのか」。さらに10月12日には、「国家、それは強力な支配権力の実体である。・・・ぼくは、もはや日本を賛美すること、それすらできないのだ」と言いつつ、「戦争は、国体擁護のためではない。そうではなくして、日本の基本的性格と、そのあり方が、日本という国家に、戦争を不可欠な要素たらしめているのだ」と鋭い洞察を示す。日本は戦争なしでは一瞬たりとも存続しえない戦争機械のような存在である。戦争がなければ、自らが生き延びるために無理やりにでも戦争を作り出すだろう-ーこの戦争不可欠という洞察からはどのような希望も導き出すことはできない。林はこの日、次のようにも述懐する。

    ・・・ぼくは、この戦争で死ぬことが、我ら世代の宿命として受けとらねばならぬような気がする。根本的な問題について、ぼくらは発言し、批判し、是非を論じ、そして決然たる態度で行動する。そういう自主性と実践性を剥奪されたままの状況で戦場にでねばならぬためである。だから宿命と言うのだ。戦争で死ぬことを、国家の、かかる要求のなかで死ぬことを、讃えたいとは霜ほども思わぬ。その、あまりにもひどい悲劇のゆえに。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.120-121)

    ・東条英機を公然と批判した中野正剛は憲兵隊に引っ張られ10月27日自殺させられた。(憲兵隊:軍隊の警察。本来の任務は軍の綱紀粛正。内地憲兵と外地憲兵の二種あり。外地憲兵は作戦任務・諜報活動・機密保全が主な任務)。中野正剛:「国は経済によりて滅びず。敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことにより滅びる」(『戦時宰相論』)

    ・米英ソが三国首脳の名で「ドイツの残虐行為に関する宣言」(モスクワ宣言)を発表(1943.11.1)”ドイツの戦争指導者については、連合国政府の共同決定によって処罰する”ことをはじめて規定した。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、pp.18-19)

    ●マキン、タラワ両島の守備隊が全滅(S18.11)柴崎恵次海軍少将他4500名全滅

    ●ブーゲンビル島沖海戦(S18.10~11)ブーゲンビル島はラバウル防衛ののための要点であったので、米軍のタロキナ岬上陸(S18.10.27)に対して連合艦隊の主力をあげて反撃したが米艦のレーダーが大威力を発揮、絶対劣勢と思われた米艦隊が勝利した。日本海軍はブーゲンビル島突入に失敗。情報収集・分析・活用を無視した結果であった。なおこの時の戦果は大本営発表の1/10だった。タロキナ作戦大敗北の後に残った兵は4万余あったが、方面軍の報告ではS20.12.10には203053人に減少。大部分は飢餓に基づく戦病死であった。しかもブーゲンビル島の第6師団のすさまじい飢餓の状況のなかで食糧を求めて離隊し、敗戦後に戻った兵を軍法会議にもかけず、敵前逃亡とみなし銃殺したという。(1997.7.12放送、NHK教育テレビ「封印ーー脱走者たちの終戦」)(後半部は藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』pp.30-31より)

    ・カイロ会談(1943.11):ルーズベルトがチャーチルの反対を押して蒋介石をカイロに招き戦後の満州、日本の帰趨についてなど話しあった。どういうわけか蒋介石夫人の宋美齢も同席した。チャーチルにとっては中国はどうでもよかった。(このあとルーズベルトとチャーチルはスターリンと会談するためにテヘランに行き、結局、カイロ会談での合意(中国を援助する)を放棄。蒋介石を激怒させた。これが蒋介石政権の没落のはじまりとなった)。この『カイロ宣言』で連合国が、日本の戦争責任処罰をはじめて公式に共同声明した。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.20)

    ・マーシャル諸島、クェゼリン本島、ルオット、ナムル壊滅(S19.1)

    ・フーコン死の行軍(S19.1)~メイクテーラ奪回(?)作戦(S20)古山高麗雄氏『フーコン戦記』(文藝春秋社)より俺たちが半月がかりであの道を踏破したのは、十九年の一月中旬から下旬にかけてであったという。泰緬鉄道が完成したのは、十八年の十月二十五日だという。すでに鉄道は開通していたのだが、俺たちは歩かされた。鉄道隊は、

    「歩兵を歩かせるな」を合言葉にして敷設を急いだというが、できると物資輪送が先になり、歩兵は後になった、と古賀中尉は書いている。歩兵は歩け、である。けれども歩兵だからと言って、歩かせて泰緬国境を越えていたのでは、大東亜戦争では勝てなかったのだ。歩兵は歩かせるものと考えていた軍隊は、歩兵は送るものと考えていた軍隊には勝てないのである。俺たちは日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ、自動小銃をかかえて輸送機で運ばれていた軍隊に、途方もない長い道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行って、兵員が少なくても、食べる物がなくても、大和魂で戦えば勝てる、敵の兵員が十倍なら、一人が十人ずつ殺せば勝てる、俺たちはそんなことを言われながら戦い、やられたのだ。

    ******************

    どれぐらい待っただろうか。やっと一行が現われた。徒歩であった。副官らしい将校と参謀を従えて、師団長も泥道を歩いた。前後に護衛兵らしいのがいた。師団長だの参謀だのというのは、物を食っているから元気である。着ているものも、汚れてなくて立派である。フーコンでは戦闘司令所が危険にさらされたこともあったというが、あいつらは、食糧にも、酒、タバコにも不自由しないし、だから、元気なわけだ。しかもこうして、瀕死の兵士や、浮浪者のようになっている兵士は見せないようにと部下たちがしつらえるのだから、白骨街道の飢餓街道のと聞いても、わからないのである。あるいは、わかっても意に介せぬ連中でもあるのだろうが、どうしてみんな、あんなやつらに仕えたがるのか。いろいろ記憶が呆けていると言っても、あのとき、貴様ら浮浪者のような兵隊は、閣下には見せられん、と言った下士官の言葉も、あの姐虫と同じように、忘れることができないのである。

    ●海軍軍務局が呉海軍工廠魚雷実験部に対して人間魚雷(暗号名

    「○六」)の試作を命じた。

    ・米空母機動部隊トラック島攻撃~パラオ空襲(S19.2~3)日本海軍は燃料補給に致命的打撃を被った。トラック島(海軍最大の前進基地)の機能喪失とラバウルの孤立(S19.3)。このあと日本軍は全ての戦いで完敗を重ねた。

    ・東條演説事件(S19.2.28):臨時の「全国司法長官会同」において東條が司法を脅した。

    「従来諸君の分野に於いて執られてきた措置ぶりを自ら批判もせず、ただ漫然とこれを踏襲するとき、そのところに、果たして必勝司法の本旨にそわざるものなきやいなや、とくと振り返ってみることが肝要と存ずるのであります。(中略)私は、司法権尊重の点に於いて人後に落つるものではないのであります。しかしながら、勝利なくしては司法権の独立もあり得ないのであります。かりそめにも心構えに於いて、はたまた執務ぶりに於いて、法文の末節に捉われ、無益有害なる慣習にこだわり、戦争遂行上に重大なる障害を与うるがどとき措置をせらるるに於いては、まことに寒心に堪えないところであります。万々(が)一にもかくのごとき状況にて推移せんや、政府と致しましては、戦時治安確保上、緊急なる措置を講ずることをも考慮せざるを得なくなると考えているのであります。かくしてこの緊急措置を執らざるを得ない状況に立ち至ることありと致しまするならば、この国家のためまことに不幸とするところであります。しかしながら、真に必要やむを得ざるに至れば、政府は機を失せずこの非常措置にも出づる考えであります。この点については特に諸君の充分なるご注意を願いたいものと存ずる次第であります(以下略)」(清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、pp.134-135)

    ・中学生勤労動員大綱決定(S19.3.29)

    ●インパール死の行軍(S19.1.7に認可、S19.3月8日~7月)チンドウィンの大河を渡り、インドとビルマの国境のアラカン山脈を越えて、インドのアッサム州に侵入しようとした作戦。補給がなければ潰れるのは当然。稀にみる杜撰で愚劣な作戦だった。(司令官:牟田口廉也、10万人中7万人死亡。なお牟田口の直属上司はビルマ方面軍司令官河辺正三だった)。

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    ☆インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。

    「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」以下、訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。

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    ※インパール作戦での日本兵の敵

    ○一番目:牟田口廉也(および日本の軍部)

    「インパール作戦」大敗後、作戦失敗を問われた牟田口は、こう弁明した。

    「この作戦は″援蒋ライン”を断ち切る重要な戦闘だった。この失敗はひとえに、師団の連中がだらしないせいである。戦闘意欲がなく、私に逆らって敵前逃亡したのだ」部下に一切の責任を押し付けたのである。三人の師団長たちはそれぞれ罷免、更迭された。しかし、牟田口は責任を問われることはなく参謀本部付という名目で東京に戻っているのだから、開いた口がふさがらない。私はインパール作戦で辛うじて生きのこった兵士たちに取材を試みたことがある(昭和63年のこと)。彼らの大半は数珠をにぎりしめて私の取材に応じた。そして私がひとたび牟田口の名を口にするや、身体をふるわせ、「あんな軍人が畳の上で死んだことは許されない」と悪しざまに罵ることでも共通していた。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.179)

    ○二番目:軍部に同調する日本人のものの考え方

    ○三番目:雨季とマラリア(蚊)

    ○四番目:飢餓

    ○五番目:英国・インド軍

    萩原の言うとおりなのかも知れない。確かに、軍隊では、将軍の一声で、何万人もの人間の運命が違って来る。参謀が無茶な作戦を作ると、大量の人間が死ぬことになる。無茶と言えば、あの戦争自体が、最初から無茶だったのかも知れない。ビルマくんだりまで行って、糧秣も兵器弾薬もろくになく、十五倍、二十倍の敵と戦うなどというのは、どだい無茶である。あの頃は、不可能を可能にするのが大和魂だ、などと言われて尻を叩かれたが、将軍や参謀たちは、成算もないのに、ただやみくもに不可能を可能にしろと命令していたわけだろうか。泰緬鉄道を作ることが、どれほどの難工事であるか、アラカンを越えてインパールを攻略することがどのようなものであるか、将軍や参謀たちには、まるでわかっていなかったのであろうか。(奴ら、一種の精神病患者なんやね、病人たい、病人、軍人病とでも言えばよかかね、この病気にかかると、ミイトキーナを死守せよ、などと平気で言えるようになる。玉砕なんて、自慢にも何もならんよ、勝目のない喧嘩をして、ぶっ飛ばされたからと言うて、自慢にはならんじゃろう)。(古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.46-47)

    ※大本営発表(この頃は大ウソとボカしの連続)

    「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし我部隊は八月上旬印緬国境線付近に戦闘を整理し次期作戦準備中なり」※桑原真一氏(日本-イギリス戦友会交流世話人)

    「あの作戦の目的について、私は今も知らない。ビルマ、インドからあなたたち(注:英軍)を追い出そうとしたことだと思うが、しかしそれが目的ならあのようなかたちの戦闘は必要でない。私は、あの作戦は高級指揮官の私利私欲のために利用されたと思っている。いや私だけではない。皆、そう思っている」(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)※インパールを含めてビルマに派遣された兵隊33万人中19万人以上が戦死した。

    ・帝国陸軍「一号作戦」(大陸打通作戦)を発令(S19.4)51万人の大兵力を投じ、北京ー漢口、広州ー漢口の鉄道線沿いの重要拠点全てを占領して大陸交通を完全に支配下におくとともに、アメリカ軍の航空隊基地を破壊するという、気宇壮大、前代未聞の作戦。斜陽日本も、この作戦では弱体の中国軍に大攻勢をかけた。(結局は中国との和解に至らなかったのだが)

    ●「湘桂作戦」(S19.5~11):支那派遣軍最終最大の作戦黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400km、さらに奥漢線、湘桂線を打通して仏印まで1400kmに及ぶ長大な区間を、16個師団・50万人の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の大作戦。(服部卓四郎と辻政信(当時参謀部兵站課長)の極悪残忍さがよくわかる)。作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失調症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下により、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、

    「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むくみ、頭髪はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬のこと)。日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」という名の軍隊の成員だったのだ。すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。海上だけではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士がいたことを改めてつきつけられた。(澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫.p194)

    ・連合軍ノルマンディー上陸(S19.6.6)

    ●マリアナ沖海戦(「あ」号作戦、S19.6.19~20)日本海軍機動部隊消滅。新鋭空母「大鳳」(カタパルトなし)沈没。(作戦用Z文書は米軍の手に渡っていた)※”マリアナの七面鳥狩り”(米国評)※渾作戦(戦艦「大和」出動):宇垣纏(最後の特攻で戦死)司令官

    「蒼い海がサンゴ礁を覆う南溟の果てに、大艦隊が海を圧し、脾肉の嘆をかこっている。祖国の興廃が分かれる戦機を眼前にしながら、阿呆の作戦、ただ手をこまねいて芒っとしているだけ・・・」(吉田俊雄氏著『特攻戦艦大和』より)※宇垣纏は中将は身の毛もよだつ「桜花特攻作戦」に対し平然と出撃命令を下した。「桜花特攻作戦」は一式陸攻の胴体の下に、頭部に1200キロの火薬を載せ、尾部にロケットを装着した小型グライダーをつけて攻撃目標まで運び、攻撃というときにこのグライダーに特攻兵士を乗せて殆んど滑空降下の形で目標艦へ突入させるというものであった。

    「桜花特攻作戦」の総指揮官野中五郎中将は、この作戦を断じて拒否したが、掩護機に見捨てられ、出撃後まもなく一式陸攻搭乗の野中五郎中将以下135名の乗員と三橋大尉以下「桜花特攻作戦」隊員15名が沖縄の海に没した。(荘子邦雄氏著『人間と戦争』朝日新聞出版pp.152-155より)

    ●サイパン陥落と玉砕(S19.6.15–>7.7~10):「バンザイ・クリフ」米軍の皆殺し作戦(ナパーム弾使用)で軍人、民間人約60000人が全滅。南雲忠一中将自決。(この後よりB29の日本本土爆撃が本格的にはじまった)。南雲忠一はミッドウェー惨敗の責任を負わされサイパンへの流刑状態(悪魔の上にも悪魔がいる)だった。※南雲忠一「『サイパン』島ノ皇軍将兵ニ告グ」(直後自決)

    「今ヤ止マルモ死、進ムモ死、生死須ラクソノ時ヲ得テ帝国男児ノ真骨頂アリ。今米軍ニ一撃ヲ加エ、太平洋ノ防波堤トシテ『サイパン』島ニ骨ヲ埋メントス。戦陣訓ニ日ク『生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ』、『勇躍全力ヲ尽シ、従容トシテ悠久ノ大義ニ生クルコトヲ悦ビトスベシ』ト。茲ニ将兵卜共ニ聖寿ノ無窮、皇国ノ弥栄(いやさか)ヲ祈念スベク敵ヲ索メテ発進ス。続ケ」(野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』岩波書店、p.273)

    ・東部ニューギニア戦線(アイタペ作戦など、S18~19)ここは地獄の戦場だった。約16万人が戦死、戦病死。(大本営発表では一言も触れられていない)

    ———————————

    <第十八軍司令官安達二十三の回想>

    ・・・何も無いジャングルの地に投げ出すように放りこまれ、その後補給も無かった。近代戦の最低限の条件である物資と兵站線確保。安達はなんとかそれを獲得しようと努めた。しかし異境の地でそれは困難を極めた。潤沢に補給される敵の物量を前にして、まるで徒手空拳さながらに対崎したのである。火力の差はとても話しにならなかった。しかし何よりも兵士を苦しめたのは、食べる物が無いことだった。餓鬼地獄という言葉がある。まさにその言葉通りの惨状が日常となった。制空権も制海権も完全に奪われた南涙の未開地で、飢えと病にさいなまれて死んでいったのである。生きたまゝ死骸同然となっていく兵士たちの群れを見ながら、最高責任者として、済まないと思わぬ時はなかった。切歯扼腕、途方も無い絶望の淵に立ちすくむ時もしばしばだった。不屈の皇軍敢闘精神で捨て身の肉薄攻撃を繰り返したものの勝負は戦う前からついていた。そんな状態で戦い続けなければならなかった。それが悔しかった。その悔しさは兵士たちも同じ筈だった。同じ思いを抱いた者と一緒に死にたかった。(福井孝典氏著『屍境』作品社、p.196)

    ————<ある悲しいエピソード>———–

    私たちはこの見張り所を占拠して、ここから敵の陣地を見ることにしました。そこで私たちは一斉に銃を射って、彼らを倒したのです。不意の攻撃ですから、彼らに反撃の余裕はありません。全員を射殺しました。そして、私たちはその見張り所に入りこんだのですが、私は大学を卒業していましたので、ある程度の英語の読み書きはできます。私は、なにげなく机の上のノートを見ました。その兵士はすでに死んでいたのですが、まだ二十歳を超えたような青年でした。そのノートに書かれた英文を読むと、「ママ、僕は元気に戦場にいます。あと一週間で除隊になりますが、すぐに家に帰ります。それまで皆を集めておいて、私の帰りを待っていてください。そのときが楽しみです。・・・」という文面でした。戦友の中で英語がわかるのは私だけでしたから、何が書いてあるんだと尋ねられたときも、どうやら報告書のようなものらしいと答えて、最後のページを被り、私はポケットにしまいこんだのです。しかしこれをもっていると、何かのときに都合がわるいと思って、後にこっそりと焼いてしまいました。(保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.12)

    ・西部ニューギニア戦線(S19~S20)苛烈な爆撃と飢餓、マラリア、アメーバ赤痢、脚気などが次々と若者の命を奪っていった。司令部のお偉いさんは漁船を呼びつけこっそり逃げようとした。指揮官は爆撃の際には防空壕の底にへばりついていた。

    ———–<三橋國民氏著『鳥の詩』より>———–

    早朝、破壊されたサマテ飛行場滑走路の修復作業のため、私たち仲間の少しでも動ける何人かが、それぞれスコップを肩にして陣地を出発した。陣地の草っ原を抜けると山径になり清原のいる砲分隊のニッパ小屋につきあたる。すると、その小屋の高床式になっている隅の柱に、清原が両手でしがみつき、辛うじて腰を浮きあがらせた恰好でうめき声をあげていた。私は清原が何をやっているのか見当がつかず、小屋の中に入っていった。

    「きよはら!何やってるんだい。・・・どうしたんだい?」清原は私の声を聞くなり握っていた両の手を放した。とたんに、尻餅をついた。こちらを振り返った清原の目に悔しげな涙が滲んでいる。それでも清原は口もとに笑みをつくりながら、

    「三橋、情けねぇよ、どうにもならねぇんだ。四十度もあったマラリアの熱が、下がったと思ったら、腰が抜けちゃって立てねぇんだよなぁ。いまこの柱に掴まって何とかして立とうとしてた㌦んだが・・・」げっそりと痩せこけて毛髪が茶褐色になってしまい、ほんの幾日かで皺くちゃになった日の縁、手のひらの辺りなど老人めいた容貌に一変している。私はその時、ふっとそんな清原の状態が気になった。腰が抜けたあと、そのまま寝こんでしまい、余病を併発して亡くなっていくケースが意外に多かったからだ。高熱の引いたあと衰弱して、まるで老人そのもののようになってしまうのは、あまりいい経過とは言えないのだ。「アメーバ赤痢」「南方浮腫」などというのは、ほとんどがこんなふうになった体の弱点を衝いてくる命取りの病気のように思われ、誰からも恐れられていた。軍医からは、-ーこれといって打つ手もなく、患者自身の体力に期待するだけーーといった絶望的な答えが返ってくるに過ぎなかったのである。(pp.250-251)

    ******************************

    「こんちは、オッサン!どこから来られたんですか」

    「あぁ、兵隊さん、ご苦労さんだね、わしらは三崎漁港からだよ」

    「えぇ!三崎ですか、三浦半島の、神奈川県の・・・、よくこんなところまで・・・、どのくらいの日数をかけてこられたんですか、すごいですねぇ、こんな小さな船で、五千キロも・・」

    「いやぁ、これも軍の機密とかだけどね、もう三崎を発ってから4か月日なんだよ。来る途中は随分おっかなかったよ、でも兵隊さんたちのことを思えば比べものにはならねえがね」

    「これからどこへ?」

    「まあ聞きっこなしさ。うるせえんだよ、防諜とかでね。だがまあいいや、赤道直下のここで兵隊さんに話したからって、敵さんに漏れるわけじゃあねえしな。この船はこれから二、三日後に司令部のお偉いさん方を乗せて、島伝いに内地まで脱出するんだとか言ってるんだがね、果たしてご注文どおりにうまくいきますかってぇところだな。だいいち、わしらがここまでやってくることだけでも精一杯だったんだからねぇ・・・。帰りの海にゃあ敵潜がうようよしてるのを知らねぇんだから、全くいい気なもんだよ、偉い人たちはねぇ」脱出などという、いわば軍隊ではタブーとされている言葉を、私たちに平気でしゃべれるのも民間人の気軽さなのだろうか。それとも、このような最悪の戦場に取り残されてしまう私たちを前にして、気兼ねしての言いまわしなのだろうか。しかし、この船が軍幹部の脱出用なのだと聞かされたとき、その理由はどうであれなんとも複雑な気持ちがした。(pp.100-101)

    ******************************

    「あぁ、もういやだ、いやだ。三橋よぅ、このあいだの戦闘での四人の死にざまはほんとに惨めだったなぁ。おっかねえなぁ、戦争は・・・。それにしても、あの戦闘中に中助のS(鳥越注:中隊長S中尉)が何をやっていたか知ってるかい。敵さんが空からしかけてきたとき、あの野郎はドラム缶の輪っばを三つも繋ぎ合わせた壕の底にへばりついて、終わるまで出てこずじまいだったんだぜ。高射砲は空に向かって射つんだからなあ!地面の底にへばりついていたんじゃあ指揮なんてできる訳がねえよ。あとで、中助がぬかした訓示を聞いてたかい?『貴様らはヤマトダマシイをこめて射たんから当たらないんだ』とか言ってたなぁ。あれはたしか何処かにあった軍歌の文句じゃあねえの・・・。ひでえ野郎に俺たちは、くっついちまつたなぁ・・・。だのに、あんな中助にべたべたして、ご機嫌とりばかりをやっている中隊機関(幹部室のやつらも気にいらねえよ。俺も軍隊生活は長えけれど、こんなひでえ中隊に配属されちまったのはどうみても百年目だよ。あぁ、いやだ、いやだ。これから先、この独立中隊はどうなってしまうのか、皆は分かってんのかなぁ・・・」佐地の言ってることは、ただ単に愚痴をこぼしているといったものではなく、内容そのものが時宜を得、的確な指摘だった。(p.150)(三橋國民氏著『鳥の詩』角川文庫)

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  13. shinichi Post author

    ●東条内閣消滅—>小磯内閣(S19.7.18)

    「敵ノ決戦方面来攻ニ方リテハ空海陸ノ戦力ヲ極度ニ集中シ敵空母及輸送船ヲ所在ニ求メテ之ヲ必殺スルト共ニ敵上陸セハ之ヲ地上ニ必滅ス」(捷号作戦と称された)捷一号:比島決戦(レイテ湾海戦)捷二号:台湾、南西諸島での迎撃戦捷三号:日本本土(北海道を除く)決戦捷四号:北東方面、千島列島での決戦

    ・グアム島10000人玉砕(S19.8)米軍がマリアナ諸島全域を制圧。

    ●沖縄から本土への疎開船「對島丸」が米潜水艦に攻撃され沈没。約1500人が死亡、生存者は227人(学童59人、一般168人)。「對島丸」へは護衛船がついていたが自分の身の安全のために救助活動を行わず。(外間守善氏著『私の沖縄戦記』角川書店、pp.19-27)

    ・満17歳以上兵役編入決定

    ・米軍のセブ島攻撃(S19.9~)米軍のセブ島空襲は十九年九月にはじまるが、二十年春、陣地を捨てて山中に逃げこむに至って、日本軍は民間人を邪魔もの扱いしはじめた。男は現地召集で軍隊にとられ、年寄りと女子供がのこっていた。

    「私は山で兄に会って、海軍の方へいったから命があったんです。うちの義姉の弟嫁は、十一の男の子を頭に女の子四人連れて、陸軍の方にのこった。それを、子供がいると、ガヤガヤして敵に聞かれると言って、五人とも銃剣で殺してしまったんです。男の子は、『兵隊さん、泣きもしないし、なんでも言うこと聞きますから、殺さないで下さい』と言って逃げさまよっているのに、つかまえて。四、五歳まで私が同じ家にいて育てた子です。そして妹たち四人も…。敵に知られると言って、鉄砲をうたないんです。銃剣で…。セブの話は一週間話してもつきないんです、あの残酷なやり方は。別行動をとりなさいと言ってくれればよかったんですよ。殺す必要はなかったんです」。自決を強要され、手榴弾で死のうとして死にきれなかった人間を、日本兵が銃剣で刺し、出血多量で意識不明になっているのを、上陸してきた米兵が救い出し、レイテの野戦病院へ連れていって、輸血で助けた話も出る。

    「アメリカ兵は敵ながらあっぱれですね」。(澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』文春文庫、pp.149-150)

    ●神風特別攻撃隊の編成(S19.10、詳細は後記)戦争末期、いくらかの例外はあるが、日本軍の航空機使用は、青年の神風特攻と高級将校の逃亡という二つの機能に集中している。まことに無残という他はない。(鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:166)※「特攻に行く人は、誇りです。しかし、それを強いるのは国の恥です」(粟屋康子:門田隆将氏著『康子十九歳戦渦の日記』文藝春秋、p.81より)

    ●ハルゼイ機動部隊の沖縄「十・十空襲」(S19.10.10)

    ・台湾沖航空戦(S19.10.13~15)大本営発表では、日本は未曾有の大勝利をおさめたことになっている。(全くの虚報、大本営発表法螺吹きの最高)。大本営情報参謀掘栄三氏は、これらの成果に懐疑的で、ただちに参謀本部所属部長に打電したが、当時の作戦参謀瀬島龍三が握り潰してしまった。瀬島は捷一号作戦の直接の起案者だった。大本営の作戦部は、情報を軽視するだけでなく、自分たちに都合の悪い情報はすべて「作戦主導」の名のもとににぎりつぶしていたのだ。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)

    ●レイテ決戦(捷一号作戦、S19.10.22~)比島決戦では日本人52万人以上が死亡したが、このうち8万4000人はレイテ島の攻防戦で死亡した。首謀者:服部卓四郎(敗戦後も復員省に籍をおき半ば公然と活動した)

    ●レイテ湾奇襲作戦(S19.10.24~25)小沢囮艦隊の快挙(エンガノ沖海戦・ハルゼーの暴走)あるも、栗田艦隊の突然の中途退却で失敗。西村艦隊(支隊)壊滅。戦艦「武蔵」撃沈される(シブヤン海、S19.10.2419:35)。日本の空母全滅・日本の連合艦隊全滅。—>特攻へ

    ●特攻開始(S19.10.25、海軍が一日早かった)。

    「(目標)大型戦艦ハ煙突下、ブリッジノ中間トシ、航空母艦ハ、エレベーターノ位置トスル」。

    「突進一、最後マデ照準セヨ、眼ヲツムルナカレ、眼ヲツムレバ命中セズ」。(小田実氏ら『玉砕』岩波書店、p.16)

    ・「フ号兵器作戦」(S19.11.3):鹿島灘より発進和紙で作った直径10mの巨大な風船に15キロ爆弾1個と焼夷弾2個を吊して、ジェット気流にまかせてアメリカを爆撃する。しかもいずれはこれにペスト菌やコレラ菌を乗せてばら撒こうという愚劣で卑劣極まる作戦。(ただしこの「風船爆弾の愚劣さ」というのはGHQの嘘の情報操作であり、実際は1/10の確率で米国に届いたという。もしこれが本当ならば、例えば風船爆弾に生物・化学兵器を搭載したとすれば、大きな効果が期待出来たという。(佐藤優氏著『国家の自縛』、産経新聞社、p.226))

    ●人間魚雷「回天」(発案は黒木博司海軍少佐)の第一回出撃隊(

    「菊水隊」)が発進(S19.11.8)

    ●最初の大規模な東京空襲(S19.11.24):日本の迎撃も対空砲火も全く役立たなかった。

    ・東南海地震(S19.12.7)1944年12月7日の東南海地震の震源は紀伊半島沖の海底深さ約40kmで、三重県紀勢町では地震発生からわずか10分程度で6mの大津波が押し寄せたという記録もあります。最大震度6という揺れと津波によって三重県、愛知県、静岡県を中心に死者・不明者は1223名にのぼるということですが、太平洋戦争の混乱期でもあったためにあまり詳しい記録は残っていない。(http://blog.goo.ne.jp/nan_1962/e/bec8cef008010403e54c26f14a432c4aより。H18.4.12)

    ・人肉食事件(S20.2.23~25):父島事件(秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<下>』、大岡昇平氏著『野火』などを参照)

    —–<休憩:サウジアラビアとアメリカ>—–

    米国は第二次大戦で石油の重要性を再認識し、豊富な埋蔵量をもつサウジを重要な石油供給源として位置づけ、関与を強めていく。石油は単にサウジ経済の柱となったばかりではない。石油を媒介として、サウジと米国の関係が経済から安全保障の分野にまで拡大、緊密化していったのである。それを象徴したのが1945年2月、スエズ運河洋上でのアブドゥルアジーズと米国のローズヴェルト大統領との会見であった。ここに石油と安全保障を機軸とした、堅固で相互補完的な両国間の「特殊な関係」が完成する。しかし、パレスチナ問題に対する政策の食い違いなどいくつもの課題を取り残したままであり、この関係は切っても切れないと同時にきわめて傷つきやすいという相矛盾した性格を引き摺っていく。(保阪修司氏著『サウジアラビア』岩波新書、p.11)

    ——————————————–

    ●硫黄島全滅(S19.12.8~S20.3.26):東京より南1080kmに位置。戦闘49日、陸海軍23000人全滅、米軍死傷者28686人(6821人死亡)。太平洋戦争最大の死闘。栗林忠道中将vsホーランドM.スミス。※硫黄島の滑走路が敵にとられると、本土大空襲が可能になるのであった。<名将栗林忠道中将の最後の電文より>戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し、宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとする所なり。然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御託申上ぐ。今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り、塾々皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず。特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永に御別れ申上ぐ。(後略)(梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.18-19)※この電文に書き添えてあった、3首の辞世のうちの1首…国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しきは最後の句”散るぞ悲しき”が大本営により改ざんされ”散るぞ口惜し”として新聞発表されていた。(梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、p.23)※硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変化に翻弄され、最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場である。当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。それが、まさに米軍上陸近しという時期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたのである。その結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得られぬまま戦わざるをえなかった。防衛庁防衛研修所戦史室による戦史叢書(公刊戦史)『大本営陸軍部10昭和二十年八月まで』は、硫黄島の陥落を大本営がどう受け止めたかについて、以下のように記述している。

    軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期していたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統帥に感歎するものの、格別の反応を示していない。

    「喪失についてはある程度予期」していたから「格別の反応を示」さなかったという。2万の生命を、戦争指導者たちは何と簡単に見限っていたことか。実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに”甲斐ある死”を与えたかったに違いない。だから、バンザイ突撃はさせないという方針を最後まで貫いたのであろう。(梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.228-229)

    ●吉田久大審院判事が鹿児島二区の翼賛選挙訴訟に無効判決を下す。(S20.3.1)主文:昭和十七年四月三十日施行セラレタル鹿児島県第二区ニ於ケル衆議院議員ノ選挙ハ之ヲ無効トス訴訟費用は被告の負担トス

    ・・・翼賛政治体制協議会のごとき政見政策を有せざる政治結社を結成し、その所属構成員と関係なき第三者を候補者として広く全国的に推薦し、その推薦候補者の当選を期するために選挙運動をなすことは、憲法および選挙法の精神に照らし、果たしてこれを許容し得べきものなりやは、大いに疑の存する所・・・(清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、pp.1153-154)

    ●東京大空襲(S20.3.10):M69焼夷弾による首都壊滅。罹災者100万人以上、死者83793人、負傷者40918人(11万以上との報告もある)を数えた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.165)日本は3月10日にはじまって4月16日までに12回も大空襲を受けた。その内訳は東京(3.10)、名古屋(3.12)、大阪(3.13)、神戸(3.17)、名古屋(3.19)、名古屋(3.25)、東京西部(4.2)、東京(4.4)、東京周辺・名古屋(4.7)、東京(4.12)、東京市街(4.13~14)、東京・横浜・川崎(4.15~16)で、消失戸数全71万戸、戦災者数全314万にのぼった。(清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.337-338)

    ——————————–

    「何千何万という民家が、そして男も女も子どもも一緒に、焼かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは何か。狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそすべての日本人は真に悟らねばならない」(昭和20年6月12日)

    「どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし。皆が平和を望んでいる。そのくせ皆が戦争、戦いが嫌さに戦っている。すなわち誰も己の意思を表明できずにいる。戦争は雪崩のようなものだ。崩れおちるべきものが崩れ落ちぬかぎり終わらない」(7月6日)

    「首相曰く、<国民個人の生命は問題にあらず、我国体を護持せねばならぬ>と」(7月9日)

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    「十時、外国文學科の会。集まるほどのこともなし。<外国を知らぬから負けたんだ>と諸教授申される。<外国を知らぬからこんな馬鹿な戦争を始めたのだ>と訂正すべきものであろう」(9月5日、敗戦後)(以上、串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫敗戦日記』、博文館新社)

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    (付録)1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼跡を駆け回っていました。真夜中のたった二時間半の空爆で、10万人の人間と27万戸の家屋が焼きつくされた光景…。網膜に焼きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現できないほどだった。呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくすると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。こんな馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろうか、と。炭化して散乱している死者の誰一人として、自分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も受けてはいない。自分から選んだ運命ではない。しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさいが無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性別、老幼、貧富、考えの新旧などには日もくれず、十把ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられました。始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしまい、これはもう誰も止めようがない。完全に勝敗が決まるか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。さっきも言ったように、「狂い」の状態にある戦場から反戦運動が出てくることは、まずありえません。それなら、戦争を遂行中の国内から反戦運動が出てくるかと言えば、やはりそうはならない。なぜなら、戦争状態になると、生活が困難になるということもありますが、国民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、というように変わっていくんです。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、pp.49-50)

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    #ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさんの女や子供を殺すことになることをわれわれは知っていた。それはやらなければならないことだった」とのちに弁明している。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.166)#戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94の都市が焼き払われた。終戦直後に内務省の発表した数字によれば、全国で死者26万人、負傷者42万人、その大部分が非戦闘員であった。このようにおびただしい民間人の犠牲をだしたにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的批判を回避する常套手段となった。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)※何と東京・日本大空襲の指揮官ルメイには、戦後自衛隊を作ったことで勲章までくれてやったという。ここまでくるとアホらしくて唖然としてグーの音も出ませんなぁ。

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    「久美子、私はいつか、日本の都市焼きつくし、一方的殺戮、破壊の作戦を立案し、実行したカーティス・ルメイが、戦後、自分たちの側が戦争に負けていれば、自分はまちがいなく戦犯として法廷に引き出されていた、幸いにして、自分たちの側は戦争に勝った、そう言ったと教えたことがあるだろう。『正義の戦争』が、勝利することによってのみ『正義の戦争』として成立する実例だが、その彼に、私たち『不正義の戦争』をした、そう『正義の戦争』をした側によって断じられた側の最高の指導者だった、そのはずだった天皇は、勲一等旭日大綬章という、日本の最高位に近い勲章を手ずから(カーティス・ルメイに(筆者注))授与することで、相手側の正義を追認した。それは、自分の側の戦争の不正義を、あらためて確認したことになる。相手側に正義があれば、一方的な殺戟であれ破壊であれ、何をされても仕方がないーーになるのかね。一方的な殺戮、破壊のなかで殺される人間は、どうなるのか。ただ見棄てられる存在でしかないのか」。(小田実氏著『終らない旅』新潮社、p.265)

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    ・陸軍記念日(奉天勝利の日):アホクサ!!陸軍記念日にあたり陸軍将兵一般に告ぐるの辞曠古の戦局下、陸軍記念日を迎うるにあたり特に陸軍将兵一般に告ぐ。本日ここに第四十回陸軍記念日を迎う。往時を回想して感懐転た切なるものあり。惟うに戦局いよいよ重大にして早期終戦を焦慮する敵はいよいよ進攻の速度を急ぎかつその手段を選ばざるを想わしむ。あるいはさきに神域を冒しまた宮城を漬すの暴挙を敢てす。まことに恐懼憤激に堪えず。あるいは我国体の変革を夢みて帝国の根本的崩壊を放言するが如きその不逞天人共に断じて許し難きところなり。最近の戦局推移を察するに敵が皇土侵寇を企図しあること火を睹るよりも明らかなり。軍は、大元帥陛下親率の下多年の伝統と精髄とを発揮して神州を護持し、国体を擁護する秋正に到れりというべし。全陸軍将兵深く思いをここに致し外地に在りと皇土に在りとを問わず、随処に敵の野望を撃摧し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉らざるべからず。およそ戦勝獲得の根基は至誠純忠烈々たる闘魂と必勝の戦意とに存す。全陸軍将兵宜しく挙げて特攻精神の権化となり、衆心一致いよいよ軍人精神を昂揚し精魂を尽して敵を徹底的に撃滅せんことを期すべし。皇国は神霊の鎮まりたまうところ、皇土は父祖の眠るところ、天神地祇挙って皇軍の忠誠を照覧ししたもう想え肇国三千年金甌無欠の皇国の真姿を、偲べ明治三十七、八年国難を累卵の危きに克服せる先人の偉績を。最後に皇土にある将兵に一言す。皇土における作戦は外征のそれと趣きを異にし、真に軍を中核とせる官民一億結集の戦なり。而して総力結集の道は軍鉄石の団結の下燃ゆるが如き必勝の確信を堅持し、能く武徳を発揚して軍官民同心一体必勝の一途に邁進するに在り。かくして身を挺して難に赴き父祖の伝統を如実に顕現せば、一億の忠誠凝って皇国磐石の安きに在らん。昭和二十年三月十日陸軍大臣杉山元(清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.286-287)※日本が、どうぞして健全に進歩するように-ーそれが心から願望される。この国に生れ、この図に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るようにーー「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようではこの国民に見込みはない。(清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、p.262)※戦争を職業とするものが、人間の生命をどんなに軽く取り扱うかを、国民一般に知らせることは、結局日本のためになるかも知れぬ。ああ。・・・それにしても、日本人は、口を開けば対手軽く見ることばかりしており、また罵倒ーー極めて低級なーーばかりしているが、日本国民に、この辺の相違が分からぬのだろうか。(清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、p.298)

    ・「軍事特別措置法」(S20.3.28)国民の一切の権利を制限し、私有財産にまで強権介入し、国民は本土決戦に備えて、いかなる抗弁、抵抗もできなくなった。

    ●米軍が沖縄本島に上陸(S20.4.1)

    ・戦艦「大和」の最後の出撃(特攻)と撃沈(S20.4.7/14:23)

    「大和」:46センチ砲9門、1億6000万円、1941年完成。全長263m、72808屯、27.46ノット、153553馬力。東シナ海の海底に眠る。乗員3332人中269人救助(生存者、昭和60年現在、140余名)。#連合艦隊参謀長、草鹿龍之介(中将)曰く

    「いずれ一億総特攻ということになるのであるから、その模範となるよう立派に死んでもらいたい」(アホウな屁理屈である)#戦艦「大和」乗員の発言

    「連合艦隊の作戦というのなら、なぜ参謀長は日吉の防空壕におられるのか。防空壕を出て、自ら特攻の指揮をとる気はないのか」#伊藤整一提督

    「まぁ、我々は死に場所を与えられたのだ」

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    「世界の三馬鹿、万里の長城、ピラミッド、大和」(淵田三津雄『真珠彎攻撃総隊長の回想』講談社、p.48)

    「少佐以上を銃殺せよ、海軍を救う道はこれしかない」

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    #八杉康夫上等水兵(当時)が回想する戦争

    「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だれのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思わなかった。殺されると思った。『雪風』に拾い上げられたのは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの人が、助けてくれッ、と叫んでいた。いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りたいと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。(辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)

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    ※H18年現在、広島県福山市在住の八杉康夫氏(昭和2年生)は、H18.4.12日、筆者の住む岡山県井原市で講演された。ストーリーは映画『男たちの大和』(辺見じゅん原作、佐藤純彌監督、2005年)に準ずるものであったが、帝国海軍は陸軍よりもはるかに人命を大事にしたらしく、「上官から『死ね』とは一度も言われなかったし、船が沈没して海上に放り出された時の生きる方法も軍事教練のなかで教えられた」ということだった。

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    #「初霜」救助艇ニ拾ワレタル砲術士、洩ラシテ言ウ救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危険状態ニ陥ル更ニ拾収セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ藻屑トナランシカモ船べリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ルココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬り捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トスセメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢エナクノケゾッテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン剣ヲ揮ウ身モ、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ギツツ船べリヲ走り廻ル今生ノ地獄絵ナリ(吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p156)

    #清水芳人少佐(当時)の戦闘詳報戦闘が終わると、どの艦でも戦闘詳報が書かれる。戦闘詳報は、戦略・戦術を記載し、次の戦いへの教訓ともなる報告書で、連合艦隊司令部へ提出される。

    「戦況逼迫セル場合ニハ、兎角焦慮ノ感ニカラレ、計画準備二余裕ナキヲ常トスルモ、特攻兵器ハ別トシテ今後残存駆逐艦等ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ要アリ。『思ヒ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモ、ミスミス徒死セシムルニ過ギズ」この「大和」戦闘詳報には、これまでの戦闘報告には類を見ない激烈な怒りがつらねられている。沖縄突入作戦が唐突に下令され、「大和」以下の出撃が、

    「思ヒ付キ」作戦であり「ミスミス徒死セシムル」ものだったという遺憾の思いで埋まっている。(辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.202)

    ●沖縄戦と沖縄県民の悲劇(S20.3.26~6.23)昭和20年3月26日、硫黄島の戦いで栗林中将が戦死した、まさにその早朝、硫黄島から西に1380km離れた沖縄・慶良間列島に米陸軍第77師団が奇襲上陸。これが沖縄戦の始まりとなった。昭和20年4月1日アメリカ軍18万3000が沖縄本島の中西部の嘉手納海岸に上陸。5月15日は那覇周辺で戦闘激化。この沖縄戦は本土決戦そのもので、時間稼ぎの意味をも持って、沖縄住民は「本土の盾」として犠牲になった。満17歳から45歳未満の男子はみな戦争参加を強要され、軍に召集された。戦場では子どもや老人や婦人や負傷者といった弱い者から順に犠牲になった。彼等は邪魔物扱いにされ、あるいは自決やおとりを強要された。また泣き声で陣地が暴露されるという理由で日本軍兵士に殺された。兵士たちは、与えられた戦場で、やみくもに戦って死んで行くという役割だけを押しつけられていた。82日間にわたる死闘ののち守備軍約90000人が6月21日に玉砕。沖縄県民の死者は15万人とも20万人ともいわれる。実に県民の3人に1人が亡くなったのである。#海軍根拠地隊司令官・大田実少将(6.13に豊見城村の司令部濠で自決)からの海軍次官あて電報(S20.6.6)

    「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ看護婦烹飯婦ハモトヨリ砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ所詮敵来タリナハ老人子供ハ殺サレルヘク婦女子ハ後方ニ運ヒ去ラレテ毒牙ニ供セラレヘシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ・・・沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ・・・」(浅田次郎氏著『勇気凛凛ルリの色四十肩と恋愛』講談社文庫より引用、60ページ)

    #「恐ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親類よ」(長谷川信、『きけわだつみのこえ』より)

    #「米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う。(理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

    #沖縄戦の研究者である石原昌家沖縄国際大学教授は、『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)の中で、沖縄戦の住民犠牲を、次の三つの類型に大別しています。1.米英両軍の砲爆撃死、2.日本軍(皇軍)による犠牲、3.戦争に起因する犠牲。石原氏はそれらをさらに細かく分けていますが、ここでは簡略化してまとめておきます。1.は米英軍の空襲や艦鞄射撃、地上戦での砲・銃撃、洞窟や壊への攻撃、虐殺、強姦による死などです。2.は日本軍(皇軍)による住民の死で、スパイの疑いをかけたり、食料や濠の提供を渋ったなど非協力的であったことを理由とした殺害。濠の中で泣く乳幼児の殺害や軍による濠追い出しによって砲撃にさらされたり、強制退去でマラリアや栄養失調に追いやられたことによる死、日本軍の指示、強制による「集団死」などです。3.は非戦闘地域での衰弱死、病死、ソテツなどを食べた中毒死、収容所内での衰弱死、住民同士のスパイ視殺害、食料強奪死、米潜水艦による疎開船、引き揚げ船などの撃沈死などです。注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中のいくつかの死は続いていたということです。久米島での日本軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐殺が起こつたのは8月13日だし、谷川昇さん一家が虐殺されたのは8月20日です。マラリアなどの病死、衰弱死は二、三年経っても続いていました。(目取真俊氏著『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、pp.60-61)

    #学校で教え込まれていたことと、天と地ほども隔たった日本軍の実態をまざまざと見せつけられ、あまりの衝撃に言葉を失った。(大田昌秀氏著『沖縄の決断』朝日新聞社)

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    戦場での体験は、わが目を疑うほど信じられないことばかりだった。守備軍将兵は戦前から、県民の生命を守るために来た、と絶えず公言していた。しかるに、私たちが毎日のように目撃したのは、それとは逆の光景だったのだ。最も頼りにしていた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧までも奪い取ってしまう。そのうえ、私たちの目の前で、兵士たちは泣きすがる住民に向かって「お前たちを守るために沖縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て行け」と冷酷に言い放ったものだ。しかも、赤ん坊を抱きかかえた母親が「お願いです。どうか壕に置いてやって下さい」と泣きすがっても、銃を突き付け容赦なく追い出すことさえあった。この戦争は「聖戦」と称されていたにもかかわらず、どうしてこのような事態になったのか。私たちには理解の仕様もなく、ただ愕然と見守るしかなかった。

    大田は同じ本のなかで、生き延びるためにわずかな食糧をめぐって味方の兵隊同士が、手榴弾で殺しあう場面を毎日のように見せつけられたとも述べている。

    「日本軍に対する不信感といちう以上に、もう人間そのものへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では日本人が見殺しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を随見ました。それで鬼畜米英というのは違うなと思い始めていたんです」(佐野眞一氏著『沖縄誰にも書かれたくなかった戦後史』集英社インターナショナル、pp.402-403)

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    ・アメリカ、F.ルーズベルト大統領急死(1945.4.17)脳出血といわれているが、あるいは自殺かもしれないし殺されたのかもしれない。とにかく「私は大統領を辞めたい」と愛人に告げて死んだ。(そして広島への原爆投下は陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンとその操り人形たるトルーマンに委ねられた)(鬼塚英昭氏著『原爆の秘密』成甲書房、pp.175-208)

    ・ドイツ軍無条件降伏(S20.5.7)<---ヒトラー自殺(1945.4.30) ●日本本土無差別爆撃(最高指揮官カーティス・ルメイ)#横浜大通り公園「平和祈念碑由来之記」より 「一九四一年十二月八日、日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により、大日本帝国は連合国軍との間に戦端を開くに至った。その後一九四五年八月十五日に至り、わが民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。その間、三年九ケ月余。政・軍・官の情報統制の下、一般庶民は戦争の実相を知らされることなく、ひたすら盲従を強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づくにつれ、米軍機による空爆は職烈を極め、国内百数十の都市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け、非武装の一般民衆が多数犠牲となった。(後略)」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.49)#「宇都宮平和記念館建設準備会」藤田勝春氏のノートより 「非戦闘員と、その住まいに容しゃなく襲いかかった、この無差別爆撃は、”みな殺し”空襲であった。軍都の名にふさわしく、宇都宮には数多くの軍事施設があった。が、なぜか、その施設は何ら爆撃されていないのである。明らかに、米軍の目的は、一般市民を焼き殺す、いわば”無差別絨椴爆撃”によるみな殺しにあったことは、これで理解されるところである。ところでどういうわけか宇都宮の歴史の中で最も大きな火災ともいうべきこの空襲の実態が市民に明かされていなかった。あっても、それはほんの数字的なものばかりで味もそっ気もなかった。つまり市民の眼で、市民の心で編まれた総合的な記録というものがなかったのである。そして戦後三十年を迎える今危うく歴史のそとへ押し出され、忘却の彼方へ押しやられようとしていたこの空襲の”真実の糸”が、市民の手によって編まれるようになった。痛々しい戦災の傷痕は、長い歳月の風化に耐え、やはり市民の心に静かに、しかも深く息づいていたのであった」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.63)#戦時下の国民にとって、米国の撒いた”伝単(避難を促す警告ビラ)”は見てはならぬものだった。 「あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひませんか助けたければこのビラをよく読んで下さい数日の内に裏面の都市の内四つか五つの都市にある軍事施設を米空軍は爆撃しますこの都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米空軍は全部破壊しますけれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分りません御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはありませんですから真に書いてある都市から避難して下さいアメリカの敵はあなた方ではありませんあなた方を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵ですアメリカの考へてゐる平和といふのはたゞ軍部の庄迫からあなた方を解放する事ですさうすればもっとよい新日本が出来上るんです(中略)この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知れませんが少くともこの裏に書いてある都市の内必ず四つは爆撃します予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい」 裏には爆撃中のB29の写真に、攻撃目標の11都市が、日本の丸い印鑑のようなかたちで刷りこまれている。青森、西宮、大垣、一ノ宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇治山田だった。アメリカ軍資料によると、長岡には7月31日午後9時39分、8月1日午後9時27分の2回にわたってまかれている。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.75)#長岡空襲で孤児になった原田新司氏の記憶 「どこかへ避難しているとおもっていたんですね。しかし、知人に会って尋ねてみると、原田屋さん、見かけなかったなあという返事がかえってきました。平潟神社にいくと、死体が山のようになっている。信濃川の土堤を探してもみあたりません。一日中探しまわって、疲れはてて、夕方、焼跡にかえると、火はどうにかおさまっていて、中に入ることができました。すると、瓦礫のなかから祖母や両親の持物が出てきました。箪笥の鍵、水晶の印鑑。両親の死はその持物でわかりました。遺体は焼けただれて俯せになっていました。庭の奥のほうに井戸があったんですが、その近くから女学生のバックルが出てきた。しかし妹たちの姿はみあたりません。遺骨だけがありました……。祖母57歳、父37歳、母は38歳でした。上の妹は女学校1年生、12歳でした。そして9歳、6歳、3歳の妹たち……。みんないっペんに死んでしまったんです。いまでも街で女の子のうしろ姿をみると、妹たちのことを想い出します。焼け死んだ妹たちのことが忘れられませんね」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、pp.89-90)#富山は人口10万人、空襲の死者は2275人。大被害だった。神通川の河原では、多くの人が死んだ。その堤防と並行するように松川の流れている個所があるが、そこでも死屍累々だった。東のいたち川でもおなじだった。母と妹を失った政二俊子さん(三上在住)は、神通川手前の護国神社にはいったとたんに「ブスブスブスと土煙をあげる機銃掃射を浴びた」といい、「ふと土手に目をやると、黄燐焼夷弾や油脂焼夷弾が真っ赤な光の噴水を上げるように火花をひろげ、その中を黒い影がうごめいているのがうつる。……火炎に映えた真っ赤な敵機は、無防備の都市を悠々と飛翔し、物量に物を言わせて投下を続ける。こんな火の中では、猫の子一匹助かりっこないと思われた」と書いている。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.102)#熊谷空襲、長島二三子氏の詩死者たちよ戦争で死んだものたちよ赤児も大人も年寄りも黄色も黒も白瞥轟然と声をはなって泣け生きている者たちにその声を忘れさせるな(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.183)#アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加) 「カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更された。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引きつげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりのチェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしない。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていったんだ。家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦な灰の面になつている。ところどころに立っているのは石造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビルも内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとびこんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、みんな窒息してしまった。……私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私は自分に暗示をかけた。死んでもやむをえないんだってね。それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが死ねばいいとおもった。たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なんだ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな兵隊特有の近視眼的発想があった」。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.201)#帰り掛けの駄賃:日本最後の空爆、小田原空爆(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.202-)#島田豊治氏体験記(『東京被爆記』より) 「ひとかたまりにうずくまり、降り注ぐ火の粉と飛んで来る物から身を守るため、トタン板をかぶっていた。弟の防空ずきんに火がついて燃え上がった。父が素手でもみ消していた。その間に母が見えなくなっているのに気がつかなかった。母を捜しに川岸近くまでにじりよってみたが、そこは魔のふちであった。男も女も、年寄りも子どもも、折重なって川に落ちころげていた。こうして、母を捜すこともできずに、長い悪夢の夜を過ごしたのだった。朝になり、恐ろしい光景があちこちにあった。地上の物はすべて燃え尽され、異様な臭気がただよっていた。それからの毎日は、生死不明の母を捜すことに明け暮れた。焼けこげた死体のまわりに品物を求め、水死体を引寄せては顔をあらためて見たりした。あちこちにバラックが立つようになってからも、病院から病院へと足を棒にして歩き続けた。どんな姿になっていてでも生きてさえいたらそれだけを祈って捜しまわったが、姿はもとより消息すらわからなかった」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.224) ・ロンドン会議(1945.6~)戦争犯罪人を裁く国際裁判方式の法的根拠について米英仏ソは鋭く対立。「通例の戦争犯罪」に加えて「平和に対する罪」「人道に対する罪」が採択される事になった。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、pp.19-20) ●第87臨時議会開院式(戦前最後の議会、S20.6.9)での天皇発言 「世界の大局急変し敵の浸冦亦倍々猖獗を極む正に敵国の非望を粉砕して征戦の目的を達成し以て国体の精華を発揮すべき秋なり」という勅語を発している。(もう完全にアホです)(纐纈厚氏著『日本降伏』日本評論社、p.209) ・天皇がやっと戦争終結を方針を表明した。(S20.6.22)(纐纈厚氏著『日本降伏』日本評論社、p.213) ●沖縄守備軍全滅(S20.6.23)"鉄の暴風"(砲撃)。戦死9万人、一般市民の死者10万人。 ●国民義勇隊結成のすすめと法的枠付け(義勇兵役法公布、S20.6)15歳以上60歳までの男子と17歳以上40歳までの女子に義勇兵役を課す。これが国家総力戦構想のなれの果ての姿だった(国民総員特攻化)。日本陸軍は人間特攻として戦車やアメリカ軍に突入する玉砕要員が欲しかっただけのことである。 ・国民義勇隊の兵器展示(S20.7)手りゅう弾、単発銃(元亀天正の銃)、竹ヤリ、弓、さす叉、鎌、鉈、玄翁、出刃包丁、とび口など。(こういう発想を平気で行う軍人は狂人という他なく、呆れ果てるばかりである)結局、昭和陸軍は、あらゆる戦力が尽きつつあったときに、本土決戦という名の玉砕を目指していたのだ。 --------------------------- 大本営から来たという中佐は岩松(筆者注:岩松三郎、当時東京民事地方裁判所所長・戦後最高裁判事)にこう説明した。 「諸君は義勇軍を組織して帝都を守るんだ。各省庁ごとの連絡は隊長がやりなさい。我々の方からも命令を出す。しっかりやるように」しっかりやれと言われたところで、裁判官たちに戦う能力があるとは思えない。岩松はおそるおそる訊いている。 「それじゃ、武器はどうなるのですか。どういう武器をいただけるのですか」 「所在の武器をとってやれ」 「所在の武器とはどこに」 「棒でも石ころでもあるだろう」そう言い放つ中佐に、岩松はたまらず訊き返した。 「それで上陸してくる米軍と戦えというのですか。軍人は帝都を守ってくださらないんですか」 「軍人は陛下をいただいて長野に引っ込んで国を守るんだ」もはや呆然とするしかなかった。中佐が出ていってから、立ちつくす所長の元に部下の裁判官たちが集まってきた。岩松は首を振って彼らに諭した。 「もう、こんなところにいてはいけない。私は大隊長として敵のタンクに向かって突進します。みんなは疎開しなさい。妻子をこんなところに置いてはいけない」所長の言葉に、部下の一人は家から持ってきたという日本刀を見せた。 「所長だけを死なせるわけにいきません。私もこの日本刀を振りかざして、タンクに向かいます。私も一緒に死にます」岩松の目から涙がこぼれた。そんなことをしたって無駄だよ、無駄に死ぬよりも、生き延びろ。記録さえ残しておけば、またいつか裁判を続けることができる。所長の言葉を聞きながら、集まった裁判官たちも、泣いていたという。(清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、pp.145-147) --------------------------- ・満州への定住者約130万人 ・敗戦時の海外の日本人軍人・軍属:約353万人、民間人:約306万人(昭和20年、『昭和二万日の全記録』講談社) ●プルトニウムを用いた人類最初の原爆実験成功(1945.7.16)コード・ネーム”トリニティ(三位一体)”(オッペンハイマーが命名) ●原爆投下:広島(S20.8.608:15:45=ウラン)※ソ連の極東戦争への介入を妨害、対日戦勝利のへの寄与をできるだけ最小限に食い止める。 **************************** トルーマンにとって必要だったのは、ソビエトを怯えさせること、アメリカの優位をスターリンに認めさせ野放図な振る舞いを慎ませることだった。そのために「世界中を焼き尽くす業火」を、降伏する前の日本に対して、使用しなければならない。7月26日に発表された「ポツダム宣言」にたいして、アメリカはソビエトの署名を求めなかった。その炎が燃えさかった時、スターリンは新大統領(トルーマン)がなぜかくも強硬だったかを知るだろう。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より) ----------------------------- 「そりゃもう目もあてられん状態じゃけェ、あっちにもこっちにも黒焦げになった人が転がっとるんよ。だれがだれやら見分けがつかんのじゃ、むごいことじゃ。あっちこっちで焼いとるんじゃけェ、たまらんのよその匂いがのう、赤ん坊を抱いたまま死んどってんよ、電車でも焼け死んどりんさる。腐って蛆がわいとりんさる。薬がないんよ、ヨードチンキを塗るぐらいじゃのう、死に水をとったげるためにきたようなもんじゃよ」(新藤兼人氏の姉の話)(新藤兼人氏著『新藤兼人・原爆を撮る』新日本出版社、p.10) ----------------------------- 6月6日にスチムソンは、5月31日の暫定委員会の決定を大統領に報告した。その時には、「大量の労働者を使用し、労働者住宅群にびっしり取り囲まれている重要な軍需工場」という投下目標が実際には住民の大量殺教を意味することは知っていたのである。したがって、トルーマンが日記に書いている女、子供を投下目標にしないというスチムソンとの合意を額面通りに受け取ることは到底できない。実際にも原爆による直接の被害を受けたのは、軍人よりも圧倒的に多数の民間人であった。広島の場合でいえば、軍人の被爆者は4万人以上、軍人以外の直接被爆者の数は31万から32万人であったと考えられている。また被爆者の意識には、「原爆によってもたらされたのは、一瞬にして人間や人間の生の条件そのものを壊滅させ炎上させる非人間的な世界、ホロコーストの世界にも匹敵できる地獄」としてとらえられている。そのような被爆のイメージをあらわしたものに深水経孝の絵物語『崎陽のあらし』がある。被爆した後中学教師となった深水は、被爆体験を記録として後世に残すため、まだ惨劇の記憶の生々しい1946年夏にこの絵物語を描いた。そこには天を仰いで路上に倒れる女、子供、母子、両眼を失い天に祈る乙女、火焔をあげるバスの中で倒れ這いだそうとして力尽き焼け焦げる人、火中に退路を絶たれ防火用水に飛び込み悶絶する人々などが燃えさかる市街を背景に描かれ、心にやきついた被爆の原風景が如実に再現されている。深水は絵に添えた文章のなかで、この原風景を「古の修羅もかくて」とか、「いずれも悲しきことながら、之の世の事とも思われず」、あるいは「されどこれ、地獄というも愚かなり。想え、外道、天日の晦きを」などと形容している。被爆直後の心象として刻まれた世界は「この世の外」、「地獄」、「外道」の世界、まさに人間が非人間化されるこの世の終末、すなわちホロコーストの世界であった。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.174-175) ●ソビエト軍の満州進攻(対日宣戦布告、S20.8.8)モロトフ外相:「・・・日本はポツダム宣言の受諾を拒否したので、ソ連に対する日本の和平調停の提案は、まったくその基礎を失った。日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ連の対日参戦を提議した。ソ連はポツダム宣言に参加し、明日、すなわち8月9日寄り、日本と戦争状態にあるべきことを宣告する」 ****************************** ソビエト軍は将兵160万人、戦車等5000台余り、航空機4000機以上という圧倒的兵力で満州になだれ込んだ。ソビエト軍は、南へと逃れる開拓団の老若男女を殺戮し、ハルビンで、新京で、奉天で、破壊と略奪の限りを尽くした。満州国の充実した重工業の設備を肇、主要な機械や財貨などすべてがソビエトに持ち去られた。そのなかには、何ら国際法上正当性にない仕方で連れ去られ、抑留された60万人の将兵や官吏らもいた。<日本人難民、棄民、捨駒以下、中学生の囮兵>軍および政府関係の日本人家族だけが、なぜ特別編成の列車で新京を離れられたのか。この年の秋までに日本へ帰りついた人びともある。生きのこったことを責めようとは思わない。しかし、決定権をもち、いち早く情報をとらえ得た人たち、その家族の敗戦は、一般の在満居留民とは異なった。身勝手な軍人たちの判断の詳細とその責任は、現在に至るまであきらかにされていない。軍人たちにより、明白な「棄民」がおこなわれた。軍中央も政府も、承知していたはずである。切り棄てることがきまった土地へ、女学校と中学校の三年生が動員されている。たまたまわたしは、その動員学徒の一人として開拓団生活を体験している。それを小さな文章に書いた縁で、新京第一中学校三年生の「運命」を知った(英文学者の小田島雄志氏の同級生たち。小田島さんとわたしには、新京室町小学校の一年一学期、同級だった縁がある。知ったのは何十年ものちのこと)。新京一中の三年生は三つのグループにわけられ、そのうちの126名が5月28日、「東寧隊」として東満国境近くの東寧報国農場に動員された。この日付は、大本営が「朝鮮方面対ソ作戦計画要領」を関東軍に示達する2日前。同要領によって、京図線の南・連京線の東という三角地帯が定まったのだが、南満と北朝鮮へ重点変更の作戦計画は、20年1月上旬にはじまっていた。さらに新京一中生の動員は、予定よりも1か月間延長になっている。8月9日未明、ソ連参戦。東寧は穆稜(ムリン)などと同様、国境にいた関東軍がほとんど全滅した一帯である。関東軍にあって、国境部隊は時間かせぎの捨駒以下だった。『人間の条件』の主人公は、穆稜の戦闘で奇蹟的に生きのこる。作者自身の体験が裏付けにある。東寧の陣地には、彫刻家の佐藤忠良氏もいて、「地獄」を体験、ソ連軍の捕虜となり、シベリア送りとなった。現役部隊がほぼ全滅し、生きのこる成算のほとんどなくなる国境地帯へ、なぜ14か15の中学生を動員したのか。しかも、ソ連参戦まで動員は継続された。列車は不通となり、国境線の戦闘が終ったあと、中学生たちは歩いて新京の親もとまで帰る。大陸の広大さ、伝染病と餓え、北満のきびしい寒気、そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪。中学生たちは70余日の避難行をし、乞食姿の幽鬼のようになって新京へたどりつくが、四人が途中で亡くなった。体験者の一人谷口倍氏が『仔羊たちの戦場-ボクたち中学生は関東軍の囮兵だった』を出版するのは1988年。体験から40年以上経ってである。(澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫.p210-213) ●ふたたび原爆投下:長崎(S20.8.9=プルトニウム)※ソ連の対日参戦の影響を力をできるだけ少なくせねばならぬ。<祈りの長崎>(永井隆の弔辞) 「原子爆弾がわが浦上で爆発し、カトリック教徒8000人の霊魂は一瞬にして天主のみ御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を廃墟とした。しかし原爆は決して天罰ではありません。神の摂理によってこの浦上にもたらされたものです。これまで空襲によって壊滅された都市が多くありましたが、日本は戦争を止めませんでした。それは犠牲としてふさわしくなかったからです。神は戦争を終結させるために、私たちに原爆という犠牲を要求したのです。戦争という人類の大きい罪の償いとして、日本唯一の聖地である浦上に貴い犠牲の祭壇を設け、燃やされる子羊として私たちを選ばれたのです。そして浦上の祭壇に献げられた清き子羊によって、犠牲になるはずだった幾千万の人々が救われたのです。子羊として神の手に抱かれた信者こそ幸福です。あの日、私たちはなぜ一緒に死ねなかったのでしょう。なぜ私たちだけが、このような悲惨な生活を強いられるのでしょうか。生き残った者の惨めさ、それは私たちが罪人だったからです。罪多きものが、償いを果たしていなかったから残されたのです。日本人がこれから歩まなければいけない敗戦の道は苦難と悲惨に満ちています。この重荷を背負い苦難の道をゆくことこそ、われわれ残された罪人が償いを果たしえる希望なのではないでしょうか。カルワリオの丘に十字架を担ぎ、登り給いしキリストは私たちに勇気を与えてくれるでしょう。神が浦上を選ばれ燔祭に供えられたことを感謝いたします。そして貴い犠牲者によって世界に平和が再来したことを感謝します。願わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀れみによって安らかに憩わんことを、アーメン」(鈴木厚氏著『世界を感動させた日本の医師』時空出版、pp.28-29) ●昭和20年8月9日御前会議、天皇の発言 「開戦以来、陸海軍のしてきたところをみると、どうも、計画と実際が違う場合が多かった。いま陸海軍では、先程、大臣と総長が申したように、本土決戦の準備をしており、勝つ自信があるといったが、自分はその点について心配している。先日、参謀総長の話では、九十九里浜の防備は八月中旬に完成するということであったが、侍従武官が現地を見てきたところでは、八月末にならなければできないという。また新設師団ができても、これに供給する兵器は準備されていないという。これでは、あの機械力をほこる米英軍に対して、勝算の見込みがない。こうした状況で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。空襲は激化しており、これ以上、国民を塗炭の苦しみにおちいれ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、自分の欲しないところである。忠勇な軍人より武器を取り上げ、忠勤をはげんだ者を戦争犯罪人とすることは情において忍び得ないが、国家のためにはやむをえない。明治天皇の三国干渉の際の決断にならい忍び難きを忍び、国民を破局から救い、世界人類の幸福のために、このように(筆者注:ポツダム宣言受諾)決心した」(実松譲著『米内光政正伝』光人社、p.335) ---------------------------------- ・陸相の布告(アホ丸出し、S20.8.11読売新聞より)全軍将兵に告ぐソ聯遂に鋒を執つて皇国に寇す名分如何に粉飾すと錐も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ仮令(たとへ)草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし昭和二十年八月十日陸軍大臣 「何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではないだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではない。指導側の無策無能からもきているのだ。しかるにその自らの無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。鳴呼かかる軍部が国をこの破滅に陥れたのである。(高見順氏著『敗戦日記』中公文庫、pp.294-295)

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    ●「降伏文書」調印式(S20.9.2)

    ●スターリンの対日勝利宣言(S20.9.2)敗戦当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して参戦し、国後島を占拠したスターリンは対日勝利宣言を行った。

    「日本の侵略行為は、1904年の日露戦争から始まっている。1904年の日露戦争の敗北は国民意識の中で悲痛な記録を残した。その敗北は、わが国に汚点を留めた。わが国民は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っていた。40年間、われわれの古い世代の人々はその日を待った。遂にその日が到来した」。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.ii~iii)

    ●731石井細菌部隊(と栄1644部隊(通称「多摩部隊」))の残虐性、神風特攻隊、人間魚雷、竹槍訓練・・・等々。

    ●敗戦後の特務団の山西省残留9月9日、南京で中国における降伏調印式があった。しかし蒋介石率いる国民党の司令長官閻錫山と北支派遣軍司令官澄田懶四郎が密約をして当時の残留兵59000人を国民党に協力させ八路軍(中国共産党)と戦わせようと図った。結果的には約2600人が山西省に残留し、敗戦後なお4年間共産軍(毛沢東)と戦った。(奥村和一・酒井誠氏著『私は「蟻の兵隊」だった』岩波ジュニア新書、pp.35-42)

    ●シベリア抑留:約57万5000人中約6万人が死亡。スターリンは北海道占領をあきらめる代わりに、北方四島と日本人捕虜を戦利品として獲得した。シベリア抑留の真相は敗戦処理とその後の東西冷戦という政治的駆け引きのなかでスターリンの思いつきから生まれた公算が大きい。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)

    ★敗戦時、日本国籍の者は外地に629万702人いた。旧満州国からの引き揚げにあたっては、関東軍将校が自らの家族を優先させて帰国させてしまい、民間人を見捨てたという状態になった。中国残留孤児問題はその結末の一つである。

    ———————————

    <森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』(ゆまに書房)p.37より>満州の事情は大ぶんひどいらしい。樺太でも左様であるが、ソ聯兵の暴行が頻々として伝はれてゐるほかに、満軍の反乱が相次いで起り、満人や鮮人の暴徒が邦人を襲つたりしてゐる。関東軍は武装解除をしたのだから、もう何の力もないわけである。そして醜態を現はしてゐるのは、関東軍の将校たちで、いち早く三個列車を仕立てゝ自分たちの家族をまづ避難さした。満鉄社員、満州国の日系官吏がそれに続いて家族を避難させ、取残された一般邦人がひとりさんざんな目に遭つてゐる。戦争情態に入つた新京では親衛隊が離反して皇帝の身辺が危くなつた。そこで通化にお遷ししたのだが、通化からさらに日本にお遷しするために、奉天の飛行場までお連れして来たところを、降下したソ聯の空挺隊のために抑へられてしまつた。それは十九日のことであるが、それ以後今日まで、皇帝の御身体は赤軍の手中にあるのである。

    ***********【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】************

    #昭和15年頃、第一線部隊の師団長、旅団長、野戦病院長までもが女と暮らしていたのには驚いた・・・。日米開戦当時陸軍でも、海軍でも一部の幹部は陣中で兵の苦労をよそに着物姿だった。(当時日本の軍事関係費は総予算の40%で、その60%が陸軍にまわされていた)

    #激変する雨と川の関係は、さまざまな配慮を人間に要求する。サバのラナウーサンダカンの道路は、ボルネオを横断する唯一の道だが、それは川から遠く離れた高い固い地面を選び選び走っている。バス旅行に慣れた今日の人間は、自然の厳しさを忘れるようになっていく。実際この知識と配慮がなかったために、ここを強行軍させられた日本軍兵士は、山中で無残に溺死した。水が引くとかれらの死体は樹々の高みにひっかかっていた。(鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:293)

    #サイパンの戦い(田中徳治氏『我ら降伏せず』(サイパン玉砕戦の狂喜と現実)などより)

    ・・酒だ。ムラムラッと怒りがこみあげてきた。こんな安全な洞窟の中で、酒を飲みながら、作戦指揮とは・・・。この連中は一体全体、昨日の無謀な戦闘を知っているのだろうか。よくも酒など飲んでいられるものだ。我々は部下も戦友も次々失い、空腹も忘れ、無我夢中で戦っている。それにくらべ・・・と思うと、怒りと同時に全身から力がガックリと抜けてしまった。我々を指揮する最高司令官がこれでは、と思うと情けなくなった、不動の姿勢が保てなかった。気力をふりしぼってやっと報告に立った。

    田中:「以後、的確なる命令と、各部隊の密接なる戦闘計画なくば敗戦の連続です」斎藤:「バカ!的確な命令とは何事だ。命令を何と心得とるか。大元帥陛下の命令なるぞ。軍人は死するは本望だ。兵士は師団長の命令通り動き、死せばよいのだ」田中:「閣下、我々軍人は命令に従って死せば戦闘に勝てるのですか。尊い生命を惜し気もなく、一片の木の葉か、一塊の石の如く捨てれば勝てるのですか」

    (斎藤はこの後田中徳治氏に「無礼者」といい、軍扇で頭を殴り、田中氏を狂人呼ばわりして司令部を追い出した)

    田中徳治氏の書にある兵士は、故郷を思い、父母の名を叫び、そして絶望的な気持ちで死んでいっている。彼らは司令官を、そして大本営作戦参謀を呪い、恨み、そして死んでいったことだけはまちがいあるまい。(以上、保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

    #いくら督促されても、「できないことは、できない」こと。「だから、何とかしてくれ」と頼みに行ったわけである。ところがその返事たるや「ナンだと。機材がないからどうもならんと、砲弾が輸送できんからどうもならんダと。どうにもならんですむか!キサマそれでも将校か。ここをどこだと心得トル。ここは戦場じゃぞ。これがないから出来ません、あれがないから出来ませんでは戦さはできんのだ。将校たるものがそんな気魄のないことでどうなる。砲弾は人力で運べ。住民がいるじゃろう。それを組織化して戦力に役立たせるのがキサマの任務じゃろう。任務を完遂せんで何やかやと司令部に言って来オル。このバカモンが!砲を押して敵に突撃するぐらいの気魄がなくてナンで決戦ができるか。この腰抜けが!……」延々と無限につづく罵詈雑言。悲しいとか口惜しいとか言うのではない。むしろ何ともいえない空虚感であった。(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.164-165)

    #東条英機の残した『赤い手帳』(三男、東条敏雄氏所有)より(多少、言い訳めいたことも書き残したかったのであろうか)。昭和一八年八月十一日

    「戦局ノ進展深刻化ニ伴フ戦争的要求ト日本ニ於ケル政治単的ニ謂ヘハ下僚政治、属僚政治ノ弊ノ根深キモノアルト。統帥ノ独立ニ立籠リ又ハ之レニ籍口シテ陸軍大臣タル職権ヲ有スルニ不拘ラス之レニ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得サルコトハ共ニ現下ノ最大難事ナリ」解釈:戦争は行く末が見えず、益々進展し深刻化しているというのに日本の政治は・・・(混迷を極めていて、世界を相手に戦争出来る様な情勢ではない)、一言でいえば下っ端官僚や属僚たちが幅をきかせている政治、この弊害は根深いものがある。しかし自分は(それは良く分かっているのだが)、統帥の独立という構造にたてこもり、またそれを口実にして積極的な改善手段を実現させることが出来ない。総理大臣として国家の重大案件も思うに任せず、陸軍大臣として切羽詰まった戦況の打開策も、いずれも即時に処置断行することが出来ない。これはともに今の最大の難事である。(月刊『宝石』、平成10年6月号より抜粋)

    #ガダルカナル最前線(元陸軍中尉、小尾靖夫の手記より)

    「立つ事の出来る人間は・・寿命30日間。体を起こして座れる人間は・・3週間。寝たきり、起きられない人間は・・1週間。寝たまま小便をする者は・・3日間。もの言わなくなった者は・・2日間。またたきしなくなった者は・・明日。ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終わるのであろうか」(昭和17年~18年)

    #ブーゲンビル島ブイン飛行場(昭和18年4月頃)飛行場のまわりは、昼なお暗きジャングルである。マラリア蚊が跳梁し毒蛇や鰐が横行している。こんな、とても人が住めない密林のなかで、日本海軍の男たちは戦っていたのだ。(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督伊藤整一』より)

    #馬を引いて前線に届けるのが任務である。「馬は軍にとって大変大切だ。おまえらは一銭五厘の切手で召集できるが馬はそうはいかぬ。おまえらより馬のほうが大切なのである」

    「昭和15年召集、入隊してそこで待っていたのは、毎日のようなしごきでした。教官はお前たちの命は九牛の一毛より軽いということで兵隊の命なんか上の方では、人権なんか余り考えてなかったような気がします」(朝日新聞、H10.12.2朝刊より)

    #第三班。そのまま聞いとれ。今日はお前たちの担当じゃなかったけん、よかったが、お前たちの番になって、あんな真似をしとったら、おれが承知せんぞ。お前たちのような消耗品は、一枚二銭のはがきで、なんぼでも代わりが来るが、兵器は、小銃は、二銭じゃ出来んからな。銃の取り扱い方、手入れ法を、ようと勉強しとけよ。(大西巨人氏著『神聖喜劇<1>』光文社文庫、p.97より)

    #これが戦争なんだ。これが軍隊なんだ。上官が家々を物色して回る「徴発」を命じた。村民はクモの子を散らすように逃げまどった。「背に弾を打ち込め」と命令されたが銃身をわずかに空に向けて外した。食料はないか、家畜はいないか。一軒一軒をのぞいて回った。ある民家の土間に老女がうずくまっていた。・・・その老女は逃げる体力も気力も持ちあわせていないように思えた。一抱えもある鉄鍋の下にかぼそい炎が見えた。「何か炊いている」食い物にありつけるかも知れない。腹をすかせた兵士たちの期待が膨らんだ。老女は恨めしそうな目を投げかけてきた。

    「あんたら日本人は何でも奪う」、そう言いたげな刺す様な視線だった。・・・鍋に近付いた。その中に、黒ずんだものがかすかにブスブスと動いていた。何の臭いもしなかった。・・・老女が煮ていたものは、ただの土。何のために?。・・・(朝日新聞、H10.11.30日朝刊より)絶叫でもなく、悲鳴でもない。動物の呷きにもにた男の声が残った。暴れる男は太い幹にくくりつけられた。何が始まるのか初年兵全員が分かっていた。・・・「突け!」。剣のついた小銃を持った初年兵が木に向けて走った。・・・約50人の初年兵が次から次へと突いた。男の内蔵は裂け、ぼろぞうきんのようになった。体はどす黒い血の塊となって木の下に崩れた。(朝日新聞、H10.12.1日朝刊より)

    #われわれが連れていかれたのは、寧武にある処刑場です。荒れ地で、城壁の角地でした。そこへ、綿入れの便衣を着た中国人五十数人がじゅずつなぎに連行されてきました。そこでは、すでに数人の将校によって「試し斬り」がおこなわれていました。手をしばられた中国人の首を刀でバサッと斬っているのです。ところが下手な将校は、刀の扱いがうまくできずに頚動脈を切ってしまうものだから、血が噴き出している。あわてて刀を何回も振り下ろしています。一回で首を切りおとせなかったのです。むしろ下士官のほうがうまくて、片手にもったサーベルをパッと振り下ろすと、首がごろっと落ちる。私は仰天しました。いままでこんな恐ろしい場面を見たことがなかったからです。つぎからつぎへとくりひろげられる悽惨な光景に、体はふるえ、こわばつて目も開けられない状態でした。そうして、こんどは私たちに「肝試し」が命じられました。正確にはこれを「刺突訓練」と呼んでいました。銃剣で、後ろ手にしばられ立たされている中国人を突き刺すのです。目隠しもされていない彼らは、目を開いてこちらをにらみつけているので、こわくてこわくてたまらない。しかし、「かかれっ」と上官の声がかかるのです。私は目が開けられず、目をつむったまま、当てずっぼうに刺すものだから、どこを刺しているのかわかりません。そばで見ている古年兵にどやされ、「突け、抜け」「突け、抜け」と掛け声をかけられる。どのくらい、蜂の巣のように刺したかわかりません。しまいに、心臓にスパッと入った。そうしたら「よ-し」と言われて、「合格」になったのです。こうして、私は「人間を一個の物体として処理する」殺人者に仕立て上げられたのでした。(奥村和一・酒井誠氏著『私は「蟻の兵隊」だった』岩波ジュニア新書、pp.22-23)

    #私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦いに引きり込んだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等におくこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無意味な死に駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そう考える必要があったのである。しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方を動いて行くおもちゃのような連絡船の赤や青の灯を見て、奴隷のように死に向かって積み出されて行く自分の惨めさが肚にこたえた。(大岡昇平氏『俘虜記』より)

    #軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いていた。しかしその実情は聞きしにまさるもので、いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。前に週刊朝日でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所といわれるラーベンスブリュック強制収容所の狂人房も、収容人員一人あたりのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに”人道的”といえるのである。前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させていただこう。「・・・船中は予想外の混乱なり。船艙も三段設備にて、中隊176名は三間と二間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪いため上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。何故かくまで船舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下している事情を知り大いに考えざるべからず。銃後人にもこの実情を見せ、生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘し、盲目的指導をつづけていることは疑問なり」。これ以上の説明は不要であろう。2間に3間は6坪、これを3層のカイコ棚にすると、人間がしゃがんで入れるスペースは18坪、言いかえれば、ひざをかかえた姿勢の人間を、畳2枚に10名ずつ押し込み、その状態がすでに2週間つづいているということ、窒息して不思議ではない。それは一種異様な、名状しがたい状態であり、ひとたびそこへ入ると、すべてが、この世の情景とは思えなくなるほどであった。その中の空気は浮遊する塵挨と湿度で一種異様な濃密さをもち、真暗な船艙の通路の、所々に下がっている裸電球までが、霧にかすんだようにボーッと見え、む-っとする人いきれで、一瞬にして、衣服も体もべタベタしてくる。簡単にいえば、天井が低くて立てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だが、このような場所に2週間も押し込められたままなら、人間は、窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板へと出ていく。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もないほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっしりつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。一言でいえば、前述したプラットホームである。そのくねくねした迷路に一列に並んでいる人の先端が、仮設便所であった。便所にたどりつくのが、文字通り

    「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船艙いっぱいにつめこめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。・・・(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.63-64)

    #「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷2発で15秒で沈む。3000人のうち助かるのは12、3名」。(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、p.67)

    #師団長や参謀たちが何だというのだ。彼らは私にとって、面と向かって反抗できない存在だ。その点では班長や下級将校も同様だが、班長や下級将校は、私たちと同様に彼らに使われているのだ。あいつらやあいつらよりもっと上の連中たちが、こんな馬鹿げた戦争をしているのだ。ああいう連中になりたがっている連中もいるわけだが、しかし、私は、結局は、あいつらに使われる状態から逃れられないのだ。私は、彼らに対して、そう思っていた。挙国一致だと。糞食らえだ。尽忠報国だと。糞食らえだ。心中ひそかに悪態をついてみたところで、もうどうなるものでもない、と思いながら、私は悪態をついていたのだ。気力なし、体力なし、プライドなし、自信なし、希望なし。悪態はついても、恨みも不平もなかった。私は、もう、なにがどうでもいいような気持になっていたのだ。龍陵の雨を、寒さを、漆黒の闇を、草を、木を、土を、空を、星を、運を、思い出す。その中で、常時、死と体のつらさに付き合っていたことを思い出す。歩けないのに歩かなければならないときの苦しさを思い出す。(古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫)p.52)

    ★特攻隊攻撃:軍部にみる残酷さと卑怯さの象徴(発案は服部卓四郎、源田実、大西瀧治郎(直属部下:玉井浅市、猪口力平、中島正)、富永恭次ほかの悪魔ども)。初めて行われたのは比島沖海戦の翌日の昭和19年10月25日で、敷島隊がレイテ湾の米軍艦に体当たりを敢行。敗戦までに実に2367機が出撃した。(因に潜水「魚雷」は海軍大将黒木博司により別に考案され最初の出撃は昭和19年11月だった)青年達(海軍の飛行予科練習生と学徒兵)に下士官の軍服を着せて飛行機に乗せ、未熟な操縦技術ながら敵に体当たりさせた。(昭和17年から乙種飛行予科練習生の徴募年齢が満14歳に引き下げられていた)。皮肉にもこの特攻隊攻撃が原爆投下を米英に決断させることになった。※おそるべき無責任英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイロットたちに与えた訓辞を引用して、一九五二年にこう述べている。

    「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。(下略)」この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、政党総裁、代議士、指導者-その他なんと置き換えてもよいであろう。問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程において、これら「若い人々」は、なんの発言も許されなかった。軍部、政治家、指導者たちの声は一せいに、「君らはまだ思想未熟、万事は俺たちにまかせておけ」として、その便々たる腹をたたいたものであった。しかもその彼等が導いた祖国の危機に際しては、驚くべきことに、みずからその完全な無力さを告白しているのだ。扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.61-62)※死へのカウントダウン学徒兵たちは、自分たちの政府に「殺される」出撃の最期の瞬間まで読書と日記を続けた。どんな時代や国においても、死とは孤独なものである。こうした若者は人生の早い段階で死刑宣告を受けていたも同然で、ただでさえ短かった人生を、死の影の中で生きねばならなかった。そのため、彼らの人生には常にこのうえない淋しさが付きまとっていた。だが、潔く死ぬことを当然祝された若き学徒兵たちは、こうした感情を公にすることはできなかった。残された手記は、自らの行為に納得のいく意味を見出そうとするものの、最期の瞬間まで苦悩し続け、悲壮なまでの孤独感に覆われた胸中をありありと見せている。1940年11月の日記に、林尹夫は「死にたくない!…生きたい!」と書き連ねていた。中尾武徳は、1942年9月に「静寂」という題の詩を書き、多くの若者たちが感じていた時間の経過に対する焦燥感を表現している。刻々と時を刻む時計の針の音は、彼らにとって死へのカウントダウンの音でもあったのである。中尾や他の学徒兵の手記は、人生そのものを含め、彼らが失ったすべてのものへの嘆きの声で満ちている。(大貫恵美子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.34-35)※驚くべきことに、悪魔らが特攻作戦を創設した際、陸海軍兵学校出身の職業軍人の中から志願したものは一人もいなかった。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)※関行男大尉(23歳、第一次神風特別攻撃隊、敷島隊(5機の零戦))

    「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させて還る自信がある」。

    ●特攻隊攻撃については柳田邦男氏著『零戦燃ゆ(渾身編)』や大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』に詳しく載っている。ぜひご一読をお勧めする。また『はるかなる山河に』(南原繁編集)や『きけわだつみの声』(一、二集)という遺稿集もぜひ読んでほしい。

    ●源田実はのうのうと生き続けて、戦後は自衛隊に入り、最後には参議院議員にまでなった。つまり戦没した特攻隊員に恥じることも殉ずることもなかったのである。

    —-<別に賞賛しないが、こういう軍人もいた>—-

    軍令部々員の国枝兼男少佐が去る二十二日未明自決した。かつて予科練の教官をしてゐて、その教へ子のうちから沢山の特攻隊員が出てゐる。それ等の教へ子を先に死なせ、しかも戦争はこのやうな終末になつた。相済まぬといふ心に耐へられなかつたのである。最後まで役所の仕事は滞りなく片づけ、土浦の自宅に帰り、夫人に決心のほどを語りて納得させたうへ、拳銃で二人の子供を殺し、夫人をも同様の手段で殺した後、自らの頭に銃弾を打込んで果てたのである。(森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』ゆまに書房、pp.34-35)※上原良司特攻隊員(20年5月11日、沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入し戦死)いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対しても自由の滅却を強要し、肉体的苦痛もその督戦隊としている。しかしながら、激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼っても、常に自由は戦い、そして常に勝利者である。我々は一部の愚者が、我々の自由を奪おうして、軍人精神という矛盾の題目を唱えるたびに、何ものにも屈せぬ自由の偉大さを更めて感ずるのみである。偉大なるは自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類の希望である。※何が愛国だ?何が祖国だ?(佐々木八郎、1945年特攻にて戦死、享年22歳、1941.9.14の日記より)戦時下重要産業へ全国民を動員するとか。全国民のこの苦悩、人格の無視、ヒューマニティの軽視の中に甘い汁を吸っている奴がいる。尊い意志を踏みにじって利を貪る不埒な奴がいるのだ。何が愛国だ?何が祖国だ?掴み所のない抽象概念のために幾百万の生命を害い、幾千万、何億の人間の自由を奪うことを肯んずるのか。抽象概念のかげに惷動する醜きものの姿を抉り出さねばならぬ。徒らに現状に理由づけをして諦めることはやめよう。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.83)※古川正崇(海軍中尉、神風特別攻撃隊振天隊、S20.5.29沖縄近海にて特攻により戦死。享年24歳)の決意と覚悟出征の日に私は友の前で、「大空の彼方へ我が二十二歳の生命を散華せん」と詠つた。さうして今その二十四歳の生命をぶち投げる時がきた。出征の日に私は机に「雲湧きて流るるはての青空の、その青の上わが死に所」と書いてきた。さうして今その青空の上でなくして、敵艦群がる大海原の青に向つて私の死に所を定めやうとしてゐる。しかも人生そのものにやはり大きな懐疑を持つてゐる。生きてゐるといふこと、死ぬといふことも考へれば考へるだけ分らない。ただ分つてゐることは、今、日本は大戦争を行つてゐるといふこと、神州不滅といふこと、その渦中に在る日本人として私の答はただ、死なねばならぬ、といふことだけである。絶対に死なねばならぬ。我が身が死してこそ国に対する憂ひも、人間に対する愛着も、社会に対する憤懣もいふことができるのだ。死せずしては、何ごともなしえないのだ。今、絶体絶命の立場に私はゐる。死ぬのだ。潔く死ぬことによつて、このわだかまつた気持のむすび目が解けるといふものだ。(桶谷秀昭氏著『日本人の遺訓』文春新書、pp.186-187)※特攻隊員たちの生活一方、多くの士官は鬼のように振る舞った。職業軍人たちは、自分より階級の低い学徒兵の些細な行動を不快に思う度、それを行なった本人のみでなく、隊全員に苛酷な体罰を加えた。色川(歴史家色川大吉氏、土浦基地元学徒兵)は、学徒兵を待ち受けていた「生き地獄」について、まざまざと語っている。

    「土浦海軍航空隊の門をくぐってからは、顔の形が変るほど撲られる「猛訓練」の日がつづいた。一九四五年一月二日の朝は、金子という少尉に二十回も顔中を撲られ、口の中がズタズタに切れ、楽しみにしていた雑煮がたべられず、血を呑んですごした。二月の十四日は、同じ隊のほとんど全員が、外出のさい農家で飢えを満たしたという理由で、厳寒の夜七時間もコンクリートの床にすわらされ、丸太棒で豚のように尻を撲りつけられるという事件が起こった。私も長い時間呼出しを待ち、士官室に入ったとたん、眼が見えなくなるほど張り倒され、投げ飛ばされ、起き直ると棍棒をうけて「自白」を強いられた。頭から投げ飛ばされた瞬間、床板がぬけて重態におちいり、そのまま病院に運ばれ、ついに帰らなかった友もあった。これをやったのは分隊長の筒井という中尉で、私たちは今でもこの男のことをさがしている」学徒兵たちは、しばしば叩き上げの職業軍人の格好の的とされた。彼らは大学どころか高等学校にさえ在籍することの叶わなかった自らと比較し、学生たちを、勉学に専心することの許される特権階級の出身者として見ていたのも一つの理由である。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店より)※出撃前夜の様子ガンルームでの別離の酒宴席設営。明日出撃の若き士官の冷酒の酒盛り、一気飲み!!ガブ飲み!!果ては遂に修羅場と化して、暗幕下の電灯は刀で叩き落され、窓硝子は両手で持ち上げられた椅子でガラガラと次ぎつぎに破られ、真白きテーブル掛布も引き裂れて、軍歌は罵声の如く入り乱れ、灯火管制下の軍隊でこゝガンルームでの酒席は、”別世界”。ある者は怒号、ある者は泣き喚き、今宵限りの命……。父母、兄弟、姉妹の顔、顔、姿。そして恋人の微笑の顔、婚約者との悲しき別れ。走馬灯の如く巡り来り去り来る想いはつきずに。明日は愈々出撃、日本帝国の為、天皇陛下の御為にと、若き尊い青春の身命を捧げる覚悟は決しているものの、散乱のテーブルに伏す者、遺書を綴る者、両手を組みて瞑想する者。荒れ果てた会場から去る者、何時までも黙々と何かを書き続ける者、狂い踊りをしながら花壇を叩き毀す者。この凄惨な出撃前のやり場の無い、学徒兵士の心境は余りにも知らされていません。……早朝飛行場に走り昨夜水盃ならぬ冷酒の勇士は日の丸のはち巻も勇ましく爆音高く出撃!!私は……英霊に成られし方々の日常を知り尽くしております。私同様激しい教練の後にお定まりの制裁のシゴキが続けられていました。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.15-16)※特攻生き残り隊員への罵声

    「貴様たちはなぜ、のめのめ帰ってきたのか、いかなる理由があろうと、出撃の意思がないから帰ったことは明白である。死んだ仲間に恥ずかしくないのか!」

    ***

    **

    「あの時の参謀の迎え方で、われわれは司令部の考えていたことがすべて分かりました。われわれは帰って来てはいけなかったのです。無駄でもなんでもいい、死ななければならなかったのです。生きていては困る存在だったのです」(佐藤早苗氏著『特攻の町知覧』より)

    ◆我々は故意に歪められた歴史と、その過程における◆◆政治の役割にもっと注意を払うべきである。特攻隊員◆◆たちは自分たちで語ることはもはやできない。もし、◆◆「死者でさえ敵から安全ではない」(ベンジャミン)◆◆ならば(この場合敵とは日本と欧米諸国のとの政治権◆◆力の不平等、日本国内における政治への無関心である◆◆)、彼らはポール・クレーの絵の中のような、青ざ◆◆めた歴史の天使が彼らを目覚めさせ、人間性と歴史の◆◆中に彼らの場所を確保してくれるのを待っているので◆◆ある。◆◆いかなる歴史的過程においても、全体主義政権の指◆◆導者のような歴史的エージェントは、他の者よりはる◆◆かに大きな影響力を持っていた。こういう者が人間性◆◆に対して犯した罪は決して許されるべきものではない。◆◆隊員たちの日記は、夢と理想に溢れた若者たちを死◆◆に追いやった日本帝国主義の極悪非道の行為を証明す◆◆るものである。◆◆(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)◆

    ★「玉砕戦法」:昭和20年8月8日夜、ソ連軍の参戦。本土防衛のため国境(ソ連-満州)付近にいた精鋭部隊は帰国しており無防備状態。予備士官学校生も急きょ防衛隊を編成したが満足な武器はなかった。塹濠から爆弾を抱えて戦車に突進する以外に有効な手段はなかった。(「戦後50年『あの日・・・どう語り継ぐ』」、山陽新聞(H6.8.16)より引用)

    #戦艦大和の最期がせまり、動揺する戦艦の兵士たちに向かって、哨戒長・臼淵大尉は、囁く様にこう言うのだ。

    「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ本当ノ進歩ヲ忘レテイタ敗レテ目覚メルソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ今目覚メズシテイツ救ワレルカ俺タチハソノ先導ニナルノダ日本ノ新生ニサキガケテ散ルマサニ本望ジャナイカ」(吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』、哨戒長・臼淵大尉(当時21歳)の言葉、講談社文芸文庫、p46)※戦艦大和の乗組員3332人のうち3063人が死亡、生存者は269人という。

    遺書ノ筆ノ進ミ難キヨサレドワガ書ク一文字ヲモ待チ給り人ノ心ニ、報イザルベカラズ母ガ歎キヲ如何ニスベキ先立チテ散ル不孝ノワレニ、今、母ガ悲シミヲ慰ムル途アリヤ母ガ歎キヲ、ワガ身ニ代ッテ負ウ途残サレタルヤ更ニワガ生涯ノ一切ハ、母ガ愛ノ賜物ナリトノ感謝ヲ伝ウル由モナシイナ、面ヲ上ゲヨワレニアルハ戦イノミワレハタダ出陣ノ戦士タルノミ打チ伏ス母ガオクレ毛ヲ想ウナカレカクミズカラヲ鼓舞シツツヨウヤクニシタタム

    「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ皆様マスマスオ元気デ、ドコマデモ生キ抜イテ下サイソノコトヲノミ念ジマス」更ニ何ヲカ言イ加ウベキ文面ニ訣別ノ思イ明ラカナレバ、歎キ給ウベシワレ、タダ俯シテ死スルノミワガ死ノ実リアランコトヲ願ウノミワレ幸イニ悔イナキ死ヲカチ得タラバ、喜ビ給エ読ム人ノ心ノ肌ニ触ルル思イニ、読ミ返ス能ワズ郵便箱ニ急ギ押シ入レ、私室ヲノガレ出ズカクシテ、ワレト骨肉トヲ結ブ絆絶タレタリカカル折ニモ、父ガ愁イヲ顧ミルコト薄キハ如何ナル心情カ晩酌ノ一献ヲ傾クル後姿ノ、ヤヤ淋シゲナルヲ一瞬脳裡ニ描キシノミ世話好キノ鈴木少尉、戦友一人一人ニ、「貴様モウ遺書ヲ書イタカ」面ヲソムクル者アレバ「何ダマダ書カンノカオ前ニハオフクロガイナイノカ一字デモイイカラ書イテヤレヨ」促シツツ「ペン」ヲ握ラス(吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、pp33-34)

    #戦艦大和甲板上、森少尉の遺言太キ眉ノ影、月ニ冴エシ頬ニ落チタル横顔ハ森少尉ナリ艦内随一ノ酒量、闊達ノ気風ヲモッテ聞エ、マタソノ美シキ許婚者ヲモッテ鳴ル彼常ニ肌身ヲ離サザル写真ノソノ美貌ト、シバシバ届ク便リノ水茎ノ鮮カサトハ、カネテ一次室全員ノ羨望ノ的ナリ学徒出陣ヲ目前ニ控エシ一夜、初メテ彼女ノ手ヲ握り、「君ノ眼モ口モ鼻モ、コノ手モ足モ、ミンナ俺ノモノダ」ト短キ言葉ヲ残シテ、訣別セリトイウ暗キ波間ニ投ゲタル眸ヲワレニ返シ、耳元二訴エル如ク呟ク

    「俺ハ死ヌカライイ死ヌ者ハ仕合セデ俺ハイイダガア奴(イツ)ハドウスルノカア奴(イツ)ハドウシタラ仕合セニナッテクレルノカキット俺ヨリモイイ奴ガアラワレテ、ア奴卜結婚シテ、ソシテモット素晴シイ仕合セヲ与エテクレルグロウキットソウニ違イナイ俺卜結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ッタ俺ハコレカラ死ニニ行クダカラソレ以上ノ仕合セヲ掴ンデ貰ウノダモットイイ奴卜結婚スルンダソノ仕合セヲ心カラ受ケル気持ニナッテ欲シインダ俺ハ真底悲シンデクレル者ヲ残シテ死ヌ俺ハ果報者ダダガ残サレタア奴ハドウナルノダイイ結婚ヲシテ仕合セニナル俺ハソレガ、ソレダケガ望ミダア奴ガ本当ニ仕合セニナッテクレタ時、俺ハア奴ノ中ニ生キル、生キルンダ……ダガ、コノ俺ノ願イヲドウシテ伝エタライイノダ自分ノ口カラ繰返シ言ッタ手紙デモ何度トナク書イテキタ俺ヲ超エテ、仕合セヲ得テクレ、ソレダケガ最後ノ望ミダト……シカシソレヲドウシテ確カメルノダア奴ガ必ズソウシテクレルト、何ガ保証シテクレルンダ祈ルノカドウシテモ祈ラズニハ居レナイ、コノ俺ノ気持ハ本当ダダガソレダケデイイノカ自分ヲ投ゲ出シテ祈レバソレデイイノカドウカア奴ニマデ聞エテクレト、腹ノ底カラ叫ブシカナイノカ」荒キ語勢ニ涙ナシセキ込ムバカリノ切願ナリムシロ怒リナリ怒リヲ吐ク彼肯キツツ言葉モナキワレ二人ヲ蔽ウハ、コレガ見収メノ清澄ノ月空二人ノ足ヲ支ウルハ、再ビ踏ムコトアルマジキ堅牢ノ最上甲板許婚者ナル方ヨ君ハ類イナキ愛ヲ獲タリ彼ガ全心コメタル祈リハ、聞キ入ラルルベシ必ズ聞キ入ラルルベシ彼、怒レルママニ口ヲ結ビ、凝然卜足下ノ波頭二見入ル(吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、pp39-40)

    #シベリアで仲間は死んだ。(朝日新聞、H10.11.29朝刊より)食料は下になるほど上級兵にピンはねされ、飯盒のフタにエンドウが五、六ツブといった食事が何日も続いた。一昨日は隣分隊の初年兵が栄養失調で死んだ。昨日は山下が死んだ。今日は隣の奴がと、毎日のように死人がでた。収容所は全本能の闘争場だった。陰気な、悽惨なものだった。

    *****************【以上、悪魔の所業のほんの一部】*****************

    Reply
  15. shinichi Post author

    ※そのうえに日本にとって最も不幸だったことは、以上申し述べたような諸種の事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こったということでありまして、建国三千年最大の危難に直面しながら、如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなく、ただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わいわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に捲き込まれ、押し流されてしまったのであります。これは必ずしも、北条時宗の故事に遡らずとも、〔明治〕維新当時、日本の各地に雲のごとく現れた各藩の志士、例えば一人の西郷隆盛、一人の木戸孝充、一人の大久保利通のごとき大人物が現存しておったなら、否、それほどの人物でなくても、せめて日清、日露の戦役当時の伊藤博文、山県有朋のごとき政治家、また軍人とすれば陸軍の児玉源太郎、降って、せめて加藤高明、原敬、あるいは一人の山本条太郎が今日おったならば、恐らく日本の歴史は書き換えられておったろうと思われるのです。支那事変から大東亜戦争を通じて、日本の代表的政治家は曰く近衛文麿、曰く東条英機、曰く小磯国昭、曰くなにがしであり、これを米国のルーズベルト、英国のチャーチル、支那の蒋介石、ソ連のスターリン、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニなど、いずれも世界史的な傑物が百花繚乱の姿で並んでいることに思いを致してみると、千両役者のオールスターキャストの一座の中に我が国の指導者の顔ぶれの如何に大根役者然たるものであったかを痛感せざるを得ないでしょう。また、民間の代表的人物といいますと、三井財閥では住井某、三菱財閥では船田某など、いずれも相当の人柄でしょうが、これを一昔前の渋沢栄一、井上準之助などに比べると、いかにも見劣りせざるを得ない。その他、政党方面に誰がいるか、言論文化の方面には誰がいるか、どの方面も非常な人物飢饉であり、そのために本筋の大道を見損なって、とんでもない方面に日本国民を引っ張っていく一つの大きな原因になったと思われます。(昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.27-28)

    ※親泊朝省大佐(陸軍報道部、沖縄出身、9月2日自決)のいう敗戦の原因その第一は陸海軍の思潮的対立である。陸軍はドイツ流に仕立られてゐる。陸大にはメッケルの胸像が日本戦術の開祖として立ち、その講堂にはヒンデンブルグとルーデンドルフとが作戦を練る図が掲げられ学生の憧憬の的となつてゐる。これに反して海軍は兵学校の講堂に東郷元帥の遺髪とともにネルソンの遺髪を安置して精神教育の資としてゐる。しかもこの相背く二つの思潮に立つ陸海軍が日本的に結合しようとするところに云ひ知れぬ困難を伴ふのである。また陸軍内部ではドイツ班の勢力がロシヤ班や米、英班を凌ぎ、その結果は正衡な戦政局の判断が出来なかつたのである。第二には満州事変以後、事変を単に軍の一部の力で推進して来たといふ幕僚統帥の弊風が挙げられてゐる。第三には軍人が軍人に賜はりたる勅諭の御旨に反して政治に介入し、軍本然の姿を失つたことである。第四が人事の大権が派閥的に行はれ東条人事とか梅津人事とか呼ばれるに至つたこと、更に甚しいのは第一線に出されることが懲罰を意味するといふに至つては言語道断である。第五には軍の割拠主義である。作戦面にまで陸軍地区とか海軍地区といふものが分れてゐた結果、戦勢を不利に導いたことは少くないのである。(森正蔵氏著『あるジャーナリストの敗戦日記』ゆまに書房、p.52)

    ※日本のジャーナリズムには、戦争を客観的に見つめる目はなく、あったとしても検閲が強化され、紙面に反映させることはできず、各新聞は競って特攻を礼賛し、本土決戦を訴えた。(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督伊藤整一』より)

    ※古山高麗雄氏の回想(作家案内ーー「吉田満寡言の人」より)散華の世代の者の責任として、いや、人間として、戦後、自分は何をしなければならないのか、どのように考えなければならないのか、を追究する。英霊を犬死ににさせてはならぬ、そのためには、この国を誇りある社会にしなければならぬ、と吉田さん(鳥越注:吉田満氏)は言う。私も、この国が誇りある社会になれば、どんなにいいだろう、とは思うのだが、けれども私には、英霊を犬死ににさせないため身を粉にして、誇りある社会づくりに身を投じようという気はない。散華だの、犬死にだの、玉砕だの、英霊だの、という言葉が私にはない。私は、戦死者も、生存者も、その自己犠牲も、善意も、まったく報いられずに終わるかも知れぬ、と思っている。それを、私たちはどうすることもできない、と言ったら吉田さんは、またまた澱のようなものが溜まるような気持になるであろう。(吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p198)

    ※国民は家畜並。軍隊というのは最低最悪の組織だ。支那事変が拡大して、大東亜戦争になりますが、大東亜戦争でも、まず集められ、使われたのは、甲種合格の現役兵です。人間を甲だの乙だのにわけて、甲はガダルカナル島に送られて、大量に死にました。敗戦後、わが国民は、二言目には人権と言うようになりましたが、戦前の日本には、人権などというものはありませんでした。国あっての国民、国民あっての国、昔も今も、そう言いますが、藩政時代も、明治維新以降も、日本は民主の国ではありませんでした。忠と孝が、人の倫理の基本として教育される。孝は肉親愛に基づく人間の自然な情ですが、忠は為政者が、為政者の受益のために、人の性向を利用し誘導して作り上げた道徳です。自分の国を護るための徴兵制だ、国民皆兵だと言われ、法律を作られ、違反するものは官憲に揃えられて罰せられるということになると、厭でも従わないわけには行きません。高位の軍人は政治家や実業家と共に、国民を国のためという名目で、実は自分のために、家畜並に使用しました。私の知る限り、軍隊ぐらい人間を家畜並にしてしまう組織はありません。貧しい農家の二男、三男の生活より、下士官の生活の方がいい、ということで人の厭がる軍隊に志願で入隊した人を、馬鹿とは言えません。しかし、国の為だ、天皇への忠義だ、国民なら当然だ、と言われても、人間を家畜と変わらないものにしてしまう組織は憂鬱な場所です。けれども、そこからのがれる術はありません。・・・軍隊というのは、私には最低最悪の組織です。(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社137-138)

    ※軍隊はpassionを殺し、machine(機械)の一歯車に変ずるところなのだ。(林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)

    「家に帰れなかったら、そして、この海兵団から足を洗えなかったら、気が狂ってしまいそうだ」と言う。「いまおれは、ゆっくり本が読みたい。このぶんでは、とても戦争に行けない。”死”なぞいまのおれにとって思案の外の突発事)だ」、「…いまのおれにはそのようなパッションも気力もない。無関心、どうでもなれという自己喪失。そうだ、なにが苦しいといって、いまのような自己喪失を強制された生活、一歩動くとすぐにぶつかってくるという障、なのだ。生のクライマックスで生が切断される。人生の幕がおりる。あるいは、それは実に素晴らしい。ましてクライマックスのあとに、静かなる無感覚がつづき、そのあと死の使者がくる」、「それはなおすばらしい筋書だ。だが生活に自己を打ち込めぬ、そして自己を表現する生活をなし得ぬままに死んでしまうとしたら、こんな悲惨なことが、あろうか」と追いつめられた、極度に悲惨な心情を書き下す(1944年1月23日)。この3日後の1944年1月26日には、海軍航空隊の飛行機搭乗員の選抜発表を翌日に控え、選ばれることを願っている。そして林は、飛行専修予備学生予定者に決定し、1944年1月28日に、兵士の待遇の過酷なことで知られていた土浦海軍航空基地に配置されることになった。土浦に配属されて問もないころの日記には次のように書いている。学校にいたときの、あのPatriotismus(祖国愛)の感激、一歩一歩後退を余儀なくされているときの緊迫感、そういうものは、もういまは全然ない。だいたいpassionというものは、もう消えてしまった。軍隊はそういうpassionを殺し、人間をindifference(無関心)にし、惰性的に動く歯車に代えてしまうところだ。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.130-131)

    ※阿呆と家畜のオンパレードそれにしても、名誉の出征に、名誉の戦死。聖戦という言葉も使われました。聖戦は鬼畜米英にホリーウォーと訳されて噂われましたが、アラヒトガミだとか、いざというときには大昔の蒙古襲来のときのように神風が吹く、なぜならわが国は神国だから、だとか。よくもまあ国の指導者があれほど次から次に、阿呆を阿呆と思わずに言い、国民もまた、その阿呆にあきれていた者まで、とにかく、権力者たちに追従したのです。あれは、全体主義国家の国民としては、やむを得ない生き方であり、世界に冠たる大和民族の性癖でもあるのでしょう。世界に冠たる大和民族は、天皇を担ぐ権力者たちに押し付けられた言葉や考え方を否でも応でも、とにかく受け入れ、追従する者も、便乗して旗を振っている者も、みんな家畜になりました。(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社、p.144)

    ※戦前の日本は、嘘八百の国であったが、嘘八百ということでは戦後も同様である。戦前の嘘の第一は、天皇陛下のため、御国のため、というやつだ。御国のために命を捧げる、というやつだ。本当に国を護るために、命をかけて戦うというのならいいが、あの戦争で国民が、国を護る戦争だと思い始めたのは、敗け始めてからである。本土が空襲で焼かれ、沖縄が占領されたころになって大東亜戦争は、侵略の戦争から、国を護る戦争に変わったのである。国民は、徴兵を拒むことはできなかった。軍の敷いた法律から逃れることはできず、軍の意のままに狩り出され、物品のようにどんなところにでも送られて、殺し合いをやらされた。あの戦争は、米英仏蘭にはめられたということもあるだろうが、日本軍は、国を護るために支那大陸を侵略したのではない。東亜解放というのも、後追いの標語である。国民はそれを感じながら、しかし、ロを揃えて、天皇陛下のため、国のため、と言った。口先だけで言っていた者もいたが、そうだと思い込もうとした。そう思わなければ、軍の奴隷になってしまうからである。フーコンでもインパールでも、おびただしい将兵が餓死した。それを本人も、遺族も、軍の奴隷の餓死だとは思いたくないのである。国のための名誉の戦死だと思いたいのである。軍は、人のそういう心につけ込んだ。辰平はそう思っている。戦後は、天皇陛下のため、とは言わなくなったが、平和のために戦争を語ろう、などという嘘に満ちた国になった。戦争で最も苦しめられるのは、一番弱い女と子供だ、などという、甘言が幅を利かす国になった。・・・。(古山高麗雄氏著『フーコン戦記』(文藝春秋社)より)

    ※陸軍と海軍、足の引っ張りあい。大局観の喪失、ワンマン体制・・・挙句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであった。この頃から、両軍お互いの意地の張り合いが、目に付くようになつていく。バカげたことに、それぞれが自分たちの情報を隠しあってしまう。

    「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っていたのではない。陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦っていた……」などと揶揄されてしまう所以である。陸軍と海軍の意地の張り合いは、「大本営発表」が最もいい例であろう。大本営「陸軍報道部」と「海軍報道部」が競い合って国民によい戦果を報告しようと躍起になっていた。やがてそれがエスカレートしていき、悪い情報は隠蔽されてしまう。そして虚偽の情報が流されるようになっていく。

    「大本営発表」のウソは、この時期からより肥大化が始まる。仕方ないのかもしれない、この当時、東條に向かって「東條閣下、この戦争は何のために戦っているのでしょうか」などと意見するような者がいたら、たちまちのうちに反戦主義者として南方の激戦地に転任させられてしまうのがオチである。危機に陥った時こそもっとも必要なものは、大局を見た政略、戦略であるはずだが、それがすっぼり抜け落ちてしまっていた。大局を見ることができた人材は、すでに「二・二六事件」から三国同盟締結のプロセスで、大体が要職から外されてしまい、視野の狭いトップの下、彼らに逆らわない者だけが生き残って組織が構成されていた。昭和17年の頃の日本は、喩えていえば台風が来て屋根が飛んでしまい、家の中に雨がザーザー降り込んできているのに、誰も何もいわない、雨漏りしているのに、わざと見ないようにして、一生懸命、玄関の鍵を閉めて戸締りなどに精をだしている……、そんなようなものだった。だが、そうした組織の”体質”は、今を顧みても、実は、そう変わらないのかもしれない。昨今のNHKの、海老沢勝二元会長をめぐる一連の辞任騒動や西武グループの総帥、堤義明の逮捕劇など見ていると、当時の軍の組織構造と同じように見えてしまう。あれだけ大きな組織の中でワンマン体制が敷かれ、誰も彼に意見できず、傲慢な裸の王様の下、みな従順に飼い馴らされてきたのだ。そして、危機に直面すると、何の具体策もない精神論をふりまわす。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.122-123より)

    ※渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)より東条英機大将が自殺をはかり未遂(九月十一日)。・・・それにしてもなんという醜態だろう。人の生死についてことさらなことは慎むべきだと思っているが、余人ならいざ知らず、東条といえば開戦時の首相だった人ではないか。一時は総理大臣だけでなく、同時に陸軍大臣や参謀総長も兼任していたほどの権力者だったではないか。そればかりではない。陸軍大臣だった当時、自ら「戦陣訓」なるものを公布して全軍に戦陣の戒めをたれていたではないか。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。これはその中の一節であるが、この訓令を破っているのは、ほかでもない当の本人ではないか。軍人の最高位をきわめた陸軍大将が、商売道具のピストルを射ちそこなって、敵の縄目にかかる。これではもう喜劇にもなるまい。東条はこの失態によって、彼自身の恥だけでなく、日本人全体の恥を内外にさらしたようなものだ。おれは東条大将だけは連合軍から戦犯に指名される前に潔く自決してほしかった。あの阿南陸相のように責任者なら責任者らしく、それにふさわしい最期を遂げてほしかったと思う。(p.23-24)

    ・・・「出てこいニミッツ、マッカーサー」と歌にまでうたわれていた恨みのマッカーサーである。その男にこっちからわざわざ頭を下げていくなんて、天皇には恥というものがないのか。いくら戦争に敗けたからといって、いや、敗けたからこそ、なおさら毅然としていなくてはならないのではないか。まったくこんな屈辱はない。人まえで皮膚をめくられたように恥ずかしい。自分がこのような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、いたたまれぬほど恥ずかしい。マッカーサーも、おそらく頭をさげて訪ねてきた天皇を心の中で冷ややかにせせら笑ったにちがいない。軽くなめてかかったにちがいない。その気配は二人の写実にも露骨にでている。モーニング姿の天皇は石のように固くしゃちこばっているのに、マッカーサーのほうはふだん着の開襟シャツで、天皇などまるで眼中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰にあてがっている。足をいくらか開きかげんにして、「どうだ」といわんばかりに傲慢不遜にかまえている。天皇はさしずめ横柄でのっぼな主人にかしずく、鈍重で小心な従者といった感じである。だが、天皇も天皇だ。よくも敵の司令官の前に顔が出せたものだ。それも一国の元首として、陸海軍の大元帥として捨て身の決闘でも申し込みに行ったというのなら話はわかる。それならそれで納得もいく。といってもおれは別に天皇にそうすぺきだと言っているのではないが、ただそれくらいの威厳と気概があってほしかった。ところが実際はどうだろう。わざわざ訪ねたあげく、記念のつもりかどうかは知らないが、二人で仲よくカメラにおさまったりして、恬として恥ずるところもなさそうだ。おれにはそう見える。いずれにしろ天皇は、元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭をたれてしまったのだ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。それを思うと無念でならぬ。天皇にたいする泡だつような怒りをおさえることができない。(p.36-37)

    夜新聞を読んでいて感じたことだが、この頃の新聞の豹変ぶりは実にひどい。よくもこうまで変われるものだ。これはラジオも同じだが、ついせんだってまでは、「聖戦完遂」だの「一億火の玉」だの「神州不滅」だのと公言していたくせに、降伏したとたんに今度は「戦争ははじめから軍閥と財閥と官僚がぐるになって仕組んだものであり、聖戦どころか正義にもとる侵略戦争であった」などとさかんに書いたり放送したりしている。まったく人を馬鹿にしている。それならそれでなぜもっと早く、少なくとも戦争になる前にそれをちゃんと書いてくれなかったのか。事実はこれこれだと正直に報道してくれなかったのか。それが本来の新聞やラジオの使命というものだろう。それを今ごろになってズボンでも裏返すように、いとも簡単に前言をひっくりかえす。チャランポランな二枚舌、舞文曲筆、無責任にもほどがある。いつだったか「新聞で本当なのは死亡広告だけだ」と言っていた人がいたが、おれももう金輪際、新聞やラジオなるものを信用しない。というのは、いま言ったり書いたりしていることが、いつまた同じ手口でひっくり返されるかわからないからである。それからこれも前から腹にすえかねていることだが、このごろの新聞やラジオが、ふた言目にはアメリカを民主主義のお手本だといって持ち上げている。日本が平和な文化国家として立ち直るためには、この際もろもろの過去の行きがかりを捨ててアメリカと手を取りあって仲良くすぺきだといっている。こういう場あたり的なご都合主義を敗け犬の媚びへつらいというのだろう。それほど仲良くする必要があるのなら、はじめから戦争などしなければよかったのだ。だいいち、それではアメリカを敵として戦って死んでいった者はどうなるのだ。新聞やラジオの仕事にたずさわる人たちは、そういう人たちのことを一度でも考えてみたことがあるのだろうか。おれはアメリカとの戦いに生命を賭けた。一度賭けたからにはこのまま生涯賭け通してやる。誰がなんと言おうと、アメリカはこれからもおれにとっては敵だ。いまになって「昨日の敵は今日の友」などという浪花節は聞きたくもない。(p.46-47)

    三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ。表では「尽忠報国」だの「悠久の大義」だの「聖戦の完遂」だなどと立派なことを言っておきながら、裏にまわって袖の下とはあきれてものも言えない。まったくよくもそんな恥知らずなことができたものだ。むろんこれは氷山の一角かもしれない。首相の東条さえこうなのだから、ほかのお偉方もわかったものではない。天皇にもそれ相応の寄進があったのではないかと疑いたくもなる。いずれにしろ、おれたちが前線で命を的に戦っていた最中に、上の者がこんなふらちな真似をしていたのかと思うと、ほんとに腹がたつ。と同時に、これまでそういう連中をえらい指導者としててんから信じきっていた自分がなんともやりきれない。(p.87)

    <渡辺清氏の冷静な回想、p.220-221>考えてみると、おれは天皇について直接なにも知らなかった。個人的には会ったことも口をきいたこともないのだからそれは当然のことだが、そのおれが天皇を崇拝するようになったのは小学校に上がってからである。おれはそこで毎日のように天皇の「アリガタサ」について繰り返し教えこまれた。

    「万世一系」「天皇御親政」「大御心」「現御神」「皇恩無窮」「忠君愛国」等々。そして、そこから天皇のために命を捧げるのが「臣民」の最高の道徳だという天皇帰一の精神が培われていったわけだが、実はここにかくれた落とし穴があったのだ。おれは教えられることをそのまま頭から鵜呑みにして、それをまたそっくり自分の考えだと思いこんでいた。そしてそれをいささかも疑ってみようともしなかった。つまり、なにもかも出来合いのあてがいぶちで、おれは勝手に自分のなかに自分の寸法にあった天皇像をつくりあげていたのだ。現実の天皇とは似ても似つかないおれの理想の天皇を……。だから天皇に裏切られたのは、まさに天皇をそのように信じていた自分自身にたいしてなのだ。現実の天皇ではなく、おれが勝手に内部にあたためていた虚像の天皇に裏切られたのだ。言ってみれば、おれがおれ自身を裏切っていたのだ。自分で自分を欺していたのだ。郁男のかけた謎の意味もおそらくこのことだろうと思う。いずれにしろ、いままでのおれは天皇を自分と等距離において見つめていく眼を持っていなかった。この点にたいする自覚と反省がまるでなかった。天皇を一方的に弾劾することで、自分を”よし”とする思い上がりと逃避がそこにあったと思う。天皇を責めることは、同時に天皇をかく信じていた自分をも責めることでなければならない。自分を抜きにしていくら天皇を糾弾したところで、そこからはなにも生まれてこない。それはせいぜいその場かぎりの腹いせか個人的なグチに終わってしまう。そしてそれでことはすんだつもりになって、時とともに忘れてしまい、結局、いつかまた同じ目にあわされることになるのだ。とにかく肝心なのはおれ自身なのだ。二度と裏切られないためにも、天皇の責任はむろんのこと、天皇をそのように信じていた自分の自分にたいする私的な責任も同時にきびしく追及しなければならない。おれは今にして強くそう思う。戦争についてもまったく同じことがいえる。……。

    ※加藤周一の怒り(『天皇制を論ず』、1946年3月)加藤周一も、1946年3月に「天皇制を論ず」という論考を発表し、「恥を知れ」と保守派を非難した。加藤はその理由を、後年こう述べている。

    一九四五年、敗戦が事実上決定した状況のもとで、降伏か抗戦かを考えた日本の支配者層の念頭にあったのは、降伏の場合の天皇の地位であって、抗戦の場合の少くとも何十万、あるいは何百万に達するかもしれない無益な人命の犠牲ではなかった。彼らにとっては、一人の天皇が日本の人民の全体よりも大切であった。その彼らが、降伏後、天皇制を廃止すれば、世の中に混乱がおこる、といったのである。そのとき彼らに向って、無名の日本人の一人として、私は「天皇制を論ず」を書き、「恥を知れ」と書いた。日本国とは日本の人民である。日本の人民を馬鹿にし、その生命を軽んじる者に、怒りを覚えるのは、けだし愛国心の然らしめるところだろうと思う。

    ここでいう「人命の犠牲」は、敗戦直後の人びとにとって、抽象的な言葉ではなかった。敗戦時に26歳だった加藤は、同年輩の友人の多くを戦争で失っていた。加藤によれば、「太平洋戦争は多くの日本の青年を殺し、私の貴重な友人を殺した。私自身が生きのびたのは、全く偶然にすぎない。戦争は自然の災害ではなく、政治的指導者の無意味な愚挙である、と考えていた私は、彼らと彼らに追随し便乗した人々に対し、怒っていた」。こうして加藤は46年の「天皇制を論ず」で、天皇制を「個人の自由意志を奪い、責任の観念を不可能にし、道徳を頑廃させ」る原因だと批判したのである。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.134)

    ※前線の兵士の飢えと難渋(現在:国民の耐乏生活と企業努力)を大本営(現在:政府)は無視し、「大和魂」や「神風」などの戯言をもってごまかし続けた。この戦争の中に、現在(平成8~11年)の日本の姿が全て凝縮されていると感じているのは筆者だけだろうか?

    はじめ第十五軍の隷下にあった龍兵団が、後にビルマ方面の直属隷下部隊となり、さらに昭和十九年に、新設された第三十三軍の隷下に移ったといったようなことも、当時の芳太郎は、知らなかった。師団の上に軍があり、その上にビルマ方面軍があり、その上に南方総軍があり、そのまた上に大本営があるといったぐらいのことは知っていたが、自分の部隊が十五軍の下であろうが三十三軍の下であろうが、どうでもよかった。奥州町の萩原稔は、上の者がちっとばかり異常であったり馬鹿であったりしたら、それだけでたちまち何千何方の者が殺されるのが戦争だと言う。大東亜戦争はちっとばかりの異常や馬鹿ぐらいでやれるものではなく、あれはもう大異常の大馬鹿だが、軍司令官だの師団長だのが、自分にできることで、ほんのちょっとでも異常や馬鹿から脱すれば、どれだけの人間の命が救われるかわからない。その良いほうの見本が水上源蔵少将であり、悪いほうの見本が、たとえば第十五軍司令官の牟田口中将だと萩原は言った。(古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)p.140)

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    (鳥越注:龍陵会戦(S19.4~10)撤退のしんがりをつとめながら生き残った大竹さんはその手記のなかで・・・)守備隊の兵士たちは、マラリアや赤痢にかかり、連日連夜戦い続け、飢え、気力も体力も限界の状態にあった。眼は開いていてもよく見えない、自分ではせいいっぱい走って突撃しているつもりでも、実はヨタヨタ歩きをしているのであって、喚声を上げたつもりが、声が出ていない。そんなふうになっている兵士たちに、何時までにどこそこの敵陣地を占領せよ、と簡単に命令を出す上官が、不可解であった、と書いているが、許せないと憤っていたのではないだろうか。勝算もないのに攻撃命令が出され、そのたびに戦死傷者をつくった。肉薄攻撃をする敵なら、反撃するが、砲爆撃には手の打ちようもなく、ただ耐え忍ぶだけである。一兵卒には、防禦の方法も攻撃の方法もない。そのような状態が長期間続き、兵士たちは、外見が幽鬼のような姿になったばかりでなく、中身も異常になっていた。なぜ、そのような戦闘を続けなければならなかったのだろうか。断作戦(鳥越注:S19.7、中国雲南省の援蒋ルート遮断作戦。またしてもキチガイ辻政信の愚劣な発想)が発動されて、私が龍陵周辺高地に着いたころには、守備隊の苦痛は限界に達していたのだ。もうこれ以上はもちこたえられない。これが最期だと、守備隊の兵士たちが覚悟をしていたギリギリの状態だったのである。(古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫)p.270)

    ※木村久夫の場合私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢三十に至らず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾の極めて多かった私の一生は、またもや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の仇が長崎で討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私も同じく日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやというほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服は言い得ないのである。彼らの眼に留った私が不運とするより他、苦情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける。

    ・・・・・私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽した。私の上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、それがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である。私にとっては、私の生きる事が、かかる将校連の生きる事よりも日本にとっては数倍有益なる事は明白と思われ、また事件そのものの実情としても、命令者なる将校連に責が行くべきは当然であり、また彼らが自分自身でこれを知るがゆえに私に事実の陳述を厳禁したのである。ここで生きる事は私には当然の権利で、日本国家のためにもなさねばならぬ事であり、かつ、最後の親孝行でもあると思って、判決のあった後ではあるが、私は英文の書面をもって事件の真相を暴露して訴えた。判決後の事であり、また上告のない裁判であるから、私の真相暴露が果して取り上げられるか否かは知らないが、とにかく最後の努力は試みたのである。初め私の虚偽の陳述が日本人全体のためになるならばやむなしとして命令に従ったのであるが、結果は逆に我々被命者らに仇となったので、真相を暴露した次第である。もしそれが取り上げられたならば、数人の大佐中佐、数人の尉官連が死刑を宣告されるかも知れないが、それが真実である以上は当然であり、また彼らの死によってこの私が救われるとするならば、国家的見地から見て私の生きる方が数倍有益である事を確信したからである。美辞麗句ばかりで内容の全くない、彼らのいわゆる「精神的」なる言語を吐きながら、内実においては物慾、名誉慾、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たちが、過去において為して来たと同様の生活を将来において続けて行くとしても、国家に有益なる事は何ら為し得ないのは明白なりと確信するのである。日本の軍人中には偉い人もいたであろう。しかし私の見た軍人中には偉い人は余りいなかった。早い話が高等学校の教授ほどの人物すら将軍と呼ばれる人々の中にもいなかった。監獄において何々中将、何々大佐という人々に幾人も会い、共に生活して来たが、軍服を脱いだ赤裸の彼らは、その言動において実に見聞するに耐えないものであった。この程度の将軍を戴いていたのでは、日本に幾ら科学と物量があったとしても戦勝は到底望み得ないものであったと思われるほどである。殊に満州事変以来、更に南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追うを仕事とする商人よりも、もっと下劣な根性になり下っていたのである。彼らが常々大言壮語して言った「忠義」「犠牲的精神」はどこへやったか。終戦により外身を装う着物を取り除かれた彼らの肌は、実に見るに耐えないものだった。しかし国民はこれらの軍人を非難する前に、かかる軍人の存在を許容し、また養って来た事を知らねばならない。結局の責任は日本国民全体の知能程度の浅かった事にあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。二千六百余年の歴史があるというかも知れないが、内容の貧弱にして長いばかりが自慢にはならない。近世社会としての訓練と経験が足りなかったといっても、今ではもう非国民として軍部からお叱りを受けないであろう。私の学生時代の一見反逆的として見えた生活も、全くこの軍閥的傾向への無批判的追従に対する反撥に外ならなかったのである。

    ・・・(『新版きけわだつみのこえ』岩波新書、pp.444-467)

    ※「軍神」とか「作戦の神様」とか、何を根拠に賞賛したのであろうか?。暗号は悉く盗聴、解析され事実上作戦などはなきに等しかった。いい気なものである。

    「トルコの父」として、今でもトルコ国民に敬愛されている傑出した軍人であり政治家「ケマル・パシャ」と比較したとき、我が国の軍部中枢の精神活動に対して名状し難い稚拙さと卑怯さを感じる。

    ※日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。あとはーー特に大正七年のシベリア出兵からはーーキツネに酒を飲ませて馬に乗せたような国になり、太平洋戦争の敗戦で、キツネの幻想は潰えた。(司馬遼太郎氏著『アメリカ素描』より引用)

    ※日本軍は日露戦争の段階では、せっぱつまって立ち上がった桶狭間的状況の戦いであり、児玉(源太郎)の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。(司馬遼太郎氏著『坂の上の雲<四>』より引用)

    ※日本人は敗れたことで過去をすべて否定し、現代の平和を享受しているが、本当にそれでいいのだろうか。国家という存在が希薄で、しかも無防備な姿のままの今日の日本が、未来永劫に存在していけるのだろうか。(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督伊藤整一』あとがきより)

    ★1942年(昭和17年)の国権の背景※医療はその公共性から国民とともに行政に翻弄され蹂躙されるおそれが最も高い分野であり、特に戦時中医師会は、戦争遂行のための国家組織の重要な一翼を担うよう国家統制された。(一例:731石井細菌部隊の残虐性)■「国民医療法」の制定、公布。医療国家統制の始まり。■医師会の官製化

    ・行政当局の監督を強化することにより、医師会を国家の別働機関たらしむる。

    ・軍医を除いて、医師の悉くが医師会へ強制加入とされた。■特別法人「日本医療団」設立。病院、診療所、産院の運営と医療関係者の指導練成がその任務とされた。

    ———–

    ■「日本銀行法」公布政府の日銀に対する監督権は著しく強化され、日銀の国家的色彩がいよいよ濃くなり、戦争中は政府発行の膨大な国債と引き替えに日銀券を無制限に増発した。このことは戦後に激しいインフレを招来するもととなった。

    ———–

    ■「食糧管理法」制定昭和13年の「農地調整法」「国家総動員法」と、昭和16年の

    「臨時農地管理令」と合わせて、土地と米の生産についての全てが国家管理の網の目に入るように仕組まれた。このことは地主の権利を著しく制限し、小作人の権利擁護となって反映され、敗戦後は農地改革が小作地を完全に解放した。

    ———–

    ■「翼賛選挙」(1942年、昭和17年4月30日、第21回総選挙)※政府御用機関「翼賛政治体制協議会」(会長阿部信行元首相)が選定、推薦した候補者が大量に立候補し、県、大日本翼賛壮年団、学校長、警防団、町内会長など、官民あげて手厚い支援が行われ、臨時軍事費からも一人当たり5000円の選挙費用が渡された。推薦者は381人(定数466人)が当選。

    ————-<「翼賛選挙」の様相>————-

    選挙は全く国民の自由である。(中略)しかるにこれを思わずして一方的に特殊候補者を製造し、国民に対して官権の擁護あるものの如き印象を与え、自由候補者と対立せしめて選挙を争わんとするが如きは全く選挙制度の根本を紊(みだ)るものにして、世界に立憲政治始まって以来未だかつて見るあたわざる咄々怪事の至りである。(中略)若し他日我国の議会に政府盲従議員多数を占むることあらば、その形体の如何に拘らずその実質は全く独逸議会とその軌を一にし、立憲政治はここに滅ぶべく(後略、『群馬県議会史』第四巻)(楠精一郎氏著『大政翼賛会に抗した40人』朝日新聞社、pp.186-187)※東条英機「内外の新情勢に応じ、大東亜戦争の完遂に向かって国内体制を強化、これを一分の隙もないものにするのが、今度の総選挙の持つ重大な意義だ。推薦制の活用が大いなる貢献と示唆をもたらすだろう」(身勝手で空虚な演説といわざるをえない)。※日本の政党政治は名実ともに消失した。国内は太平洋戦争緒戦の勝利で沸き立っていた。

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    ・ドイツがロケット兵器「V2」を完成(フォン・ブラウンら)

    ・アメリカ、マンハッタン計画を立ちあげる。(1942.9)レスリー・グローヴス、ロバート・オッペンハイマー、フェルミ、シーボルグらが中心となり原爆開発にいそしむ。※レオ・シラードの箴言は無視された。

    「人類が新たに解き放った自然の力を、破壊のために使った国は責任を負うことになろう。想像を絶する惨事に怯える時代への扉を開くことになる」。1943年(昭和18年)の補遺■診療報酬支払い方式は「健康保険法」改正により健康保険、国民健康保険とも点数単価方式になった。※医者は皆保険医で、その代価は村役場からとる由。すなわち患者が病気になれば、医者はそれに投薬ないしは注射す。その代価は村役場に請求するが、そこで値段を鑑定し、適当な値段を交附す。したがって医者の請求するだけを払うのではない。そして誰もその保健(ママ)会員であり、支払いは租税に応じて出すのだ。(清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、p.48)

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    ・マリー・キュリーが白血病で死去(1903年放射能の発見、1911年ラジウムの単離でそれぞれノーベル賞受賞)

    ・プルトニウムの精製が、この年の年末より盛んになってくる。またプルトニウム汚染が深刻な問題となり始める。(アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<上>』)

    ・抗結核薬の発見ストレプトマイシン(ワックスマン、シュルツ)PAS(リーマン、ロスダール)

    ・カチン事件(1943)当時ソ連軍に捕らえられていたポーランド軍将校5000人の射殺死体が、東ポーランドのカチンの森で見つかった。ソ連は長い間、カチン事件をナチスの所業としてきたが、1989年になってようやく、それがソ連軍の犯行であったことを認め、ポーランドに謝罪し、調査を約束した。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.134)

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    1944年(昭和19年)の補遺■ブレトン・ウッズ体制の幕開け(機軸通貨がポンドからドルへ)ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズのホワイトマウンテン・リゾートに44か国から730人の代表があつまり、新しい国際経済体制づくりの計画が立てられた。最終的な形はイギリス大蔵省代表ジョン・メイナード・ケインズと、アメリカ財務省代表ハリー

    ・ホワイトが練りあげた。新しい体制では、合衆国のドルが構造の核心となり、そのとき全能のドルを支えていたのは、世界の貨幣用金の75%にあたる合衆国の金保有高だった。この新しい体制では合衆国のみが通貨を固定レートで自由に金へ交換できるとされ、つまりはドルに国際通貨の地位を与えることになった(金1オンス(31.1035g)=米ドル紙幣35ドル)。(ただし、この体制は1971年8月15日にニクソン大統領が一方的にドルの金への兌換を認めないという決定を下し(ニクソン・ショック)、それ以後従来の国際通貨制度は弱体化し消滅への道をたどることになった)。※2008年3月現在、米ドルの力は1g=3000円で約30分の1になってしまっている。(副島隆彦氏著『連鎖する大暴落』徳間書店、p.128)

    ■ボナー・F・フェラーズ准将(マッカーサー軍事秘書官、心理戦責任者)の見事な分析による戦後の天皇制の維持への方針(1944年)。(フェラーズ准将は米軍きっての親日軍人だった)軍国主義者のギャングたちが神聖不可侵なる天皇の信頼をも裏切ったことを、大衆は実感するであろう。軍国主義者たちが、帝国の神聖な統治者たる天子を没落の瀬戸際へと追い込んだのだ。天皇をだます者は、日本に存在してはならない。そう理解できたとき、これまで長い間表面に出られなかった保守的で寛容な勢力が真価を発揮する可能性が出てくるであろう。彼らが先頭にたって政府を握り、彼らの手に残った日本列島と日本人と天皇を救うために必要な譲歩を行うかもしれない。天皇が和平を裁可すれば、全員が納得するであろう。そうすれば、日本を完全な廃墟にするほかなくなる前に、対日戦争は終結する可能性があろう。休戦条件については、われわれはけっして弱腰であってはならない。しかしながら、天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑は、われわれにとってのキリストの十字架刑に匹敵する。そうなれば、全員がアリのように死ぬまで戦うであろう。軍国主義者のギャングたちの立場は、非常に有利になるであろう。戦争は不必要に長引き、われわれの損害も不必要に増大するであろう。

    ・・・・・天皇にだけ責任を負う独立した軍部が日本にあるかぎり、それは平和にたいする永久の脅威である。しかし、天皇が日本の臣民にたいしてもっている神秘的な指導力や、神道の信仰があたえる精神的な力は、適切な指導があれば、必ずしも危険であるとは限らない。日本の敗北が完全であり、日本の軍閥が打倒されているならば、天皇を平和と善に役立つ存在にすることは可能である。日本の政府については、権力を分散させ、それら相互のあいだにチェック・アンド・バランスの仕組みを持たせる必要がある。天皇の側近は、すべて非軍人のリベラルな指導者でなければならない。武装組織は、非軍人の責任者に従う国内治安用の警察だけに限定しなければならない。・・・(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、pp.9-11より)

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    1945年(昭和20年):大東亜戦争(太平洋戦争)終結(以下敗戦前後の補遺)■ヤルタ会談(1945.2.4~):密約でソ連の参戦(8.9)が決定された。ルーズベルト、チャーチル、スターリンの密約■ポツダム宣言(1945.7.26)天皇「わたしのことはよい。それよりも和平の道がひらかれたのが喜ばしいと思う。戦争を継続すれば、空襲などもあって罪のない国民が傷つく。受諾の方向で動いてほしい」参謀総長梅津美治郎、軍令部総長豊田副武、陸相阿南惟幾は受諾反対、本土決戦を主張。戦争を知らないアホウばかりであった。

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  16. shinichi Post author

    ========海軍と陸軍の反目は終戦工作のもたつきとなって================広島と長崎への原爆投下を誘った。また8月9日に================は極東ソ連軍の満州進出に至った。========

    ■8月14日正午、御前会議において、日本の無条件降伏が決定された。※陸軍若手皇道派のクー・デタ計画は宮城占拠まで至ったが、間一髪のところで阻止。(阿南陸相自決)

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    ★1945年(昭和20年)の一年間に学ぶこと日本の歴史上には、日本近代国家のカラクリがあらわに見えていた時期がありました。1945年の一年間です。米軍の原爆投下による広島・長崎の惨禍も、シベリア抑留につながるソ連の参戦も、東京大空襲も、沖縄戦もみな、国体護持の保証が得られないからと和平交渉を遅らせているうちに起こったことです。1945年2月、近衛文麿元首相は昭和天皇に「敗戦は必至なので降伏を遅らせると国体そのものが危うくなる。だから今のうちに和平交渉をはじめるべきだ」と進言しました。これを昭和天皇は「国体護持のためにはもう一度戦果を挙げてからでないと難しい」として近衛の進言を斥けたのです。このあと、3月10日の東京大空襲で都心は焼け野原となりました。3月未から6月にかけては沖縄戦で多数の民間人が死亡、このとき沖縄は完全に日本政府によって捨て石にされたのです。8月には広島・長崎への原爆投下。このように一般の人たちが戦禍にさらされ、戦後、戦争の記憶として語られてきたもののほとんどはこの年に集中しています。それらはみな国体護持のために和平交渉を遅らせたことによって生じたものです。日本の国家が何を守るためにあったのか、ハッキリしているではありませんか。それにもかかわらず、国家そのものへの疑いというものがおよそない。それどころか、昭和天皇が国民を救うために終戦の「聖断」を下してくれたから最悪の結果をまぬがれたのだというような神話が、マス・メディアによって流され続けているのです。(高橋哲也氏著『反哲学入門』白澤社/現代書館,pp.224-225)★「一億総懺悔」:東久邇稔彦(首相)のフザけた戦争責任論(鳥越私見)

    ・・・一般国民の戦争責任については、敗戦直後の首相だった東久邇稔彦が、

    「一億総懺悔」を訴えた経緯があった。・・・一九四五年八月二八日の記者会見で、東久適は敗戦の原因の一つとして、闇経済に代表される「国民道義の低下」を挙げ、「一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」だと唱えた。しかしこの「一億総懺悔」論は、人びとの反発を買った。たとえば、『毎日新聞』への一九四五年九月八日の投書は、こう述べている。

    「一人残らず反省」とか、「一人残らず懺悔」とか、一体それは国民の誰に向かっていったのか。……終戦の聖断が下るまで自分は頑張り通して来た。配給上の不公正や各種事業にたいする急・不急の誤認、あらゆる窓口の不明朗など、戦力低下に拍車をかけたのはみな官吏ではないか。貴官達はどの口で、誰に向って「反省しろ」だの「懺悔しろ」だのといえるのか。自分は涙をもって問う。特攻隊その他戦死者の遺族、工場戦死者の遺族も、罪深き官吏と一緒に懺悔するのか。反省するのか。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.105)

    ★敗戦前後の軍事物資の消滅八月二〇日、マニラの米軍は日本の降伏使節に「一般命令第一号」を手渡し、日本軍の全資産は手を付けず保管せよと命じた。東久邇宮新内閣は、この命令を無視した。マッカーサー元帥が到着する予定日の二日前、日本政府は前述の秘密の処分命令(「陸機三百六十三号」:すべての軍事物資の処分を地方部隊の司令官の手に委ねる)を取り消したが、すでに処分された資産の所在を確認し回収しようとする努力はまったく行われなかった。当然のことながら、これらの物資の所在に関する記録は、もはや簡単には入手できなくなっていた。これと同じ時期、日本銀行は「平和的」な生産に転換させるという表向きの目的の下に、軍需関係の業者に対して膨大な融資を行うことに力を注いでいた。後日行われた調査記録を読むと、影響力をもつ人々の非常に多数が、天皇の放送が行われた後の二週間の混沌の間に軍の倉庫から勝手に物資を持ち出し、軍事予算や日本銀行から急いで代金を支払ってもらえるよう軍需業者や旧友のために手を打ったり書類を破棄することに、目が覚めている時間のほとんどをあてていたとの印象は拭えない。日本史上最大の危機のただ中にあって、一般民衆の福利のために献身しようという誠実で先見性ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。旧エリートたちからは、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現しなかったのである。その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよそ70%が、この戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。もともとこれは、本土約500万人と海外300万人余りの兵士のためのものであった。だが、話はこれで終わったわけではなかった。降伏から数カ月後、占領軍当局は、それまで手付かずできちんと管理されていた軍の資財の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの指示をつけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。これら物資の大半は、建設資材と機械類であり、内務省は財閥系企業の五人の代表からなる委員会にその処分を委任した。その総価値はおよそ1000億円と見積もられたが、これらの資財もすぐにほとんど跡形もなく消えうせた。1947年8月、国会がこの一連の不祥事に関する遅まきながらの調査委員会を開いたとき、証言に立った1946年当時の大蔵大臣・石橋湛山は、「1000億円の価値があるものがどこに行ったのか知る者は一人もいない」と残念そうに述べている。(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<上>』三浦洋一・高杉忠明訳、岩波書店、pp.124-125より)

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    ■9月2日、横浜港に停泊する戦艦ミズーリの上で降伏文書の調印結局GHQの日本占領は約6年8か月(1945.8.15~1952.4.28)続いた。(9.11東条英機自殺未遂。不細工、ここに極まれり!!)■大本営廃止(昭和20年(1945年)9月13日)■天皇のマッカーサー訪問(9月27日)例の歴史的に有名な「気楽なマッカーサーと卑屈な天皇」の写真が撮影された。40分の会見は全くの秘密にされた。■陸軍参謀本部、軍令部消滅(11月30日)■陸軍省と海軍省は昭和20年(1945年)12月1日にその歴史の幕を閉じた。70余年の歴史のあっけない幕切れだった。その後始末のために第一復員省(陸軍系)と第二復員省(海軍系)が新設され(4か月後廃止)その業務を担当した。両省の担当大臣は当時の首相の幣原喜重郎が兼任した。敗戦時内地に約436万人と外地に約353万人の兵士がいたという(後半部は能勢伸之氏著『防衛省』新潮新書、pp.14-15)

    ・第二次世界大戦が終わって、政府の形を保ったまま戦争を終えたのはアメリカ合衆国、イギリス、ソ連、中国だけだった。

    ★政党が弱いから軍部官僚の一撃に遭うて、直ちに崩壊してしもうた。夫れのみではない。吾々は吾々の力に依って、軍国主義を打破することができなかった。ポツダム宣言に依って、初めて是れが打破せられた。吾々は吾々の力に依って言論・集会・結社の自由すら解放することができなかった。ポツダム宣言に依って、初めて其の目的を達することが出来た。尚又、吾々は吾々の力に依って民主政治を確立することができなかった。ポツダム宣言によって、漸く其の端緒を開くことができた。凡そ此等の事実は、吾々に向かって何を物語っているか、遺憾ながら吾々日本政治家の無力を物語るのほか何者でもない。・・・将来は再び是れを繰り返してはならぬ。・・・(斎藤隆夫)

    ★・・・戦争は終わりを告げたが、偖て是から日本はどうなるか。・・・軍備の撤廃である。陸海空軍は悉く撤廃せられ、将来一人の軍人、一隻の軍艦、一台の飛行機も存置することは許されない。国を護る武力を有せざる国は独立国ではないが、此の関係に於て日本は最早独立国ではない。(斎藤隆夫)

    ★戦争天皇責任、天皇制廃止、天皇戦犯訴追の投書他方、天皇制廃止、天皇戦犯訴追を訴えた投書もかなりあり、こちらは長文で論理的なものが多い。神奈川県の男性は、「東条は総理大臣、陸軍大臣、参謀総長としての責任を負ふべきであり、天皇は国家の元首として、且つ又陸海軍の最高統帥者としての責任を負うべきであり、天皇制度は軍国主義の温床としての責任を負うべきであり」

    「我等は東条を憎むの余り、天皇の責任までも東条に負はせてはならない」「天皇が現在平和主義者であることを声明したとしても、日本の元首として、対米英其の他の諸国に対して戦争を承諾し、空前の惨虐事件を惹起するに至つたその責任は断じて負はなければならない」「日本を真に民主主義化するためには、この原始的、迷信的皇室制度を廃止することを考慮する必要がある」と、マッカーサーに訴えている。熊本県の男性は、「戦争犯罪人の検挙を望む」として、「今日、政界、官僚の上層部に於て、天皇陛下には戦争責任なしと論ぜられているのは何故であるか。尚又、宣戦の大詔が論議されないのは、吾々にはどうも合点が行かぬ。憲法には、統治の大権は厳として天皇陛下が御掌握なされて居る、宣戦の布告も講和の締結も陛下がなされることになつて居る。而も陛下は大元帥であらせられる。それに何ぞや、天皇陛下に戦争責任なしとは、不合理も甚しいと思ふ。是では天皇の大権を否定することになり、又、憲法違反となり、天皇の崇厳さもなくなり、憲法も一片の反古となる。彼の宣戦の大詔は此度の戦争の原動力をなして居る。学校官公署、常会等で朝夕、是を拝聴して国民は大に発奮した。百の名士の演説よりも彼の崇厳なる大詔に感激した。然るに今日、此の大詔が何の論議とされぬとは不可解千万である」「吾々は天皇陛下の統治の大権を確認して居るものである。又、それ故に戦争責任者の最高は天皇陛下にあらせられると思ふ」と述べている。神奈川県の別の男性は、「天皇制廃止論」として、「明治維新以来の日本の支配者たる軍閥・官僚が彼等の人民に対する支配を強固たらしめる目的の為に非科学なる神話・伝説を利用し、天皇を神秘化し、神聖化し現神人(ママ)として国民を教育し、信じ込ませた。その結果、無智なる一般人民は今なほ天皇を神の如くに崇拝している。この状態では人民の頭を民主主義的に切換へる事は絶対に不可能である。それには天皇の封建性、非民主主義性、軍国主義性を徹底的に暴露してその地位より追放し、日本を共和国にする事が絶対に必要である」「日本天皇は日米戦争を誘発し、遂行せる戦争犯罪人である。日米戦争は開戦前に天皇の出席せる所謂、御前会議に於て天皇の裁可の下に決定せるものである」「天皇は最大の戦争犯罪人である。速に彼を逮捕して裁判にかけよ」と訴えた。東京都の男性は、「私は天皇制廃止を希望するものであります。然して私は共産主義者では有りません。共産主義は私の嫌悪する所のものであります」「新開や世間では共産主義者以外は天皇制打倒などと云ふ事を云ふ者はない様ですが、一般国民は何も天皇制を熱望し、天皇制でなければならないと云ふわけではないと思ひます。日本人は成行きにまかせると云ふ考へであろうと思ひます。私はどうしても天皇制廃止以外には新日本建設はないと思ひます」と述べた。茨城県の匿名の男性は、マッカーサーに宛て「閣下は日本を民主国家にされると申されました。誠に有難いのですが、閣下は未だその根本にメスを加へられません。それは天皇です」「閣下は今この小さな犯罪者のみ捕へて居ります。私は天皇をその優にして閣下が日本国を去られることを恐れるのです」「どうぞ閣下の手によつて三千年来日本土民を瞞着し来れる天皇及其一族を処罰して下さい。そして永遠にこの日本に皈(かえ)れない様にして下さい」・・・(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<下>』講談社、pp.19-21)

    ☆小田実の回想小田がうけた「致命的な傷」とは、1945年8月14日の大阪空襲だった。当時は中学一年生だった小田は、恐怖の時間を粗末な防空壕で過ごしたあと、米軍機がまいた、日本の無条件降伏を告げるビラを拾った。そして翌日の正午、降伏を告げる放送があったときの心情を、小田はこう回想している(『小田実全仕事』第八巻六四貢)。

    私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げるのにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見すぎていた。それこそ、何もかも。たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づける自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわるのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつどうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。

    小田によれば、そこには「輝かしいものは何もなかった。すべてが卑小であり、ケチくさかった。たとえば、死さえ、悲しいものではなかった。悲劇ではなかった。街路の上の黒焦げの死体ーーそれは、むしろコッケイな存在だった。私は、実際、死体を前にして笑った」(八巻六五-六六貢)。空襲の極限状況は、人間のあらゆる醜悪さを露口王させた。小田がみた死は、ロマンティックでも勇壮でもないのはもちろん、「悲しみ」や「苦しみ」などといった抽象的な形容をもこえた、言語を絶した「もの」だった。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.753)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~<日本敗戦における蒋介石の演説(1945.8.15)>

    「同胞諸君、今や我々の頭上に勝利の栄光が輝くに至った。永い間、到底、筆舌に尽くし難い凌辱をうけながらこれに屈せず、よく戦い抜いた諸君の労苦よって我が敵は遂に我が軍門に降ったのである。我が中国人があの暗黒と絶望の時代を通じて、忠勇にして仁慈、真に偉大なる我が伝統的精神を堅持したことに対し、まさに報償を受くべき時機が到来したのである。しかしながら我々が終始一貫戦った相手は日本の好戦的軍閥であって、日本国民ではないのであるから、日本国民に対し恨みに報いるに恨をもってする暴を加えてはならない。民族相互が真に相手を信じ合い、尊重し合わなければならないということを腹の底から悟ることが、この戦争の最大の報償でなくてはならない。これによって今後、土地に東西の別なく人間に皮膚の色の別なく、あらゆる人類は一様に兄弟のように平和に暮らすことができるものと信ずる。自分はいまさらのごとく『爾の敵を愛せよ』『爾ら人にせられんと思うごとく人にしかせよ』と訓えられたキリストの言葉を想い出すのである。もしこれに反し暴に報いるに暴をもってし、奴辱に対するに奴辱をもってしたならば、冤と冤とは相報い、永久にとどまるところを知らないであろう。こんなことは決して我々正義の師の目的とするところではないのである。我々は単に敵国人をして己の犯した錯誤と失敗を承認せしむるばかりでなく、さらに進んで公平にして、正義の競争が彼らのなした強権と恐怖による武力競争に比べて、いかに真理と人道の要求に合するものであるかということを承認せしめなくてはならない。換言すれば、敵を武力的に屈服せしむるばかりでなく、理性の戦場においても我々に征服せられ、彼等に懺悔を知らしめ、これをして世界における和平愛好の一分子たらしめなければならない。この目的を達成したとき初めて今次大戦最後の目的が達せられたことになるのである」(昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.101-103)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    ★【国家も個人も、熟慮なく命を重視するようになる時代の到来】◎戦後の復興期「人が大事、命が大事」(国家防衛をアメリカにまかせて属国的復興。–>現在にまで禍根を残す)。

    ノーム・チョムスキーは私に、まさに鉈でぶち切るように、こんなことを語りました。ーーー戦後日本の経済復興は徹頭徹尾、米国の戦争に加担したことによるものだ。サンフランシスコ講和条約(1951年)はもともと、日本がアジアで犯した戦争犯罪の責任を負うようにはつくられていなかった。日本はそれをよいことに米国の覇権の枠組みのなかで、「真の戦争犯罪人である天皇のもとに」以前のファッショ的国家を再建しようとした。1930年代、40年代、50年代、そして60年代、いったい日本の知識人のどれだけが天皇裕仁を告発したというのか。あなたがたは対米批判の前にそのことをしっかりと見つめるべきだ。ーー陰影も濃淡も遠慮会釈もここにはありません。あるのはよけいな補助線を省いた恥の指摘でした。(p.91)

    ・・・・・

    「戦後期の日本の経済復興は、徹頭徹尾、アジア諸国に対する戦争に加担したことによっている。朝鮮戦争までは日本経済は回復しなかった。朝鮮に対する米国の戦争で、日本は供給国になった。それが日本経済に大いに活を入れたのです。ベトナム戦争もまたしかり。米兵の遺体を入れる袋から武器まで、日本はあらゆるものを製造し、提供した。そしてインドシナ半島の破壊行為に加担することで国を肥やしていったのです」という。(そうした犯罪行為に較べれば憲法改悪は「ささい」ともいえると語ったわけです。彼から見たら、憲法の改悪なんてどうということはない。それよりも現実に戦後日本が米国の戦略的枠組みのなかでしてきたこと、それは憲法の破壊以上ではないか。恥ずかしくはないのか。彼はそういいたかったのでしょう)。(pp.114-115)(辺見庸氏著『いまここに在ることの恥』毎日新聞社)

    ▲▲▲▲▲国民は、アメリカの手で悪魔の支配から解放された▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲しかし、悪魔達は根絶やしされたわけではなかった▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲同時にアメリカの世界戦略の一端も垣間見えるのだ▲▲▲▲▲

    ★とにかく、ひもじかったのである。(–>都市と農村の対立、闇経済の蔓延)とにかく、ひもじかったのである。当時、政府の主食の配給量は成人一人の一日当たりは二合一勺、約三〇〇グラム。一食茶碗一杯分である。それも米に換算しての「綜合配給」で、薩摩芋、大豆、小麦粉、薯のつる、もとは豚の飼料である大豆粕、さらにはいくらふかしてもガリガリの豚も食わぬ「冠水芋」などで代用して、カロリーは一日一人当たり一二〇〇カロリーにしかならなかった。最低必要カロリーは労働者一日三〇〇〇カロリー、普通人が二四〇〇カロリーと計算されているから、半分に満たぬことになる。ただし、それさえも遅配、欠配でまともに配給されることもない。不足分はどうしたのか。闇ルートを頼るほかはなかったが、天井知らずのインフレのさなか、闇物価もまた鰻登りの高値で、補給はそれほど簡単というわけにはゆかない。警視庁経済三課の調査した十月末の闇の値段表を参考のために引用しておく。カッコ内は基準額である。白米一升七十円(五十三銭)、薩摩芋一貫目五十円(八銭)、砂糖一貫日干円(三円七十銭)、ビール一本二十円(二円八十五銭)、清酒二級一升三百五十円(八円)、冬オーバー一着百六十円(十八円)などなどである。念のために書いておくが、昭和二十年末の国家公務員の給与は月額最低四十円、最高五百二十円のころである。(半藤一利氏著『日本国憲法の二〇〇日』プレジデント社より)

    ・敗戦3日目には尾津マーケットとよばれる闇市や露店が、都内各所に約45000店も林立した。#あるヤクザ曰く

    「おれたちがヤミ市を開いたからこそ、戦後の日本人は飢え死にせずにすんだ」

    ・亀尾英四郎氏(旧制東京高校ドイツ語教授)栄養失調から衰弱死いやしくも教育家たるものは表裏があってはならないし、どんなに苦しくとも国策をしっかり守ってゆく、という固い信念のもとに生活をし続けた。(S20.10.11死亡)

    ・悲しい統計によれば、敗戦の日から11月18日までに、東京では、上野、四谷、愛宕の三警察署の管内で150人余の餓死者を収容した。また同時期の、神戸、京都、大阪、名古屋、横浜の五都市では、733人の餓死者が出たという。もうひとつ統計をあげれば、敗戦の日から十月までに失業者は448万人(男女の合計)であったという。そこへ内地復員老761万人(軍人と軍属)、在外引揚者150万人が加わり、総計1359万人が住居と職場と食いものを求めてさまよっていたのである。(算用数字は筆者が改変)(半藤一利氏著『日本国憲法の二〇〇日』プレジデント社より)

    ■日本自由党結成(鳩山一郎、S20.11.9)運営資金として児玉誉士夫により、かつて軍事物資として集めたダイアモンドが提供され使われた。児玉は後の「五五年体制」の幕開け役の一人であり

    「裏権力」構造の主役となった。

    ・政府公認RAA(RecreationandAmusementAssociation、特殊慰安施設協会)結成(昭和20年8月26日)

    >「インターナショナル・パレス」(売春宿、東京板橋)設置(ロバート・ホワイティング氏『東京アンダーワールド』磯田光一氏『戦後史の空間』などより)

    ■アメリカの世界戦略の一端A級戦犯容疑者の児玉誉士夫、岸信介、笹川良一を巣鴨プリズンから釈放させ、戦争中、治安維持法違反で検挙された哲学者の三木清を敗戦後、獄死させた戦後日本の歪んだ出発を指摘して、社会学者日高六郎は

    「児玉、岸信介、笹川は釈放すべくして釈放された。つまり釈放することのほうが、アメリカの世界戦略の本筋だった」と書いた。(以上、立石勝規氏著『金融腐敗の原点』および、日高六郎氏著『戦後史を考えるー三木清の死からロッキード事件までー』(雑誌『世界』昭和51年9月号)より)※岸信介は白州次郎、矢次一夫、ハリー・カーン(当時『ニューズウィーク』誌の外信部長。CIAアレン・ダレスの親友)が助けたという。またティム・ワーナー『CIA秘録<上>』によると、日米開戦時の駐日大使で岸の友人ジョゼフ・グルーも強い味方だったという。※児玉はダイヤ・プラチナ・ウランとの取り引きで助かった。(柴田哲孝氏著『下山事件最後の証言』、祥伝社、pp.239-240より)※CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった。(ティム・ワーナー『CIA秘録<上>』藤田博司・山田侑平・佐藤信行訳、文芸春秋、pp.177-178)※「アメリカ対日協議会(ACJ)」(いわゆる日本ロビー)設立(1948年6月):メンバーの中核は国務省内の反共の闘志(ジョセフ・グルー、ウイリアム・キャッスル、

    ●ハリー・カーン、ユージン・ドゥーマン、コンプトン

    ・パケナム)たちであった。岸信介は彼らに助けられた。■農地改革と家族制度の解体が占領政策の骨子となっていた。

    ●ニュルンベルク裁判が1945年11月20日に始まった(約10か月続いた)。

    ____________________
    1946年(昭和21年):「日本国憲法」公布。★日本は決して「自由」も「平和」も獲得していない。客観的情勢は冷酷に、日本のゆくてに暗い寒ざむとした墓場を示している。このことを、日本人が明確に、徹底的に知った時でなければ、日本は再起できないであろう。自由と平和は、自分で掴むべきものであって、決して与えられて享楽出来るしろものではないのだ。(昭和21年2月4日)(山田風太郎氏『戦中派焼け跡日記(昭和21年)』小学館、P76より)

    ■天皇の「人間宣言」。当たり前だ!!(昭和21年(1946年)1月1日)<マッカーサーの天皇感ーーアイゼンハワー宛て極秘電報ーー>マッカーサーがドワイト・D・アイゼンハワー陸軍統合参謀総長に宛てた極秘電報の要旨そのものであった。天皇の戦争責任を調査せよというワシントンの指令への返事であるこの電報のなかで、マッカーサーは天皇擁護のためにあらゆる努力をはらった。「調査はすでに実施されたが」ーー1月25日、最高司令官はアイゼンハワーに報告しているーーしかし、過去10年の間に裕仁が日本の政治的決定に関与したといういかなる証拠も発見されなかった。マッカーサーは、天皇を「日本国民統合の象徴」であるとし、もし天皇が告発されるようなことになれば、国民は「深刻な動揺」によって「ばらばらになり」、「復讐の戦いが何世紀にもわたって繰り返されることになるだろう」し、政府機関の機能は停止して「開明的な試みの多くは停止し」、ゲリラ戦が始まるだろう。近代的な民主主義を導入する望みはすべて消え、占領軍が去ったあとには、「ばらばらになった大衆のなかから、おそらく共産主義の路線に沿った強力な統制が生まれてくるだろう」と警告した。(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、pp.69-70より)

    ■連合国最高司令官(SCAP)により極東国際軍事法廷が正式に開設された。(1月19日)■日本の開業医60000人、復員軍医20000人、医学卒業生6000人。■昭和の徳政令:いわば借金の踏み倒し(S21.2月25日、幣原内閣)

    ・突然の預金封鎖(S21.2.17)世帯主は月300円、世帯員は100円まで引き出し可能封鎖された預金は激しいインフレによって二束三文となった。

    ・農地改革による地主からの資産没収

    ・戦時国債(戦時に国民から徴収した、国民への借金)の無効化

    ・新円切り換え(十円以上の紙幣は3月2日限りで無効。5円以下は今まで通り)■戸田城聖が創価教育学会を「創価学会」と改称。ますます宗教団体としての性格が強まった。(S21.3)

    ———-<毎日新聞社森正蔵の日記より>———-

    (昭和21年)二月十六日雨降り続く先週の土曜に発せられるはずであつたインフレーション防止の緊急令は諸準備がとゝのはないために一週問おくれとなつて、いよいよ今日の午后一時半発表。明日から実施されることになつた。そのために、社の編輯局内は最近めづらしい緊張、活気を呈した。この措置がうまく運ばなければ日本は敗戦から滅亡に落る。一、金融緊急措置令モラトリアムはもう僕たちの記憶にかすかに残つてゐるだけだが、今また現実に出て来た。僕たちは今月から最近五百円の現金収入が社から、後は預金で封鎖。別に世帯主として三百円の預金引き出しが月毎に出来るのと、新円への交換が百円だけ(これは一回きり)出来るのみ。しかし僕の場合は戦災者として一回きり一千円の新円による預金引出しが出来ることゝならう。二、日本銀行券予入令二十五日から三月七日までの間に新円券と旧円券の交換が行はれる。三月二日以後は旧券の使用は無効となる。新円は百円券と十円券とが現はれた。三、臨時財産調査令三月三日午前零時を期しての財産調査実施。そして四月二日を期限とするその申告書提出。四、隠匿物資等緊急措置令一定の調査物資について所定数量以上をもつてゐる者は三月十日までに届出なければならぬ。五、戦後物価対策基本綱領新物価体系が組まれた。限定価格と呼ばれる。これでどんどん昇る市場の物価が新しい統制のもとに置かれることゝなる。これ等に続いて「食料緊急措置令」や「失業対策令」や「生産命令」などが出る予定である。今日出た限りのものを見ても、賛否の評しきり。しかしやつてみなければどうなるか判るものではない。(森正蔵氏著『あるジャーナリストの敗戦日記』ゆまに書房、pp.242-243)

    —————————————————-

    ■日本経済は軍需産業消滅、財閥解体、国家賠償、指導者の追放、インフレの進行などで支離滅裂の状態。昭和21年6月には失業者は560万人いた。(国鉄運賃は旅客1.5倍、貨物3倍になる)

    ・ハイパー・インフレの実態(米一俵の値段)敗戦時:18円80銭昭和20年12月31日:60円昭和21年12月31日:220円昭和22年12月31日:700円(副島隆彦『預金封鎖』祥伝社より)

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    <ハイパーインフレの実相>しかし天皇の放送のあとに現実に起こったジャンプは、ほとんどが狂乱と破壊のそれだった。民間請負業者の手元にあった資材はいうまでもなく、軍の備蓄物資までが、隠匿されるか、まっすぐに闇市に運ばれた。陸軍、海軍、軍需省(筆者注:S18(1943).11.1、戦争指導強化のため、商工省の大部分と企画院が統合され発足)の役人たちはすぐさま巨額の金を引きだして、請負業者に支払い、自分のポケットや気に入った仲間のポケットに詰めこんだ。大蔵省と日本銀行は、何百万人という解雇された労働者や復員兵の手当にしようと、印刷機にはりついて、インクの跡も生々しい紙幣を国中にあふれさせた。同時に、国民の不安を和らげるために、戦時中の個人預金口座からの引出し制限を解除した。まじめな帳簿付けは放棄され、記録は意図的に破棄された。このすべての結果が、財政と経済の混乱と、貪婪なまでのインフレの始まりで、結局これが経済をすっかり食いつぶすことになった。(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、pp.346-347より)

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    ●元英首相テャーチル、米国で「鉄のカーテン」演説(冷戦のはじまり)

    ●アメリカで”RAND(ResearchandDevelopment)”が誕生(1946.3.1)RAND設立の最大の功績者はカーチス・ルメイ、冷酷で攻撃的で悪魔の化身ともいうべき男。RANDはアメリカの戦後戦略の殆どを立案した。他にヘンリー・ハーレー・アーノルド元帥とフランク・コルボム(ダグラス社幹部)が協力。(アレックス・アベラ『ランド世界を支配した研究所』牧野洋訳、文藝春秋、pp.22-25)

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  17. shinichi Post author

    ★「五五年体制」スタート:「民主党」(三木武吉–>鳩山一郎)+「自由党」(緒方竹虎)=「自由民主党」(昭和30年11月15日結成大会)※「五五年体制」という戦後最大の愚行が、今日の政治腐敗・官僚腐敗の根源をなしていることは間違いなかろう。(戦前は政友会と民政党が互いに覇を競い、互いに切瑳琢磨し汚職にも敏感に反応し牽制しあっていた。故に政界は浄化され代議士は貧乏であった)。※「五五年体制」という保守合同は造船疑獄(1954年)から発展して賠償汚職(戦後処理としての東南アジアに対する多額の賠償金支払いに絡んだ汚職)摘発をごまかす(「臭いものに蓋」)ための大掛かりな仕掛けだったともいわれる。(「戦後賠償のからくり」などについては共同通信社『沈黙のファイル』にかなり詳しく載っている。戦中戦後についてぜひ一読して欲しい本である)★政策、経済、経営、家庭の五五年体制があったことも忘れてはならない。(行革100人委員会『民と官』より抜粋)1.政策の五五年体制:外交的には西側陣営に属し、内政的には官僚主導の業界協調体制を貫く。2.経済の五五年体制:「護送船団方式」で業界を守り、規格大量生産を目指す。3.経営の五五年体制:「閉鎖的雇用慣行」(終身雇用、年功賃金)

    「先行投資型財務体質」(配当を押さえ内部留保を厚く)

    「集団的意思決定方式」(赤信号皆で渡ればこわくない)4.家庭の五五年体制:「会社人間」「職縁社会」の形

    ☆余談<福田恆存『戦争と平和』(昭和30年、文藝春秋6月号)>私はこの人間社会から戦争は永遠になくならないと信じてをります。ある雑誌のインタヴューで、さう答へましたら、あまりにショッキングであり反動的だといふ理由で没になりました。・・・とにかく平和論とか再軍備反対とかいふものが青年一般に支持されてゐる根柢には、生命尊重の考へかたがあります。戦争中の生命蔑視の反動でありませう。さう考えれば納得がいくのですが、これは問題だとおもひます。そして、遺憾なことに、日本以外には、ほとんどどこの国にも通じない思想であります。昔は個人の命よりも祖国が大切だといふやうなことをいつた。祖国のためには死ぬことを辞さなかったのです。祖国といふと昔の国粋主義の臭ひがしていやですが、国や民族の生きかたを守らうといふ気もちは是認できます。個人の生命より全体の命を大事にするのは当然でせう。が、戦後、その全体の生命としての国家といふ観念が失はれてしまつた。ですから、個人の生命より大事なものはなくなつたのです。それを無理に焦って、変な愛国心を捏造しようとしてもだめです。そんな附け焼刃でどうにもなりはしない。が、個人の生命より大事なものはないといふのは変態だといふことくらゐ自覚しなければなりますまい。それを常態として、いや、最高原理として、戦争と平和を論じることはできません。その点を、今の若い人たちに、よく考へてもらひたいとおもひます。(文藝春秋2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

    ☆余談<鶴見俊輔「戦争映画論」(昭和32年)>鶴見はこの戦争映画論で、「本当にがんばって戦った人々にたいして、私は、何の反感も感じない」「むしろ、軍人にすっかり罪をきせてしまって、戦後に自分の席を少しずらして自由主義・民主主義の側についてしまった権力者-ー官僚、政治家、実業家たちに憎しみを感じる」と述べている。そのもっとも身近な例が、彼の父親だった。鶴見の父の祐輔は、戦前は知米派の自由主義者として知られ、国粋主義者の平沼麒一郎を「日本をわるくする元凶だ」と評していた。ところが1939年1月に平沼が内閣を組織したさい、祐輔は次官として入閣した。このとき鶴見は、「えらいと思っていた」父親が、「次官くらいのエサでもパクッと食う」ことにひどい失望と屈辱を感じた。そして祐輔は戦後に公職追放になったが、1950年代には返り咲いた。鶴見はのちに、父親が「家からいろんな人たちに電話をかけるので、話の内容で考えが変わっていくのが見えた」と回想している。また鶴見は、自分がかつて愛読していた武者小路実篤や倉田百三が、帰国してみると「鬼畜米英」の旗振り役を務めていることに怒りを覚えた。柳宗悦や宮本百合子、永井荷風などがそうした潮流に同調していないことが、わずかな救いだった。鶴見はたまたま入手した『評論家手帖』の名簿をみながら、かつての論調を変えて戦争賛美の文章を書いた知識人をチェックしていたという。こうした怒りは、後年に同世代の吉本隆明なども交えて、転向の共同研究を組織することにつながってゆく。しかし鶴見は、吉本とは大きな相違があった。兵役を経験しなかった吉本と違い、鶴見はロマンティックな戦争観とおよそ無縁だった。彼は1950年には、「私達日本人が、戦争中、日本の外に出て何をしたかー-日本に残っておられた方達には今日でも分っていないように思う」と述べ、「純粋」な少年兵たちが、狂暴な加害者でもあったことを指摘した。鶴見はそのさい、サディストとマゾヒストは表裏一体だという学説に言及しながら、こう述べている。

    日本人の多くは、小学校、中学校できびしいワクの中にはめられて、しかもそれを余り苦にしないで成長した。先生のいうままになり、全く自主性がなく、教育勅語や修身の教科書をうのみにしている、典型的なマゾヒストの優等生。…やがて十六、七歳になって、早めに学校からほうり出されて志願兵または軍属となって占領地に出る。そうするとそこで…サディスト的本能がむくむくと目ざめる。内地で数年にわたって日本精神教育を受けた少年達が、占領地に来てすぐ、毎晩酒をあびるようにのんでは女を買い、原住民の娘達を自由にし捕虜収容所で「毛唐」の首を試しぎりにしたことを自慢しているのを見た。…私連日本人は、平和の時、天皇陛下や役人にへいこらへいこらしているその同じ程度に、戦時になると、他国民に対して残虐なことをする。

    こうした視点は、「優等生」や「正義」への反抗という鶴見らしい要素も加わってはいるものの、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」や、竹内好の「ドレイとドレイの主人は同じものだ」という言葉と同質のものだった。そして何より、鶴見はジャワ時代の自分のことを、こう回想していた。「私は、この島を支配する官僚組織の末端にあって、私の上にある重みを更に苛酷なものとして現地人に伝えている。私のスタイルは同僚たちと何のかわりもない。同じ権威を背にして、二言、三言のつたない現地語で、命令を下しているばかりだ」。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.726-727)

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    ★「日米原子力協定」締結。(財)日本原子力研究所発足(1955.10)1955年末の「原子力三法」(原子力基本法、原子力委員会設置法、原子力局設置に関する法律)が成立、発効した。※「原子力三法」の重大な欠陥1.原子力平和利用は「善」であるとの大前提原子力基本法第一条:

    「この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進することによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の進行とを図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする」2.「安全」の過小評価<1957年アメリカBNL(ブルックヘブン国立研究所)の解析>

    ・・・その一方で、原発の本質が次第に明らかになっていった。まず1957年に公表された前述のアメリカのBNLの解析研究は、標準的な都市から48キロメートル離れた20万キロワットの小型の原子炉でも、「暴走事故が起これば、24キロメートル以内で即死者3400人、72キロメートル以内で負傷者43000人を出し、メリーランド州に匹敵する面積が放射能汚染されて数百年間住めなくなり、物的損害も70億ドル(当時のレートで2兆5200億円)に達する」と予測したのである。(市川定夫他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の生き方ー』、七つ森書館、p.31)3.「民主」「自主」を保障する方法の欠如原子力基本法第五条:(国会の審議無視の政策決定)

    「原子力委員会は、原子力の研究、開発及び利用に関する事項について企画し、審議し、及び決定する」(久米三四郎他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の生き方ー』、七つ森書館、pp.7-9)

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    ●1955年11月29日。アイダホ州国立原子炉試験所。高速増殖実験炉EBR-1で、実験運転中に燃料棒が曲がり、その効果によって原子炉出力が急上昇して、燃料の一部が溶けた。それは原子炉の事故のなかでも最も恐れられているメルトダウン事故ーー燃料が溶けて中に詰まっている燃えかすの放射能が大量に放出されるーーの、最初の本格的な経験だった。EBR-1は、この時点ではプルトニウムを燃料として用いていなかったが、プルトニウムを生産する目的の原子炉であり、また、いずれはプルトニウムを燃やす計画をもっていたように、プルトニウムと因縁の深い原子炉だった。メルトダウンの恐怖もまた、プルトニウムがらみでやってきたのである。(EBR-1計画はその後中止された)。

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    ■創価学会が1955年4月の選挙において最初の政界進出を果たす。東京都議会1名、23区の区議会に33名、地方都市の市議会で19名当選。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.75)■「日本電報通信」社(このときすでに広告代理店専門)が社名を変えて「電通」として発足。洗脳広告代理店として日本の政治経済全体にわたって社会を徐々に蝕んでゆく。(苫米地英人氏著『電通』サイゾー社より)

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    1956年(昭和31年):「神武景気」(~S33頃まで)のはじまり☆☆☆この1956年から1973年(「福祉元年・老人医療費無料化」)は高度経済成長期であるといわれる(経済成長率9%)☆☆☆☆「一億総白痴化」(大宅壮一):テレビの爆発的普及■日本、国際連合へ加入(1956年12月18日)並行して、米軍基地反対運動の高揚を恐れた日米政府の協議により、1950年代後半から1960年代初頭にかけて、本土の米軍基地はほぼ1/4に縮小された。しかし本土から撤退した米軍は実質的に沖縄に移動し、同時期に沖縄の基地は約2倍に増加した。こうして、沖縄を米軍に提供しつつ、アメリカの庇護下で経済成長に邁進するという体制が、しだいに固定化されていった。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.497)◎「もはや戦後ではない」(第十回『経済白書』、経企庁調査課長後藤誉之助)

    ・対インドネシア賠償総額803億円決定(1957年、岸-スカルノ)インドネシア賠償ビジネス:辻-瀬島-小林勇一-久保正雄ルート(政商久保正雄は商社「東日貿易」の社長であり、大野伴睦や河野一郎、児玉誉士夫らが株主になっていたという)。

    ・三菱重工や石川島播磨によって日本はイギリスを凌ぐ世界一の造船国となった。※「もはや戦後ではない」というフレーズは、中野好夫「もはや『戦後』ではない」(文藝春秋昭和31年2月号にその起源をもつ)※もちろん1947年(昭和22年)にケーディスが存在を指摘した「アングラ経済」も相変わらず、すくすくと成長していた。

    ・ニコラ・ザペッティ:レストラン<ニコラス>

    ・児玉誉士夫:日本プロレス協会(戦後日本権力構造の縮図)(コミッショナーは大野伴睦)

    ・ブラック・ドラゴン

    ・町井久之:<東声会>(ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』より)

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    ・フルシチョフのスターリン批判(1956.2):ソ連が開かれた国家へ

    ・「雪解け」悪名高いコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)解散(1956.2)日ソ国交回復共同宣言(1956.10):日ソ戦争状態終了。(日ソの国境線をどう引くかで折り合いがつかず平和条約締結までは至らなかった)。

    ・ハンガリー動乱(1956.10.23):フルシチョフがワルシャワ条約に基づいて戦車をブダペストに送り込んだ。

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    ■原子力開発基本計画策定

    ・日本原子力研究所、原子燃料公社、放射線医学研究所設立

    ・三井、三菱、住友、日立、第一の五つの財閥グループでそれぞれ原子力産業グループを結成

    ・経団連と電機事業連合会を中心に日本原子力産業会議を設立■創価学会が1956年の参議院選挙において全国区で2名、大阪地方区で1名を当選させた。獲得票数は99万票。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.75)

    ★経済の二重構造の悲しみ雇用が増加すれば賃金が上昇するはずであるが、中小企業の従業員は、依然として低賃金に苦しんでいた。中小企業の雇用は非常に増加したにもかかわらず、その賃金はほとんど上昇せず、大企業の従業員の賃金との格差は拡大したままだった。従業員二十人前後の企業で働く人達の年所得は、五百人以上の工場で働く人々の40%ぐらいだった。(銀行融資に守られた大企業とそうでない中小企業の生産性の格差がその一因だった)

    ※総評はこの経済の二重構造是正のために長期ストライキ方式から春闘方式へと闘争方法を変えた(太田薫、岩井章)。この労働運動は日本がアメリカの対ソ、対軍事体制に徐々に組み込まれて行くことに反対する平和運動と重なっていた。(以上、竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

    ★沖縄で、軍用地代の支払い問題をきっかけとした島ぐるみの反基地、反米運動の盛り上がり★砂川事件(S31年10月)東京都立川市の米軍基地拡張をめぐって警官隊と学生・住民が衝突し、多数の負傷者を出した。

    ★石橋湛山内閣成立(S31年12月14日):石橋はアメリカに嫌われていた※反官僚政治を唱える石橋湛山と官僚の権化、統制経済論者の岸信介との戦いのなかで、かろうじて成立。(岸:223vs(石橋:151+石井光次郎:137))※石橋湛山は組織に寄りかかることなくジャーナリストとして、政治家として戦前戦中は日本軍と戦い戦後は米国の軍と戦った。しかし戦後日本の希望の星

    「石橋湛山政権」は、彼の病気(脳卒中、心房細動、肺炎、全身衰弱)のために僅か71日で終焉した。

    #「湛山先生が総裁公選で、僅少の差で岸を破り、首相になった時、私は本当に地獄で仏に会ったような喜びを感じました。神が、まだ悪徳日本を見捨てていなかったのかとすら思ったのです。・・・(中略)・・・ところが・・・私は失望しました。自身の前途を医者の判断に一任した湛山先生の人生観に、いささか女々しさを感じました。なぜ議会の壇上で倒れるまで、所信を実行する気概を示さなかったのか、と考えました。・・・・・以来『石橋湛山』なるものは、私にとって”生ける屍”となったんですよ。戦争時代の権力層は、国民にとって、集団強盗と同性質の暴力的支配者であった。その支配者が、戦後の日本に再び居直って、悪魔の支配を持続させているのが実情ではなかったか。戦後の日本を民主主義によって更生させるためには何としても、一度、彼らの手から権力を払い落とさなければならなかった。片山・芦田・鳩山の敗北の次に、悪魔の力に対抗できる汚れなき前歴と、実行力とを持った者は石橋湛山以外にはなかったであろう。おそらく大部分の醒めたる国民は、石橋内閣に期待したと信ずる。また、日蓮宗の権大僧正の位にある氏が、国の柱となって、立正安国の実を挙げる一生一度の機会ではなかったろうか。その後の自民党と官僚の合体政治の腐敗や、これに伴う一般国民の道義観念の喪失を想う時私が湛山先生を”生ける屍”と嘆いたことは、失当ではなかったと信ずるが如何」(戦う弁護士、正木ひろし氏著『挂冠を怒る』より引用)

    ※このあと、日本の政治が「官僚独裁政治」に向かってまっしぐらにすすみ政治家が政治を行うという本来の姿に立ち戻ることはなかった。(このシステムは1990年代後半に官僚どもが、贈収賄や横領や不正な利益供与など様々な不祥事を起こして、世論の一斉の非難を浴びるまで続いた。それでも常にこの国は政治権力、行政権力、財界権力が互いに権力闘争するという三重権力構造で成り立っているのである)

    #日本は国民主権ではなく、官僚主権です。官僚たちが政治家を神輿にのせ、ワッショイ、ワッショイと思いのままに、あっちこっちに跳梁しています。#霞が関には血の通った人間がいないのです。一つの制度が化け物のように権力を持って動いているだけの話です。#各省庁の事務次官は、各分野の代表なのです。国民の選挙で選ばれてない官僚が、実質的には代表になっているという摩訶不思議な官僚国家が日本というわけです。#委員会で官僚の答弁を年中受けていますが、彼らは自分の言ってることが、どのくらい恥ずかしくて論理性のないものかということを、わかっていながら平気でやるのです。まともに答えていたら省益にかかわる、だからここはおかしくても嘘をつく、あるいは答えない、全然違う答えを笑いもしないでやるのです。(以上、中村敦夫氏『この国の八百長を見つけたり』より)

    ★ジラード事件(1957年、昭和32年1月30日)アメリカ陸軍の三等特技兵WS.ジラードが群馬県のアメリカ軍の演習場で薬莢拾いをしていた一人の日本人を射殺した。この事件でアイゼンハワー大統領、アメリカ議会、社会党(日本)政治家、日本のマスコミは裁判管轄権について大いにもめた。アイゼンハワー大統領は裁判管轄権放棄の立場を貫いたが、これを境に日本との安全保障条約の再検討を強く促された。(マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』市川洋一訳、草思社、pp.224-225、pp.230-231)

    ★岸信介内閣が「国防の基本方針」を定めた(1957年、昭和32年5月20日)。しかし国防の実体は米軍におんぶにだっこの状態だった。(岸の政治目標:吉田内閣の「占領政治体制」を是正して、独立国家に相応しい体制をつくる)

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    ・エジプト、ナセル大統領がスエズ運河国有化宣言(1956.7.26)

    ・第二次中東戦争(1956.10.29):ナセルは戦場では完敗したがアラブ民族主義の英雄、第三世界のリーダーとなった。

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    ・宇宙時代の幕開け(1957年10月4日)ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ。米国はフォン・ブラウン、ソ連ではセルゲイ・コロリョフ(偽名:K.セルゲーエフ)が中心的役割を果たした。アメリカ陸軍がエクスプローラー1号の打ち上げに成功したのは1958年1月4日だった(ヴァン・アレン帯発見)。

    ・インフルエンザ(アジア風邪、H2N2)の猛威(1957年)世界中で約100万人が死亡

    ・この頃はまだ毎年200万人が天然痘で死亡していた。(—>1967年の本格的天然痘撲滅作戦開始に至る)

    ●ローマ条約締結:EEC設立基本条約調印(1957年3月25日)(参加国:ドイツ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ

    ・ルクセンブルク)

    ●1956年~1958年末、アメリカ合衆国経済アメリカ合衆国で3%のインフレ、消費者物価が2.7%上昇。失業者100万人以上増加、失業率7%。(公定歩合を1.5%—>4.0%に引きあげ、ひとまずインフレを乗り切った。アメリカは1964年まで5%の経済成長を達成)

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    ●1957年2月と1958年1月。ソ連の南ウラルでプルトニウム関連核廃棄物貯蔵施設で大爆発(『ウラルの核惨事』(邦訳『技術と人間』1982)。

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    ●イギリスの支援するイラク政権が、アブドル・カリム・カーシムによって打倒された(1958年)。これは世界の主要なエネルギー資源に対する米英の共同管理が破綻した最初の例だった。(—>1963年、アメリカはバース党とサダム・フセインを支援して体制転換を果たした)。(ノーム・チョムスキー『破綻するアメリカ壊れゆく世界』鈴木主税・浅岡政子訳、集英社、p.187-189)

    ★東京タワー完成(1958年、昭和33年)この頃はまだまだ東京には高いビルは殆どなく東京全体がまっ平らな感じだったという。(生方幸夫氏『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』新潮OH文庫)

    ■売春汚職事件■グラマン・ロッキード事件(1958年~1959年)航空自衛隊の第一次FX(時期主力戦闘機)に内定していたグラマン社からロッキード社への逆転をめぐり、政界に数億円もの金が流れたという疑惑。児玉誉士夫(ロッキード社の秘密代理人)、森脇将光、田中彰治、河野一郎、川島正次郎、岸などそうそうたるワルのメンバーが名を連ねたが、検察・警察の捜査は行われなかった。#児玉誉士夫の主治医、東京女子医大教授、喜多村孝一が提出した児玉誉士夫の病状に対する診断書は大ウソだった。さらに国会医師団の事情聴取に対して、セルシン+フェノバールで昏睡を装わせていた。(平野貞夫『昭和天皇の「極秘指令」』講談社、pp.53-54)

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    ・郵政大臣田中角栄が作った”特定郵便局制度調査会”が特定郵便局の存続を認めるという答申を提出(昭和33年1月)。これをきっかけに全国特定郵便局長会は無条件で田中派議員の選挙を応援しはじめた。(町田徹氏著『日本郵政』日本経済新聞社、pp.38-41)

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    1959年(昭和34年):伊勢湾台風。死者行方不明者7500人。★大型の「岩戸景気」のはじまり

    「岩戸景気」は日本の主要産業が海外の先端技術を大規模に導入して、世界のレベルに飛躍する過程で発生した大型景気だった。1.スケール・メリットの追求:十数倍の生産能力、運搬能力など2.材料革命:合成繊維、合成ゴム、プラスチックなどが天然産にとって代わった。3.消費革命の進展:三種の神器(洗濯機、テレビ、冷蔵庫)の爆発的普及。4.プロセス・オートメーション技術の進歩5.エネルギー革命:中近東大型油田の開発、原油の大量輸送、原油価格低下により発電が「火主水従」「油主炭従」に変わった。

    #太平洋ベルト地帯では、白砂青松の地次々に埋め立てられて、大規模なコンビナート、製鉄所、造船所、耐久消費財産業の工場が建設され、近代的な港湾施設が作られた。それとともに海は次第に汚くなり、大気の汚染が目立ちはじめた。(竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

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    ●カストロがキューバ革命に成功(1959.1)

    ・永井荷風死去。吐血。(昭和34年4月30日)

    ●米ソ首脳会談実現(1959.9):フルシチョフとアイゼンハワー

    ●中国、「大躍進」政策(製鉄の推奨–>農民が農業に従事できず)の大失敗から大飢饉の到来(1960前後)。中国全体の餓死者は3000万人に上ったといわれる。(ユン・チアン『ワイルド・スワン<上>』土屋京子訳、講談社、p.319)

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    ★社会党内の深刻な対立の激化(合同後数年で分裂)社会党内の深刻な対立は、岸の立場を強めた。1955年に左右の合同によって生まれた社会党は安定を欠き、総評と結びついた左派と、より穏健な労働組合の連合組織である仝労に基礎を置く右派との協力関係は、不安定なものだった。一時は、国会で多数を占めることができるという期待が両派の主義の違いをおおい隠した。だが、1958年の衆議院選挙と59年の参議院選挙での後退のため、社会党の団結に歪みが生じた。1959年に、全労が条約改定に反対する国民会議への参加を拒否し、総評が全労を組合の分裂を策するものだ、と非難したとき、社会党の両派の亀裂が広がった。1959年12月に社会党右派の指導者西尾末広は日本社会党を脱党し、民主社会党を組織した。その国会での勢力は衆議院が37議席、参議院が16議席で、これに村し日本社会党は衆議院が38議席、参議院が69議席であった。日本社会党と総評は階級闘争のマルクス主義を信奉し、一方、民主社会党と全労はアメリカ人にもなじみ深い生活権擁護の労働運動を主張した。民社党と全労は安全保障条約反対の戦闘的なストライキや大衆行動に反対し、民社党はアメリカとの安全保障上との結びつきを交渉によって徐々にゆるめていくことを主張した。1958年以来、アメリカと自民党は、西尾や全労にひそかに資金援助をすることによって、社会党の分裂を策し、岸と池田は、民社党の幹部に資金を提供して接触を維持し、民社党が条約改定を支持してくれるか、少なくとも批准のための国会審議を混乱させないようにしてくれることを期待した。(マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』市川洋一訳、草思社、pp.256-257)

    ★安保条約改定阻止国民会議結成(昭和34年3月28日)総評、原水協、護憲連合、日中国交回復国民会議、全国基地連の五団体が率先し、社会党はじめ合計134団体が加わって。共産党も幹事団体でないものの参加を認められた。(社会党右派(–>S35.1に分裂し民社党)は共産党参加に反発、全労と新産別は加入せず)。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.503-504)

    ■創価学会が1959年の参議院選挙において6議席を獲得。獲得票数は248万票。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.75)

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    1960年(昭和35年)★新安保条約(日本国とアメリカ合衆国の間の相互協力及び安全保障条約)の調印(ワシントン、1960年1月19日)(原子力潜水艦への核兵器の積み込みは禁止されているという発表だったが、実際は口頭の合意で自由だった)。

    ————–<余談:岸信介について>————–

    作家の伊藤整は、国会傍聴で岸を目撃した印象を、こう述べている。「おや会社員みたいな人間だな、と考えた」「私が保守系の政治家にしばしば見ていた人間とは異質なものであった」「理想を持つ人、人格的な人間、豪傑風の人間などを国民は漠然と首相なるものの中に期待する。その資格のどれもが岸信介にはないのである」。伊藤の形容にしたがえば、岸は「既成政党と党人の弱点を握り、内側からそれを智略によって支配して首相の座に這いのぼった」「知識階級人のいやらしいタイプの一つ」であった。伊藤がみた岸には、巧みな計算と要領の良さ、権威的でありながらそつがない「優等生的」「官僚的」な姿勢、そして戦争責任の忘却など、戦後知識人たちが批判してきた要素のすべてが備わっていた。そして伊藤は、そうした岸に「自分の中にありながら、自分があんまり認めたがらない何か」を見出して、「はっとしたというか、ぎょっとしたと言うに近いショックを受けた」という。60年安保において、岸があれほど反発を買ったのも、こうした岸の特性を抜きには語れない。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.500)

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    ★第一次安保闘争:与野党の対立激化、巨大なデモ(全国約600万人)とストライキの頻発(労働組合の大規模な政治運動の最後だった)■アメリカの属国としての立場からの独立を目指した平和運動。(平和=国と国とが戦争をしていない状態)■当時の支配階級は裏社会のヒト達を利用してこれを弾圧した。ここにあらためてEstablishmentとUndergroundの怪しい関係が再構築されるに至ったものと思われる。(この後権力闘争、汚職などあらゆる形で時々表面化した)。■憲法改正と日本の再軍備を約束して米国から帰国した岸首相は樺美智子さんの圧死によって、国防に関する所信を放棄して辞職した。(昭和35年7月15日)—>★憲法改正論の頓挫■第一次安保闘争は「反岸」運動だったともいえる。岸が代表すると思われた戦前の権威主義的な国家主義に反対する運動だった。

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    ★自民党の(お家芸)強行採決(安保承認と会期延長)(1960年5月19日深夜)

    ・・・しかし結局、社会党議員団は排除された。自民党議員たちは、「ざまあみやがれ」「お前なんか代議士やめちまえ」といった罵声を浴びせながら、議場の入口を破壊して入場した。清瀬一郎議長がマイクを握り、会期延長と新安保承認の採決を行なうまで、わずか15分ほどのできごとだった。この強引な採決方法は、じつは自民党内でも、十分に知らされていなかった。清瀬議長も多くの議員も、会期延長だけの議決だと思っていたところ、岸の側近に促された議長が新安保採決を宣言し、一気に議決してしまったというのが実情だった。自民党副総裁の大野伴睦は、安保議決を議場ではじめて知らされ、岸の弟である佐藤栄作蔵相に抗議したところ、「はじめから知らせたら、みんなバレちまうから」と返答されたという。こうした岸の手法は、自民党内でも反発をよんだ。岸にすれば、安保承認には、自分の面子と政権延命がかかっていた。しかし新安保が今後10年以上にわたって日本の運命を決定することは、賛否を問わずみなが承知していた。その重要条約が、このような方法で議決されることに抗議し、自民党議員27名が欠席した。その一人であった平野三郎は、こうした方法で「安保強行を決意するような人に、どうして民族の安全を託し得ようか」と岸を批判した。三木武夫や河野一郎も退席し、病気療養中だった前首相の石橋湛山は「自宅でラジオを聞いて、おこって寝てしまった」。議場突破の状況に反発して帰宅した松村謙三は、車中のラジオで安保可決のニュースを聞き、「『ああ、日本はどうなるのだろう』と暗然とした」という。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.508-509)

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    ※民主主義がおわればファシズムです。……既成事実を積みあげる岸の政治手法は、戦争に突入した時代の記憶をよびおこした。竹内好は、5月19日に深夜のラジオで強行採決のニュースを聞いたあとの心情を、23日にこう記している。

    私は寝床を出ました。もう眠れません。健康のためひかえている酒を台所から出してきて、ひとりでのみました。……これで民主主義はおわった、引導を渡された、という感じが最初にしました。民主主義がおわればファシズムです。ファシズムは将来の危険でなく、目の前の現実となったのです。ファシズムの下でどう生きるべきか。あれやこれや思いは乱れるばかりです。ともかく態度決定をしなければならない。私の場合、亡命はできないし、国籍離脱もできない。

    屈辱と悔恨に満ちた戦争の時代を生きた人びとにとって、強行採決は「ファシズムの下でどう生きるべきか」といぅ危磯感を与えるものだった。竹内は本気で亡命を考えたあと、それを断念し、日本にとどまって岸政権と闘う覚悟を決めた。こうした戦争の記憶の想起は、竹内だけのものではなかった。作家の野上瀰生子は、「あの流儀でやれば徴兵制度の復活であろうが、或はまた戦争さえもが強行採決されるのだ、と考えれば慄然とする」と述べた。さらに鶴見俊輔は、こう述べている。

    ……戦時の革新官僚であり開戦当時の大臣でもあった岸信介が総理大臣になったことは、すべてがうやむやにおわってしまうという特殊構造を日本の精神史がもっているかのように考えさせた。はじめは民主主義者になりすましたかのようにそつなくふるまった岸首相とその流派は、やがて自民党絶対多数の上にたって、戦前と似た官僚主義的方法にかえって既成事実のつみかさねをはじめた。それは、張作霖爆殺-満洲事変以来、日本の軍部官僚がくりかえし国民にたいして用いて成功して来た方法である。……5月19日のこの処置にたいするふんがいは、われわれを、遠く敗戦の時点に、またさらに遠く満洲事変の時点に一挙にさかのぽらした。私は、今までふたしかでとらえにくかった日本歴史の形が、一つの点に凝集してゆくのを感じた。

    前述したように岸には、官僚的な権威主義、アメリカヘの従属、戦争責任の忘却、そして「卑劣」さといった、戦後思想が嫌悪してきたものすべてが備わっていた。鶴見は、「岸首相ほど見事に、昭和時代における日本の支配者を代表するものはない。これより見事な単一の象徴は考えられない」と述べ、「日本で現在たたかわれているのは、実質的には敗北前に日本を支配した国家と敗北後にうまれた国家との二つの国家のたたかいである」と唱えた。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.510-512)

    ※悪魔の再来と戦うために(筆者注:竹内好は言う)しかし岸さんのような人が出てくる根ー-これが結局、私たち国民の心にある、弱い心にある、依頼心、人にすがりつく、自分で自分のことを決めかねる、決断がつかない、という国民の、私たち一人一人の心の底にあるー-かくされているところのそれを、自分で見つめることがためらわれるような弱い心が、そういうファシズムを培ってゆく、ということを忘れてはなりません。たしかに本当の敵はわが心にあります。自分で自分の弱い心に鞭うって、自分で自分の奴隷根性を見つめ、それを叩き直すという辛い戦いがこの戦いです。国民の一人一人が眼覚めてゆく過程が、わが国全体が民主化する過程と重なります。…………時間を犠牲にし、金を犠牲にして……こうしたことをやっているのは、大きな実りを得たいからなのです。……それはめいめい、この戦いを通じて、戦いの後に国民の一人一人が大きな知恵の袋を自分のものにするということです。どういう困難な境遇に立っても、めげずに生きてゆけるような、いつも生命の泉が噴き出るような、大きな知恵の袋をめいめいが自分のものにするように戦ってまいりましょう。

    1960年6月において、このメッセージは大きな共感をもって迎えられた。岸政権との闘いは、いまや人びとにとって、戦後日本と自分自身の内部にある、否定的なものとの闘いとなっていた。竹内はさらに6月12日の講演で、こう述べている。

    どうか皆さんも、それぞれの持ち場持ち場で、この戦いの中で自分を鍛える、自分を鍛えることによって国民を、自由な人間の集まりである日本の民族の集合体に鍛えていただきたい。……私はやはり愛国ということが大事だと思います。日本の民族の光栄ある過去に、かつてなかったこういう非常事態に際して、日本人の全力を発揮することによって、民族の光栄ある歴史を書きかえる。将来に向って子孫に恥かしくない行動、日本人として恥かしくない行動をとるというこの戦いの中で、皆さんと相ともに手を携えていきたいと思います。

    のちに保守派に転じた江藤淳も、6月初めに執筆した評論で岸政権との闘いを説き、読者にこう訴えた。「もし、ここでわれわれが勝てば、日本人は戦後はじめて自分の手で自分の運命をえらびとることができるのである」。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.513-514)

    ※このころの右翼こうした運動を攻撃したのが、右翼団体だった。6月15日夕方、「維新行動隊」の旗を掲げた右巽が、二台のトラックで国会周辺の新劇人の隊列に突っこみ、釘を打ちこんだ棍棒と鉄棒で殴りかかった。このとき国会を警備していた警官隊は右翼を制止せず、女性が主に狙われ、約60人が重軽傷を負ったといわれる。敗戦後に低迷していた右翼運動は岸政権のもとで伸張し、1958年1月には、元内相の安倍源基や防衛庁長官の木村篤太郎などを代表理事として、新日本協議会が結成されていた。翌1959年には全日本愛国者団体会議が誕生して、この両団体は安保改定促進運動を展開していた。日教組の教研集会に対する右翼の妨害が始まったのも、1958年からだった。自民党の幹事長だった川島正次郎は、アイゼンハワー訪日の警備と歓迎のため、こうした右翼団体を動員する計画を立てていた。右翼による襲撃は全学連主流派を刺激し、この6月15日の午後5時半には、学生たちが国会構内に突入した。しかし共産党は、「反米愛国」のスローガンのもと、傘下のデモ隊を国会前からアメリカ大使館の方に誘導して解散させた。孤立した全学連主流派のデモ隊は警官隊に制圧され、負傷者は救急車で運ばれた者だけで589名にのぼり、東京大学の女子学生だった樺美智子が死亡した。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.533-534)

    ※樺美智子誰かが私を笑っているこっちでも向うでも私をあざ笑っているでもかまわないさ私は自分の道を行く笑っている連中もやはり各々の道を行くだろうよく云うじゃないか「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と

    でも私はいつまでも笑わないだろういつまでも笑えないだろうそれでいいのだただ許されるものなら最後に人知れずほほえみたいものだ(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.536)

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    ★新しい安保条約はアメリカの日本防衛義務を明文化し、その義務と日本とアメリカに基地を提供する義務との間の双務関係(相互性)を明確にした。

    ・・・しかし日本は、この新しい安保条約においても、旧条約と同じようにアメリカ領土の防衛義務をいっさい負わなかった(負えなかった)。・・・つまり安保条約は、改定によって相互性の明確化という意味ではより対等な条約に変化したが、そこからさらに対等な相互防衛条約に発展するのはかえって難しくなったかもしれない。※安保改定の主要なポイント1.国連憲章との関係の明確化2.日米の政治的・経済的協力3.いわゆるヴァンデンバーグ条項の挿入=憲法上の規定に従うという留保のもとで、日本に対して自衛力の維持発展を義務づけた。4.協議事項5.アメリカの日本防衛義務の明確化6.日本の施政下においてアメリカを守る日本の義務の明確化7.事前協議制度<事前協議における極秘の取り決め=いずれも推察>

    ・事前協議は米軍の日本からの撤退には適用されない

    ・核兵器の導入のみに事前協議は適用されること

    ・日本の基地からの直接出撃のみに事前協議を行う

    ・核搭載艦船の寄港を事前協議の対象外とする8.条約に期限を設けた(10年)=10年間が経過した後は日米いずれかが通告すれば一年で終了9.いわゆる内乱条項を削除=旧条約では、日本政府の要請に基づいて米軍を日本国内の内乱および騒擾の鎮圧に用いることができる、と規定されていた。10.行政協定を改定=在日米軍の諸権利・特権についてNATO方式との平準化をはかった。日米両政府の摩擦の種であった防衛分担金は廃止※西村熊雄の比喩鰹節を進呈するとき、裸でおとどけするのは礼を失する。安保条約は、いわば、裸の鰹節の進呈である。日本人は裸の鰹節をとどけられて眉をひそめた格好であった。新条約は桐箱におさめ、奉書で包み、水引をかけ、のしまでつけた鰹節と思えばよろしい。桐箱は「国際連合憲章」(第一条、第七条)であり、奉書は「日米世界観の共通」(第二条)であり、水引は「協議事項」(第四条)であり、のしは「十年後さらによりよきものに代え得る期待」(第十条)である。裸の鰹節と桐箱におさめられた鰹節では、とどけられる者にとり、大きな相違がある。心ある日本人は新しい条約を快く受け入れてくれるに違いない。(以上、坂本一哉氏著『日米同盟の絆』より引用)

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    ◆◆◆安全保障の問題では日米双方、事を荒だてないようにしよう◆◆◆

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    ■社会党浅沼稲次郎委員長刺殺される。(1960.10.12)

    ◎池田内閣の「所得倍増」の喧伝(政治的対立の回避と保守政治の安定路線)国防という国家の基本にかかわる政治論争を回避した。これにより日本は真の独立国家を目指すことを止め、極東の産業地帯になろうとした。(池田、岸、佐藤派の官僚が池田政権を支えた)(沢木耕太郎氏著『危機の宰相』文春文庫など)

    ★「貿易・為替自由化計画大綱」が閣議決定される(1960.6.24)石坂泰三(経団連)の強力に主張、日本商工会議所会頭足立正の賛成。(菊地信輝氏著『財界とは何か』平凡社、pp.163-166)★黒沢明監督作品『悪い奴ほどよく眠る』が公開される。政界・官界・財界の三つ巴の構造汚職をテーマにした名作。※「大物黒幕」概観(以下、立石勝規氏著『金融腐敗の原点』を参考にした)

    ・児玉誉士夫:政界への「フィクサー」、政財界の月光仮面戦後最大の黒幕。巣鴨プリズンでA級戦犯岸信介と親しくなった。(河野一郎、大野伴睦は岸の盟友)さらに田中彰治(「国会の爆弾男」)の協力で「児玉-森脇-田中彰治」ラインができ、この関係は1964年(S.39)頃の田中角栄の台頭まで続いた。(—>後「児玉-小佐野-田中角栄」ラインとして継続)

    ・辻嘉六:戦前からの政界のスポンサー、自由党結成に資金援助

    ・三浦義一:「室町将軍」、大物右翼、よろず相談所東条英機とのつながり。GHQ-G2のウィロビーと親しかった。一万田尚登(日銀の法皇とよばれた)と縁戚関係

    ・矢次一夫:岸信介の「盟友」(昭和の怪物)、空前絶後の黒幕、大政翼賛会参与など陸軍省軍務局事務課(政界と陸軍のパイプ)官僚との癒着

    ・高瀬青山:沈黙の「怪物」(山下奉文大将の「私設高級顧問」だった)緒方竹虎(元大政翼賛会副総裁、元自由党総裁)、五島慶太(東急)とのつながり

    ・森脇将光:ヤミ金融王、森脇メモ(造船疑獄を暴露)で日本を震撼させた。森脇調査機関主幹。(「児玉-森脇-田中彰治」ラインによる暗躍)

    ・小佐野賢治:田中角栄の刎頚の友

    ・笹川良一:「競艇のドン」「岸->佐藤-矢次-笹川」ライン

    ・田中清玄:児玉誉士夫と対立、GHQ高官と親交、転向した反共主義者。信じ難いスケールと内容の国際人脈をもつ。巨大労組、日本電気産業労働組合との戦いの中で力をつけた。(共産党系を排除して民主化同盟の主導権を確立)インドネシア産原油輸入において、岸信介と激しく利権闘争し、ついに勝利した。この裏にはスハルトとの親交があった。田中清玄は岸の権力的・官僚的エンジニアリングの思想が嫌いだったという。(後半部は宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論拠』筑摩書房、p.304より)

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    ★1960年代は米国において、放射性物質投与による人体実験や抗癌治療に名を借りた放射能全身照射(TBI)が華やかな狂気の時代であった。(アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<下>』)++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++<プルトニウムーーこの世で最も毒性の強い元素>プルトニウムは、この世で最も竜性の強い物質のひとつ、とよくいわれる。後から述べるように、その毒性の評価は未だ専門家の間でも大きく意見の分れるところだが、どんな評価をとっても、プルトニウムが「地獄の王の元素」の名にふさわしく、超猛毒の物質であることには、まぎれがない。その毒性がこの元素を大きく特徴づけることになった。現行の許容量の妥当性には、さまざまな疑義が提出されているが、現行の許容量をとっても、一般人の肺の中にとりこむ限度は、プルトニウム239の場合、0.0016マイクロキュリー(1600ピコキュリー)とされている。これは重量にして4000万分の1グラムほどに過ぎず、もちろん目に見える量ではない。骨を決定臓器とした場合の許容量も、0.0036マイクロキュリーと小さい。このように大きな毒性が生じる最大の原因は、その放出するアルファ線である。アルファ線は、その通路に沿って電子をたたき出すが、これが放射線のもたらす生体に対する悪影響の主な原因である。このような放射線の作用を電離作用と呼んでいる。電離作用が生体結合に与える破壊・損傷効果によって、いろいろな障害がもたらされるのである。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、p205:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集として再録)++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ★ブレトン・ウッズ体制の影響について(1960年末の状況)

    ・アメリカの貨幣用金の減少:220億ドル(1958年)–>180億ドル(1960年)

    ・外国人所有ドル預金と財務省短期債券の増加:80億ドル(1950年)–>200億ドル(1960年)※1960年末の時点で、アメリカの金保有高は実質的に底をついていた。※1960年10月27日、アメリカ大統領選で、ケネディ有利の影響で、従来金1オンスが35ドルであったが、急に40ドルに跳ね上がった。※1960年~1964年の5年間のアメリカ合衆国の経済

    ・輸入総額:800億ドル

    ・国外の軍隊維持:110億ドル

    ・外国への投資、他国での資産形成:290億ドル

    ・外国旅行、経済援助:180億ドル(鳥越注:1ドル360円として、約50兆円の大散財)(P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)

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    ★アメリカの途上国援助の条件(内幕):輸出部門中心の世界銀行からの貸付輸出能力が高まれば、国内経済に二つの好ましい影響を及ぼすというのが、その根拠だった。輸出から得られた収入で農産物や工業製品を輸入できるようになるだろうし、さらに、借り手国内に収入を生み出すことで、その国の農業や工業製品産業を支えることができるにちがいない……。こうして世銀貸付のおかげで、借り手国の国内消費経済は安定し、同時に輸出能力の拡大によってその国は工業的に豊かになるはずだった。これは、完全無欠な理論だった。つまり、もし現実がそのとおりなら、完全無欠だったにちがいない。この理論の根底には、事実を解釈する際の誤りがあった。インプットとしての貸付は、考えられたような結果を実際に生み出すかもしれない。だが、償還局面でのアウトプットとしての貸付についてはどうか?この間いはなおざりにされた。理論的に貸付は贈与の一種として扱われ、その利子を伴う償還は、交換可能通貨の形において、生み出される輸出収入より小さいと仮定されたのだ。借り手の国々は、まるで、借り入れた資金を利用しての現金収益が債務償還と利子支払いを合わせた資金流出より確実に多い、堅実な会社であるかのように扱われた。残念ながら、それらの国々が途上国と目されるゆえんは、まさにそういう特徴が欠如しているからにほかならなかったのだが……。途上国経済の非消費部門に莫大な量の資本投入を行った効果の一つは、途上国経済の能力では消費財部門の産出を増加させてそれを相殺できないほどの、所得の伸びだった。こうして輸出と同じく輸入が伸び、それらの国々が輸出収入の増加をもとに債務償還義務を果たしていく実質的な能力は大きく狭まった。さらに、途上国経済の急激な工業化の結果として、工場で職を得ようとする人々が田舎から都会にあふれでてきた。とはいえ雇用の伸びは、土地を離れた人々を都市産業に吸収するには追いつかない。農民や日雇い労働者としての以前の生活水準がいかにみじめなものであろうと、少なくとも彼らは自活していた。だが吸収力の十分でない都市産業の磁力に引かれて土地を離れた人々は自立できず、必然的に国の資源を食いつぶすことになる。それに加えて、人々が農村を離れたせいで、食糧の生産は落ち、蓄えも乏しくなつた。輸入ーー今や食糧のーーを増大させる副次的な必要性が起こり、時が経ち、人々の都市への流入が続くにつれてますます拡大していった。農村人口の減少のせいで農産物の生産高が減り、必須食料品の市場での需要が増加するにつれて、国内の物価はどこの国でも暴騰した。急激な工業化がもたらした全体的な効果は、自給能力を弱めてそれら途上国の経済を不安定にし、その結果のインフレによりすでに量の増えていた輸入品の価格を増大させることだった。結果として、途上国の毎年の債務返済費用は、1968年までに47億ドルに達した。これは、1960年代初めの10パーセントと比して、総輸出の20パーセントに匹敵する。援助借入国は、交換可能通貨の面から見て信用貸し可能性の絶対的限界にまで至っていた。利子の支払いと過去の援助借入の返済を、悪化していく貿易・サービス収支から支払わなくてはならなかったのだ。この膨大な債務に資金を再供給し、少なくとも通常の支払能力を維持するために、途上国は自国の経済成長の方向を変えざるをえなくなり、農業や消費財産業の拡大を制限して、以前にもまして輸出部門に力を注いだ。これはある形の強制的貯蓄であり、自国の経済を国内の必要性や自国民の願いではなく、対外債務の要求に集中させることにほかならなかった。その結果は、どの国でも一連の経済成長のゆがんだパターンとなって現れた。成長が奨励されるのは、対外債務返済の手段を生み出す分野だけで、それは、対外債務返済手段を生み出す分野における成長のための資金を借りられるようにするためであり、これが繰り返されていく。ジョー・ヒル〔アメリカの労働運動の指導者〕の言葉、「われわれは仕事に行く。仕事に行くのは金を稼ぐためで、金は食べ物を買うためで、食べ物は力を出すためで、力は仕事に行くためで、仕事に行くのは金を稼ぐためで、金は食べ物を買うためで、食べ物は力を出すためで、力は仕事に行くためで……」が国際的なスケールで現実化されたようなものだ。世銀は、机上で援助計画を立てた相手の国々を貧困に追いやっていた。世銀が公言した目的と現実の展開との間にはどうしようもない矛盾があった。(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、徳間書店、pp164-166)

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    ★「五五年体制」スタート:「民主党」(三木武吉–>鳩山一郎)+「自由党」(緒方竹虎)=「自由民主党」(昭和30年11月15日結成大会)※「五五年体制」という戦後最大の愚行が、今日の政治腐敗・官僚腐敗の根源をなしていることは間違いなかろう。(戦前は政友会と民政党が互いに覇を競い、互いに切瑳琢磨し汚職にも敏感に反応し牽制しあっていた。故に政界は浄化され代議士は貧乏であった)。※「五五年体制」という保守合同は造船疑獄(1954年)から発展して賠償汚職(戦後処理としての東南アジアに対する多額の賠償金支払いに絡んだ汚職)摘発をごまかす(「臭いものに蓋」)ための大掛かりな仕掛けだったともいわれる。(「戦後賠償のからくり」などについては共同通信社『沈黙のファイル』にかなり詳しく載っている。戦中戦後についてぜひ一読して欲しい本である)★政策、経済、経営、家庭の五五年体制があったことも忘れてはならない。(行革100人委員会『民と官』より抜粋)1.政策の五五年体制:外交的には西側陣営に属し、内政的には官僚主導の業界協調体制を貫く。2.経済の五五年体制:「護送船団方式」で業界を守り、規格大量生産を目指す。3.経営の五五年体制:「閉鎖的雇用慣行」(終身雇用、年功賃金)

    「先行投資型財務体質」(配当を押さえ内部留保を厚く)

    「集団的意思決定方式」(赤信号皆で渡ればこわくない)4.家庭の五五年体制:「会社人間」「職縁社会」の形

    ☆余談<福田恆存『戦争と平和』(昭和30年、文藝春秋6月号)>私はこの人間社会から戦争は永遠になくならないと信じてをります。ある雑誌のインタヴューで、さう答へましたら、あまりにショッキングであり反動的だといふ理由で没になりました。・・・とにかく平和論とか再軍備反対とかいふものが青年一般に支持されてゐる根柢には、生命尊重の考へかたがあります。戦争中の生命蔑視の反動でありませう。さう考えれば納得がいくのですが、これは問題だとおもひます。そして、遺憾なことに、日本以外には、ほとんどどこの国にも通じない思想であります。昔は個人の命よりも祖国が大切だといふやうなことをいつた。祖国のためには死ぬことを辞さなかったのです。祖国といふと昔の国粋主義の臭ひがしていやですが、国や民族の生きかたを守らうといふ気もちは是認できます。個人の生命より全体の命を大事にするのは当然でせう。が、戦後、その全体の生命としての国家といふ観念が失はれてしまつた。ですから、個人の生命より大事なものはなくなつたのです。それを無理に焦って、変な愛国心を捏造しようとしてもだめです。そんな附け焼刃でどうにもなりはしない。が、個人の生命より大事なものはないといふのは変態だといふことくらゐ自覚しなければなりますまい。それを常態として、いや、最高原理として、戦争と平和を論じることはできません。その点を、今の若い人たちに、よく考へてもらひたいとおもひます。(文藝春秋2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

    ☆余談<鶴見俊輔「戦争映画論」(昭和32年)>鶴見はこの戦争映画論で、「本当にがんばって戦った人々にたいして、私は、何の反感も感じない」「むしろ、軍人にすっかり罪をきせてしまって、戦後に自分の席を少しずらして自由主義・民主主義の側についてしまった権力者-ー官僚、政治家、実業家たちに憎しみを感じる」と述べている。そのもっとも身近な例が、彼の父親だった。鶴見の父の祐輔は、戦前は知米派の自由主義者として知られ、国粋主義者の平沼麒一郎を「日本をわるくする元凶だ」と評していた。ところが1939年1月に平沼が内閣を組織したさい、祐輔は次官として入閣した。このとき鶴見は、「えらいと思っていた」父親が、「次官くらいのエサでもパクッと食う」ことにひどい失望と屈辱を感じた。そして祐輔は戦後に公職追放になったが、1950年代には返り咲いた。鶴見はのちに、父親が「家からいろんな人たちに電話をかけるので、話の内容で考えが変わっていくのが見えた」と回想している。また鶴見は、自分がかつて愛読していた武者小路実篤や倉田百三が、帰国してみると「鬼畜米英」の旗振り役を務めていることに怒りを覚えた。柳宗悦や宮本百合子、永井荷風などがそうした潮流に同調していないことが、わずかな救いだった。鶴見はたまたま入手した『評論家手帖』の名簿をみながら、かつての論調を変えて戦争賛美の文章を書いた知識人をチェックしていたという。こうした怒りは、後年に同世代の吉本隆明なども交えて、転向の共同研究を組織することにつながってゆく。しかし鶴見は、吉本とは大きな相違があった。兵役を経験しなかった吉本と違い、鶴見はロマンティックな戦争観とおよそ無縁だった。彼は1950年には、「私達日本人が、戦争中、日本の外に出て何をしたかー-日本に残っておられた方達には今日でも分っていないように思う」と述べ、「純粋」な少年兵たちが、狂暴な加害者でもあったことを指摘した。鶴見はそのさい、サディストとマゾヒストは表裏一体だという学説に言及しながら、こう述べている。

    日本人の多くは、小学校、中学校できびしいワクの中にはめられて、しかもそれを余り苦にしないで成長した。先生のいうままになり、全く自主性がなく、教育勅語や修身の教科書をうのみにしている、典型的なマゾヒストの優等生。…やがて十六、七歳になって、早めに学校からほうり出されて志願兵または軍属となって占領地に出る。そうするとそこで…サディスト的本能がむくむくと目ざめる。内地で数年にわたって日本精神教育を受けた少年達が、占領地に来てすぐ、毎晩酒をあびるようにのんでは女を買い、原住民の娘達を自由にし捕虜収容所で「毛唐」の首を試しぎりにしたことを自慢しているのを見た。…私連日本人は、平和の時、天皇陛下や役人にへいこらへいこらしているその同じ程度に、戦時になると、他国民に対して残虐なことをする。

    こうした視点は、「優等生」や「正義」への反抗という鶴見らしい要素も加わってはいるものの、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」や、竹内好の「ドレイとドレイの主人は同じものだ」という言葉と同質のものだった。そして何より、鶴見はジャワ時代の自分のことを、こう回想していた。「私は、この島を支配する官僚組織の末端にあって、私の上にある重みを更に苛酷なものとして現地人に伝えている。私のスタイルは同僚たちと何のかわりもない。同じ権威を背にして、二言、三言のつたない現地語で、命令を下しているばかりだ」。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.726-727)

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    ★「日米原子力協定」締結。(財)日本原子力研究所発足(1955.10)1955年末の「原子力三法」(原子力基本法、原子力委員会設置法、原子力局設置に関する法律)が成立、発効した。※「原子力三法」の重大な欠陥1.原子力平和利用は「善」であるとの大前提原子力基本法第一条:

    「この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進することによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の進行とを図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする」2.「安全」の過小評価<1957年アメリカBNL(ブルックヘブン国立研究所)の解析>

    ・・・その一方で、原発の本質が次第に明らかになっていった。まず1957年に公表された前述のアメリカのBNLの解析研究は、標準的な都市から48キロメートル離れた20万キロワットの小型の原子炉でも、「暴走事故が起これば、24キロメートル以内で即死者3400人、72キロメートル以内で負傷者43000人を出し、メリーランド州に匹敵する面積が放射能汚染されて数百年間住めなくなり、物的損害も70億ドル(当時のレートで2兆5200億円)に達する」と予測したのである。(市川定夫他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の生き方ー』、七つ森書館、p.31)3.「民主」「自主」を保障する方法の欠如原子力基本法第五条:(国会の審議無視の政策決定)

    「原子力委員会は、原子力の研究、開発及び利用に関する事項について企画し、審議し、及び決定する」(久米三四郎他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の生き方ー』、七つ森書館、pp.7-9)

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    ●1955年11月29日。アイダホ州国立原子炉試験所。高速増殖実験炉EBR-1で、実験運転中に燃料棒が曲がり、その効果によって原子炉出力が急上昇して、燃料の一部が溶けた。それは原子炉の事故のなかでも最も恐れられているメルトダウン事故ーー燃料が溶けて中に詰まっている燃えかすの放射能が大量に放出されるーーの、最初の本格的な経験だった。EBR-1は、この時点ではプルトニウムを燃料として用いていなかったが、プルトニウムを生産する目的の原子炉であり、また、いずれはプルトニウムを燃やす計画をもっていたように、プルトニウムと因縁の深い原子炉だった。メルトダウンの恐怖もまた、プルトニウムがらみでやってきたのである。(EBR-1計画はその後中止された)。

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    ■創価学会が1955年4月の選挙において最初の政界進出を果たす。東京都議会1名、23区の区議会に33名、地方都市の市議会で19名当選。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.75)■「日本電報通信」社(このときすでに広告代理店専門)が社名を変えて「電通」として発足。洗脳広告代理店として日本の政治経済全体にわたって社会を徐々に蝕んでゆく。(苫米地英人氏著『電通』サイゾー社より)

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    1956年(昭和31年):「神武景気」(~S33頃まで)のはじまり☆☆☆この1956年から1973年(「福祉元年・老人医療費無料化」)は高度経済成長期であるといわれる(経済成長率9%)☆☆☆☆「一億総白痴化」(大宅壮一):テレビの爆発的普及■日本、国際連合へ加入(1956年12月18日)並行して、米軍基地反対運動の高揚を恐れた日米政府の協議により、1950年代後半から1960年代初頭にかけて、本土の米軍基地はほぼ1/4に縮小された。しかし本土から撤退した米軍は実質的に沖縄に移動し、同時期に沖縄の基地は約2倍に増加した。こうして、沖縄を米軍に提供しつつ、アメリカの庇護下で経済成長に邁進するという体制が、しだいに固定化されていった。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.497)◎「もはや戦後ではない」(第十回『経済白書』、経企庁調査課長後藤誉之助)

    ・対インドネシア賠償総額803億円決定(1957年、岸-スカルノ)インドネシア賠償ビジネス:辻-瀬島-小林勇一-久保正雄ルート(政商久保正雄は商社「東日貿易」の社長であり、大野伴睦や河野一郎、児玉誉士夫らが株主になっていたという)。

    ・三菱重工や石川島播磨によって日本はイギリスを凌ぐ世界一の造船国となった。※「もはや戦後ではない」というフレーズは、中野好夫「もはや『戦後』ではない」(文藝春秋昭和31年2月号にその起源をもつ)※もちろん1947年(昭和22年)にケーディスが存在を指摘した「アングラ経済」も相変わらず、すくすくと成長していた。

    ・ニコラ・ザペッティ:レストラン<ニコラス>

    ・児玉誉士夫:日本プロレス協会(戦後日本権力構造の縮図)(コミッショナーは大野伴睦)

    ・ブラック・ドラゴン

    ・町井久之:<東声会>(ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』より)

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    ・フルシチョフのスターリン批判(1956.2):ソ連が開かれた国家へ

    ・「雪解け」悪名高いコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)解散(1956.2)日ソ国交回復共同宣言(1956.10):日ソ戦争状態終了。(日ソの国境線をどう引くかで折り合いがつかず平和条約締結までは至らなかった)。

    ・ハンガリー動乱(1956.10.23):フルシチョフがワルシャワ条約に基づいて戦車をブダペストに送り込んだ。

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    ■原子力開発基本計画策定

    ・日本原子力研究所、原子燃料公社、放射線医学研究所設立

    ・三井、三菱、住友、日立、第一の五つの財閥グループでそれぞれ原子力産業グループを結成

    ・経団連と電機事業連合会を中心に日本原子力産業会議を設立■創価学会が1956年の参議院選挙において全国区で2名、大阪地方区で1名を当選させた。獲得票数は99万票。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.75)

    ★経済の二重構造の悲しみ雇用が増加すれば賃金が上昇するはずであるが、中小企業の従業員は、依然として低賃金に苦しんでいた。中小企業の雇用は非常に増加したにもかかわらず、その賃金はほとんど上昇せず、大企業の従業員の賃金との格差は拡大したままだった。従業員二十人前後の企業で働く人達の年所得は、五百人以上の工場で働く人々の40%ぐらいだった。(銀行融資に守られた大企業とそうでない中小企業の生産性の格差がその一因だった)

    ※総評はこの経済の二重構造是正のために長期ストライキ方式から春闘方式へと闘争方法を変えた(太田薫、岩井章)。この労働運動は日本がアメリカの対ソ、対軍事体制に徐々に組み込まれて行くことに反対する平和運動と重なっていた。(以上、竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

    ★沖縄で、軍用地代の支払い問題をきっかけとした島ぐるみの反基地、反米運動の盛り上がり★砂川事件(S31年10月)東京都立川市の米軍基地拡張をめぐって警官隊と学生・住民が衝突し、多数の負傷者を出した。

    ★石橋湛山内閣成立(S31年12月14日):石橋はアメリカに嫌われていた※反官僚政治を唱える石橋湛山と官僚の権化、統制経済論者の岸信介との戦いのなかで、かろうじて成立。(岸:223vs(石橋:151+石井光次郎:137))※石橋湛山は組織に寄りかかることなくジャーナリストとして、政治家として戦前戦中は日本軍と戦い戦後は米国の軍と戦った。しかし戦後日本の希望の星

    「石橋湛山政権」は、彼の病気(脳卒中、心房細動、肺炎、全身衰弱)のために僅か71日で終焉した。

    #「湛山先生が総裁公選で、僅少の差で岸を破り、首相になった時、私は本当に地獄で仏に会ったような喜びを感じました。神が、まだ悪徳日本を見捨てていなかったのかとすら思ったのです。・・・(中略)・・・ところが・・・私は失望しました。自身の前途を医者の判断に一任した湛山先生の人生観に、いささか女々しさを感じました。なぜ議会の壇上で倒れるまで、所信を実行する気概を示さなかったのか、と考えました。・・・・・以来『石橋湛山』なるものは、私にとって”生ける屍”となったんですよ。戦争時代の権力層は、国民にとって、集団強盗と同性質の暴力的支配者であった。その支配者が、戦後の日本に再び居直って、悪魔の支配を持続させているのが実情ではなかったか。戦後の日本を民主主義によって更生させるためには何としても、一度、彼らの手から権力を払い落とさなければならなかった。片山・芦田・鳩山の敗北の次に、悪魔の力に対抗できる汚れなき前歴と、実行力とを持った者は石橋湛山以外にはなかったであろう。おそらく大部分の醒めたる国民は、石橋内閣に期待したと信ずる。また、日蓮宗の権大僧正の位にある氏が、国の柱となって、立正安国の実を挙げる一生一度の機会ではなかったろうか。その後の自民党と官僚の合体政治の腐敗や、これに伴う一般国民の道義観念の喪失を想う時私が湛山先生を”生ける屍”と嘆いたことは、失当ではなかったと信ずるが如何」(戦う弁護士、正木ひろし氏著『挂冠を怒る』より引用)

    ※このあと、日本の政治が「官僚独裁政治」に向かってまっしぐらにすすみ政治家が政治を行うという本来の姿に立ち戻ることはなかった。(このシステムは1990年代後半に官僚どもが、贈収賄や横領や不正な利益供与など様々な不祥事を起こして、世論の一斉の非難を浴びるまで続いた。それでも常にこの国は政治権力、行政権力、財界権力が互いに権力闘争するという三重権力構造で成り立っているのである)

    #日本は国民主権ではなく、官僚主権です。官僚たちが政治家を神輿にのせ、ワッショイ、ワッショイと思いのままに、あっちこっちに跳梁しています。#霞が関には血の通った人間がいないのです。一つの制度が化け物のように権力を持って動いているだけの話です。#各省庁の事務次官は、各分野の代表なのです。国民の選挙で選ばれてない官僚が、実質的には代表になっているという摩訶不思議な官僚国家が日本というわけです。#委員会で官僚の答弁を年中受けていますが、彼らは自分の言ってることが、どのくらい恥ずかしくて論理性のないものかということを、わかっていながら平気でやるのです。まともに答えていたら省益にかかわる、だからここはおかしくても嘘をつく、あるいは答えない、全然違う答えを笑いもしないでやるのです。(以上、中村敦夫氏『この国の八百長を見つけたり』より)

    ★ジラード事件(1957年、昭和32年1月30日)アメリカ陸軍の三等特技兵WS.ジラードが群馬県のアメリカ軍の演習場で薬莢拾いをしていた一人の日本人を射殺した。この事件でアイゼンハワー大統領、アメリカ議会、社会党(日本)政治家、日本のマスコミは裁判管轄権について大いにもめた。アイゼンハワー大統領は裁判管轄権放棄の立場を貫いたが、これを境に日本との安全保障条約の再検討を強く促された。(マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』市川洋一訳、草思社、pp.224-225、pp.230-231)

    ★岸信介内閣が「国防の基本方針」を定めた(1957年、昭和32年5月20日)。しかし国防の実体は米軍におんぶにだっこの状態だった。(岸の政治目標:吉田内閣の「占領政治体制」を是正して、独立国家に相応しい体制をつくる)

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    ・エジプト、ナセル大統領がスエズ運河国有化宣言(1956.7.26)

    ・第二次中東戦争(1956.10.29):ナセルは戦場では完敗したがアラブ民族主義の英雄、第三世界のリーダーとなった。

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    ・宇宙時代の幕開け(1957年10月4日)ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ。米国はフォン・ブラウン、ソ連ではセルゲイ・コロリョフ(偽名:K.セルゲーエフ)が中心的役割を果たした。アメリカ陸軍がエクスプローラー1号の打ち上げに成功したのは1958年1月4日だった(ヴァン・アレン帯発見)。

    ・インフルエンザ(アジア風邪、H2N2)の猛威(1957年)世界中で約100万人が死亡

    ・この頃はまだ毎年200万人が天然痘で死亡していた。(—>1967年の本格的天然痘撲滅作戦開始に至る)

    ●ローマ条約締結:EEC設立基本条約調印(1957年3月25日)(参加国:ドイツ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ

    ・ルクセンブルク)

    ●1956年~1958年末、アメリカ合衆国経済アメリカ合衆国で3%のインフレ、消費者物価が2.7%上昇。失業者100万人以上増加、失業率7%。(公定歩合を1.5%—>4.0%に引きあげ、ひとまずインフレを乗り切った。アメリカは1964年まで5%の経済成長を達成)

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    ●1957年2月と1958年1月。ソ連の南ウラルでプルトニウム関連核廃棄物貯蔵施設で大爆発(『ウラルの核惨事』(邦訳『技術と人間』1982)。

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    ●イギリスの支援するイラク政権が、アブドル・カリム・カーシムによって打倒された(1958年)。これは世界の主要なエネルギー資源に対する米英の共同管理が破綻した最初の例だった。(—>1963年、アメリカはバース党とサダム・フセインを支援して体制転換を果たした)。(ノーム・チョムスキー『破綻するアメリカ壊れゆく世界』鈴木主税・浅岡政子訳、集英社、p.187-189)

    ★東京タワー完成(1958年、昭和33年)この頃はまだまだ東京には高いビルは殆どなく東京全体がまっ平らな感じだったという。(生方幸夫氏『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』新潮OH文庫)

    ■売春汚職事件■グラマン・ロッキード事件(1958年~1959年)航空自衛隊の第一次FX(時期主力戦闘機)に内定していたグラマン社からロッキード社への逆転をめぐり、政界に数億円もの金が流れたという疑惑。児玉誉士夫(ロッキード社の秘密代理人)、森脇将光、田中彰治、河野一郎、川島正次郎、岸などそうそうたるワルのメンバーが名を連ねたが、検察・警察の捜査は行われなかった。#児玉誉士夫の主治医、東京女子医大教授、喜多村孝一が提出した児玉誉士夫の病状に対する診断書は大ウソだった。さらに国会医師団の事情聴取に対して、セルシン+フェノバールで昏睡を装わせていた。(平野貞夫『昭和天皇の「極秘指令」』講談社、pp.53-54)

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    ・郵政大臣田中角栄が作った”特定郵便局制度調査会”が特定郵便局の存続を認めるという答申を提出(昭和33年1月)。これをきっかけに全国特定郵便局長会は無条件で田中派議員の選挙を応援しはじめた。(町田徹氏著『日本郵政』日本経済新聞社、pp.38-41)

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    1959年(昭和34年):伊勢湾台風。死者行方不明者7500人。★大型の「岩戸景気」のはじまり

    「岩戸景気」は日本の主要産業が海外の先端技術を大規模に導入して、世界のレベルに飛躍する過程で発生した大型景気だった。1.スケール・メリットの追求:十数倍の生産能力、運搬能力など2.材料革命:合成繊維、合成ゴム、プラスチックなどが天然産にとって代わった。3.消費革命の進展:三種の神器(洗濯機、テレビ、冷蔵庫)の爆発的普及。4.プロセス・オートメーション技術の進歩5.エネルギー革命:中近東大型油田の開発、原油の大量輸送、原油価格低下により発電が「火主水従」「油主炭従」に変わった。

    #太平洋ベルト地帯では、白砂青松の地次々に埋め立てられて、大規模なコンビナート、製鉄所、造船所、耐久消費財産業の工場が建設され、近代的な港湾施設が作られた。それとともに海は次第に汚くなり、大気の汚染が目立ちはじめた。(竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

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    ●カストロがキューバ革命に成功(1959.1)

    ・永井荷風死去。吐血。(昭和34年4月30日)

    ●米ソ首脳会談実現(1959.9):フルシチョフとアイゼンハワー

    ●中国、「大躍進」政策(製鉄の推奨–>農民が農業に従事できず)の大失敗から大飢饉の到来(1960前後)。中国全体の餓死者は3000万人に上ったといわれる。(ユン・チアン『ワイルド・スワン<上>』土屋京子訳、講談社、p.319)

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    ★社会党内の深刻な対立の激化(合同後数年で分裂)社会党内の深刻な対立は、岸の立場を強めた。1955年に左右の合同によって生まれた社会党は安定を欠き、総評と結びついた左派と、より穏健な労働組合の連合組織である仝労に基礎を置く右派との協力関係は、不安定なものだった。一時は、国会で多数を占めることができるという期待が両派の主義の違いをおおい隠した。だが、1958年の衆議院選挙と59年の参議院選挙での後退のため、社会党の団結に歪みが生じた。1959年に、全労が条約改定に反対する国民会議への参加を拒否し、総評が全労を組合の分裂を策するものだ、と非難したとき、社会党の両派の亀裂が広がった。1959年12月に社会党右派の指導者西尾末広は日本社会党を脱党し、民主社会党を組織した。その国会での勢力は衆議院が37議席、参議院が16議席で、これに村し日本社会党は衆議院が38議席、参議院が69議席であった。日本社会党と総評は階級闘争のマルクス主義を信奉し、一方、民主社会党と全労はアメリカ人にもなじみ深い生活権擁護の労働運動を主張した。民社党と全労は安全保障条約反対の戦闘的なストライキや大衆行動に反対し、民社党はアメリカとの安全保障上との結びつきを交渉によって徐々にゆるめていくことを主張した。1958年以来、アメリカと自民党は、西尾や全労にひそかに資金援助をすることによって、社会党の分裂を策し、岸と池田は、民社党の幹部に資金を提供して接触を維持し、民社党が条約改定を支持してくれるか、少なくとも批准のための国会審議を混乱させないようにしてくれることを期待した。(マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』市川洋一訳、草思社、pp.256-257)

    ★安保条約改定阻止国民会議結成(昭和34年3月28日)総評、原水協、護憲連合、日中国交回復国民会議、全国基地連の五団体が率先し、社会党はじめ合計134団体が加わって。共産党も幹事団体でないものの参加を認められた。(社会党右派(–>S35.1に分裂し民社党)は共産党参加に反発、全労と新産別は加入せず)。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.503-504)

    ■創価学会が1959年の参議院選挙において6議席を獲得。獲得票数は248万票。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、p.75)

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    1960年(昭和35年)★新安保条約(日本国とアメリカ合衆国の間の相互協力及び安全保障条約)の調印(ワシントン、1960年1月19日)(原子力潜水艦への核兵器の積み込みは禁止されているという発表だったが、実際は口頭の合意で自由だった)。

    ————–<余談:岸信介について>————–

    作家の伊藤整は、国会傍聴で岸を目撃した印象を、こう述べている。「おや会社員みたいな人間だな、と考えた」「私が保守系の政治家にしばしば見ていた人間とは異質なものであった」「理想を持つ人、人格的な人間、豪傑風の人間などを国民は漠然と首相なるものの中に期待する。その資格のどれもが岸信介にはないのである」。伊藤の形容にしたがえば、岸は「既成政党と党人の弱点を握り、内側からそれを智略によって支配して首相の座に這いのぼった」「知識階級人のいやらしいタイプの一つ」であった。伊藤がみた岸には、巧みな計算と要領の良さ、権威的でありながらそつがない「優等生的」「官僚的」な姿勢、そして戦争責任の忘却など、戦後知識人たちが批判してきた要素のすべてが備わっていた。そして伊藤は、そうした岸に「自分の中にありながら、自分があんまり認めたがらない何か」を見出して、「はっとしたというか、ぎょっとしたと言うに近いショックを受けた」という。60年安保において、岸があれほど反発を買ったのも、こうした岸の特性を抜きには語れない。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.500)

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    ★第一次安保闘争:与野党の対立激化、巨大なデモ(全国約600万人)とストライキの頻発(労働組合の大規模な政治運動の最後だった)■アメリカの属国としての立場からの独立を目指した平和運動。(平和=国と国とが戦争をしていない状態)■当時の支配階級は裏社会のヒト達を利用してこれを弾圧した。ここにあらためてEstablishmentとUndergroundの怪しい関係が再構築されるに至ったものと思われる。(この後権力闘争、汚職などあらゆる形で時々表面化した)。■憲法改正と日本の再軍備を約束して米国から帰国した岸首相は樺美智子さんの圧死によって、国防に関する所信を放棄して辞職した。(昭和35年7月15日)—>★憲法改正論の頓挫■第一次安保闘争は「反岸」運動だったともいえる。岸が代表すると思われた戦前の権威主義的な国家主義に反対する運動だった。

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    ★自民党の(お家芸)強行採決(安保承認と会期延長)(1960年5月19日深夜)

    ・・・しかし結局、社会党議員団は排除された。自民党議員たちは、「ざまあみやがれ」「お前なんか代議士やめちまえ」といった罵声を浴びせながら、議場の入口を破壊して入場した。清瀬一郎議長がマイクを握り、会期延長と新安保承認の採決を行なうまで、わずか15分ほどのできごとだった。この強引な採決方法は、じつは自民党内でも、十分に知らされていなかった。清瀬議長も多くの議員も、会期延長だけの議決だと思っていたところ、岸の側近に促された議長が新安保採決を宣言し、一気に議決してしまったというのが実情だった。自民党副総裁の大野伴睦は、安保議決を議場ではじめて知らされ、岸の弟である佐藤栄作蔵相に抗議したところ、「はじめから知らせたら、みんなバレちまうから」と返答されたという。こうした岸の手法は、自民党内でも反発をよんだ。岸にすれば、安保承認には、自分の面子と政権延命がかかっていた。しかし新安保が今後10年以上にわたって日本の運命を決定することは、賛否を問わずみなが承知していた。その重要条約が、このような方法で議決されることに抗議し、自民党議員27名が欠席した。その一人であった平野三郎は、こうした方法で「安保強行を決意するような人に、どうして民族の安全を託し得ようか」と岸を批判した。三木武夫や河野一郎も退席し、病気療養中だった前首相の石橋湛山は「自宅でラジオを聞いて、おこって寝てしまった」。議場突破の状況に反発して帰宅した松村謙三は、車中のラジオで安保可決のニュースを聞き、「『ああ、日本はどうなるのだろう』と暗然とした」という。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.508-509)

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    ※民主主義がおわればファシズムです。……既成事実を積みあげる岸の政治手法は、戦争に突入した時代の記憶をよびおこした。竹内好は、5月19日に深夜のラジオで強行採決のニュースを聞いたあとの心情を、23日にこう記している。

    私は寝床を出ました。もう眠れません。健康のためひかえている酒を台所から出してきて、ひとりでのみました。……これで民主主義はおわった、引導を渡された、という感じが最初にしました。民主主義がおわればファシズムです。ファシズムは将来の危険でなく、目の前の現実となったのです。ファシズムの下でどう生きるべきか。あれやこれや思いは乱れるばかりです。ともかく態度決定をしなければならない。私の場合、亡命はできないし、国籍離脱もできない。

    屈辱と悔恨に満ちた戦争の時代を生きた人びとにとって、強行採決は「ファシズムの下でどう生きるべきか」といぅ危磯感を与えるものだった。竹内は本気で亡命を考えたあと、それを断念し、日本にとどまって岸政権と闘う覚悟を決めた。こうした戦争の記憶の想起は、竹内だけのものではなかった。作家の野上瀰生子は、「あの流儀でやれば徴兵制度の復活であろうが、或はまた戦争さえもが強行採決されるのだ、と考えれば慄然とする」と述べた。さらに鶴見俊輔は、こう述べている。

    ……戦時の革新官僚であり開戦当時の大臣でもあった岸信介が総理大臣になったことは、すべてがうやむやにおわってしまうという特殊構造を日本の精神史がもっているかのように考えさせた。はじめは民主主義者になりすましたかのようにそつなくふるまった岸首相とその流派は、やがて自民党絶対多数の上にたって、戦前と似た官僚主義的方法にかえって既成事実のつみかさねをはじめた。それは、張作霖爆殺-満洲事変以来、日本の軍部官僚がくりかえし国民にたいして用いて成功して来た方法である。……5月19日のこの処置にたいするふんがいは、われわれを、遠く敗戦の時点に、またさらに遠く満洲事変の時点に一挙にさかのぽらした。私は、今までふたしかでとらえにくかった日本歴史の形が、一つの点に凝集してゆくのを感じた。

    前述したように岸には、官僚的な権威主義、アメリカヘの従属、戦争責任の忘却、そして「卑劣」さといった、戦後思想が嫌悪してきたものすべてが備わっていた。鶴見は、「岸首相ほど見事に、昭和時代における日本の支配者を代表するものはない。これより見事な単一の象徴は考えられない」と述べ、「日本で現在たたかわれているのは、実質的には敗北前に日本を支配した国家と敗北後にうまれた国家との二つの国家のたたかいである」と唱えた。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.510-512)

    ※悪魔の再来と戦うために(筆者注:竹内好は言う)しかし岸さんのような人が出てくる根ー-これが結局、私たち国民の心にある、弱い心にある、依頼心、人にすがりつく、自分で自分のことを決めかねる、決断がつかない、という国民の、私たち一人一人の心の底にあるー-かくされているところのそれを、自分で見つめることがためらわれるような弱い心が、そういうファシズムを培ってゆく、ということを忘れてはなりません。たしかに本当の敵はわが心にあります。自分で自分の弱い心に鞭うって、自分で自分の奴隷根性を見つめ、それを叩き直すという辛い戦いがこの戦いです。国民の一人一人が眼覚めてゆく過程が、わが国全体が民主化する過程と重なります。…………時間を犠牲にし、金を犠牲にして……こうしたことをやっているのは、大きな実りを得たいからなのです。……それはめいめい、この戦いを通じて、戦いの後に国民の一人一人が大きな知恵の袋を自分のものにするということです。どういう困難な境遇に立っても、めげずに生きてゆけるような、いつも生命の泉が噴き出るような、大きな知恵の袋をめいめいが自分のものにするように戦ってまいりましょう。

    1960年6月において、このメッセージは大きな共感をもって迎えられた。岸政権との闘いは、いまや人びとにとって、戦後日本と自分自身の内部にある、否定的なものとの闘いとなっていた。竹内はさらに6月12日の講演で、こう述べている。

    どうか皆さんも、それぞれの持ち場持ち場で、この戦いの中で自分を鍛える、自分を鍛えることによって国民を、自由な人間の集まりである日本の民族の集合体に鍛えていただきたい。……私はやはり愛国ということが大事だと思います。日本の民族の光栄ある過去に、かつてなかったこういう非常事態に際して、日本人の全力を発揮することによって、民族の光栄ある歴史を書きかえる。将来に向って子孫に恥かしくない行動、日本人として恥かしくない行動をとるというこの戦いの中で、皆さんと相ともに手を携えていきたいと思います。

    のちに保守派に転じた江藤淳も、6月初めに執筆した評論で岸政権との闘いを説き、読者にこう訴えた。「もし、ここでわれわれが勝てば、日本人は戦後はじめて自分の手で自分の運命をえらびとることができるのである」。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.513-514)

    ※このころの右翼こうした運動を攻撃したのが、右翼団体だった。6月15日夕方、「維新行動隊」の旗を掲げた右巽が、二台のトラックで国会周辺の新劇人の隊列に突っこみ、釘を打ちこんだ棍棒と鉄棒で殴りかかった。このとき国会を警備していた警官隊は右翼を制止せず、女性が主に狙われ、約60人が重軽傷を負ったといわれる。敗戦後に低迷していた右翼運動は岸政権のもとで伸張し、1958年1月には、元内相の安倍源基や防衛庁長官の木村篤太郎などを代表理事として、新日本協議会が結成されていた。翌1959年には全日本愛国者団体会議が誕生して、この両団体は安保改定促進運動を展開していた。日教組の教研集会に対する右翼の妨害が始まったのも、1958年からだった。自民党の幹事長だった川島正次郎は、アイゼンハワー訪日の警備と歓迎のため、こうした右翼団体を動員する計画を立てていた。右翼による襲撃は全学連主流派を刺激し、この6月15日の午後5時半には、学生たちが国会構内に突入した。しかし共産党は、「反米愛国」のスローガンのもと、傘下のデモ隊を国会前からアメリカ大使館の方に誘導して解散させた。孤立した全学連主流派のデモ隊は警官隊に制圧され、負傷者は救急車で運ばれた者だけで589名にのぼり、東京大学の女子学生だった樺美智子が死亡した。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.533-534)

    ※樺美智子誰かが私を笑っているこっちでも向うでも私をあざ笑っているでもかまわないさ私は自分の道を行く笑っている連中もやはり各々の道を行くだろうよく云うじゃないか「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と

    でも私はいつまでも笑わないだろういつまでも笑えないだろうそれでいいのだただ許されるものなら最後に人知れずほほえみたいものだ(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.536)

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    Reply
  19. shinichi Post author

    ★新しい安保条約はアメリカの日本防衛義務を明文化し、その義務と日本とアメリカに基地を提供する義務との間の双務関係(相互性)を明確にした。

    ・・・しかし日本は、この新しい安保条約においても、旧条約と同じようにアメリカ領土の防衛義務をいっさい負わなかった(負えなかった)。・・・つまり安保条約は、改定によって相互性の明確化という意味ではより対等な条約に変化したが、そこからさらに対等な相互防衛条約に発展するのはかえって難しくなったかもしれない。※安保改定の主要なポイント1.国連憲章との関係の明確化2.日米の政治的・経済的協力3.いわゆるヴァンデンバーグ条項の挿入=憲法上の規定に従うという留保のもとで、日本に対して自衛力の維持発展を義務づけた。4.協議事項5.アメリカの日本防衛義務の明確化6.日本の施政下においてアメリカを守る日本の義務の明確化7.事前協議制度<事前協議における極秘の取り決め=いずれも推察>

    ・事前協議は米軍の日本からの撤退には適用されない

    ・核兵器の導入のみに事前協議は適用されること

    ・日本の基地からの直接出撃のみに事前協議を行う

    ・核搭載艦船の寄港を事前協議の対象外とする8.条約に期限を設けた(10年)=10年間が経過した後は日米いずれかが通告すれば一年で終了9.いわゆる内乱条項を削除=旧条約では、日本政府の要請に基づいて米軍を日本国内の内乱および騒擾の鎮圧に用いることができる、と規定されていた。10.行政協定を改定=在日米軍の諸権利・特権についてNATO方式との平準化をはかった。日米両政府の摩擦の種であった防衛分担金は廃止※西村熊雄の比喩鰹節を進呈するとき、裸でおとどけするのは礼を失する。安保条約は、いわば、裸の鰹節の進呈である。日本人は裸の鰹節をとどけられて眉をひそめた格好であった。新条約は桐箱におさめ、奉書で包み、水引をかけ、のしまでつけた鰹節と思えばよろしい。桐箱は「国際連合憲章」(第一条、第七条)であり、奉書は「日米世界観の共通」(第二条)であり、水引は「協議事項」(第四条)であり、のしは「十年後さらによりよきものに代え得る期待」(第十条)である。裸の鰹節と桐箱におさめられた鰹節では、とどけられる者にとり、大きな相違がある。心ある日本人は新しい条約を快く受け入れてくれるに違いない。(以上、坂本一哉氏著『日米同盟の絆』より引用)

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    ◆◆◆安全保障の問題では日米双方、事を荒だてないようにしよう◆◆◆

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    ■社会党浅沼稲次郎委員長刺殺される。(1960.10.12)

    ◎池田内閣の「所得倍増」の喧伝(政治的対立の回避と保守政治の安定路線)国防という国家の基本にかかわる政治論争を回避した。これにより日本は真の独立国家を目指すことを止め、極東の産業地帯になろうとした。(池田、岸、佐藤派の官僚が池田政権を支えた)(沢木耕太郎氏著『危機の宰相』文春文庫など)

    ★「貿易・為替自由化計画大綱」が閣議決定される(1960.6.24)石坂泰三(経団連)の強力に主張、日本商工会議所会頭足立正の賛成。(菊地信輝氏著『財界とは何か』平凡社、pp.163-166)★黒沢明監督作品『悪い奴ほどよく眠る』が公開される。政界・官界・財界の三つ巴の構造汚職をテーマにした名作。※「大物黒幕」概観(以下、立石勝規氏著『金融腐敗の原点』を参考にした)

    ・児玉誉士夫:政界への「フィクサー」、政財界の月光仮面戦後最大の黒幕。巣鴨プリズンでA級戦犯岸信介と親しくなった。(河野一郎、大野伴睦は岸の盟友)さらに田中彰治(「国会の爆弾男」)の協力で「児玉-森脇-田中彰治」ラインができ、この関係は1964年(S.39)頃の田中角栄の台頭まで続いた。(—>後「児玉-小佐野-田中角栄」ラインとして継続)

    ・辻嘉六:戦前からの政界のスポンサー、自由党結成に資金援助

    ・三浦義一:「室町将軍」、大物右翼、よろず相談所東条英機とのつながり。GHQ-G2のウィロビーと親しかった。一万田尚登(日銀の法皇とよばれた)と縁戚関係

    ・矢次一夫:岸信介の「盟友」(昭和の怪物)、空前絶後の黒幕、大政翼賛会参与など陸軍省軍務局事務課(政界と陸軍のパイプ)官僚との癒着

    ・高瀬青山:沈黙の「怪物」(山下奉文大将の「私設高級顧問」だった)緒方竹虎(元大政翼賛会副総裁、元自由党総裁)、五島慶太(東急)とのつながり

    ・森脇将光:ヤミ金融王、森脇メモ(造船疑獄を暴露)で日本を震撼させた。森脇調査機関主幹。(「児玉-森脇-田中彰治」ラインによる暗躍)

    ・小佐野賢治:田中角栄の刎頚の友

    ・笹川良一:「競艇のドン」「岸->佐藤-矢次-笹川」ライン

    ・田中清玄:児玉誉士夫と対立、GHQ高官と親交、転向した反共主義者。信じ難いスケールと内容の国際人脈をもつ。巨大労組、日本電気産業労働組合との戦いの中で力をつけた。(共産党系を排除して民主化同盟の主導権を確立)インドネシア産原油輸入において、岸信介と激しく利権闘争し、ついに勝利した。この裏にはスハルトとの親交があった。田中清玄は岸の権力的・官僚的エンジニアリングの思想が嫌いだったという。(後半部は宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論拠』筑摩書房、p.304より)

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    ★1960年代は米国において、放射性物質投与による人体実験や抗癌治療に名を借りた放射能全身照射(TBI)が華やかな狂気の時代であった。(アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<下>』)++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++<プルトニウムーーこの世で最も毒性の強い元素>プルトニウムは、この世で最も竜性の強い物質のひとつ、とよくいわれる。後から述べるように、その毒性の評価は未だ専門家の間でも大きく意見の分れるところだが、どんな評価をとっても、プルトニウムが「地獄の王の元素」の名にふさわしく、超猛毒の物質であることには、まぎれがない。その毒性がこの元素を大きく特徴づけることになった。現行の許容量の妥当性には、さまざまな疑義が提出されているが、現行の許容量をとっても、一般人の肺の中にとりこむ限度は、プルトニウム239の場合、0.0016マイクロキュリー(1600ピコキュリー)とされている。これは重量にして4000万分の1グラムほどに過ぎず、もちろん目に見える量ではない。骨を決定臓器とした場合の許容量も、0.0036マイクロキュリーと小さい。このように大きな毒性が生じる最大の原因は、その放出するアルファ線である。アルファ線は、その通路に沿って電子をたたき出すが、これが放射線のもたらす生体に対する悪影響の主な原因である。このような放射線の作用を電離作用と呼んでいる。電離作用が生体結合に与える破壊・損傷効果によって、いろいろな障害がもたらされるのである。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、p205:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集として再録)++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ★ブレトン・ウッズ体制の影響について(1960年末の状況)

    ・アメリカの貨幣用金の減少:220億ドル(1958年)–>180億ドル(1960年)

    ・外国人所有ドル預金と財務省短期債券の増加:80億ドル(1950年)–>200億ドル(1960年)※1960年末の時点で、アメリカの金保有高は実質的に底をついていた。※1960年10月27日、アメリカ大統領選で、ケネディ有利の影響で、従来金1オンスが35ドルであったが、急に40ドルに跳ね上がった。※1960年~1964年の5年間のアメリカ合衆国の経済

    ・輸入総額:800億ドル

    ・国外の軍隊維持:110億ドル

    ・外国への投資、他国での資産形成:290億ドル

    ・外国旅行、経済援助:180億ドル(鳥越注:1ドル360円として、約50兆円の大散財)(P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)

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    ★アメリカの途上国援助の条件(内幕):輸出部門中心の世界銀行からの貸付輸出能力が高まれば、国内経済に二つの好ましい影響を及ぼすというのが、その根拠だった。輸出から得られた収入で農産物や工業製品を輸入できるようになるだろうし、さらに、借り手国内に収入を生み出すことで、その国の農業や工業製品産業を支えることができるにちがいない……。こうして世銀貸付のおかげで、借り手国の国内消費経済は安定し、同時に輸出能力の拡大によってその国は工業的に豊かになるはずだった。これは、完全無欠な理論だった。つまり、もし現実がそのとおりなら、完全無欠だったにちがいない。この理論の根底には、事実を解釈する際の誤りがあった。インプットとしての貸付は、考えられたような結果を実際に生み出すかもしれない。だが、償還局面でのアウトプットとしての貸付についてはどうか?この間いはなおざりにされた。理論的に貸付は贈与の一種として扱われ、その利子を伴う償還は、交換可能通貨の形において、生み出される輸出収入より小さいと仮定されたのだ。借り手の国々は、まるで、借り入れた資金を利用しての現金収益が債務償還と利子支払いを合わせた資金流出より確実に多い、堅実な会社であるかのように扱われた。残念ながら、それらの国々が途上国と目されるゆえんは、まさにそういう特徴が欠如しているからにほかならなかったのだが……。途上国経済の非消費部門に莫大な量の資本投入を行った効果の一つは、途上国経済の能力では消費財部門の産出を増加させてそれを相殺できないほどの、所得の伸びだった。こうして輸出と同じく輸入が伸び、それらの国々が輸出収入の増加をもとに債務償還義務を果たしていく実質的な能力は大きく狭まった。さらに、途上国経済の急激な工業化の結果として、工場で職を得ようとする人々が田舎から都会にあふれでてきた。とはいえ雇用の伸びは、土地を離れた人々を都市産業に吸収するには追いつかない。農民や日雇い労働者としての以前の生活水準がいかにみじめなものであろうと、少なくとも彼らは自活していた。だが吸収力の十分でない都市産業の磁力に引かれて土地を離れた人々は自立できず、必然的に国の資源を食いつぶすことになる。それに加えて、人々が農村を離れたせいで、食糧の生産は落ち、蓄えも乏しくなつた。輸入ーー今や食糧のーーを増大させる副次的な必要性が起こり、時が経ち、人々の都市への流入が続くにつれてますます拡大していった。農村人口の減少のせいで農産物の生産高が減り、必須食料品の市場での需要が増加するにつれて、国内の物価はどこの国でも暴騰した。急激な工業化がもたらした全体的な効果は、自給能力を弱めてそれら途上国の経済を不安定にし、その結果のインフレによりすでに量の増えていた輸入品の価格を増大させることだった。結果として、途上国の毎年の債務返済費用は、1968年までに47億ドルに達した。これは、1960年代初めの10パーセントと比して、総輸出の20パーセントに匹敵する。援助借入国は、交換可能通貨の面から見て信用貸し可能性の絶対的限界にまで至っていた。利子の支払いと過去の援助借入の返済を、悪化していく貿易・サービス収支から支払わなくてはならなかったのだ。この膨大な債務に資金を再供給し、少なくとも通常の支払能力を維持するために、途上国は自国の経済成長の方向を変えざるをえなくなり、農業や消費財産業の拡大を制限して、以前にもまして輸出部門に力を注いだ。これはある形の強制的貯蓄であり、自国の経済を国内の必要性や自国民の願いではなく、対外債務の要求に集中させることにほかならなかった。その結果は、どの国でも一連の経済成長のゆがんだパターンとなって現れた。成長が奨励されるのは、対外債務返済の手段を生み出す分野だけで、それは、対外債務返済手段を生み出す分野における成長のための資金を借りられるようにするためであり、これが繰り返されていく。ジョー・ヒル〔アメリカの労働運動の指導者〕の言葉、「われわれは仕事に行く。仕事に行くのは金を稼ぐためで、金は食べ物を買うためで、食べ物は力を出すためで、力は仕事に行くためで、仕事に行くのは金を稼ぐためで、金は食べ物を買うためで、食べ物は力を出すためで、力は仕事に行くためで……」が国際的なスケールで現実化されたようなものだ。世銀は、机上で援助計画を立てた相手の国々を貧困に追いやっていた。世銀が公言した目的と現実の展開との間にはどうしようもない矛盾があった。(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、徳間書店、pp164-166)

    ★OPEC(石油輸出国機構)結成(1960年9月14日)世界の石油争奪戦(アメリカの憂鬱)のはじまり。ベネズエラが提唱しイラン・イラク・クェート・サウジアラビアが加入。これにより大手石油会社が石油価格をコントロールすることが不可能になった。その後アルジェリア、インドネシア、リビア、ナイジェリア、カタール、アラブ首長国連邦が加盟。

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    石油経済とそれを支配するアメリカの地位は、つねに二つの条件に支えられていた。ひとつは安定的な石油供給であり、もうひとつは増大の一途をたどる石油需要を満たし続ける能力である(この需要を満たすには既存の油田の産油量を増やすか、別の油田を新しく見つける必要があった)。しかし、この二つの前提条件は崩れ始め、「安定的な石油供給」はもはや保証されなくなっていた。1946年にはアメリカの石油消費量は国内産油量を上回り、アメリカは同国史上初めて石油の純輸入国となった。このことはきわめて大きな影響をもたらした。ある歴史家が記述したとおり、二度の戦争をつうじて世界に石油を供給したアメリカは、「実際には石油の輸入国になっていて、ベネズエラやサウジアラビアから石油を輸入しなければ、同国の東海岸は凍りついてしまう」状況にあった。ここへきてアメリカ国民は、イギリスやヨーロッパ大陸諸国、日本が長年抱えてきた悩みや不安を実感するようになった。アメリカは、経済・軍事大国でありながらその生命線を他国に支配されるという、二十世紀の大いなる矛盾を体現する国になったのである。そして、この不安定な状況をさらに危うくするかのように、”外国産”の石油も急に当てにならなくなった。1938年、憤慨したメキシコ政府は石油産業を国営化したが、そのときの怒りが欧米諸国に石油を支配された他の産油国にも広まったのだ。石油の重要性が高まり、力と富の獲得にあたって今後は石油がカギを握ることが明確になると、産油国は力と富を自国にもっと分け与えるよう要求するようになった。ベネズエラは石油価格を引き上げ、中東の産油国に外交ルートで接近を図るようになった。1948年には、イスラエル建国に激怒したアラブ諸国が、アメリカをはじめイスラエルを支持する国すべてに対して石油輸出の中止を警告するという、きわめて深刻な事態も生じた。その三年後にも未来を予感させる出来事が起きた。イランがイギリスやアメリカの大手石油会社を国内から追放して、石油産業を国営化したのだ。他の産油国もこれに続き、1960年には世界初の石油カルテルである石油輸出国機構(OPEC)が結成された。突如として、世界の石油産業地図は世界の政治不安を示す図に変わってしまったかのようだった。そうした政治不安がどこよりも顕著だったのが中東である。中東の石油埋蔵量が世界の総産油量の半分をゆうに超えることはすでに知られていた。かつてはごく少数の国際石油会社が世界の石油産業の大部分を支配していたが、ほんの数年のうちに、その支配権はペトロステートという新たなプレーヤーの手に移った。ペトロステートとは、サウジアラビアやベネズエラなど、豊富な石油埋蔵量を誇る国々の新たな呼び名である。運命が一転した石油メジャー各社は、主要産油国以外の国(いわゆるOPEC非加盟囲)が生産する石油の争奪戦を繰り広げるようになり、これまでになく遠く採掘困難な場所で石油を探す傾向もさらに強まった。(ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.74-75)

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    <世界の石油消費量>

    ・1900年50万バレル/年

    ・1915年125万バレル/年

    ・1929年400万バレル/年

    ・1945年600万バレル/年

    ・1960年2100万バレル/年

    ・1995年240億バレル/年

    ・2000年300億バレル/年

    ・2020年370億バレル/年(推定)

    ・2035年530億バレル/年(推定)

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    1961年(昭和36年):国民健康保険法改正■国民皆保険を達成◎「全ての国民に良質の医療を」

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    ●1961年1月アメリカ、民主党ケネディ政権誕生

    ●エドウィン・O・ライシャワー駐日大使着任(1961年4月)

    ・ガガーリン飛行士の地球周回(1961年4月)

    ●「金プール」組織(1961年—>1968.3.17解散)インフレヘッジとしての金にたいする投機牽制のため、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・スイス・ベルギーが共同出資して金をプールし、金が1ドル=35セントを少しでも越えそうな兆候が出たら金を売り浴びせて金の価格を維持する。(—>1967年、フランス(=ド・ゴール)は脱退)

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    ・辻政信、東南アジア視察中にラオスにて消息を絶つ。ラオスではスパイ容疑で銃殺されたという。存在事態が怪奇に満ちていた辻らしい結末だったろう。(ヒトは生きてきたようにしか死なない)(辻の最後は明らかではなく畠山清行『何も知らなかった日本人』pp.295-296)ではハノイから中国に密入国し軍事監獄幽閉され、昭和40年も初夏、そこで病死したことになっている)。

    ・韓国軍事クー・デタ:朴正煕政権成立(昭和36年5月16日)KCIA創設(初代部長:金鐘泌)

    ・北朝鮮とソ連の間に友好協力相互援助条約の締結(1961.7.6)

    ●ケネディ大統領が沖縄復帰問題について重要な先鞭をつける。ジョージ・ボール、エドウィン・ライシャワーの啓蒙・努力が実り、琉球列島問題に関する特別委員会の長にカール・カイセン(当時国家安全保障会議事務局員)を任命。<ライシャワーの進言>沖縄人はアメリカの軍事的支配を歓迎しており、自立などということには全然関心がない、という主張は明らかに間違っている。ライシャワーによれば、沖縄人には一定の文化的、言語的特徴があるが、彼らは自分たちを日本人と考えていて、ほとんどが本土復帰に賛成しており、この感情は日本の激しい政治問題となるだろう、というのである。ライシャワーはケネディに、沖縄に大幅な自治を許し、日本政府と協力して生活水準を改善するよう勧告した。(マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』市川洋一訳、草思社、p.303)

    ・X線星の発見(1962年)

    ●キューバ危機(1962年10月16日~28日)アメリカがキューバに敷設したソ連のミサイル基地撤去を要求。ケネディとフルシチョフの間で無意味な戦争が回避された。

    ・対韓賠償5億ドル決定(1962年、昭和37年12月)

    「金鐘泌・大平メモ」の存在韓国賠償ビジネス:瀬島龍三と金鐘泌の出会い。政財界のパイプ役を児玉誉士夫がつとめた。

    ・昭和37年には東京都の人口が1000万人を越えた。

    ・中国共産党のフルシチョフ批判

    「修正主義化し資本主義の復活を図る反革命集団だ」

    ・ケネディ大統領暗殺(1963年、昭和38年11月22日(日本時間23日))

    ・日本のヤクザが5107団体、18万4091人にまで膨脹。当時の自衛隊勢力を上回る。(宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論拠』筑摩書房、p.316より)

    ・世界初の女性宇宙飛行士(テレシコワ)誕生(1963年)

    ・クェーサーの発見(1963年)

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    ■「公共用地の取得に関する特別措置法」試行(–>土地開発公社林立)この法律は後に地方自治体が借金まみれになる原因を作った最悪の法律だった。■「原子力の日」(1963年、昭和38年10月26日)日本原子力研究所東海研究所で日本で初めて原子力発電を行った。

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    ★「黄色い血の恐怖」(昭和37年頃日本の輸血用血液供給はほぼ100%売血だった)売血制度が生み出した弊害ーー「黄色い血の恐怖」に、まだ社会一般の関心は高まっていない現状だが、この制度はいま完全に行き詰まった結果、医療関係者だけでなく、社会全体の問題として注目されなければならない段階にきた。諸外国に例をみない日本独特の売血制度。それはおびただしい売血常習者の群れを生み、いちじるしい輸血保存血液の質の低下を招いている。「黄色い血の恐怖」とは、月に一度しか許されない採血を、ときには月50回も繰り返し、その結果、鮮紅色の血液はついに黄色になって、売血者の生命力が朽ちていくことであり、また、こうして集めた血液の輸血を受けたものが、20%以上の確率で悪性の血清肝炎にかかるということである。(本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』講談社、pp.347-348)

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    ★「老人福祉法」制定(1963年、昭和38年)国や地方自治体が、高齢者の福祉(暮らしぶりの良さ)を増進する責務を有することを明記★「集団就職」この言葉が時代を象徴していた。1961年の中学卒業者のうち38%が出身県外の府県で就職していて、その93%が東京、大阪、愛知の三大都市圏に吸収されていた。(田原総一朗氏著『日本の戦後』講談社)★「高度成長」高度経済成長の進展は急速だった。1955年から60年の実質平均成長率は8.7%だったが、1960年から65年は9.7%、1965年から70年は11.6%にまで伸長した。この状態は石油ショックが起きた1973年まで継続する。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.574)

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    ・東京は1962年に世界ではじめて人口1000万人の都市となった。

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    <アメリカの対日貿易額>輸出輸入バランス1961年1837万ドル1055万ドル782196215741358216196318441498346196420091768241196520802414-334

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    (StatisticalHistoryoftheUnitedStates,FromColonialTimesto1970)

    ★大学生の急激な大衆化戦後の学制改革と高度成長は、大学生の急激な大衆化をもたらした。1940年に47校だった大学は、1954年には227校にまで増加した。大学進学率も1960年の10.3%が、1965年に17.0%、1970年に23.6%、1975年には37.8%まで上昇する。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.551)

    ★「三矢研究」(昭和38年度統合防衛図上研究実施計画)(1963.2)昭和38年2月、東京・市ヶ谷の統幕講堂で、陸海空自衛隊の征服幹部が極秘裡に集まって、朝鮮半島を中心とする戦争の図上練習を行うとともに、それに際しての国家の前面管理について話し合った。戦後日本での初めての本格的な有事研究だった。

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    演習は第一動から第七動までの想定に基づき、第一動では、韓国情勢が悪化、韓国軍が反乱を起こしたとする。第二動は、韓国反乱軍に対し北朝鮮軍の支援が行われ、米軍がこれに反撃。第三動は、北朝鮮軍が三八度線を突破して新たな朝鮮戦争に発展、自衛隊が出動を準備するとともに、日本国内の総動員体制が樹立される。第四動は、自衛隊と米軍の共同作戦。第五動では、西日本が攻撃を受け、朝鮮半島では戦術核兵器が使用される。第六動では、ソ連軍が介入。第七動では、日本全土にソ連軍の攻撃がなされ、全戦場で核兵器が使用される。しかし北朝鮮、中国に反攻作戦が展開され、核の報復攻撃も実施して最後的に米側が勝利する。白昼夢か妄想か倒錯か。だが、これは一部の単純な狂信者による戦争ごっこではない。統合幕僚会議事務局長であった田中義男陸将の主導で行われ、制服からは「集めうる最高のスタッフ」が参加し、防衛庁内局、在日米軍司令部からも少人数が出席した。「密室」周辺ではものものしい警備がなされ、出席者全員が腕章をつけ、部外者の立ち入りは一切禁止されたという。図上演習は戦闘のシミュレーションにとどまるものではなく、第三動にさいしては、八十七件にもおよぶ非常時(有事)立法を成立させて政治、経済、社会を全面管理する国家総動員体制を確立するという、憲法など歯牙にもかけない研究が本気でなされたのであった。この三矢研究の「国家総動員対策の確立」のなかでとくに鳥肌が立つのは、「人的動員」の項目で、「一般労務の徴用」「業務従事の強制」「防衛物資生産工場におけるストライキの制限」「官民の研究所・研究員を防衛目的に利用」「防衛徴集制度の確立(兵籍名簿の準備・機関の設置)」「国民世論の善導」などを、制服組が当然のごとくに論じていることだ。さらに、「国民生活の確保」の項目では、「国民生活衣食住の統制」「生活必需品自給体制の確立」「強制疎開」「非常時民・刑事特別法」「国家公安維持」などが語られている。まさに「軍政」そのものである。(辺見庸『記憶と沈黙』毎日新聞社、pp.173-175)

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    1964年(昭和39年):東海道新幹線開通と東京オリンピック(S39.10.24開幕)は日本復興の象徴。またOECD(経済協力開発機構)への加盟・IMFにおける八条国への移行も経済復興の象徴となった。☆国民性・国民意識:官僚主導の高度成長は国民の自主性を奪い去り、徹底的な官僚統制経済のため民間活力の萌芽や独創性を封じ込めた。

    ・公明党結成

    ・自民党総裁選で池田勇人と佐藤栄作が激突(S39.7.10)池田側:河野派、川島正次郎派、三木派、旧大野派佐藤側:福田派(岸派の後継主流派)、石井光次郎派(岸派はすでに福田派、川島(「政界寝業師」)派、藤山愛一郎派に分裂していた)※結果はかろうじて池田が勝利したが、すさまじいばかりの金が飛び交ったという。(池田:242票、佐藤:160、藤山:72)※ただし、池田は既に末期の喉頭癌に侵されており、3か月後には首相を辞任することになった。(–>佐藤政権誕生)■吹原産業事件はこの自民党総裁選をめぐる詐欺的及び買収資金捻出事件と思われたが、結局政界とは無関係とされた。(黒田清氏・大谷昭宏氏著『権力犯罪』より)

    #昭和三十九年は東京オリンピックの年だ。この年を目標にして、新幹線、首都高速道路が建設され、主要な国内航空路が整備され、そこをジェット機が飛ぶようになった。岩戸景気の後でも、依然として設備投資の水準が高かった上に、こうした大規模なインフラ投資が行われたために、輸入が拡大し、昭和38年初めから金融引き締めがはじまった。・・・(池田退陣の頃より)、金融引き締めの効果が現れ、景気が急ピッチに後退し、企業は、過剰設備と、労働力の不足激化にともなう賃金コストの上昇に悩まされた。山陽特殊鋼は戦後最大の負債を残して倒産した。株式市況は極めて不振に落ち込み、ついに山一証券は倒産寸前の状態に追い込まれ、株式の大恐慌が発生しそうだった。証券危機は日本銀行の特別融資によって救われた。(竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

    #家電需要の伸びの急速な鈍化(—>過剰設備と過剰在庫)家電製品の普及率:白黒テレビ:88.7%電気洗濯機:66.4%電気冷蔵庫:39.1%

    ■九頭竜川ダム汚職事件(石川達三氏著『金環食』のモデルか?)■「公明党」の結党。創価学会の本格的な政界進出の幕開けとなり、1967年(昭和42年)には衆議院にも進出、25議席を獲得。

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    ・トンキン湾事件:米駆逐艦マドックスに対する北ベトナム魚雷艇攻撃(1964.8)この事件は米国の愛国心を燃え上がらせたが、当初から事件はアメリカの捏造が疑われており、アメリカという国はいつでも戦略完遂のためにはでっちあげを平気で行う国ということが改めて露呈した。

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    ・1964年、アメリカの軍事衛星SNAP-9Aがインド洋上空で炎上し、プルトニウムの仲間であるプルトニウム238約1キログラムが空から世界中にばらまかれた。プルトニウムは、「この世で最も毒性の強い物質のひとつ」といわれる猛毒の放射性物質である。1キログラムといっても、もしそれをそのまま人びとが吸い込んでいたら、1兆人分もの許容量にあたる。この出来事は、プルトニウムがすでに私たちの生活環境にも深く入りこんできたことを示していた。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.124~126)

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    ・サウジアラビアの宮廷クー・デタ(1964年)アブドゥルアジースの次男サウード(第二代国王)を廃して、異母弟のフェイサル皇太子が第三代国王になった。フェイサルは名君の誉れ高く、彼によってサウジアラビアは近代国家に向かって力強く発進した。(保阪修司氏著『サウジアラビア』岩波新書、pp.12-13)

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  20. shinichi Post author

    ・中国が核実験を成功させた(1964.10)。この後1966年10月にはミサイル実験も成功させている。

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    ★献血推進のスタートの年政府がやっと動きだし、献血推進への予算が僅かながらおりた。村上省三(日本赤十字社輸血研究所)、木村雅是(早稲田大学学生、早大献血学生連盟)、本田靖春(読売新聞社社会部記者)の3氏の名前を忘れてはならないだろう。

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    1965年(昭和40年):このころから学園紛争が激化した。★勤労世帯の実収入は約65000円/月(<--1965年29000円)。★学園紛争1960年代後半には、各地の大学で紛争があいついだ。1965年4月、高崎経済大学において、地元優先の委託学生入学に反対がおこり、学生がハンストと授業放棄に突入した。1966年には、早稲田大学で授業料値上げ反対闘争がおき、学生たちが大学本館を占拠した。さらに1968年、日本大学で20億円の使途不明金が発覚し、それを契機にワンマン経営者による大学運営に学生の不満が爆発した。おなじく1968年には、東京大学医学部学生自治会が、無賃労働に等しい登録医制度に反対して無期限ストに入った。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.575) ---------<学園紛争の背景と当時の学生の回想など>---------- ・・・「学生数の圧倒的増大は、学生の社会的地位をも著しく変化せしめ、大学を卒業したからといって大企業に就職するとは決していえない」「それは、学生そのものが、社会のなかで、例外的存在であることから、マスのなかの一員としてしかみなされなくなってきていることと無関係ではない」「今日の学生運動は、すでにのべたような社会的地位の変化、エリート的意識と存在の決定的欠落、そしてマスプロ化していく学園のなかにあって、たえず人間としての真実をとりかえしたいという欲求が大衆的にひろがっていくことを基礎において成り立っているのである」「このような背景のもとでの学生の不満と不安のうっ積は、どのような契機から学園闘争が爆発しても、同じような全学的闘争にと発展してしまうのである」。こうして1968年には、日本大学や東京大学で学生による大学占拠がおこり、全学の学生を糾合した「全学共闘会議」が結成され、「全共闘」と略称された。1965年の日韓会談反対闘争いらい、学生運動は一時停滞していたが、1967年から68年以降は一気に盛りあがった。この「全共闘」による大学占拠は、やがて全国各地の大学に波及し、全共闘運動と総称された。この全共闘運動は多くの場合、「革命」や「疎外」といった、マルクス主義の言葉によって行なわれていた。しかしその背景にあったのは、学生のマス化と旧来型の大学組織のミスマッチであり、秋山(筆者注:中核派全学連委員長)らのいう「エリート的意識と存在の決定的欠落」であり、マス化してゆく大学と社会のなかで「人間としての真実をとりかえしたいという欲求」だった。こうした背景なくしては、全共闘運動が一部の活動家の範囲をこえて、あれほどの広がりをもつことはなかっただろう。当時の学生の一人は、1996年にこう回想している。 一つの時代が過ぎてから、多くの友人と話してみると、マルクスもレーニンも誰もがほとんど正確に理解していないことに驚かされたが…私たちを行動に駆り立てたのは決してそうしたイデオロギーでも思想でも理論でもなかった。理屈は後からついて来る、である。むしろ、戦後生まれの私たちの世代にとって、旧態依然の秩序や常識がぴったりこないいらだちのほうが重要だった。たとえば、一流大学に入ることで人生のプラスカードを得るとか、女は男ほどの学力は必要ない。勉強をろくにしなくても卒業できる大学と、それに比べてやたらと消耗な受験勉強とか、天皇と軍部だけが悪いと総括する戦争観や、大人たちがもっているアジア人に対する差別意識とか社会のヒエラルキーとかの考え方に対する違和感のほうが大きかった。そしてその違和感をそのまま受け入れてくれたのが全共闘だった。歴史は古い時代のカビ臭い価値観を終わらせて、新しい価値を求めている。そしてその改革の錠は自分たちの手の中にある、と熱い思いを抱いた。 「さあ、これから新しい時代に向けての歴史的ビッグイベントが始まりますよ」それは、先輩たちのオルグやマスコミの報道だったり、校門のところで手渡されたビラだったりした。とまれ、歴史への参加・未来を切り拓く試みと認識しているわけだから、いくら深刻ぶっても心の中はワクワクしていた。あらゆる権威や権力に対し傲慢に振る舞えもした。「東大解体」や東大の門柱に書かれた「造反有理」はますます私たちを元気にしてくれた。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.576-577) ---------------------------------------------------------- ●アメリカが北ヴェトナムを爆撃(1965年2月~1973年3月) 「アメリカ+南ヴェトナム政府」vs「ヴェトコン+北ヴェトナム労働党秘密党員(=人民革命党)+南ヴェトナム中央局(COSVN=ヴェトナム労働党南部委員会)」 ---------------------------- <アメリカ国民の多少の正義>1.ベトナムが冷戦の重大な戦場2.ベトナムが倒れれば広範な地域で悪影響が生じる3.ミュンヘン会談(1938年)の教訓:局地的後退はあとで取り返しがつかない結果につながる。 ---------------------------- ・1965~66年にかけてサイゴンではヴェトコンのテロが荒れ狂った。アメリカ大使館爆破、水上レストラン「ミカン」爆破、アメリカ軍宿舎ヴィクトリアホテル爆破、・・・ -----<本田勝一(朝日新聞記者)ルポ『戦場の村』など>--- 本多がそれと対照的な存在として描きだしたのが、南ベトナム解放戦線の兵士たちだった。本多が会見した解放戦線の青年将校は、彼の身を案じて写真撮影を遠慮する本多たちにむかって、「私は民族の独立に生命をささげた人間です。傀儡政府のもとで生きて行くことがない以上、顔が外部にわかっても一向にかまいません」と返答した。米軍の空襲のもとで抗戦する解放区の幹部は、「われわれは軍事的に負けているでしょう。しかし負けません。負けても、負けないのです。本当の勝利とは何でしょうか」と述べた。アメリカの空襲に耐え、アメリカの物質的誘惑に抗しながら、「民族の独立」を掲げる解放戦線のありようは、日本の読者から多くの共感を集めた。圧倒的な物量と科学力で攻めよせる米軍にたいし、粗末な兵器と乏しい食料で善戦する彼らの姿も、戦争体験者の心に訴えるものがあった。本多のルポが連載された『朝日新聞』には、読者からの共感の投稿が殺到したという。しかしこうしたベトナムのあり方は、日本という国家を問いなおさずにはおかなった。本多は、日本製の軍用トラックや上陸用舟艇を米軍が使っていること、日本の業者の輸送した燃料で北爆が行なわれていることを報道した。ベトナムに派遣されていた韓国軍の将校は、「この戦争で、日本はどれだけもうけているか知れないほどですなあ」とコメントした。本多は日本という国家を、「死の商人」と形容せざるをえなかった。米軍の「ベトナム特需」は、輸出総額の一割から二割におよんでおり、輸出総額の六割を占めた朝鮮戦争特需にくらべれば小さかったものの、日本の経済成長を支える要因になっていたことは事実だった。それには武器弾薬だけでなく、枯葉剤なども含まれた。横須賀や沖縄が米軍艦隊の基地となったばかりでなく、1967年に羽田空港を利用した航空機総数のうち四割は米軍のチャーター機であり、ベトナムで負傷した米兵の75パーセントが日本に送られて治療をうけた。日本は米軍にとって、ベトナム戦争に不可欠な後方基地だった。こうした事情のため、前述した1965年8月24日の『朝日新聞』の世論調査では、戦争で「日本もまきぞえを食う心配がある」が54パーセント、「心配はない」が17パーセントという結果がでた。1966年6月1日、当時の椎名悦三郎外相は衆議院外務委員会で、日本に報復攻撃が加えられないのは地理的条件のためだと言明した。自衛隊は有事即応態勢をとり、1966年9月には南ベトナムに軍事視察団を送った。日本からの軍需物資を輸送する米軍舟艇には、政府の斡旋で日本の要員が乗りくんでおり、1967年10月までに9人の戦死者を出していた。本多が会見した解放区の幹部は、日本からどんな支援をしたらよいかという問いに、こう返答した。「ありがたいことです。しかし私たちは、大丈夫です。やりぬく自信があります。心配しないで下さい。それよりも、日本人が自分の問題で、自分のためにアメリカのひどいやり方と戦うこと、これこそ、結局は何よりもベトナムのためになるのです」。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.588-589) ---------------<ベトナム戦争の背景と概略>------------- それまでフランスを宗主国としていた南ベトナムに1954年、ゴ・ジン・ジエム政権が誕生した。東西冷戦の中、アメリカはこの政権を援助することでインドシナにおける反共の砦とすることを考えた。その理論的な根拠となったのは、ベトナムが赤化すれば周辺諸国もソ連の影響を強く受けてドミノ倒しのように共産化してしまうという、いわゆる「ドミノ理論」である(後に判明することだが、ソ連はベトナムには中国が関与するものだと考えており、特に強い関心をもっていなかった)。ただ当時政権にあったアイゼンハワーは、ドミノ理論に対する強い信奉者ではなかったために、ベトナムへの介入は南ベトナムに米中央情報局(CIA)を派遣する程度にとどまったが、その後を継いで1961年に政権についたケネディは、南ベトナムへ軍事顧問団を派遣して直接介入を開始した。その数は62年5月には合計6000人、63年末には1万6000人に増大した。だがゴ政権は弱体で63年11月、クーデターによって倒される。CIAはそれを黙認するが、直後にケネディも暗殺され、アメリカのベトナム政策は後任のジョンソン政権に引き継がれる。そしてジョンソンはベトナム戦争に本格的に踏み込んでいく。 ・・・・・・(中略)・・・・・そのようなジョンソン政権は、1964年8月2日にアメリカの駆逐艦マダックス号がトンキン湾の公海上で北ベトナムのPTボートに銃撃を受けたのに続いて、4日にはマダックス号とターナージョイ号が、北ベトナム軍に猛烈な魚雷攻撃を受けたと発表。その報復として北ベトナムを爆撃する。この魚雷攻撃がその後事実でなかったことや、最初の銃撃が起きたのも公海上ではなく北ベトナムの領海内であり、攻撃を受けた北ベトナムの反撃だったことが判明している。だがこの事件をきっかけとして、議会で「あらゆる必要な手段を用いて」北ベトナムの攻撃に対抗し侵略を阻止するという「トンキン湾決議」がなされ、ジョンソンは議会から戦争遂行の全面的な支持と承認を受けた。だがここで多少の注釈が必要である。この年は大統領選挙の年であり、現職の民主党ジョンソン大統領に対抗したのは、タカ派で知られた共和党のゴールドウォーターだった。そのためゴールドウォーターが政権をとれば、ベトナム戦争をエスカレートさせるとみられていた一方で、ジョンソンは事件当初は慎重な姿勢をみせていたという点である。だが11月の大統領選挙で地滑り的な大勝利を得たジョンソンは、結局1965年2月に北ベトナムへの大規模な爆撃(北爆)を開始、1965年3月には海兵隊のダナン上陸を断行し、本格的な軍事介入を行う。その数は1965年末までに19万人規模に達する。その規模はその後も膨れ上がり、最大54万人のアメリカ兵を派遣することになる。だが戦局はアメリカ軍に有利に展開していったわけではなかった。そんな中でその後の情勢を決定づけるものとなったのは、1968年1月末、アメリカに対抗する解放戦線が全土で攻勢に出たテト攻勢である。この時期は旧正月(テト)にあたっており、油断しているところを狙って解放戦線側の約7万人勢力が、約100の都市や町で一斉攻撃を行うという大規模な奇襲攻撃を行った。それに対してアメリカ軍は猛反撃に出たものの自らの被害は大きく、2月18日になってペンタゴンは、このテト攻勢で味方の死者543人、負傷者2547人と、1週間あたりの死傷者の数が過去最高になったと発表した。このテト攻勢がベトナム戦争の大きな転換点となる。2月23日にはジョンソン政権がベトナム戦争中2番目の規模となる4万8000人を徴兵することを発表。2月25日、政権側は兵士のさらなる増員が必要になることを認める。これ以降、ベトナムでアメリカの作戦がうまく進行していないことが明らかになっていき、国内には戦争の先行きに対する悲観論が広がる。こうしたベトナム戦争の状況の悪化を反映して、3月のニューハンプシャー州の民主党予備選挙では、反戦を訴えたユージーン・マッカーシーが大勝利を収める。そしてジョンソン大統領はベトナムでの戦局の先行きが見えない中、3月31日、その年の秋の大統領選への不出馬を宣言することを余儀なくされる。その後11月の大統領選挙では共和党のニクソンが当選。翌1969年1月に政権につくと、ニクソンはベトナムの戦線縮小と撤退への道筋を模索する。そして1973年1月に北ベトナムとのパリ和平協定を締結。だがこの協定は事実上失敗し、最終的には1975年4月にサイゴンが陥落して南ベトナムが崩壊する。アメリカにとってはきわめて不名誉な形で敗北してベトナム戦争は終わるのである。アメリカはこの戦争に1500億ドルを投じ、第二次世界大戦で全世界に投下された爆弾より多くの爆弾をベトナムに投下してなお敗れ去った。敗北でアメリカは5万8000人の兵士を失い、その後もベトナムに従軍した314万人のうち15%程度が心的外傷後ストレス傷害(PTSD)をもつに至ったとされる。またこの出費は国内のインフレを促進し財政赤字が拡大。アメリカが保有する金の流出をもたらし、1971年には金とドルの兌換停止、いわゆる「ドル・ショック」を宣言するまでに追い込まれる。一方、全人口7200万人のベトナムも、戦死者300万人、行方不明者30万人、負傷者600万人、ボートピープル100万人、精神障害者600万人という甚大な被害を受けた。アメリカ側からこの戦争をみた場合に重要なことは、戦争が国内の各方面に大きな影響をもたらしたことだ。時期をほぼ同じくして進行した公民権運動と連動した形で、国家への反抗や反戦運動・学生運動が広まって、カウンター・カルチャーのうねりが大きくなった。1968年3月、女性も子供も虐殺したソンミ村事件でのアメリカ軍の行動には、激しい非難が集中した。「国家は信用できない」「われわれは誤った戦争をしている」という認識が広まり、ビートルズやボブ・デイラン、ジョーン・バエズなどが革命と反戦を歌い、1969年ニューヨーク州ウッドストックの野原で開催されたロックフェスティバルには40万人が集まった。反戦のうねりは全世界的な広がりを見せた。(石澤靖治氏著『戦争とマスメディア』ミネルヴァ書房、pp.234-238) ☆「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)誕生:日本の市民運動の原型小田実、鶴見俊輔、高畠通敏が発起。それぞれの細君の協力がなかったら形にならなかった運動だという。※「ベ平連」三原則(鶴見俊輔)(1)やりたいものがやる。やりたくないものはやらない。(2)やりたいものは、やりたくないものを強制しない。(3)やりたくないものは、やりたいものの足を引っ張らない。(鶴見俊輔・小熊英二・上野千鶴子『戦争が遺したもの』新曜社、p.374) ※注意:「ベ平連」の二重構造:表面の市民グループとは別に、非公然の地下組織「反戦脱走兵援助日本技術委員会(JATEC)」があった。(ただし、この二重構造については鶴見俊輔氏は何も語ってない) --------------------------------------------- <ベトナム戦争、映像のなかの惨劇>(松岡完氏著『ベトナム症候群』中公新書、p73) 1.「ジッポー・ジョブ」:ベトナム人の小屋への放火2.狩猟まがいのヘリコプターからの機銃掃射3.枯葉剤のおぞましい影響枯葉剤はすでに1961年8月から実験的に使用されていた。南ヴェトナム政府の最初の要請は米作地にそれを使用し、解放戦線への食料供給に打撃を与えることであった。1965年までに使用された枯葉剤の42%がこの目的に使用された。すでに1963年、アメリカの専門家たちは、枯葉剤の使用が人体に悪影響を及ぼし、癌や異常出産などの原因となることを明らかにしていた。しかしアメリカ軍は9年にわたって枯葉剤の使用をつづけた。その20%はジャングルに、36%はマングローブ林にたいして使われ、莫大な被害をヴェトナムの住民と大地と海洋に及ぼし、環境を破壊した。枯葉剤を含むハイテクノロジーの利用と、破壊力の大量、無差別的使用は、ヴェトナム戦争を環境破壊戦争とし、とくに農村社会の存立自体を危機におとしいれた。この新しい戦争の様相は、無人地帯をつくるための強制立ち退きなどとともに、多くの農民を農村から切り離し難民化させた。少なくとも農民の半数以上が難民化したものと見られている。流民化した農民が都市に殺到したために、都市人口は急増した。1960年には南ヴェトナムの人口の20%が都市に住んでいたが、1971年には43%が都市住民となった。人口わずか1800万(1970年現在)の南ヴェトナムでこのように人口学的な激変が起こったのである。現代の戦争は環境を破壊するばかりでなく、一国の社会構造そのものにも影響したのであった。(荒井信一氏著『戦争責任論』、岩波書店、pp.272-273)4.度重なる僧侶の焼身自殺5.ナパーム弾大火傷を負い泣き叫ぶ裸の少女6.逃げまどい必死で川を渡るベトナム人一家7.米国内の反戦デモで射殺された学生の遺体8.サイゴンの路上、白昼のゲリラの処刑・・・9.ソンミ村大虐殺(1968.3.16) 「五時半に、ソンミ周辺で突然、砲撃が始まり、そのうち、ソンミのあちこちにヘリコプターが飛来、アメリカ軍兵士が降りて来て、やがて手当たり次第に虐殺が始まりました。四時間虐殺はつづき、そのあいだに住民五百四人が殺されていました。五百四人のうち、女性は百八十二人。さらにそのうち妊婦が十七人。子供は百七十三人。そのうち五十六人が生後五カ月未満の赤ん誓した。六十歳以上の老人が六十人、中年男子が八十九人。しめて総計五百四人。女性を、アメリカ軍兵士はただ殺しただけではありませんでした。多くを強姦してから殺しました。十四歳の少女は、すでに殺された母親の死体のそばで、何人ものアメリカ軍兵士によって次から次に強姦されたあげくに、小さな赤ん坊といっしょに射たれ、小屋に放り入れられたあと、小屋は火をつけられました。少女は必死に小屋から這い出て来ようとしたのですが、兵士は押し戻し、母親と赤ん坊ともに、灰になるまで焼かれました。十二歳の少女もやられたし、六十歳の女性も、殺されるまで兵士二人に強姦されました」。(小田実氏著『終らない旅』新潮社pp.425-426) --------------------------------------------- ☆ベトナム戦争による日本の平民(大衆)への教訓(簡単に徴兵できる「カモ」)第二次世界大戦では、徴兵対象年齢老の少なくとも7割が戦場に赴いた。しかしベトナムに行った男性は、戦争最盛期の10年間に徴兵年齢に達した者(統計により異同があるが、ほぼ260万~300万人)のうち8%、多く見積もっても10%程度にすぎない。戦闘に携わった者となると、6%たらずである。しかも1割と9割のどちらに入るかが、きわめて不公平なやり方で決められた。全米の徴兵事務所にかなりの裁量権を認める選抜徴兵制が採用されたためである。その結果、有為な人材はなるべく残し、社会の底辺に位置する黒人やヒスパニック、貧しい白人などをベトナムに送り込み、そこで社会人としての訓練を与えようという作為が働いた。この「10万人計画(Project100000)」の網に引っかかった者は35万人を超える。その4割は黒人だった。誰を徴兵するかを決める者のうち黒人は1.3%にすぎず、南部諸州では黒人が一人もいない徴兵事務所も珍しくなかった。入隊者が全員警察になにがしかの世話になった過去を持つ部隊、7割以上が黒人かヒスパニックという部隊もあった。いいようのない不公平感が触媒となり、アメリカに精神的荒廃をもたらした。映画『プラトーン』(1986年)をノべライズした作品によれば、ベトナムに行った若者たちは「東南アジアでの労役から免れるような口実が何ひとつない、いたって簡単に徴兵できるカモ」にすぎなかった。また、こうしたやり方で能力の低い兵士を量産したことが、敗因の一つだったともいう。(松岡完氏著『ベトナム症候群』中公新書、p69)※ベトナム戦争で5万8132人の米兵が命を落とし、戦後その3倍にも及ぶ約15万人のベトナム帰還兵が自殺している。(星野道夫氏著『星野道夫著作集4』新潮社、pp.165-166、2003)※もし日本で徴兵があれば、きっと同じようなことになるだろう。 ------------------- ・「山一証券」倒産寸前(昭和40年5月19日)大蔵大臣・田中角栄による日銀特融。 ・日韓基本条約締結(昭和40年6月)植民地支配の償いとして日本から韓国に支払われた巨額の賠償金は日韓政財界の癒着の温床になった。怨念と利権と政治的思惑が複雑に絡みあった日韓条約交渉の舞台裏で、児玉誉士夫と渡邊恒雄が動いた。(魚住昭氏著『渡邊恒雄メディアと権力』より) ・インドネシア政権交代(クー・デタ、昭和40年9月30日)スカルノ体制からスハルト体制へ ------------------- ・宇宙背景放射の測定(1965):ペンジャスとウイルソン ------------------- ★東海村で「東海原発一号機」の運転開始(1966.7.25)耐震など安全設計の面で技術的に未熟な英国「コールダーホール型発電用原子炉」が予定より3年も遅れて運転開始にこぎつけた。 ------------------------------ ●1966年10月5日。アメリカの「フェルミ炉」(高速増殖炉)の事故。炉心の底に使っていた金属版のボルトが緩んで外れて、燃料二体について流路を閉塞。ナトリウムの流れる道を閉塞してしまった。そのために、冷却状態が悪くなって温度が上り燃料の溶融に至った。幸い大惨事にはならなかった。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、p.351より) ------------------------------ ■昭和39年から続く「構造不況」に対して、政府は戦後初めて国債を発行。不景気を短期間で乗り切ることに成功。(ケインズ経済理論)(大蔵省と日銀の勢力バランスは日銀に有利に変化した)※政府支出を国債でまかなうことが可能になれば、政治家も大蔵省も、日銀の信用統制にちょっかいをださなくなるだろう。同時に、財政法のもとでは新規発行国債の日本銀行引き受けは禁止されていた。したがって、日銀はそう簡単に国債引き受けによる財政政策支援を要求されないですむ。 ■1965年(昭和40年)は日米間貿易において、はじめて対米黒字を記録した。このあと1967年、1975年以外は全て対米貿易黒字となりそれは次第に拡大した。(--->「いざなぎ景気」)

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    1965年初頭、毛沢東は「大躍進」後の「大飢饉」に対し部分的ではあったが自らの非を認めたことや、劉少奇・トウ小平の現実的な実務路線への国民の傾斜に対して、指導力低下に脅威を感じていた。自分もフルシチョフに非難されたスターリンのようになるのではないかという被害妄想が昂じて”「中国のフルシチョフ」である劉少奇・トウ小平と彼らに同調する党内勢力を叩き潰さねばならぬ”と思った。そしてこれを「文化大革命」という言葉で包み隠しながら実行に移した。毛沢東はこの過程で、これまで毛沢東崇拝をくりかえし教え込まれてきた若者を「(毛首席の)紅衛兵」(はじまりは清華大学附属中学の学生活動家が名乗ったもの)として利用した。林彪は「文化大革命」の指導者として「四旧を破る」ために突撃せよと紅衛兵を扇動した。多くの古い文化遺産や貴重な書物や文献がいともたやすく破壊された。四旧とは旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のことだった。(ユン・チアン『ワイルド・スワン<下>』土屋京子訳、講談社、pp.11-42)

    ●中国プロレタリア文化大革命(1966年5月16日~1971年)毛沢東:プロレタリア文化大革命は、プロレタリア階級による資本主義階級に対する偉大な政治的革命である。それはプロレタリア階級による資本主義階級に対する闘争の継続である。それはまた、共産党による国民党に対する闘争の継続である。(チェン・ニェン『上海の長い夜<下>』篠原成子・吉本晋一郎訳,朝日文庫,p.24)

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    毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命は、既成の党機関や行政組織を造反派(革命派、急進派)の手に奪い返す奪権闘争を巻き起こした。造反派に抵抗するものは「資本主義の道を歩む実験派」や「修正主義者」などとされ、粛清の対象となった。この間に劉少奇や林彪らが失脚した。毛沢東は1972年1月には体調を崩し寝込みがちになっており文化大革命収束時には、周恩来は実権の殆どを掌握していた。また1973年には毛沢東によりその実務能力の非凡さを買われていたトウ小平は失脚から復権(国務院副総理=副首相)した。(『毛沢東秘録<下>』産経新聞社より)<「牛鬼蛇神」(悪をはたらくために人間になれる悪魔)>毛沢東が言い出したこの言葉は文化大革命のあいだに下記の九種類の敵に対して用いられた。

    ・1950~1952年の土地改革運動で非難された元地主の連中

    ・1955年の農業合作化のときに非難された富農

    ・1950年の反革命鎮圧運動と1955年の反革命粛清運動で非難された反革命分子

    ・共産党が統治するようになってから時に応じて逮捕された「悪質分子」

    ・1957年の反右派闘争で非難された右派分子

    ・叛徒(国民党によって投獄されていたときに国民党に共産党の機密をばらしたとの嫌疑をかけられた者)

    ・スパイ(外国とのつながりをもっていた男女)

    ・「走資派」(毛沢東の言う厳格な左派の政策に従わず、

    「資本主義の道」を歩む者)

    ・ブルジョワ階級出身の知識人この言い方はよく「牛」だけに短縮しても使われ、文化革命中にこれら政治的追放者を監禁した場所は一般に「牛棚(牛舎)」と言われた。(鄭念(チェン・ニェン)『上海の長い夜<上>』朝日文庫、pp.29-30)

    【文化大革命時代の中国】先生は話を続けた。「この社会は既得権益を握る階層が統治集団、つまり新たな特権階級を構成しているんだ。僕ら一般市民は公衆便所の便槽を増やす望みぐらいしか持っていないのに、幹部連は職位の上下に関わらず、自分の家に個室の水洗便所や浴槽を持ち、電話付きで、お手伝いや乳母まで雇っている。大飢饉で幹部階層の誰かが餓死したなどという話を聞いたことがあるか。こういう連中にとって一番大切なことは、特権集団の共同の利益を死守することで、これは自分の子どもたちにちゃんと譲り渡さなければならない。次に大事なことは、人を踏みつけにして、わき目もふらず這い上がることだ。共同の利益の死守と自分だけ這い上がることとの間にはかなり矛盾があるので、ときおりここから一般民衆の政治的反乱が惹き起こされるんだよ」。先生はさらに続けた。「文化大革命は、実は二度にわたって行なわれたんだ。最初の文革は幹部同士の闘争で、自分に対する攻撃の有無に関わらず必死で他を攻撃した。政治の世界で飯を食う以上、なりふりかまわず突き進まなけりゃならないし、いったん特権を手にしたからには、闘争の目標にされる危険ぐらいは覚悟すべきなんだ。こんなことは当然であって、不平不満を言う理由などあるはずがない。自分たちが望んで掴みとった道じゃないか。文革時の当事者やらその子どもたちやらが、今になって文革中造反派にやられてひどい目にあったなどと書きまくっているが、笑止千万な話さ。もう一つの文革は一般民衆がやったんだ。彼らは毛沢東が共産党内で劉少奇らに対するクーデターを起こした機会を利用し、共産党組織に造反という名の反逆の闘争を仕掛ける形で、これまでの復讐をしようとしたんだ。だけど、こういう造反派は1969年には粛清されてしまった。あれから11年経ったけれど、まだ幹部連中は造反の気骨を持った民衆を根絶やしにしようと躍起なんだよ」。(虹影『飢餓の娘』関根謙訳、集英社、pp.243-244)

    「この文化大革命が何を狙っているのか、ぼくにはようやくわかってきた。これでは、ぼくの将来には何の希望もない」と、父が話しはじめた。文化大革命は、民主化とは何の関係もない。人民にもっと多く発言の機会を与えるための運動でもない。文化大革命は、毛沢東の個人的な権力を強化するための血なまぐさい粛清だ。それがはっきり見えてきたーー父は、そう言った。父は慎重にことばを選びながら、ゆっくりと話した。・・・

    「たぶん、毛主席は中国の社会を根底からひっくり返してしまわなければ、自分の目的が達せられないと考えているんだろう。これまでだっていつも、毛主席はやるときには徹底的にやった。犠牲者が出たって、いっこうに平気だったじゃないか」。(ユン・チアン『ワイルド・スワン<下>』土屋京子訳、講談社、p.105)

    ——————————

    ・ワインバーグ=サラム理論の登場(1967年頃)

    ・第三次中東戦争(6日戦争、1967年6月5日、昭和42年)イスラエルは電撃的に勝利、エルサレム旧市外を含む西岸と、ガザ地区を占領、ゴラン高原とエジプト領シナイ半島も支配下においた。(<大イスラエル主義>=”リクード”)

    ●ボリビアにてゲリラ戦争中のエルネスト・チェ・ゲバラがボリビア政府軍に捕らえられ戦死する(1967年10月9日、39歳)。チェ・ゲバラを斃したのは事実上CIAだった。(三好徹氏著『チェ

    ・ゲバラ伝』原書房、pp.317-321)

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  21. shinichi Post author

    ————-<現代における最初の水戦争>———-

    この戦争は領土と安全保障をめぐつて戦われたという見方が大勢を占めており、水の重要性についてはしばしば無視されている。だが、単純明快な事実はつぎのとおりだ。戦前には、イスラエル領内にあったのはヨルダン川流域面積のわずか10分の1以下だったが、最終的には、ヨルダン川はほぼ完全にイスラエルの支配下に置かれるにいたった。イスラエルはヨルダンから、かつての東側国境とヨルダン川に挟まれたすべてを奪った。そして、シリアからは、ガリレヤ湖の北東の山岳地帯、ヨルダン川の源流が流れでるゴラン高原を奪ったのだ。六日開戦争のときの指令官であり、後にイスラエル首相となったアリエル・シヤロンは、その戦争でのイスラエルの水文学的な動機については平然と認め、イスラエル側の言い分を説明した。1960年代はじめ、シリアは水路を建設してゴラン高原からヨルダン川の水源の流れを変えてイスラエルから水を奪おうという敵対的行為に出たと、シヤロンは自伝に書いた。

    「六日開戦争が本当にはじまったのは、イスラエルがヨルダン川の流路変更を実力で阻止すると決定した日である。国境紛争は大きな意味を持っていたものの、流路変更は生死をかけた重大問題だった」(フレッド・ピアス『水の未来』古草秀子訳、日経BP社、p.262)

    —————————————————-

    ・吉田茂逝去(S42.10.20)

    ・ヴェトコンのテト攻勢(1968年、昭和43年1月)アメリカ人約4万人が死亡

    ・国際反戦デー(1968年、昭和43年)

    ・昭和43年には日本のGNPは西ドイツを抜いて世界第二位になった。(1965~1972年に日本がヴェトナム戦争で稼いだ金は少なくとも70億ドル)

    ・インフルエンザ(香港風邪、H3N2)の猛威(1968年)世界中で約100万人が死亡

    ・空母エンタープライズ寄港阻止闘争(同上)

    ——————————

    ★1967年4月22日。日本の原子力委員会の「原子力開発利用長期計画」がこの日に決定された。それによって、日本でもプルトニウムを生産し、燃料として燃やす長期計画が本決まりになったのである。この計画は国家のエネルギー開発の柱となる「国家プロジェクト」の中心に、プルトニウムを燃やし、生産する高速増殖炉と新型転換炉という二つのタイプの原子炉を据えたものだった。その計画に、10年間で1500億円という、当時としては破格の研究・開発費が見積られた。これは、同時に国家に強力に支えられた巨大科学プロジェクトの時代の日本における幕明けを意味していた。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.124~126)

    ★「第一次資本自由化」(1967.7.1)1964年IMF八条国に移行(為替に関する制限の撤廃)にOECDに加盟。(菊地信輝氏著『財界とは何か』平凡社、p.166)★東京に霞が関ビル完成(1968年、昭和43年)この頃より東京は大きな変貌を遂げてゆく。車では日産サニー、トヨタカローラが発売され、サラリーマンでもマイカーが持てるような時代がやってきた(日産の生産台数:34.5万台(1965年)—>203万台(1973年))。(生方幸夫氏『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』新潮OH文庫より)

    ————<余談:失敗の教訓は生かされなかった>————

    しかし1968年に20歳前後だった学生たちは、1955年以前の社会運動を、具体的には知らなかった。彼らが知っていたのは、1955年以後の穏健化した共産党や、なかば惰性化した護憲平和の「国民運動」、あるいは教室で「平和と民主主義」を説いていた「猿のような」教師でしかなかったのである。また年長世代の知識人の側も、自分たちが1950年代に行なっていた運動の失敗の歴史を、若者たちに語りたがらなかった。失敗の教訓は、若い世代に受けつがれないまま、当事者たちが胸に秘めているだけだった。国民的歴史学運動で挫折を経験していた歴史学者の鈴木正は、60年安保闘争の直後に、「ぼくらは10年前に『壁』をやぶろうとして傷ついた。ぽくの教え子たちが、いままた『壁』をつきやぶろうとしている。ぼくの先生に当る先輩もぼくらも若い世代に手をかさず個々別々に『青春残酷物語』をくりかえす悲しみと愚かさを断つために口を開かねばならない」と述べていた。しかしそうした状況は、1968年になっても変わっていなかったのである。ただし1950年代前半の運動と、1960年代後半の運動のあいだには、明確に異なっていた点があった。それは新左翼や全共闘運動が、日本をすでに近代化した先進帝国主義国家の一員とみなし、「民族主義」への反発を抱いていたことだった。そしてそれは、高度成長によって地方や階級の差異が縮小し、「民族」という言葉で格差の解消を求めた1950年代の心情が理解されなくなった時代状況を反映していた。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.582)

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    【アメリカの食糧輸出戦略】アメリカの市場開拓において”平和のための食糧”が果たしている役割はきわめて重要であり、そう簡単に片付けるわけにはいかない。そこで、この役割をもう少し詳細にみたうえで、他の役割(軍事的な側面など)にも触れてゆくことにする。ここでの引用や数字は、とくに注を付さない限り、すべて1966年から74年の間に大統領から議会に提出された公法480号(筆者注:農産物貿易促進法、「平和のための食糧法」とも呼ばれた)年次報告によるものである。1966年の段階ですでに「公法480号の運用によって、アメリカが国際収支の面で利益を得てきた」ことは明らかになっていた。「アメリカ農産物輸出の大幅な伸びが、計画開始以来、国際収支の上に年平均15億ドルのプラスをもたらした。この輸出増大には、それ以前の、被援助国に有利な条件での食糧売却や無償供与によって、外国でアメリカの農産物が身近なものになったことが大いに役立っている。・・・食糧援助計画に組み込まれた経済開発は、そのままアメリカの輸出を増大させる機会をつくった。㌔その恩恵はアメリカにはね返ってきている。食糧援助を受けている国で一人当たり国民所得が10パーセント増えれば、その国のアメリカからの農産物輸入は21パーセント伸びると推定されている。「こうして多くの国々が”援助”から”貿易”へと移っていった。日本、イタリア、スペインはその典型的な例である」。なかでも日本は、単なる典型というだけにとどまらず、”平和のための食糧”という名の投資のまったく見事な成功例である。1954年にこの法律に基づく援助が姶まってから日本が受け取った食糧は四億ドル足らず、一方、1974年までに日本が買い付けた食糧は175億ドルを上回る。そして現在でも毎年20億ドル以上の食糧をアメリカから輸入しているのである。それでは、販売市場は、実際にはどのようにして開拓されるのだろうか。成功の確率が高い方法としては、給食制度のなかに子どもたちを組み込むことがある。1964年にマクガバン上院議員は「アメリカがスポンサーになった日本の学校給食でアメリカのミルクやパンを好きになった子どもたちが、後日、日本をアメリカ農産物の最大の買い手にした」と述べている。しかも、マクガバンによれば、この事が成功する時代はまだ終わっていないという。

    「”平和のための食糧”を通して、厖大な数の人びとがアメリカの農産物になじんだ地域こそ、将来の大食糧市場である。今日われわれが援助する人びとは、明日はわれわれの上得意になるだろう。・・・もしイソドがカナダ(アメリカのよき得意先)の半分の生産性を達成できれば、あらゆるアメリカ製品の巨大な市場が出現するに違いない」。1966年の報告もマクガバンと同じ見方をしている。

    「この食粗援助は世界中で4000万人以上の小学生の食事を改善し・・・アメリカ農産物の大きな市場を築きあげた。・・・過去20年間、増えつづけた農産物輸出によって、アメリカの農民も実業家も着実な利益を得てきた」。(スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』、朝日選書、pp.246-247)

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    公法480号からもっとも大きな恩恵を受けたのは、何といっても大手の飼料輸出業着である。1966年、すでに飼料はアメリカにおけるドルの稼ぎ頭となっていた。「飼料穀物協会は、主要な国々のいたるところで、貿易、農業関係者に普及宣伝活動をつづけて市場の拡大を助長した。つまり”適正”な家畜の飼育法ーーアメリカ産のトウモロコシ、大麦、裸麦、アルファルファなどを家畜飼料に使うことを教えたのである」。

    「アメリカ大豆協議会とアメリカ大豆協会は輸出拡大に力を入れ、その結果、数億ドルにのぼる大豆とその製品市場をつくりあげた。大豆飼料、大豆油脂のスペイン向け輸出は、売り込み政勢によって倍以上に増えた」。公法480号のおかげで、アメリカの大豆輸出は1970年にそれまでの最高を記録した。

    「国内で飼料産業を育成しようと努カしている国々に対しても、大豆や粉末大豆の輸出が大幅に伸び、その輸出額は前年を3億5900万ドルも上回った。1969~70年には大豆の価格が安かったこと、そのためにアメリカ大豆とその製品に対する需要が世界的に非常に大きくなったことがその原因である」。そして三年後、多くの国々は、・・・アメリカの大豆にしばりつけられることになった。これらの国々は、たとえ値段が6倍になってもーーアメリカはもはや価格面での競争を心配する必要はなくなった-ーなおアメリカ大豆を買いつづけるほか方法はなかったのである。飼料が荒稼ぎのタネになり、大豆加工がアメリカによって独占されているとすれば、公法480号を運用する側としては、良質の蛋白質物資を国外へ売り込むに当たって、人間よりも動物用に向けたくなるのは当然である。(スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』、朝日選書、pp.248-249)

    ★昭和40年代は日本が公害にまみれた時代でもあった。

    ●昭和42年6月12日:新潟水俣病(昭和電工)

    ●昭和42年9月1日:四日市ぜんそく(昭和四日市石油、三菱油化、三菱モンサント化成、三菱化成工業、中部電力、石原産業)

    ●昭和43年3月9日:富山イタイイタイ病(三井金属工業)

    ●昭和44年6月14日:水俣病(チッソ)(山根一眞氏『環業革命』、講談社、p.196)

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    1969年~1971年(昭和44年~昭和46年)★沖縄の1972年返還を決めた日米共同声明発表(1969.11.21)<核密約:ニクソン-佐藤合議議事録>米合衆国大統領われわれの共同声明に述べてあるごとく、沖縄の施政権が実際に日本国に返還されるときまでに、沖縄からすべての横兵器を撤去することが米国政府の意図である。そして、それ以後においては、この共同声明に述べてあるごとく、米日間の相互協力及び安全保障条約、並びにこれに関連する諸取り決めが、沖縄に適用されることになる。しかしながら、日本を含む極東諸国の防衛のため米国が負っている国際的義務を効果的に遂行するために、重大な緊急事態が生じた際には、米国政府は、日本国政府と事前協議を行なった上で、横兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とするであろう。かかる事前協議においては、米国政府は好意的回答を期待するものである。さらに、米国政府は、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、重大な緊急事態が生じた時には活用できることを必要とする。

    日本国総理大臣日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行なわれた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう。

    大統領と総理大臣は、この合意議事録を二通作成し、一通ずつ大統領官邸と総理大臣官邸にのみ保管し、かつ、米合衆国大統領と日本国総理大臣との間でのみ最大の注意をもって、極秘裏に取り扱うべきものとする、ということに合意した。1969年11月21日ワシントンDCにてR.N.E.S.(西山太吉氏著『沖縄密約』岩波新書、pp.49-50)

    ★軍人恩給受給者:282万5000人(昭和44年)、合計2406億7300万円。★新左翼運動の激化(学園紛争、第二次安保闘争):反戦・反体制運動■「官僚制度打倒」を目指した学生運動の盛り上がり。(現民主党:今井澄氏、仙谷由人氏ら)■騒乱罪適用。学園紛争は、結局国民の顰蹙を買って頓挫。これを契機に「官僚機構」は益々強固になってしまった。

    ・”安田砦(東京大学安田講堂)”の落城(昭和44年1月18日)

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    ・アポロ11号が月面着陸(1969年7月16日、昭和44年)米国はアポロ計画に750億ドルの資金を次ぎ込んだ。

    ・無人探査機ルナ15号(ソ連)が月面に着陸(1969年7月17日)

    ・アメリカはベトナム戦争で疲弊、消耗していた(約56000人戦死)リチャード・M・ニクソン大統領就任(昭和44年1月)ヴェトナム民主共和国首席ホー・チ・ミン死亡(昭和44年9月3日)#ホー・チ・ミンはインドシナの共産主義者の象徴であり、ヴェトミン以来の独立運動の英雄として南の民族主義者からも崇敬されていた。また中国、ソ連の対立(干渉)のなかでもヴェトナムの共産主義者を分裂させず統一・団結の立場を貫いてきた。ホー・チ・ミンの死亡はヴェトナム戦争を巡るバランスがさまざまな面で崩れるきっかけとなった。ヴェトナム労働党、南の共産主義者内部の中国派・ソ連派の対立、あるいは解放戦線内部および周辺での共産主義者と民族主義者の対立がバランスを失った。

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    ・国有地(現読売新聞社所在地)払い下げ問題の解決1850坪(約38億6500万円)で決着。(魚住昭氏著『渡邊恒雄メディアと権力』に詳しく掲載)

    ・言論出版妨害問題(1969年、昭和44年)創価学会批判本(評論家・明治大学教授、藤原弘達氏著『創価学会を斬る』)の出版阻止騒動。当時の自民党幹事長田中角栄と、公明党委員長竹入義勝の裏取り引き。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、pp.95-99に自公の関係についてもやや詳しく書いてあり、参照を勧める)。<余談>

    「1970年代、田中角栄首相のときの記者クラブでは、一人5000ドルが封筒に包んで各記者に渡されていた。これはよく知られていたことです。もしそれを拒否すれば、記者クラブに居られなくなった」と共同通信のある記者はいう。(B.フルフォード『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』光文社、p.75)

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    ・昭和45年には日本の総人口は1億466万5000人

    ・世界の人口は36億人を越えた

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    ●1970年アメリカ合衆国は確実に景気後退期に入った。

    ・インフレ圧力:物価上昇率3.4%(1968)–>5.7%(1969年)

    ・貿易黒字の縮小:68億ドル(1964年)–>6億ドル(1969年)

    ・ベトナム戦争で疲弊、消耗:国防費が60%も急増

    ・財政赤字増大:80億ドル以上(1967年)

    >260億ドル(1968年)

    ・アメリカの金保有高の減少:190億ドル(1958年)

    >100億ドル(1971年)

    ・アメリカの外国への流動負債の増加:330億ドル(1967.10)

    >600億ドル(1971年)(P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)

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    ●原油価格は1970年には1バレル3ドルだった。

    ★万国博覧会(1970年、昭和45年):高度経済成長の集大成。

    ★教養の時代の終わり教養の時代の終わりは、少なくとも日本においては、明確な日付を持っている。1970年10月20日である。ミシェル・フーコーの『知の考古学』の邦訳が刊行された日だ。(三浦雅士氏『青春の終焉』中村雄二郎訳、河出書房新社)

    ★高度成長時代:日本は高度に政治的な経済だった。※高度成長時代においては、どの産業が存在するか、その中にどの企業がいるべきか、設備投資の水準、そして価格水準にいたるまで、重要な決定は交渉や陳情に影響されて決まっていたのである。市場でも官僚の命令でも、どちらでもなかったのだ。・・・「発展途上段階の国」が、その急速な発展に伴う主要な政治的問題、すなわち発展が勝者と敗者を産みだすという問題を解決するには、交渉と陳述以外の方法はない。※高度成長時代を通して、政府の政策は、勝者の成長を助成するか、敗者の償いをするかというトレードオフ、言い換えれば、成長を促進する「戦略的な」政策と、成長の果実を広くばらまくという、「償い的な」政策との間のトレードオフに絶えず直面していた。(筆者注記:自民党の金権体質の根源)(以上、リチャード・カッツ氏著『腐りゆく日本というシステム』より引用)

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    ★アメリカ製原子炉の導入と運転(目立った反対運動はなかった)1.東京電力福島原発一号機:ジェネラルエレクトリック「沸騰水型原子炉」周辺海域に温排水とともに放出される放射性ヨウ素などによる魚介類汚染が問題となった。2.関西電力美浜原発一号機:ウエスチングハウス社「加圧水型原子炉」蒸気発生器の内部設置の電熱管破損のよる放射能漏洩事故発生(1972.6)3.日本原子力発電株式会社敦賀原発一号機:GE「沸騰水型原子炉」(久米三四郎他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の生き方ー』、七つ森書館、p.14)

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    ・日本赤軍、よど号乗っ取り事件(昭和45年)

    ・三島由紀夫割腹自殺:国家のidentificationを強力に求めた。※「日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からっぽな ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなってゐるのである」

    ・フォート・ノックス襲撃(昭和46年)フランスがアメリカの経済攻勢に対して行った奇襲。アメリカはフランスの要求通りの金準備ができていなかった。

    ・アメリカ、金・ドル交換停止(昭和46年)固定為替レート・システム崩壊。アメリカ・ドルは世界各地で急落。(1971年12月、スミソニアン会議:1ドル=308円、金1オンス=38ドル)

    ・通貨問題・通貨危機:スミソニアン合意(昭和46年12月17~18日)日本はこのとき戦後最大の不況ではあったが、国際的にみれば失業率1%、実質経済成長率4%で、諸外国からみれば羨望と嫉妬の的であった。結局1ドル360円から308円へと円が切り上げられることで10か国(カナダを加えて11か国)蔵相会議は合意に至った。(佐藤栄作内閣)

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    1972年(昭和47年):米中関係改善と日中国交回復の年★沖縄返還(1972年、昭和47年5月15日)沖縄県施政権がアメリカから日本に返還された。

    ★全共闘運動(学生運動)の衰退(–>連合赤軍による浅間山荘事件)運動の衰退期に現われたのは、これも1950年代前半と類似した、新左翼諸党派どうしの抗争や査問、そしてリンチなどだった。当時の活動家の一人は、「運動の高揚期には仲間同士の価値観の一致を求めず、10のうち一つ同意できれば仲間として、優しい連帯で結ばれていたのとは逆に、わずかばかりの違いを探し、自分たちの正統性を主張し他を排斥し始めた」と回想している。そして1972年2月、連合赤軍による浅間山荘事件が発生した。新左翼党派の一部が、武装闘争を主張して「連合赤軍」を名のり、仲間の「プチブル的生活態度」を批判してリンチ殺人を行なったあと、最後には警官隊と銃撃戦におよんだこの事件は、警察側のマスコミ操作ともあいまって新左翼のイメージを一気に悪化させた。あいつぐ党派間抗争がこれに重なり、これ以後の新左翼運動は、一部の活動家以外に広がることが困難な状態に陥っていった。こうして全共闘運動は、大規模な運動としては、数年で消えさった。そして運動が残した影響の一つは、従来の「進歩的知識人」や教養の影響力を、大幅に低下させたことだった。1980年代に東京大学出版会の専務理事だった石井和夫によれば、「それまでは、学生にとってこれだけは必ず読むという”定本”があ」ったが、全共闘運動後には「”定本”の重版が出なくなってしまった」という。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.585)

    ★既存の権力階級(官僚独裁体制)に挑戦し、その打倒を目指した全共闘運動(学生運動)は、それにたいする弾圧の過程で、むしろ官僚組織を強化してしまうという皮肉な結果をもたらした。これ以後大学生は知識や意識の面でも大衆化し、名実共にエリートでなくなった。みんなガキっぽくなってしまったのである。日本社会の堕落と絶望の始まりだったろうと筆者は思う。

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    ■米中関係改善:「ニクソン・ショック」(1972年、昭和47年2月21日午前11時27分)米大統領ニクソンを乗せた専用機「エアフォースワン」が北京首都空港に着陸した。滑走路では周恩来らが出迎えた。・・・ニクソンがタラップを降りるまでキッシンジャーら随行団は機内にとどまった。寒風の中で帽子もかぶらずタラップの下に立っていた周恩来も、降り立ったニクソンにひとり歩み寄ると、二人だけで固く握手が交わされた。1954年ジュネーブ会議(朝鮮戦争終結)において米国務長官ダレスは周恩来との握手を拒んだが、それ以来続いた中国と米国の仇敵関係がようやく雪解けを迎えた。しかしこれは日本の頭越しに電撃的に行われた米中関係の改善で日本では「ニクソン・ショック」と言われるほど衝撃だった。(『毛沢東秘録<下>』産経新聞社より)(米国が設定する「敵」は、これまでしばしば変化してきた。例えば1960年代に入ると、それまでの旧ソ連に代わって中国が

    「主要敵」とされ、「中国封じ込め政策」が米国のアジア政策の根幹にすえられた。日本国内では批判も強かったが、自民党政権はひたすら忠実に米国の「中国封じ込め」に「貢献」した。ところが、ある朝眠が覚めてみると、日米の「共通敵」であったはずの中国と米国が、突如として和解したことを知らされることとなった。豊下楢彦氏著『集団的自衛権とは何か』岩波新書、p.iii)。

    ■日中国交回復(田中角栄内閣)共同声明では「中華人民共和国が中国の唯一の合法政府」であることを認め、「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重する」と明記。これにより日本は台湾と断交することになってしまった。なお日華平和条約(昭和27年(1952年)4月に戦争終結を宣言し締結)については共同声明では触れず、日本側が記者会見で「存在の意義を失い、終了したと認められる」と表明。(『毛沢東秘録<下>』産経新聞社より)

    ※周恩来(当時首相)による日中戦争の総括(賠償請求の放棄)(—>★平成13年今なお続く国家元首の靖国神社参拝問題)

    「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、一握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない。すべからく日中両国人民は、共に軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、それを今後の教訓とすべきである」(元中国大使中江要介:「だから中国政府としては、東京裁判のA級戦犯を合祀する靖国神社に日本の首相が参拝することによって、A級戦犯の戦争責任が曖昧になったり、その名誉が回復されたりすると、自国民(中国人民)を納得させられない」)(古山高麗雄氏『万年一等兵の靖国神社』、文藝春秋2001年9月号138~139ページより)

    ※日中国交回復からみる創価学会=公明党と田中角栄の関係創価学会=公明党と、田中、ないしは田中派とは密接な関係があった。それを象徴する出来事となるのが1972年の日中国交回復だった。公明党の委員長だった竹入義勝は田中の密命を帯びて訪中し、周恩来首相と会見した。これをきっかけに、田中の電撃的な訪中が行われ、日中国交回復が実現する。その後も、消費税導入の際には、田中の跡を継いだ竹下登首相と公明党の矢野絢也委員長のラインが形成されていて、公明党は自民党に助け船を出した。こうしたことが、今日の自民党と公明党との連立へと結びついていく。(島田裕巳氏著『創価学会』新潮新書、pp.95-97)

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    1973年(昭和48年):老人医療無料化。年金給付の大幅増加。■「福祉元年」(田中角栄内閣)※高度成長を背景に、調子に乗りすぎた感を否めない。<田中内閣黒字対策五項目>1.輸入の拡大2.輸出の適正化3.資本の自由化4.経済協力の拡充5.福祉対策の充実

    ※福祉制度は確たる理念からではなく、政治的な思惑やさまざまな利害関係者の妥協の産物として作られた。納税者の意志も将来を見越した一貫した政策も無視された。(ここで税・保険料収入と、年金給付のバランスが狂った)。※田中内閣「日本列島改造計画」の政策的インセンティブによる土地投機は、円高に対する日銀の金融刺激策とあいまって、土地価格は1972年から73年にかけて急騰した。(株価も急騰:3000円(1972年3月)–>5000円(1972年末))※田中首相の金権政治利益をうけるグループがお金と票を提供しようとする限り、田中派はきわめて前向きにそれに報いようとした。田中派は、補助金、政策融資、カルテル、輸入制限、その他利益グループの支持をえられることであれば何でも提供し、同時に自分たちもその分け前にあずかった。(リチャード・カッツ氏著『腐りゆく日本というシステム』より引用)

    ★1973年3月頃。関西電力美浜一号炉で大規模な燃料棒破損事故があった。関電と三菱重工はそれを全く秘密裡に処理していた(田原総一朗『原子力戦争』筑摩書房)。この事故は徹底的な事故隠しの後、石野久男代議士(当時、社会党)の追求などで、1976年にやっと公表されたが、事故後3年経過しており時効で何の咎めもなかった。<腐れ企業と欺瞞行政当局の隠蔽体質>ほぼ最初から最後まで、この事件の顛末に付き合ったことで、私は多くを学んだ。その多くは驚きの連続で、思えば私が会社にいた頃は、隠蔽の体質はあったものの、商業原発など始まっておらず、呑気なものだった。関西電力・三菱重工が一体となったきわめて組織的な事故隠しと、それを知りながらシラを切り通そうとする通産省、そして時効という狡猾な逃げ道。それらは、私の想像をはるかに越えた、悪らつな国民無視と安全感覚の欠如を浮き彫りにした。ほとんどの場合、私は怒りの感情で動くことはなかったが、この時は心から憤りの気持をもった。(高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、pp.151-152)

    <被爆の顕在化>1976~1977頃、1950年代の被爆の顕在化と情報公開を通して放射能の恐ろしさの情景がやっと人類に見えはじめた。1950年代にネバダ州で20~30万の兵士(アトミック・ソルジャー)の間近で核爆発実験が行われ、彼らは約20年後の1970年代後半になって、次々とガンや白血病となって亡くなった。またネバダの風下に住む20~30万の住民にも放射能の被害が及んだ。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.530-531より)

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    ●「青嵐会」発足(1973年、昭和48年7月17日)藤尾正行、中川一郎、渡辺美智雄、湊徹郎、玉置和郎を代表世話人として、石原慎太郎幹事長を筆頭に31人の議員で発足。

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    ・金大中氏拉致事件発生(昭和48年8月8日)※日本はスパイ天国である。外国のスパイに対応する機関も法律も皆無に等しく、主権を侵害され拉致されたヒトを取り戻す知恵も力もない。首謀者がKCIA(韓国中央情報部)部長、李厚洛であったことは米下院フレーザー委員会の五年後(1978年)の報告を待たねばならなかった。この中で朴正煕政権を支えた巨額の政治資金調達システム(李厚洛が窓口になっていた)に日本企業が深くかかわっていたことも明らかにされた。(米国に亡命した第四代KCIA部長金炯旭の証言による)。

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    ※チリにおいてアウグスト・ピノチェトの率いる軍が、大統領官邸を襲撃。民主的に選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ大統領は自殺した。これはアメリカが長年に渡ってチリの民主主義を破壊した結末だった(1973年、昭和48年9月11日)。(ノーム・チョムスキー『破綻するアメリカ壊れゆく世界』鈴木主税・浅岡政子訳、集英社、p.148)。これを画策したのがCIAで3000人を越す市民を殺害した。(伊藤千尋氏著『反米大陸』集英社新書、p.116)

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  22. shinichi Post author

    ・第四次中東戦争(ヨム・キープル戦争、1973年、昭和48年10月6日)イスラエルがシナイ半島より撤退(キャンプ・デヴィッド合意)(アンワル・サダト=カーター=メナヘム・ベギン)※エジプト軍とシリア軍は、それぞれスエズ運河とゴラン高原で、イスラエルと戦端を開いた(ヨム・キープルはユダヤ教の祭日)。この戦いは1~3次までと違ってアラブ側に有利に展開(イスラエルのアマンとモサドの情報収集

    ・解析の甘さとマインドセット(固定観念による重要情報の軽視)が不利をもたらした)。アラブ側は「石油を武器に」という石油外交で、アラブに有利な和平条件を国際世論に働きかけた。そのリーダーは従来の穏健派のサウジアラビアだった。10月16日クウェートに集まったOPECの代表は石油価格を7割あげて1バレル、3.01ドルから5.12ドルにすることを、一方的に(石油会社の承諾を得ず)決めた。また12月からは11.65ドルに引き上げた。わずか2か月で約4倍となったこれは以下の日本の「油乞い外交」に続いてゆく。※航空戦略2つの教訓1.ミサイルの発達により戦車と航空機が従来ほどには戦場で君臨できなくなった。2.兵器システムの進歩により発見されたら撃破されることが確実になった。短時日のうちに双方に大きな損害がでて、一旦防衛線を突破されると速いテンポで侵略されてしまう。(特に戦車の脆さが際立って証明された)※ステルス機開発レーダーと赤外線ホーミングに対して、航空機を電波反射の少ない形状にし、表面に電波吸収剤を貼りつけるとともに、エンジンの排気孔を横広に紙のように薄くして排気温度を下げた。ロッキードF-117Aが世界最初のステルス機である。(—>1991年1月17日、湾岸戦争へ投入)(リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦湾岸戦争』服部省吾訳、東洋書林より)

    ■日本の「油乞い外交」(日本はアラブ諸国を支持した)※第四次中東戦争(1973.10.6)に続き、OPECの石油価格自主引き上げ、ニクソンのイスラエル軍事援助に対抗した突然のアラブ側の石油供給削減のニュースで、不安にかられた一般消費者は、トイレットペーパー、砂糖、洗剤、灯油などの生活必需品の買いだめに狂奔し、そのためにこれらの商品が店頭から姿を消し、それがいっそうの物価高騰を招くというパニック状態になった。–>■第一次石油危機(1973年11月)それはまさに水鳥の羽音に驚く平家の軍勢のありさまそのものであった。(渡邊昭夫氏著『日本の近代8大国日本の揺らぎ』より)※原油価格の変化:2ドル弱/バレル(159L)–>第一次石油危機–>8ドル以上(1973年12月には1バレル、11ドル65セント)になった。

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    1974年(昭和49年):●出生率:2.05☆☆☆1974年から1990年(バブルの末期から終焉)は経済の相対安定期(経済成長率4%)☆☆☆■田中首相ASEAN五か国訪問(昭和49年1月)一方ではシンガポール(リー・クアンユー首相)の歓迎、一方ではインドネシア、タイでの反日運動激化など経済大国日本への東南アジア諸国の期待と反発が表面化した。■三木武夫内閣成立(昭和49年12月)■社会党が朝鮮労働党の「友党」になった。(筆者は全く知らなかったが、社会党は江田三郎氏以外はアホばかりだったと知らされた。投票して恥をかいてしまった)。中国から冷たくされた社会党が新たな外交パートナーとして選んだのは北朝鮮だった。・・・社会党は金日成主席に対して「賢明な指導者」だと礼賛しているのである。もちろん中国の毛沢東も独裁で、・・・こちらにも「深い敬意」を表明している。(田原総一朗氏著『日本の戦後』講談社)

    ・「ベ平連」解散

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    ・ニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」をきっかけに辞任。(1974年8月8日)

    ▼▼▼▼▼ヨーロッパとアジアで、時代の一つの区切りを迎えて▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼時代のテーマが政治から経済へとシフトするなかで、▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼米国中心の経済先進国は態勢立て直しの時期を迎えた▼▼▼▼▼

    ※日本政府は48年初めから5回にわたり公定歩合を引きあげた。さらに緊縮財政、不動産融資規制など厳しい景気抑制を行い、公定歩合はついに9%の高さになった。49年度実質経済成長率はマイナス0.2%、鉱工業生産の伸びはマイナス9.7%で戦後はじめてのマイナス成長だった。(この景気低迷は1978年(昭和53年)まで約5年間続く)

    ※1974年から1980年代初頭にかけてインフレが世界で猛威をふるった。1970年代アメリカ経済の競争力は悲劇的なほど低下した。1979年10月合衆国のインフレは12%を越えようとしていた。

    ●金の価格(ロンドン市場)46ドル/オンス(1972年はじめ)—>64ドル(1972年末)

    >100ドル突破(1973年=石油価格2.11ドル/バレル–>10ドル以上に引き揚げ)—>130~180ドル(1974~1977年)

    >244ドル突破(1978年=OPECが石油価格を1バレル30ドルに)

    >500ドル(1979年)(P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社)

    ●原油の価格1バレル34ドル(1970年には1バレル3ドル)で売られ、サウジアラビアの石油収入は1010億/年ドルを越えた。生産量も1000万バレルに達した。(1970年は350万バレル、12億ドルだった)(ジェレミー・リフキン『水素エコノミー』柴田裕之訳、NHK出版)

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    1975年(昭和50年):日本は1972年ころから世界中にテロリストをばらまいていた(日本赤軍)。

    <連合赤軍の海外活動(テロ)>1972年5月テルアビブ空港乱射事件。24人を無差別に殺害。1973年7月パリ発東京行きの航空機をハイジャック。リビアで乗客を降ろした後機体爆破。1974年1月シンガポールの石油精製所爆破。1974年9月オランダのフランス大使館占拠(ハーグ事件)フランス政府は超法規措置で逮捕していたメンバーを釈放。1975年8月クアラルンプールの米・スウェーデン両大使館を占拠する(クアラルンプール事件)。日本政府は超法規措置でメンバー5人を釈放。1977年9月ボンベイ離陸直後の日航機をハイジャック(ダッカ事件)また日本政府は超法規措置でメンバーを含む6人を釈放。1988年4月イタリアのナポリでアメリカ士官の車を爆破(ナポリ事件)

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    ※日本政府は昭和50年8月のマレーシアの米大使館が占拠されたクアラルンプール事件において日本赤軍の要求に応じて、法的根拠が明確でないまま服役、拘置中の赤軍幹部ら合計11人を釈放した。これは「テロには屈しない」という国際的合意に反する暴挙を行ったため世界中の顰蹙をかった。(日本国家の弱小さを露呈した大恥であった)

    ★勤労世帯の実収入は約23万6000円/月(<--1965年65000円)☆国民性・国民意識:アメリカから強制的に与えられた民主主義(もどき)をバックに他力本願に「自由」・「人権」・「平等」を求めるという主体性の欠如した意識(欲望)の蔓延。(国家にとっても国民にとっても不幸な意識の蔓延) -------------------------------------------------- ◎『日本よ国家たれー核の選択ー』(清水幾太郎氏著、昭和55年、文藝春秋社)国防の不在を憂う名著。(「国防こそ最高の福祉」と著者はいう) -------------------------------------------------- ※「強力で正当なシビリアン・コントロールの下で軍隊を持つ事」は焦眉の急だろう。しかし、残念ながら平和ボケして民主主義が根づかない日本と、その国民不在の三流政治に「軍隊を持つ」資格はないというのが読書後の感想だった。解説:「シビリアン・コントロール」とは政治にたづさわる人の意見が軍事にたづさわる人の意見を統制することであり、政治が軍事の枠組みを決定することである。(政治優先の原則)決して「文民(背広組)が武官(制服組、軍人)を統制」することではない。防衛事務次官の席を大蔵官僚が奪い合ったり、装備局長(装備調達など莫大な予算を行使)などの要職を通産官僚が占めるなどバカげた話である。日本のシビリアン・コントロール(文民統制)はまったくルールを失っているのが実体だ。首相、官僚自らルールを破壊しているのだから止むを得ない。政治家と軍人が対等な立場で腹を割って直接に話をできないようでは日本の将来の平和は覚束ない。※このころ以降の政治家、官僚の防衛感覚について1.有事を想定しない。議論しない。戦える自衛隊を作らない。2.抑止戦略によって戦争を抑止できると誤解している。3.専守防衛だから国土が戦場になっても仕方がない。 「専守防衛」戦略は国土を主戦場に想定しているから、はじめから日本の町が焼かれ、老幼婦女子が殺される事を覚悟した戦略。4.万一、武力攻撃を受けても自衛隊に多くを期待しない。5.実質的に米軍に日本の防衛を任せる。6.外国における武力紛争について関心がなく、関与する気はまったくない。(松村劭氏著『日本人は戦争ができるか』より引用) -------------------------------------------------- ★サイゴン陥落、ヴェトナム戦争終結(昭和50年4月)プノンペン(カンボジア)とサイゴン(ヴェトナム)が陥落し拠点を失ったアメリカは長年に渡るインドシナ戦争から手を引いた。 ★カンボジアでクメール・ルージュ(急進的共産主義革命派)が首都プノンペンを制圧、ロン・ノル政権(アメリカが支援)を倒した(1975.4.17)。 「我々は交渉のためではなく、征服者としてプノンペンにきたのだ」 -->ポル・ポト(サロス・サー)による国民大虐殺(200万人)。

    ★ヘルシンキ宣言(昭和50年(1975)8月1日)ヨーロッパ安全保障協力会議の最終文書に、ヨーロッパ33か国とアメリカ、カナダをいれた35か国が調印し、(ヨーロッパ中心にみた場合)戦後の歴史に一つの区切りがついた年だった。(ソ連はブレジネフ書記長が調印)つまり1945年に引かれた国境を確認したという意味で、第二次世界大戦を正式に終結させたものと言える。(渡邊昭夫氏著『日本の近代8大国日本の揺らぎ』より)

    ★先進国サミット開催(昭和50年(1975)11月15~17日):パリ郊外ランブイエの古城フランス:ジスカール・デスタン大統領(提唱者)アメリカ:ジェラルド・フォード大統領イギリス:ハロルド・ウィルソン首相西ドイツ:ヘルムート・シュミット首相イタリア:アルド・モロ首相日本:三木武夫首相

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    ■信濃川河川敷事件:「田中金脈」の原点の一つといわれる

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    1976年(昭和51年)~1981年(昭和56年)■田中角栄、ロッキード事件で逮捕される。(昭和51年7月)田中角栄:「検察庁筋の話ではな、もし、領収証が一枚あったら、この事件は初めからなかったそうだ・・・」(麻生幾氏著『戦慄』より引用)※ロッキード事件はCIAが韓国朴政権(民主化弾圧政策;児玉誉士夫らと強力に癒着)の崩壊を狙ってしかけた事件だったという見解がある。(畠山清行『何にも知らなかった日本人』祥伝社文庫、pp.11-25)

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    ※この頃は国民の「平和ボケ」は最高潮に達していた。根拠のない平和状態、権力闘争に終始する政治、国民に見えない権力の暗黒部分、旧態然とした官僚独裁体制、幻想的人命尊重、実質のない危機管理能力、思考力も信念も失いただひたすら金銭を追いかけるだけの国民意識、悪平等を求める卑しさ、「人権」という名の人権侵害、日本列島におおい被さるこの一億総無責任状態は今後も引き続いて日本を蝕んでいった。そして民主主義とは名ばかりの「日本型社会主義」の下に言論統制、情報統制が淡々と敷きつめられつつあった。

    ・「不快用語整理法」制定(1981年、昭和56年)

    ●米軍駐留経費の日本側負担(「思いやり予算」)を決める。(金丸防衛庁長官)

    ●アメリカでAIDSが新しい病気として認定される(1981.6.5)。(患者発生は1979頃、日本へのAIDS上陸は1980年とされている)

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    ※山崎豊子氏『沈まぬ太陽』(全五巻)のなかに、国家~国策会社~省益~族議員の暗躍という役人・政治屋の集りの構図と、私物された国家ともいうべき日本の暗澹たる状況が凝縮されている。その影響をモロに被るのは、いつの世も善良で人を疑うことを知らない柔和な国民なのである。

    ■「目白の闇将軍」(田中角栄):永田町「二重権力構造」の始まり永田町の政治家は「表」を受け持ち、黒幕や政商は「裏」を受け持っていたが、田中角栄は永田町に「裏」とその担当者を作ってしまった。(「政界のドン」=金丸信、H5.3.6脱税で逮捕)

    +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++<余談>田中角栄氏(大正7年5月4日一白水星戊午生)のこと筆者は毀誉褒貶の激しい元総理大臣田中角栄氏を殆ど尊敬の念をもってみている。氏の生い立ちの過酷さ、若き日々の身過世過の凄じさを想像するとき、氏の生き様は敬愛の想いを持ってしか望めないと思うのである。

    「政治とは生活だ」と喝破し、豪雪の越後を雪害から解放し、若干44歳で大蔵大臣を努め並み居る官僚群を手足の如く利用し使いこなした。ロッキード事件で窮地に陥っても、決して弁解したり他に責任を転嫁したりしなかったという。勝利を誇らず、勝者を称え敗者を庇い、いかなる屈辱的な事態においても報復を嫌った。見事というほかはない。氏が若い人に色紙を書く時、好んで書いた言葉がある。

    末ついに海となるべき山水もしばし木の葉の下くぐるなり

    (津本揚氏著『田中角栄』、早坂茂三氏著『オヤジの知恵』などより)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ●核拡散防止条約(昭和45年調印、佐藤栄作内閣)の国会承認成立(昭和51年5月21日)ロッキード事件のどさくさに紛れて調印後6年後にやっと承認された。昭和天皇の悲願を受けた衆議院議長、前尾繁三郎の執念の成果だった。(平野貞夫『昭和天皇の「極秘指令」』講談社、pp.125-126)

    ・「ジェネンテク」社創業(昭和51年4月):バイオ産業のさきがけ世界初の遺伝子組み換え技術の実用化を目指したベンチャー企業誕生(ハーブ・ボイヤーとロバート・スワンソン)

    ・日豪友好協力基本条約締結(昭和51年6月)資源保有国と資源消費国との新しい関係(相互依存型)の端緒となった。

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    ●周恩来(膀胱癌・結腸癌・肺癌)死去(昭和51年1月8日)–>後任は華国鋒

    ●毛沢東(筋萎縮性側索硬化症、心筋梗塞)死去(昭和51年9月9日0時6分)

    ●中国「文革四人組(張春橋、王洪文、姚文元、江青)」逮捕華国鋒、汪東興、葉剣英らによる権力闘争の始まり(昭和51年10月6日)

    ●トウ小平が権力に復帰:華国鋒、汪東興失脚(昭和53年12月)(李志綏『毛沢東の私生活<下>』新庄哲夫訳、文春文庫)

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    ■福田赳夫内閣成立(昭和51年12月):幻想的全方位平和外交福田内閣は石油危機と田中内閣の日本列島改造計画の影響で発生した狂乱物価をおさめる仕事を引き受けさせられたことになる。

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    ・天然痘撲滅宣言(1977年)

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    ■ダッカ事件(1977年、昭和52年9月28日):福田赳夫は「人間の命は地球より重い」という言い訳とともに、テロリストを世界にバラ巻いた。

    ハイジャック犯人グループ:丸岡修、和光晴生、佐々木規夫戸平和夫、坂東国男

    パリ発羽田行きの日本航空機472便(DC-8、乗員14名、乗客137名、犯人グループ5名)が、経由地のインド、ボンベイ空港を離陸直後、拳銃、手投げ弾などで武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。同機はバングラデシュのダッカ国際空港に強行着陸、犯人グループは人質の身代金として米ドルで600万ドル(当時の為替レートで約16億円)と、日本で服役および拘留中のメンバー9名の釈放を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。日本国政府は議論の末、10月1日に福田赳夫首相が「人命は地球より重い」として、身代金の支払いおよび、超法規的措置としてメンバーの引き渡しを決断。身代金と、釈放に応じたメンバー6名(3名は拒否)を日本航空特別機でダッカへ輸送した。10月2日、人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放された。10月3日、残りの人質を乗せたままハイジャック機は離陸、クウェートとシリアのダマスカスを経て人質17名を解放、アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸して、同国当局の管理下に置かれた。この時点で残りの乗客乗員も全員解放され、事件は終結した。しかし、この事件における日本の対応は、欧米の「テロリストや過激派と交渉せず」という姿勢の反対であり、国際的非難を受け、「日本はテロまで輸出するのか。」と言われた。日本はこの事件を受け、ハイジャックに対応する特殊部隊としてSATを設置した。(2004年;http://ja.wikipedia.org/w/wiki.phtmlより)

    ・日中平和友好条約締結(1978年、昭和53年8月8日)1978年は、いろいろな角度から見ても象徴的な意味を持つ重要な年だ。その年のトウ小平の訪日に合わせ、中国で開催された日本映画週間は中日交流史に大きな足跡を残した。そして、この年の未に長年鎖国政策を実施してきた中国は、ようやく改革・開放政策を取りいれ、改革の春を迎えた。当時、経済的にその成果を確認できるものは何一つなかったが、それでも国民の多くが改革・開放を情熱的に支持したのは、外国の映画を見ることができたからだ。ここでいう外国の映画とは日本映画のことである。・・・日本人は諸悪の根源で趨る資本主義のために路頭に迷い、苦しい生活にあえいでいる、とそれまでの政治教育によって多くの中国人は信じこんでいた。しかし、物が溢れんばかりに豊かで近代的な日本社会と、いかにも幸せそうに暮らしている日本人の生活をスクリーンやブラウン管で目の当たりにした時、遅れているのは中国人自身なのではないか、と誰もがショックを覚えた。その意味で、日本映画は中国と世界との距離をわかりやすく教えてくれたばかりでなく、同時に強烈なインパクトをもって新時代の訪れを知らせてくれた。(莫邦富氏著『日中はなぜわかり合えないのか』平凡社新書、2005:pp.92-94)■ヤクザと同和利権、エセ同和の大活躍部落解放同盟や同和団体といううるさくてやっかいな相手、それをさばくことができ、仕切ることができる。それが、官僚としての優秀さを示すものとして評価されたのだ。これは、団だけではなく、被差別部落の問題をかかえている自治体でも、同じことであり、場合によっては、より大きな要素となっていたとも考えられる。これは、解放同盟はともかく、ヤクザにとってはまたとない、つけいる隙となった。

    「同和団体」を組織して、被差別部落民への自治体の予算を獲得したり、融資を実現したりして、手数料を取っていたヤクザのうちには、こうした行政側の姿勢を見て、これをビジネスとしてやっていこうとするものが生じていった。「ビジネスとして」というのは、「同和」を看板にして、同和対策に関係のないところまで公共の資金を引っ張ってくる行為を始めていくことを指していた。たとえば、土地・不動産関係の許認可ビジネスをやる。開発業者を顧客にして、農地の住宅地への転用、市街化調整区域の地目変更など、土地開発に必要な許認可を、「同和対策」を大義名分として取りつけ、手数料を稼ぐのである。あるいは、融資ビジネスをやる。たとえば

    「同和対策」の名で中小企業信用保証協会ーー中小企業基本法に基づいて各都道府県に設けられている公的機関ーーに保証させて、金融機関から無担保で数千万の融資をさせ、手数料を稼ぐ。あるいは、「同和対策」としておこなわれている固定資産税の減免などの税制優遇策を使って、税務工作をやってやり、手数料を稼ぐ。いずれの場合も、「同和対策」の看板は掲げているが、許認可先、融資先などはいずれも一般企業でもいい。そのほうが多額の報酬が得られる。このようなビジネスが成立していったところで、「エセ同和」が誕生したわけである。この種のビジネスには、私が京都で仕事をしているころにいくつも遭遇した。たとえば、京都岩倉の宅地造成にからんで、山口組系の男がやっている同和事業組合を使って、市街化調整区域の線引きをやり直させた事例は、『突破者』にかなり詳しく書いたが、同じような例はいくつもあった。京都では、「エセ同和の帝王」と呼ばれた尾崎清光も派手に活動していた。尾崎は、1978年(昭和53年)に設立した「日本同和清光会」といういわゆるエセ同和団体を使って、中央省庁や地方自治体の官僚を徹底的に恫喝する手法で、広大なエセ同和ビジネスを確立して展開し、大儲けしたのである。尾崎は「人権」「差別」という戦後民主主義理念が絶対に逆らえない、したがって官僚が対抗できないポイントを利用すること、そして「こらっ、ワシをなめとんのか!」「いのちが惜しうないんか」といった高飛車な恫喝をかましながら、机や椅子をひっくりかえすというむきだしの暴力、このふたつを駆使して、相手をやりこめた。尾崎は、同時に、取り上げる問題とその周辺や、恫喝する人間とその周辺について、徹底した調査をしてネタを集めて、盲点を抉り出すのもうまかった。そして、複数のヤクザの組と提携しながら、恐喝ビジネスを「同和」の名の下に展開したのだった。(宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論拠』筑摩書房、pp.280-281より)

    ■大平政権誕生(1978年、昭和53年11月)大平首相の時代は自民党の田中・反田中を軸とする派閥抗争が加熱化する一方、与野党伯仲による綱渡りの国会運営が強いられていた。

    ・イラン革命:親米パーレヴィ王朝の崩壊(1979.2)–>■第二次石油危機※原油価格の変化:約8ドル/バレル(159L)–>第二次石油危機–>20ドル以上(1978年)–>40ドル以上(1980~81年)–>110ドル(2008年3月)※ホメイニ師が指導したイラン革命によって、現代におけるイスラムと政治の一体化が現実のものとなった

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    <オイルマネーの還流>石油輸出国が稼いだ石油代金はユーロ市場で預金され、あるいはアメリカ国債などの投資されて欧米へと還流した。それが、今度は非産油発展途上国に貸しつけられたが、実はオイルマネーを預金として取得した多国籍銀行が非産油発展途上国への貸し付け主体となってオイルマネーの還流の中心となっていた。またサウジアラビアは特に狡猾に振る舞った。イスラム原理主義を掲げる国内の反対勢力を抑えるため、彼らイスラム急進派に多額の賄賂を与え、アフガニスタンやパキスタンなどの国におけるイスラム「革命運動」に資金を提供した。こうしてサウジアラビアの若い世代の急進派がこれらの国々に広がり、今日(21世紀)のイスラム武装勢力の土壌を作った。(後半部分はポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、p.171)

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    <アメリカの財政巨大赤字の発生>1979年に起きた第二次オイルショックは、インフレ圧力をいっそう高めることになった。インフレを制御しようとして、FRBは経済学者ミルトン・フリードマンの主張するマネタリズムを採用した。マネーサプライ(通貨の供給量)に目標値を導入する一方、それまで操作していたFF(短期)金利は自由に上下するにまかせたのである。この新政策・は1979年10月に導入され、レーガン大統領が就任した頃には、すでにアメリカの金利は記録的な高水準に達していた。レーガン大統領は、企業への減税が民間経済に活力を生み、かえって税収を増大させるという、いわゆるサプライサイド(供給重視)経済学の政策処方と、アメリカの軍事力強化の重要性を信じていた。レーガン政権の初年度予算は、大幅な減税と巨額の軍拡をともに盛り込んでいる。軍事以外の政府歳出を減らそうとして努力も重ねたが、そうして捻り出された歳出減は、軍拡および減税による歳出増よりも、はるかに小さかった。政治的に最も抵抗の少ない道が選ばれたのである。かくて、巨額の財政赤字が発生した。(ジョージ・ソロス『ソロスは警告する』徳川家広・松藤民輔訳、講談社、p.172)

    ★懲りない原子力政策の策定と推進:高速増殖炉とプルサーマル計画<高速増殖炉の危険性>(日本では『常陽』『もんじゅ』)高速増殖炉は、その構造の特殊性から、軽水炉のもつ潜在的危険性に加えて、軽水炉にはない安全上の問題点をもっている。それらを詳述することは専門領域に属することといえそうだが、基本的な点だけはおさえておこう。高速増殖炉の基本的な難しさは、軽水炉と比べて炉心の出力密度が高く、温度も高いことである。表5-2(ここでは省略)に、高速増殖炉と軽水炉の基本的なデータの比較を掲げておく。この表をみても分るように、さまざまな数量的因子が場合によっては一桁近くも高速増殖炉の方が高く、それだけ反応の制御や安全設計に難しい点が出てくる。それと同時に大きな問題は、毒性の強くやっかいなプルトニウムの炉心内蔵量が多いということである。炉心とブランケットを合わせて、大型の高速増殖炉では高温の原子炉が内蔵するプルトニウム量は、数トンに達する。また、高速増殖炉が実用化されることになれば、核燃料サイクルで取扱われるプルトニウム量は飛躍的に増大する・これは、核拡散問題まで含めて大きな社会問題となる。次に、冷却材としてナトリウムが使われることも大きな問題である。ナトリウムは、腐食性に富むため、配管の腐食の問題が深刻となる。さらに、一次系のナトリウムは原子炉内で放射性となり、冷却材自体が強い放射能を帯びるという軽水炉にはない問題が生じる。そして、ナトリウムがきわめて反応性に富む物質で、水に接触すれば爆発的に反応する(燃える)という点が、何よりも恐れられていることである。そのナトリウムと水が熱交換器のパイプの薄い金属を隔てて接しているからだ。高温のナトリウムは、空気中でも燃える。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.236-237:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集として再録)+++++++++++++++++++++++++++++++++<プル・サーマル計画>すでに述べたように、この何十年という期間を考えても、高速増殖炉が多量のプルトニウムを消費するというようなことは実現しそうもない。その間、軽水炉によるプルトニウムの生産が続けば、プルトニウムはむしろたまり続ける。そのたまり続けるプルトニウムを軽水炉で燃やそうというのが、プル・サーマル計画である。サーマルとは、サーマル・リアクタ(熱中性子炉)からきている。原理的にはこの方法は可能である。プルトニウムはウランにまぜて、混合酸化物燃料として使用することになる。実際この方法で、プルトニウムを燃やす試験をすることが、すでに日本でも1970年代初期から検討され、美浜1号炉で試みられることになっていた。このことについては、日本のプルトニウムがアメリカに売られる問題に関連して、第四章で触れた。その後に美浜1号炉が、燃料棒大破損や蒸気発生器の事故で長い間運転を停止したため、現在までその試験は実施されないままになっているが、今後復活することになりそうだ。政府の計画では90年代には実用化したいとしている。1978年に出された資源エネルギー庁の「核燃料サイクルに関する検討結果中間とりまとめ」によると、プル・サーマル計画の意義を、(1)燃料節約効果、(2)プルトニウムを貯蔵所で保管するより、原子炉内に入れておいた方が核拡散防止上好ましい、(3)高速増殖炉時代への技術的訓練、の三点にあるとしている。このうち(1)以外は、とってつけたというか、本来的な必然性のない理由である。(1)の燃料節約効果があるかどうかという点もそう自明ではない。高速増殖炉とは異なるといっても、プル・サーマル計画はプルトニウム・リサイクル計画である。仮にそれが核燃料節釣上の効果をもつとすれば、それは核燃料サイクル全体が「プルトニウム経済」(第6章参照)という形で回転する時のことだろう。それにともなって、本書で述べたようなプルトニウムに関するあらゆる問題が問われることになる。それを覚悟で実行するだけの魅力が、プル・サーマル計画にあるとは思われない。もちろん、プル・サーマル計画にともなって、プルトニウムの安全上の問題が、社会に大きな重荷を背負わすことになろう。実際、世界各国でも、プル・サーマルの方向に歩み出した国はない。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.252-253:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集として再録)

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    ●アメリカ・ジェネンテック社が遺伝子組み換え技術を使ってヒト・インスリン合成に成功(1978年)。■KDD贈答品密輸事件:年間20億円以上の巨大な交際費(1979年)

    –>郵政省を舞台にした贈収賄事件に発展(190人の政治家に金品)(詳細は清水一行氏著『社命』を読んでほしい)

    ●中越戦争(1979(S54).2):中国人民解放軍がヴェトナム深く進入。1か月後、ヴェトナム軍にコテンパンにやられて逃げ帰った。

    ●米国、ペンシルヴェニア州ハリスバーグのスリーマイル島原発で、原子炉の冷却系が誤作動し大量の放射性ガスが大気に噴出。(1979(S54).3.28)

    ・東京サミット:第五回主要経済先進国首脳会議開催(G7)(S54.6.28~29)

    ●靖国神社への戦犯(太平洋戦争の戦犯1068名)の合祀(1979(S54))殆んど報道されず。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)(またこれにともない昭和50年10月より天皇参拝がとだえた)。

    ・イラクのサダム・フセインがバース党党首、そしてイラクの国家指導者になった(1979)。当時イラク国民の20%はスンニ派イスラム教徒クルド人、別の20%はスンニ派イスラム教徒アラブ人、50%がシーア派イスラム教徒アラブ人、残り10%がどこにも属さない者で、バース党首脳部の大部分はスンニ派イスラム教徒という少数派だった。

    ●韓国、朴正煕大統領射殺事件(1979.10)

    ●アフガニスタン戦争(1979年末~1988年夏)ソ連は局地戦ではイスラム・ゲリラを圧倒したが、補給が続かず撤退。

    ●韓国、光州市民へ対する血の弾圧(1980.5)

    ●イラン・イラク戦争勃発(1980年9月22日~1987年7月)この戦争の最大の目的はイラクがイランの大油田の獲得を狙ったものだった。アメリカは当時、イラン(ホメイニ師)憎しで、強力にイラク(フセイン)を支援した。(この石油争奪戦はもとはといえばイギリス・ロスチャイルドとアメリカ・ロックフェラーの戦いで、イラクを利用してホメイニ政権とイギリス・メジャー(ロイヤル・ダッチ・セル)を強引に潰そうと仕掛けた戦争だった)。

    ・総選挙における自民党の敗北と、内部権力闘争(1979年、昭和54年10月)

    ・自民党内部分裂に乗じて社会党提出の内閣不信任案可決、解散総選挙へ。(1980年、昭和55年5月)

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    ・1981年、日本政府は世界に先駆けてDNA技術の基盤整備を目指して委員会を設置。しかし一部の研究者からの「機械にDNAは読めない。職人芸を要する」という異論がでたり、研究者同士の反目や予算投入の遅れなど、足並みが揃わなかった。結局、出発こそ遅れたもののアメリカで研究が急速に進展し1990年、米国の主導で「ヒトゲノム計画」として今に至る。日本人にはあくまでも夢がないのである。目先の金銭的利益追求しか能のない民族には明るい明日はない。(ヒトゲノム解読は2003年4月14日に完了した)。なおこの詳しいいきさつについては岸宜仁氏著『ゲノム敗北』(ダイヤモンド社、2004)を参照されたい。世界に先駆けてゲノム自動読み取りのためのシークエンサーの原理を明らかにした和田昭允氏の構想は、先見性も創造性も全く皆無の政治と行政により潰されてしまった。(「日本人に独創性がないのではなく、日本という国に独創性の芽を摘んでしまう風土があるんです」(和田昭允))

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    ・アメリカ、レーガン政権(共和党)誕生(1981年1月、昭和56年)1.金融引き締め、物価の安定–>失業率増加–>大幅減税、設備投資減税–>財政赤字2.金利水準上昇–>ドル高円安–>輸入増加–>貿易赤字3.規制撤廃

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    ●AIDSの世界的流行のはじまり(1981年、昭和56年)

    >1999年12月には世界中で4730万人感染、うち1390万人死亡(原因がHIVであると特定されたのは1984年)※HIVが襲ったのは、まさにレーガン政権がメディケア、メディケイドおよび特別な公衆衛生プログラムを改変して施行した後に、最も保健医療の安全網から漏れ易い人口集団だった。(ローリー・ギャレット『崩壊の予兆<下>』野中浩一訳、河出書房新社)

    >2003年現在、世界で6000万人以上がHIVに感染。1/3以上が既に死亡。さらに15000人以上/日が新たに感染。(塩川優一氏著『私の「日本エイズ史」』日本評論社、p.212)※日本のAIDSについて(2003年3月31日現在)AIDS患者:2624人、HIV感染者:5286人、累積死亡者:1292人、2010年には50000人になると推定されている。最近は男性感染者が増加、その86.7%は性的接触。77.2%が国内感染、関東甲信越ブロックで64.3%。近畿ブロックで最近増加。(塩川優一氏著『私の「日本エイズ史」』日本評論社、p.213)

    ★これまでの日本社会は平等か不平等だったか?戦後の社会は少なくとも1980年代終わりまでは職業選択への機会平等の傾向があった(より開かれていた)ことは確かだろう。また1985年を境にして新規開業・起業が難しくなっているという傾向も認められる。(佐藤俊樹氏著『不平等社会日本』中公新書より)つまり日本は1980~1985年頃を境にして機会不平等となってゆくのである。

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    1982年(昭和57年):このころ国民健康保険法の大幅な見直しと老人保険法成立(実質は老人医療の後退)★中曽根政権誕生(田中派の全面的支援、昭和57年11月)★【国家が個人の命の重みを再確認し始めだす時代の到来】◎「来たるべき高齢者激増時代に向かって、医療保障を見直そう」◎厚生省吉村仁保険局長「医療費亡国論」展開–>この思想は現在に至る。

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    ★物価高の背景日本の有名な物価高は、形を変えた所得移転メカニズムであり、失業を隠す手段であった。消費者は生産者に高い価格を支払い、さらに効率的な生産者は非効率的な生産者に高い価格を支払わなければならない。高価格、それに必要なカルテルや談合のような共謀行為、さらにカルテルに必要な輸入制限、すべてが自民党による「政府予算とは別の」後援会支援となった。(リチャード・カッツ氏著『腐りゆく日本というシステム』より引用)

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    ●日本における最初のAIDSに関する報道(1982.7.20)毎日新聞ーー「免疫性」壊す奇病、米で広がる。・・・

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    ★アメリカ:レーガン政権の「マネーの帝国循環」銀行が融資に積極的だったのは、好況の中で、どんな融資であろうと自らの資産構成を改善することが明らかだったからだ。経済成長が力強いせいで資金需要も旺盛となり、おかげで最初のうちは下がっていた金利が再度上昇に転じ、歴史的な高水準でしばらく安定したかと思うと、さらに上昇していく。高金利に加えて、レーガン大統領の力強さ、楽観主義のおかげで、アメリカは投資先としてひどく魅力的に見え出した。その結果、外国資金がアメリカに大量に流入する。為替レートがぐんぐん上昇し、他国に比べて金利も高かった

    「強いドル」は投資対象として、このうえもなく魅力的だった。強いドルはアメリカの輸入を増やし、輸入増はアメリカ国内のインフレ率を低いままに留める結果をもたらした。つまり、「強い経済」、「強い通貨」、「大きな財政赤字」、それに「大きな貿易赤字」が相互に補強しあって低インフレの高成長をもたらすという、正のフイードバックが動き出してしまったのだ。私はその後、ほどなくして刊行した処女作『ソロスの錬金術』の中で、この正のフイードバックのことを「レーガンの帝国循環」と表現した。それは世界中から財と資金を呼び込むことで強大な軍事力を維持するという仕組みだったからである。この循環は、世界経済の中枢部というべきアメリカには優しく、周辺部にあたる発展途上国に対しては厳しかった(私は「レーガンの帝国循環」を、バブルのモデルとは別種の「再帰的」過程の実例として紹介した)。これが、アメリカの経常収支赤字の始まりであり、「困った時の在庫の引受先」としてのアメリカの登場である。国際経済における”エンジン”というアメリカの役割は、その後、紆余曲折を経ているが、基本的には今日にいたるまで同じままである。(ジョージ・ソロス『ソロスは警告する』徳川家広・松藤民輔訳、講談社、

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    1983年~1988年(昭和58年~昭和63年)

    ○AIDSウイルス(レトロウイルス)が発見される(仏のモンタニエら)。

    ○東京ディズニーランド開園(1983年、昭和58年)

    ○鳥越医院開院(昭和59年12月1日):一人内科医で有床診療所開設。命知らずの無謀な試みだったと悟ったのは平成11年12月のことだった。有床など気安くやるものではない。こういう命の実践は実に過酷なものだ。

    ○バブルで金融・証券・不動産を中心に全国大デタラメの時代。日本の一人儲けで各国が協調して円高にシフト(プラザ合意、昭和60年9月)★バブル時代とは主に財界が円高に耐えるために政治家や官僚を使って、国民から多量の金を巻き上げて(金融業界の不祥事)、アメリカに資金提供しつつ大散財をやった時代。中曽根政権の対米協調政策がバブルを招いた。★【国家不信時代の到来】(注意:国民が選び、国民が作らせた政府であり国家)金権政治、官僚腐敗、金融政策の乱脈ぶり、薬害問題、動燃のウソ八百、結局は国民への付け回しとなる大借金(350兆円+150兆円+28兆円+α+・・・)。■官僚腐敗、官僚制度の弊害の顕在化。■政治家腐敗、日本の政治は三流政治であることの再認識。■創政会(竹下登、小沢一郎、金丸信ら)の旗揚げ(1985年2月)

    (田中角栄との訣別)—>経世会結成(竹下派、1987年7月)■女性の社会進出、政治への参加の功罪女性は、男性に比べて賄賂などを潔しとしない天性の資質を持っている。だからこそ政治腐敗に対して女性の進出が望まれたのであろう。しかし、女性には個の命を守るという重要な本能があり、その故に国家の命運を担うことにかけて現時点で女性がどの程度の認識を持っているか、大いに疑問であると筆者は思う。■福島第2原発3号炉で再循環ポンプ損傷事故(1987年1月6日)。■リクルート事件(1988年6月)

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    ●ソ連でゴルバチョフがソ連共産党中央委員会書記長に選出された。(1985.3)

    ・スウェーデン、オーロフ・パルメ首相暗殺(1986.2.28)冷戦下のストックホルムは国際スパイとテロリストのセンターとしての顔ももっていた。日本とスウェーデンは人口(890万人)と国民皆兵と国民性(個人主義)、国防意識のほかには、色々類似したところがある。

    ・ソ連チェルノブイリ原発4号基が大爆発。原発史上最大の爆発とされる(1986年4月26日)。

    ●ソ連で”グラースノスチ”政策が正式に採択(1988年)。ただし、共産党一統独裁への疑念と、深刻な民族問題の発生の報道は始めはダブーだった。(佐藤優氏著『自壊する帝国』新潮社、p.113)

    ●ナゴルノ・カラバフ問題(1988年)ゴルバチョフになって以来、知的エリート(ユダヤ人、アルメニア人)を背景にして、モスクワは(かつて石油を求めた親アゼルバイジャンから)親アルメニアへと民族バランスの転換を始めていた。ナゴルノ・カラバフ問題はそのような内情のおりに起きた。アゼルバイジャン共和国内の自治州ナゴルノ・カラバフで、その80%を占めるアルメニア人がナゴルノ・カラバフのアルメニアへの帰属を要求したもの。この結果民族紛争が惹起され、1988.2.28にアゼルバイジャン人(イスラム教徒)がアルメニア人(キリスト教徒)を襲撃し死者31人、負傷者197人に達した。(佐藤優氏著『自壊する帝国』新潮社、p.114-117)

    ●ジェフリー・バラードが率いる小型燃料電池開発会社が相次ぐ技術進歩を達成して、安価な燃料電池車の開発が現実的になってきた。(ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.130-131)ただし様々な水素供給の困難、消費者のニーズの程度、石油業界の反発などで水素燃料電池車の実現は1993年ダイムラー・ベンツ社がバラード社と技術提携し1996年に

    「NECARII」を開発するまで待たなければならなかった。(同、pp.137-138)残念ながら2004年現在燃料電池車の信頼性や耐久性、燃料補給に関して問題山積のため自動車メーカーの熱意はかなりさめている。(同、pp.146-148)

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    「世の中に莫迦は多い。大局を見ずおのれの能に専念して、それを誇り生き甲斐とする。政治莫迦は永田町での功名争いに国家・国民を忘れ、使命を忘却する。官僚莫迦は省益に溺れ、技術莫迦は経営を忘却し、企業莫迦は働く事の本質と意義を顧みない」(池宮彰一郎氏著『島津奔る』より引用)

    ■自民党総裁選を控えた竹下登に対する、右翼・日本皇民党の

    「ほめ殺し」事件金丸信、渡辺(元東京佐川急便社長)、石井進(稲川会会長)らが押さえにかかった。政治家が陰の社会の住人の力を借りて自民党総裁を戦う等は言語道断もはなはだしい。■後の佐川急便事件(1991年)で金丸信は1992年に議員辞職に追い込まれた。これは小沢-竹下抗争の第二幕(第一幕は、1991年海部内閣における政治改革関連三法案の審議未了廃案)で、金丸は自民党副総裁を辞任から経世会会長を辞任、さらには議員辞職までに追い込まれ、金丸-小沢グループと竹下-梶山・小渕グループ(反政治改革グループ)の対立は決定的となった。(野中尚人氏著『自民党政治の終わり』、ちくま新書、pp.41-43)

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    ■日蓮正宗が創価学会と創価学会インターナショナルを破門。(1991年(S.66)11月)

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    ■「老人保健法」施行(1983年、昭和58年)武見太郎:「・・・老健法が動き出すが、これで日本の医療は全て変わってしまうね。流れは止めることはできないが、変える努力は忘れてはならないよ」(熊本県医師会長、白男川史朗氏ー武見太郎先生を偲んでーより引用)

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    ●BSE(ウシ海綿状脳症)の恐怖遺伝子組み換え食品にもっとも激しく反対しているのはヨーロッパだが、それは単なる偶然ではない。ヨーロッパの人々、とくにイギリス人は、食品に何が含まれているかと疑い、かつ提供された情報を信じようとしないが、それにはれっきとした理由があるのだ。1984年、イングランド南部のある農家が、一頭の雌牛が奇妙な行動を取っていることに気がついた。それから1993年までに、イギリスで十万頭の牛がこの新たな脳の病気で死んだ。その病気こそ、かつて狂牛病と呼ばれた″ウシ海綿状脳症(BSE)”である。大臣たちは慌てふためき、この病気はおそらく食肉処理された動物の残骸から作った飼料によって伝染したものであり、ヒトに感染することはないと請け合った。ところが2002年2月までに、106人のイギリス人がヒトのBSEで亡くなった。彼らはBSEで汚染された肉を食べて感染したのだ。(ジェームスD.ワトソン『DNA』青木薫訳、講談社、p201)

    ☆国民性・国民意識:行政に頼りきった全く主体性のない国民意識の中で義務を十分果たすことなく、自由・平等を叫び、権利ばかり主張している。

    ★ブラック・マンディー:ニューヨーク株式市場の大暴落(1987年、S62.10.19)東京市場にも影響は及んだが、日本経済の立ち直りは早かった。このころ為替レートは1ドル=122円を記録。1985年(プラザ合意)と比べて2倍の円高となった。★1988年(昭和63年)末現在の世界の海外直接投資残高は初めて1兆ドルの大台に乗った。米国31.7%、イギリス17.8%、日本10.7%となっていた。プラザ合意以後の大幅な円高は日本の海外直接投資の爆発的拡大をもたらした。(プラザ合意、1985年=円高、原油安、金利安)

    ———————-<プラザ合意の影響>——————

    具体的には、1985年以降、円の購買力を増した日本は、アメリカの企業や不動産を次々に買収していくようになる。そのことで日本はアメリカ産業の競争力に対する脅威としてばかりか、アメリカの一般の人々にとっても自国を吸収してしまうかもしれない巨大な怪物として認識された。そのことは同時に、日本がアメリカの安全保障にとっての脅威としてもとらえられた。たとえば87年に富士通が半導体メーカーのフェアチャイルド社の買収を試みた際に、半導体という重要な産業を日本の企業に買収させることは許されないという声がアメリカで高まり、富士通はその買収を断念せざるをえないというかたちになって現れた(フェアチャイルドは実際にはフランス資本だった)。また88年8月に米議会で成立した包括通商法案にも、日本の経済的脅威を強く意識し、それをアメリカの安全保障の懸念とリンクさせた措置がとられた。というのは、その中には、米通商代表部(USTR)が不公正な貿易相手国に対して、一方的に報復措置をとることができるスーパー301条が含まれていたからである。さらに、外国資本がアメリカ企業を買収しようとする際に、買収の対象となったアメリカ企業がアメリカの国防上重要と思われる場合には、それを阻止できるというエクソン・フロリオ条項というものも盛り込まれていた。産業だけでなく、米政府の財政赤字を埋めるために発行される財務省証券(米国債)の購入でも、日本の存在感は大きくなる。急速な円高で日本の購買力が高まったものの、日本国内に適当な投資先がなかったことから、日本の機関投資家は財務省証券を大量に購入するようになった。米国債の新規発行の入札にあたって日本の資本はその過半数を占めることもあり、ここでも日本経済は財政的にアメリカの生死に大きく影響するものとして、具体的なかたちでアメリカの前に姿を現した(実際には、財政赤字に悩む米政府に配慮して日本側が積極的に財務省証券を購入したという理由もある)。(石澤靖治氏著『戦争とマスメディア』ミネルヴァ書房、pp.220-221)

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    ■中曽根首相が自ら公務を宣言して靖国神社に公式参拝をした。(1985.8.15)■白州次郎逝去(S60.11.28)日本は”日本最後の男”を失った。この後日本は下り坂を転げ落ちるように衰退の一途を辿るのである。”プリンシプルを持って生きていれば、人生に迷うことは無い。プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう”。

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    1989年(昭和64年):■昭和天皇崩御(1989年、昭和64年1月7日、87歳)

    ・北京天安門事件(1989年6月)中国政府は民主化を要求する国民を武力をもって制圧した。

    ・ベルリンの壁崩壊(1989年11月)

    ・地中海のマルタ島で米ソ首脳会談(1989年12月)

    ・1989年~1990年。フランスで「フェニックス」(高速増殖炉)に事故多発。反応速度低下、出力異常(急激な出力の高低の振れ)などを認めたが、何一つその原因の確定に至らず。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.357-359より)

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    ★新日本製鉄釜石製鉄所の高炉の火が完全に消えた(1989年(昭和64年)<--1985)。★日本のODAは1989年には総額約90億ドルになっていて、米国の76億ドルをぬいて世界第一位になっていた。★日米構造協議開催(1989年、H1.7.14、パリ):日米貿易不均衡是正のための協議日本側の問題:貯蓄・投資パターン、系列、土地利用、流通価格メカニズム、排他的取り引きの慣行米国側の問題:貯蓄・投資パターン(日本とは逆)、米国の競争力強化企業行動、政府規制<主な内容>1.米国は日本の消費者の利益を表に掲げて「大店法」の全面的改正を迫った。2.公共投資の問題:21世紀までのむこう10年間に430兆円の公共投資を行うことを了承させられた。★参議院議員選挙で自民党が大惨敗(1989年7月) 「衆院では多数でも、参院の与野党逆転は少なくとも向こう9年は続く。『ねじれ』現象を解消しない限り、重要法案はことごとく討ち死にする」(朝日新聞1990年4月14日、小沢一郎)(野中尚人氏著『自民党政治の終わり』、ちくま新書、p.22)★日本の景気がバブルであることが明確に指摘されはじめた。(1989年末~1990年初頭)☆☆☆1991年から2008年は日本経済の停滞期(経済成長率1%)☆☆☆ ------------------------------------- (★創価学会と日蓮正宗の対立が悪化の道をたどる)。 ●ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長が冷戦終結宣言(1989年12月、マルタ島会談) ・アメリカのパナマ侵攻(1989年12月20日)元親米のノリエガ将軍を軍隊を出動させて拉致した。(伊藤千尋氏著『反米大陸』集英社新書、pp.154-159) ・東西ドイツ統一(1990年、平成2年) ●欧州安全保障協力機構は、ソ連をも含む参加各国が議会制民主主義を採用することで合意に達し、国民国家の憲法原理をめぐるtheLongWarは終結した。(長谷部恭男氏著『憲法とは何か』岩波新書、p.53) ・湾岸戦争(1990年8月2日):イラクがクウェイトへ武力侵攻1991年1月16日、米軍と多国籍軍がイラク攻撃開始 ・ソ連崩壊(1991年、平成3年) ------------------------------------- ■不動産融資総量規制(1990年、平成2年3月27日):一片の通達土地を買う際の融資の規制で建築の融資への規制はなく、住専だけは対象から外れた。地価下落、バブル崩壊、農協系金融の大デタラメ、住専破綻・・日本の全てのデタラメ行政が明るみに出始めた。 -----------<不動産融資総量規制の顛末>----------- ところで、この銀行局長通達は金融機関に対する行政指導であり、法的強制力をもつものではなかった。この通達は、貸出総量規制と三業種規制という二本の柱からなっていた。総量規制とは、一般金融機関と農協系金融機関に対して、総貸し出しの増加率の範囲内に不動産業向け融資の増加率を抑制するというもので、ノンバンクの住宅専門金融機関(いわゆる住専)は規制の対象外とされた。三業種規制は一般金融機関に、不動産業、建設業、ノンバンク(住専も含む)への融資状況の報告を四半期毎に求めるというものだった。ただし、農協系金融機関は対象外であった。こうした規制の結果、住専を通じて大量の農協系資金が不動産業に流入していくことになり、その後の住専破綻、金融破綻につながっていく。総量規制と言われる銀行局長通達は1年10か月続いた。その結果、日本経済の根幹を形成していた土地を媒介とした価値増殖メカニズム、いわゆる土地兌換性が完膚なきまでに崩壊し、日本経済は大不況に突入していった。金融機関の破綻、金融制度の破綻、これを補填するための国債発行による国家財政の破綻という、破綻の連鎖である。2年後の2001年においても、この崩壊現象はなお続き、復活の兆しは夢のまた夢である。この政策を決定したのは、当時の大蔵大臣、橋本龍太郎その他である。本人たちに自覚はないようだが。この間、血の一滴にも等しい金が、三業態の個人、法人に融資されることはなかった。このため、不動産業、建設業者は、事業の継続及び計画していた事業ができなくなったり、不動産関連の支払いができなくなった。同時に不動産の流通が滞ったため、価格が低下して売るに売れず、買い手も融資がつかないので買えないという悪循環に陥っていく。(佐佐木吉之助『蒲田戦記』文春文庫、pp.166-167) -------------------------------------------------- ★「吹き飛んだ270兆円、バブルの崩壊」(1990年、平成2年10月1日)1989年暮れに590兆円を記録し、世界一を誇った東証一部の時価総額は、株価が2万円の大台を割った1990年10月1日に319兆円にまで落ち込んだ。わずか9か月で270兆円の資産が吹き飛んだ。(ビル・エモット氏『日はまた沈む』の予言が当たった) -----------以下、バブル崩壊の余波---------- ■共和汚職事件(1989年~1992年~1996年)■イトマン事件(1990年)■野村証券はじめ4大証券損失補填事件(1991年)日本の金融世界には、特権的に優遇されている階層が存在するということが明るみになった。■「暴対法」制定(1991年5月)■経世会の内部抗争激化(竹下派vs金丸-小沢ライン)、1992年12月に遂に分裂。■東京協和・安全信組事件(1991年~1993年)(以上、詳細は黒田清氏・大谷昭宏氏著『権力犯罪』など参照)■住友銀行は1993年以来22回以上もの襲撃を受けており、名古屋支店支店長殺人事件は解決していないし、解決しそうにない。 --------------------------------------------------- ●1999年7月1日に、日本銀行は公定歩合を6%から5.5%に引き下げてバブル経済退治の終了を宣言。経済企画庁は景気の減速を認めた。1990年は、長い長い平成不況への入口であった。 --------------------------------------------------- ・ヨーロッパ、マーストリヒト首脳会議(1991年12月)通貨統合計画を折り込んだ欧州連合条約を承認。EC(経済共同体)を包含するEU(政治体としてのユニオン)へ発展 ・米国大手証券会社ソロモン・ブラザーズが米国債の入札で不正。顧客の名義などを借用して大量の国債を買い、国債価格を操作し不正に利益を上げた。 --------------------------------------------------- ・イギリスが高速増殖炉PFRの打ち切りを決定、さらにEFR(ヨーロッパ高速炉計画)からの撤退を決定(1992年7月)。 ・ドイツの電力大手二者が大胆な脱原発・脱プルトニウム構想を明らかにした(1992年11月)。 --------------------------------------------------- ●中国、トウ小平「改革解放を加速せよ」、「一部の人が先に豊かになれ」(1992年) ____________________ 1993年(平成5年)■金丸信が逮捕され、自民党内の「二重権力構造」が終わりを告げる。これがきっかけで自民党単独政権の「五十五年体制」が崩壊。金丸信:「・・・、そのヤミ献金は、私の政治団体『新国土開発研究会』を経由して、議員たちに渡しました。それもこれも、竹下を総理にするためです。かなりの巨額の金を使ったのです。特に昭和六十二年に経世会の発足や竹下内閣を作るために、私はそのヤミ献金を議員に配ったりと、とにかく竹下を総理にするために相当な金を使いました。また昭和六十二年末、経世会に属する議員たちにも、いわゆる餅代として配っていると思う。」 ・・・ 「業界は、建設業、運輸業、セメント業に携わる企業や個人、またそういった業界の団体連合会です。名前は話すわけには・・・」 ・・・ 「年間、御歳暮や御中元を中心に、おおよその話ですが、十億円以上はあったと思う。大きな選挙があった時は、より高額だったと思う」 ・・・ 「・・・私はこれまで、山梨県の道路、ダムや川の建設や整備、住宅、学校の建築、またリニアモーターカーの建設など努力して来たので、地元の皆さんが感謝してくれたのではないかと思います」 ・・・ 「北海道を始めとする道路や空港の建設、整備新幹線の建設など国の発展のつながる基盤整備などの公共事業に全力を傾けていたので、ゼネコン関係などからも感謝されていました。またいわゆる建設族であるとともに、運輸族、郵政族であったことからも、毎年の御歳暮や御中元にヤミ献金を頂いたのではないかと思います」 ※節操のない、何でもありの世界が繰り広げられているのが今日の政界だ。・・・権力の中枢には、常に金丸の子飼いたちーー旧経世会のメンバーたちが存在していることだけはまったく変わらない。いくら政権が変わろうとも、いまだ経世会という小さなパイの中で日本の政治は動かされ続けている。(以上、麻生幾氏著『戦慄』より引用)■ゼネコン汚職事件(1993年6月~1994年3月)金丸脱税事件--->ゼネコン汚職事件—>自民党分裂

    ★「五五年体制の崩壊」:細川連立内閣成立(1993年、平成5年8月)

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    ★「脱プルトニウム宣言」(高木仁三郎)(1993年1月3日)全文は高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、pp.185-188ページ参照。以下は結び部分。現在の日本のプルトニウム政策は、官僚とそれをとりまく一部の学者

    ・技山衝者たちの手に委ねられているが、彼らは自己の利害のかかった巨大プロジェクトを自ら断つことはできないであろう。彼ら「専門家」や「識者」に判断を委ねるのは、自分の命や子供たちの将来を委ねてしまうにも等しい。プルトニウムのように猛毒で、核兵器になりやすく、また秘密の壁をひたすら厚くしなくては守れない物質と、安全で民主的な社会がいったいどう相容れるのか、日本のすべての人々が、真剣に考え、決断すべきときだと信じる。★米国ではエネルギー省(DOE)長官に任命されていたヘイゼル・オリアリー女史が完全機密組織に変貌していたDOEの体質を解放した。(1993(H5).12.7)

    ・「冷戦はすんだ。・・・事実を言おう」

    ・「放射能人体実験」一つが、18人にしたプルトニウム注射です。ぞっとしました。

    ・・・、今の基準に合う同意を患者から得たとは思えません。被験者の名も公表したかったが、DOEの法律家に止められた。国民の知る権利と、残されたご家族の思いを秤にかけ、こういう形にとどめさせてもらいます。(アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<下>』)

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    ・大蔵省発表:不良債券総額7兆9927億円(巷の囁きでは30~50兆円)

    ・コスモ証券経営破綻—>大和銀行が買収

    ・野村秋介氏自殺

    「体をかけないと何もできないし、人も振り向かない」

    「母と子の絆で耐えるしぐれ獄」(見沢知廉氏『獄の息子は発狂寸前』)

    ●海外企業の日本離れ土地も家賃も人件費も税金も各種手数料もバカ高く、制度は複雑怪奇かつ不合理で行政の干渉が絶えず、しかも市場が沈滞して商売にならない。

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    1994年~現在まで(平成6年~平成14年頃まで):危機管理のお粗末さを露呈

    ○湾岸戦争、阪神大震災、地下鉄サリン事件、超円高(79.75円/ドル、1995年4月)、日経平均株価最低値(14295円、1995年7月)、薬害エイズ問題、ペルー大使館人質事件、金融ビッグバン宣言(1996年11月、橋本龍太郎)・・・(●出生数:約120万人)★【日本という国家は、国民の命を守る力を全く持ってないことを再認識】※個人が命の重みを見直すべき時代の到来◎「自分の生きていることの意義を、自分の力で見いだそう」◎「誰も頼りにならない。自分を守るのは自分である」

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    ●出生率:1.39(1997(平成9)年度):最低値を更新

    ●出生数:119万1681人(平成8年:120万6555人)

    ●軍人恩給受給者:177万7000人(平成7年)支給額:1兆5992億1900万円(国家予算の2.2%~2.3%)

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    ★衆議院議員選挙に小選挙区制が導入された(1994年1月)★高速増殖炉「もんじゅ」で液体ナトリウム漏れ事故と公開上の度重なる欺瞞。(1995年12月8日)<高速増殖炉の危険性>(日本では『常陽』『もんじゅ』)高速増殖炉は、その構造の特殊性から、軽水炉のもつ潜在的危険性に加えて、軽水炉にはない安全上の問題点をもっている。それらを詳述することは専門領域に属することといえそうだが、基本的な点だけはおさえておこう。高速増殖炉の基本的な難しさは、軽水炉と比べて炉心の出力密度が高く、温度も高いことである。表5-2(ここでは省略)に、高速増殖炉と軽水炉の基本的なデータの比較を掲げておく。この表をみても分るように、さまざまな数量的因子が場合によっては一桁近くも高速増殖炉の方が高く、それだけ反応の制御や安全設計に難しい点が出てくる。それと同時に大きな問題は、毒性の強くやっかいなプルトニウムの炉心内蔵量が多いということである。炉心とブランケットを合わせて、大型の高速増殖炉では高温の原子炉が内蔵するプルトニウム量は、数トンに達する。また、高速増殖炉が実用化されることになれば、核燃料サイクルで取扱われるプルトニウム量は飛躍的に増大する。これは、核拡散問題まで含めて大きな社会問題となる。次に、冷却材としてナトリウムが使われることも大きな問題である。ナトリウムは、腐食性に富むため、配管の腐食の問題が深刻となる。さらに、一次系のナトリウムは原子炉内で放射性となり、冷却材自体が強い放射能を帯びるという軽水炉にはない問題が生じる。そして、ナトリウムがきわめて反応性に富む物質で、水に接触すれば爆発的に反応する(燃える)という点が、何よりも恐れられていることである。そのナトリウムと水が熱交換器のパイプの薄い金属を隔てて接しているからだ。高温のナトリウムは、空気中でも燃える。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.236-237:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集に再録)++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++<ドイツにおける高速増殖炉放棄についての感想>高速増殖炉の内部で本当に深刻な事故が発生した場合に、どういうことに至るのかということについては、未だ科学が及んでいない領域だと思います。その科学が及んでいないところを、不確かさと見て、人間の安全の立場から許容しがたいとするのか、分かってないからと言って、手抜きをして作業をしないでごまかしてしまうのか、そういうところで高速増殖炉を許容するかしないかということが分かれると思います。ドイツで高速増殖炉が放棄されたのは、そこに誠実である人たちが一定程度州当局の中にいたということに尽きると思います。日本の場合には、まったく粗末な安全審査の結果で、それゆえに今日になっていると思います。(『もんじゅ訴訟』第28回口頭弁論(1993.7.16)において。高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、p.395より)

    ★プルサーマル計画閣議了解(1997年2月):ばかの屋上屋を連ねる。<プル・サーマル計画の問題点>すでに述べたように、この何十年という期間を考えても、高速増殖炉が多量のプルトニウムを消費するというようなことは実現しそうもない。その間、軽水炉によるプルトニウムの生産が続けば、プルトニウムはむしろたまり続ける。そのたまり続けるプルトニウムを軽水炉で燃やそうというのが、プル・サーマル計画である。サーマルとは、サーマル・リアクタ(熱中性子炉)からきている。原理的にはこの方法は可能である。プルトニウムはウランにまぜて、混合酸化物燃料として使用することになる。実際この方法で、プルトニウムを燃やす試験をすることが、すでに日本でも1970年代初期から検討され、美浜1号炉で試みられることになっていた。このことについては、日本のプルトニウムがアメリカに売られる問題に関連して、第四章で触れた。その後に美浜1号炉が、燃料棒大破損や蒸気発生器の事故で長い間運転を停止したため、現在までその試験は実施されないままになっているが、今後復活することになりそうだ。政府の計画では90年代には実用化したいとしている。1978年に出された資源エネルギー庁の「核燃料サイクルに関する検討結果中間とりまとめ」によると、プル・サーマル計画の意義を、(1)燃料節約効果、(2)プルトニウムを貯蔵所で保管するより、原子炉内に入れておいた方が核拡散防止上好ましい、(3)高速増殖炉時代への技術的訓練、の三点にあるとしている。このうち(1)以外は、とってつけたというか、本来的な必然性のない理由である。(1)の燃料節約効果があるかどうかという点もそう自明ではない。高速増殖炉とは異なるといっても、プル・サーマル計画はプルトニウム・リサイクル計画である。仮にそれが核燃料節釣上の効果をもつとすれば、それは核燃料サイクル全体が「プルトニウム経済」という形で回転する時のことだろう。それにともなって、本書で述べたようなプルトニウムに関するあらゆる問題が問われることになる。それを覚悟で実行するだけの魅力が、プル・サーマル計画にあるとは思われない。もちろん、プル・サーマル計画にともなって、プルトニウムの安全上の問題が、社会に大きな重荷を背負わすことになろう。実際、世界各国でも、プル・サーマルの方向に歩み出した国はない。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.252-253:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集に再録)

    <次々と起こる原子炉事故>

    ●日立の下請けが原発配管溶接工事での焼鈍記録を捏造(1997年9月16日)。

    ●相次ぐ事故隠しと虚偽報告が発覚して動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が核燃料サイクル開発機構に改名(1998年10月1日)。

    ●使用済み燃料・MOX燃料の輸送容器の中性子遮蔽材データ捏造・改ざんが内部告発で発覚(1998年10月4日)。

    ●東海村JCOウラン臨界事故。ウラン0.5~1mgが燃えた(1999年9月30日)。

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    ★次々と表出・噴出する権力犯罪■大和銀行ニューヨーク支店巨額損失隠蔽事件(重大なルール違反)■岡光厚生事務次官特養護老人ホーム事件(1996年11月)

    「福祉」という利権に官・業が癒着して補助金にたかり、高齢者を食い物にした事件。■証券各社総会屋事件(1997年3月)■大蔵・日銀接待事件(1998年1月)■防衛庁調本不正事件(1998年9月)■神奈川県警事件(1999年9月)■中尾元建設相贈収賄事件(2000年6月)(以上、詳細は黒田清氏・大谷昭宏氏著『権力犯罪』など参照)※熊崎勝彦氏(1997年当時東京地検特捜部長)は大蔵省と銀行業界の腐敗にメスを入れ、関係者何人かを告発したが、この捜査がさらに上層部に及んだところで富山地検に転勤させられた。(B.フルフォード『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』光文社、pp.55-56)

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    ★改正日銀法施行(平成11年(1998年)4月1日)日本銀行は法的に独立し、政府および大蔵省に対する最低限の報告義務が課されるだけになった。日銀の通貨および金融の調節の自主性は最大限保たれるようになった。換言すれば日銀は資金貸出(通貨印刷)において信用調節(信用創造と信用収縮)により、物価安定を(目眩ましの)金科玉条として経済のバブルへの誘導もデフレへの誘導も、おおっぴらに意のままに操れるようになった。(つまりバブルは日本銀行の”窓口指導”が原因だった)。(歴代日銀系総裁:一万田–>佐々木–>前川–>三重野–>福井の悲願が実ったのだ)(R.A.ヴェルナー氏著『円の支配者』より要約)

    ★【大失業時代到来、未曾有の不景気】※銀行の不良債権について評判の悪い日本の銀行危機は過剰貯蓄症候群が金融面に現れたものである。銀行の帳簿上の不良債権は1998年半ばで140兆円、日本のGDPの約30%と推定されているが、単なる数字の問題ではなかった。それらは、新しい建物や工場に組み込まれた労働力、原材料、機械といった実体のある社会資源を表している。これらは全て対価を支払わなければならなかったのだが、これらの投資はその支払いを行うための本物の経済リターンを提供していなかった。新しい建物や工場が産み出す生産物の価値は、建物や工場を作り出すためにかかったコストよりも低かった。こうしてすべて不良債権となったのである。なぜ、このようなまずい投資が行われたのか、大きな理由は、金融サイドの

    「過剰貯蓄」である。毎年、毎年、銀行には必要としていない預金が何兆円も流れ込み、保険会社にはそれほど欲しいとは思わない莫大な保険料が流入し、証券会社には山のような投資資金が集まっていた。銀行や他の金融機関は、集まったお金に対する金利や配当金の支払いができるよう、狂ったようにお金の投資先を探した。銀行にとって本来必要な金額をはるかに上回って預金が急拡大し、貸出競争を引き起こしたため、銀行の商業貸出の対GDP比は1987年の73%から、92年には97%にまで急上昇した。投資しなければならない余分なお金がたくさんあるときは、賢明な配分はなされにくい。・・・余分なお金の80%は金持ち国に向かい、そこでは6000億ドルのお金が為替差損だけで失われてしまった。(リチャード・カッツ氏著『腐りゆく日本というシステム』より引用)

    ★1995年アメリカによる地獄の円高攻勢1994年細川軟弱首相が訪米し、日米構造協議に出席。何の戦略もなく「NO」と言い捨てた。激怒したクリントン、ラリー・サマーズ(当時財務長官)は地獄の円高攻勢を仕掛け1995年4月17日、円の対ドルレートは79円の史上最高値となった。完全に日本の敗北だった。

    ※1997年中に経営が破綻した主な企業(()内は従業員数)

    ●日産生命保険(4700人、1997年4月25日)

    ・三洋証券(2760人、1997年11月3日):コール市場でデフォールト発生

    ●北海道拓殖銀行(5510人、1997年11月17日)

    ●山一証券(7330人、1997年11月24日)

    ・東海興業(1540人)

    ・ヤオハンジャパン(1200人)

    ・大都工業(870人)

    ・多田建設(810人)

    ※過去(1995年(平成7年)~)の大デタラメ=約50兆円1.日本興業銀行公的資金投入額:6000億円2.第一勧業銀行公的資金投入額:9000億円3.さくら銀行公的資金投入額:8000億円4.富士銀行公的資金投入額:1兆円5.住友銀行公的資金投入額:5010億円6.大和銀行公的資金投入額:4080億円7.三和銀行公的資金投入額:7000億円8.東海銀行公的資金投入額:6000億円9.あさひ銀行公的資金投入額:5000億円10.三井信託銀行公的資金投入額:4002億円11.三菱信託銀行公的資金投入額:3000億円12.住友信託銀行公的資金投入額:2000億円13.東洋信託銀行公的資金投入額:2000億円14.中央信託銀行公的資金投入額:1500億円15.横浜銀行公的資金投入額:2000億円16.対青木建設債券放棄額:2049億円17.対フジタ債券放棄額:1200億円18.対東和不動産債券放棄額:2400億円19.対西友系ノンバンク債券放棄額:2100億円20.対佐藤工業債券放棄額:1100億円21.対長谷工コーポレーション債券放棄額:3500億円22.末野興産負債総額:6000億円23.住専一次損失:6兆4990億円※農協系金融機関の政治力を使ったゴネ得で、6850億円が雲散霧消した。農協系金融機関(農林中金、47都道府県信連、全国共済農協連合会と47旧共済連)の住専融資総額は約5兆5000億円だった。(岡田保氏『農協貯金「ドンブリ勘定」の末路』文藝春秋2000;11月号:284-292より)※バブル期に「地上げ」「土地ころがし」に使われた住専の資金は、最終的にはそれに荷担したヤクザのもとに流れていたのだ。その過程では、政治家や官僚、銀行家がさまざまな形で絡み、それぞれが金をポケットに入れていたのだ。これは、日本の上層部がヤクザと癒着していることの証明であり、政府は国民に向かって、腐敗した彼らのために「金を差し出せ」と言っているのに等しかった。(B.フルフォード『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』光文社pp.23-24)24.北海道拓殖銀行不良債券額:2兆3433億円25.山一証券負債総額:3兆5085億円26.日本長期信用銀行(”政治家の貯金箱”)債務超過額:2兆6535億円<リップルウッド・ホールディングズの日本長期信用銀行買収(H12/2/10朝日新聞朝刊)>損失穴埋め額:3兆6000億円資本増強額:2400億円H10/3月既注入額:1300億円(合計3兆9700億円)※日本長期信用銀行への公的資金注入は、非常にわかりにくく最終的には合計4兆2000億円程度の完全穴埋めになると言われている。27.日本債券信用銀行(”政治家の貯金箱”)債務超過額:3兆943億円H10/12/13に一時国有化。総資産:6兆5772億円公的資金注入:3兆2000億円、資本増強:2000億円※日債銀の貸出記録には朝鮮信用組合への何億ドルもの疑わしい記録が残っている。※H11/5月の金融再生委の資産判定で1兆2000億円の「譲渡不可能=不適資産」が含まれていることがリークされた。※この銀行はH12/9月4日「あおぞら銀行」(=”孫正義銀行”)として

    「瑕疵担保条項」とともに民間に譲渡された。社長本間忠世は16日後に自殺(本当に自殺か、その真相は謎。97年移行に起きた政府高官や大銀行のトップの急死はこれで7人目)した。28.国民銀行債務超過額:777億円H11/4/11破綻。破綻処理額:6155億円29.みなと銀行公的資金援助額:1兆560億円30.木津信用組合資金贈与額:1兆340億円(木津の資産1兆3100億円のうち9600億円が回収不能となっていた)31.東京協和・安全信用組合不良債券譲渡額:667億円32.コスモ信用組合債務超過額:1700億円33.三洋証券負債総額:3736億円34.日産生命債務超過額:1853億円35.日本リース負債総額:2兆4443億円36.東海興業負債総額:5110億円37.多田建設負債総額:1700億円38.東京都新庁舎建設費用:1569億円39.苫小牧東部大規模工業団地負債額:1800億円40.住友商事銅不正取引損失額:3120億円41.むつ小川原開発会社債権放棄額:1620億円(H11/8月)42.足利,北陸,琉球,廣島総合銀行公的資金投入額:2610億円(H11.9.14朝日新聞朝刊)足利銀行:1050億円北陸銀行:750億円琉球銀行:400億円廣島総合銀行:400億円(これらは1.54~0.94%の優先株を発行して国が買い取ることで公的資金注入)43.幸福銀行破綻H11/5/22破綻。破綻処理額:2兆321億円44.東京相和銀行破綻H11/6/12破綻。破綻処理額:2兆5293億円45.なみはや銀行破綻H11/8/17破綻。破綻処理額:2兆038億円46.新潟中央銀行破綻H11/10/2破綻。破綻処理額:1兆2400億円(以下調べ、リストアップするのも煩わしいので、ここで一旦中止)

    ※1998年企業・団体政治献金(平成10年分、H11/9/10朝日新聞より)

    ・献金御三家:銀行、建設、鉄鋼

    ・献金五摂家:銀行、建設、鉄鋼、自動車、電機1.トヨタ自動車:6540万円(自民党、民主党)2.NEC:4000万円(自民党)3.戸田建設:3427万円(自民党、民主党、自由党)4.日産自動車:3410万円(自民党、民主党)5.大成建設:3114万円(自民党、民主党、自由党)6.新日本製鉄:3000万円(自民党)7.東芝:2964万円(自民党)8.日立制作所:2964万円(自民党)9.松下電器産業:2964万円(自民党)10.熊谷組:2920万円(自民党、民主党、自由党)11.大林組:2714万円(自民党、民主党、自由党)12.竹中工務店:2714万円(自民党、民主党、自由党)13.サントリー:2703万円(自民党、自由党)14.清水建設:2584万円(自民党、民主党、自由党)15.川崎製鉄:2500万円(自民党)16.スズキ:2490万円(自民党)17.フジタ:2454万円(自民党、民主党、自由党)18.ソニー:2300万円(自民党)19.本田技研工業:2300万円(自民党)20.鹿島:2291万円(自民党、自由党)不況の鉄鋼・電機、不良債務不問建設業、防衛庁デタラメ経理の貪官汚吏絡み腐敗企業が軒並み政治献金というこの現実を我々はどう受け止めるべきなのか。

    ※失業者数(2001年12月)完全失業者337万人(完全失業率5.6%)<---240万人(3.2%)=1995年4月 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++#ナチス政権の軍拡放漫財政に対するライヒス・バンク理事会(フォッケ、シャハトら)の上申書(1939年1月7日)<政府が放漫な財政政策を続けて止まるところを知らないため、通貨価値は危胎に瀕している。止まるところを知らない国家財政の膨脹は秩序ある財政を求める努力とは相容れないものであり、巨額の税金をむりに取り上げているのもかかわらず、財政はまさに破綻に瀕し、これによって中央銀行の機能は撹乱され通貨価値も動揺している。際限のない放漫財政を放任しておきながら、その通貨価値におよぼす破壊作用を抑えようとしても、そのようなことができる独創的かつ特効薬的な財政政策通貨政策上の措置や組織 ・機構や統制手段は存しない。国家がインフレーション的放漫財政政策をおこなうならば、いかなる中央銀行といえども通貨価値を維持することはできない。・・・>(城山三郎氏著『小説日本銀行』より孫引き) ※命を賭してヒトラーに提出されたこの勇気と栄光に満ちた上申書の内容とその意義は、いつの時代においても、その財政政策の闇夜を照らす貴重なサーチライトだろう。いま、我々も平成不況のなかの放漫財政を考えなおす時が来ているのかもしれない。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++※以下、北村龍行氏著『「借金棒引き」の経済学』より抜粋★金融監督庁発足(1998年6月22日)大蔵省の金融支配は、事実上ここに終焉を迎えた。(学歴信仰のメカニズムも崩壊)★金融再生法(1998年10月12日)、金融早期健全化法(1998年10月16日)成立。 ・金融再生法:銀行破綻時の処理方法決定1.管財人による清算2.特別公的管理(一時国有化)(-->10.23に長銀、12.12に日債銀に適用)特別公的管理下におかれた金融機関を、国がどこかの金融機関に譲渡する際には、債務超過分は公的資金で埋めあわせる。※日本長期信用銀行を清算せずに、あくまで譲渡にこだわった理由a.長銀の大手融資先(川崎製鉄、東京電力、日本信販、熊谷組、セゾングループ、そごう、ダイエー、NTT・・・)への配慮。b.金融債(無記名(—>脱税に利用)、元本無保証、預貯金保険無加入)への損失補填が目的。【しかしこの公的資金による金融債への補填は、極めて怪しい異常事態なのだ】3.ブリッジバンク

    ・金融早期健全化法:公的資金枠設定1.預貯金保険機構の金融機能早期健全化勘定に政府保証枠25兆円2.金融再生勘定(新設)に18兆円3.預貯金保護用特別業務勘定に17兆円

    ・金融再生委員会、整理回収機構(RCC)設置:大蔵省の退場★中小企業に対する30兆円の特別信用保証枠(1998年10月、中小企業金融安定化特別保証制度、2001年3月末まで):1999年度末の保証債務残高は43兆190億円★建設業界の事業規模(1998年):集票マシン、利益共同体

    ・許可業者57万社、就業者662万人(労働人口の約10%)

    ・民間建設投資43兆円+公共事業投資33兆円(GDPの14.3%)★1999年(平成11年)以降の金融再編ビッグ・ニュース(管理された金融再編)

    ・みずほフィナンシャル・グループ:第一勧銀=富士銀=興銀(共同持ち株)

    ・あさひ銀(のち離脱)=東海銀(=2001年、三和銀)(共同持ち株)

    ・住銀+さくら銀(合併)

    ・三菱東京フィナンシャル・グループ(仮称):東京三菱=(三菱信託+日本信託+東京信託)(共同持ち株+合併)★民事再生法(2000年、平成12年4月):新たな「徳政令」の発動会社が破綻する前に再建計画を作成して、債務の免除などを認める制度。金融機関にとっては非常に恐ろしい制度であり、金融機関の融資先選別は厳しくなり、疑わしい融資先からは融資をさっさと引き上げる。

    ★建設・不動産業界の不振企業の動き(平成14年3月3日、朝日新聞朝刊より)社名債務の免除額(概数・億円)主力銀行・代表行ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    ・飛島建設6400富士20年の再建計画を短縮模索、富士が金融支援を検討、合併も

    ・熊谷組4300三井住友(旧住友)12年の再建計画の今後の見直しの有無が焦点に

    ・長谷工3550大和15年の再建案を3年に短縮。追加の金融支援受ける。1500億円の債務の株式化へ

    ・青木建設2050あさひ20年の再建計画がとん挫し、昨年末に民事再生法を申請

    ・三井建設1420三井住友(旧さくら)住友建設と経営統合を発表。追加金融支援の有無が焦点

    ・フジタ1200三井住友(旧さくら)建設部門と不採算の不動産部門を分社し、建設は三井・住友に合流する。追加の金融支援の有無が焦点

    ・佐藤工業1110第一勧業10年の再建計画がとん挫。平成14年3月3日に会社更生法を申請予定

    ・ハザマ1050第一勧業飛島など同業との提携や合併が焦点に

    ・藤和不動産2900UFJ(旧東海)1500億円程度の追加の金融支援が焦点

    ・殖産住宅相互650UFJ(旧三和)1月に民事再生法を申請

    ・ミサワホーム350UFJ(旧東海)債務免除要請を1日に発表

    ・大京(未確定)UFJ(旧三和)銀行側が3000億円規模の支援を表明(注)債務免除が少額のケースとして大末建設、井上工業、ダイア建設などがある。大京・ミサワ以外の債務免除は初回は実施済み。

    ※建設会社の主な大型倒産(平成14年3月3日、朝日新聞朝刊より)年月会社負債額(億円)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー1993年11月村本建設5900会社更生法1997年7月東海興業6110会社更生法1997年7月多田建設1714会社更生法1997年8月大都工業1592会社更生法1998年7月浅川組603会社更生法1998年12月日本国土開発4067会社更生法2001年3月冨士工831民事再生法2001年12月青木建設3721民事再生法2002年3月佐藤工業1110会社更生法

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    ※2000年(平成12年)前後に破綻した生保会社の運命(外資系に買収された)

    ・東邦生命—>GE(米)—>AIG(米)

    ・千代田生命—>AIG(米)+ジブラルタル

    ・平和生命—>エトナ(米)—>マスミューチュアル(米)

    ・協栄生命—>プルデンシャル(米)

    ・オリコ生命—>プルデンシャル(英)

    ・第百生命—>マニュライフ(カナダ)

    ・日産生命—>アルテミス(フランス)

    ・日本団体生命—>アクサ(フランス)

    ・ニコス生命—>クレディ・スイス(スイス)(関岡英之氏『奪われる日本』文芸春秋2005;12:98)

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    ★アルゼンチンが国家破産状態となる(2002年4月20日)★10年物国債の「未達」発生(2002年9月10日)国債利子未払いの先触れを示す屈辱的状況が発生した。

    2003年(平成15年):2003年12月26日、イラク出兵★軍靴の足音がきこえる2003年12月26日、ついに自衛隊空軍(航空自衛隊ともいう)はイラクへ向けて出兵の先陣をきった。こうなる前、先の衆議院議員選挙ではイラク出兵は争点からかき消されていた。12月8日「二度と戦争を引き起こさない」という大事な日は、言論統制に屈したマスコミがだんまりを決めこんだ。外務省役人が殺されたとき弔辞を読んだ戦争首相小泉純一郎氏は得意のパーフォーマンスで絶句した。その後は一気呵成に「遺志を継げ」だの「テロに屈してはならない」だのと提灯発言、提灯記事があふれた。軍靴の足音がきこえる。平和の塔がガラガラと音をたてて崩れてゆく。過去に学ばない愚かな権力は再び国民を悽惨な戦火の中に放り込もうとしている。

    「戦争」は国家権力に群がる化物やキチガイどものオモチャである。犠牲者は全てその対極に位置(カネなしコネなし力なし)するおとなしい清廉で無辜で夢と希望に満ち溢れた若い平民。私たちは決して戦争を仕掛けてはならないことを永遠に肝に銘じておいたはずだったのに・・・。

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    誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。(辺見じゅん『戦場から届いた遺書』文春文庫、p13)

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    Reply
  24. shinichi Post author

    ******************戦争に向かう安倍極右政権の恐怖********************

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    2006年(平成18年):第1次安倍政権(H18年9月~H19年9月)★改正教育基本法:教育の目標の一つに「愛国心」(ならずものの最後の逃げ場所)を盛り込む。

    2012年(平成24年)~:第2次安倍政権(H24年12月~)★「国家安全保障戦略」に「愛国心」を盛り込む。愛国心・・国家・・誇りある日本・・栄えある皇紀2600年・・・アホか!!★「積極的平和主義」とは何ぞや:集団的自衛権の確立をめざす。日米同盟の再定義:アメリカのポチの完全になること★「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」このなかで安倍は「憲法は国家権力を縛るものだという考えはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考えだ」という詭弁を発した。★「新ガイドライン」「周辺事態法」「武力攻撃事態法」「国民保護法」★「国家機密保護法」

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    ********打倒安倍政権!!我々は決して戦前の轍を踏んではならない****

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    2.上記歴史的考察から何が分かるか?。

    「属国には真の平和も、国民の幸せも決して訪れない」(安重根)

    「非武装の金持ちは貧乏な兵士の餌食」(マキャベリ)

    ★個人が国家のあり方を見直すべき時代の到来が望まれる。(自分の命の意義と、日本という国家の存在のあり方をあらためて問い直し日本国民としての正義を追求する姿勢が必要になる)。

    ■例えば、アメリカに操られた今の日本の「官僚(役人)独裁主義」(「一億総オウム体制」)に終止符を打たねばならない時の訪れ。(※官僚主義:専制・秘密・煩瑣・形式・画一を重んじる制度)(※官僚政治:一群の特権的な役人が権力を握って行う政治)

    ☆国民性・国民意識:一刻も早く民主主義の芽生えを期待する時であるが平和ボケの日本国民には全く分かってないのが実情。しかもこの平和ボケは「平和主義」とか「一億総危機管理能力ゼロ」に転化して国民の間に蔓延。由々しき事態だ。

    ※戦略研究家リデル・ハートの鋭い洞察(松村劭氏著『日本人は戦争ができるか』より孫引き引用)

    「平和主義者に会うと戦争を回避することが絶望的になる思いにさせられる。なぜなら平和主義者の心の中に自分の意見を押し通すためには、暴力闘争も厭わないという激しい好戦的要素を発見するからだ。平和主義者が積極的に戦争を嫌悪する態度は、無学な人々が学問的に病気を研究せずに、病気を嫌うに似ている」(筆者注:”ならず者の屁理屈”というものだろう)※キャプテン・ドレイク(スペイン無敵艦隊アルマダを撃破した英国艦隊艦長)の見方

    「英国の国防線は海岸線や領海線にない。英国海峡の真ん中にもない。相手側大陸の港の背中にある」(筆者注:”ならず者の口実”)

    3.感想-その1:命の重みについて

    「自分の命の重みは、国家や他人から与えられるものではない。自分自身が自分の人生の中で生み出すものである」ことを、しっかりと認識する。こうして、はじめて自分の命や自分の人生を翻弄し蹂躙する諸々の権力に対する闘争本能が芽生え、その結果として本物の民主主義を勝ち取ることが出来る。

    ※女性の役割の重大性について命を生み出し、育み、心(魂)を吹き込むのは女性である。正義を教え、悪の排除を徹底させることが出来るのも女性である。子供の成長過程において母親や祖母など母性の存在は極めて重要である。更にはそれらを大きく広い立場から俯瞰しつつ司令塔の役割を果たす父性の重要性、そしてそういう父性の存在を子供に認識させるのは女性の役割であることも忘れてはならない。

    4.(ちょっと、しつこいけれど)決して忘れてはならない事

    「日本のお役人というものは、日露戦争後のお役人というものは、・・・・・皆さん、ちゃんとしていらっしゃったのでしょう。しかし、地球や人類、他民族や自分の国の民衆を考えるという、その要素を持っていなかった。・・・・・」(週間朝日、1997年12月5日号、『司馬遼太郎が語る日本、第74回』より引用)

    ※吏僚、という化物は、常人ではない。人外と思っていい。自分の処理・処断がどのような迷惑を生じ、時には生活破綻を来すような悲劇となっても、一切関知しようとせず、感情を動かすことをしない。彼らから見れば民間の者は無機物に等しく、おのれらが世を統べるのは至高の行為と、骨の髄までそう思っている。官と民とは生物的に異なると思い、民の求めで官の仕事が曲げられることは、神にもとる行為としか考えない。ゆえに彼らを人と思ってはいけない。彼らは民からみたら化物である。(筆者:まさに至言。役人の体質はいつの世も同じ)(池宮彰一郎氏著『島津奔る』より引用)

    ※原発問題のなかに日本の権力の腐れ体質のすべてがある。

    原発は、言うまでもなく技術的には核兵器と切っても切れない関係にある。核兵器保有をめざす大国が、経済的にはまったく見通しのない状況で、潜在的な危険性も大きいこの産業へと国家主導的に大量投資をして取り組んだのは、もちろん、核兵器開発に乗り遅れたくないという思惑があったからである。従って、原子力問題には、常にそういう国際政治的力学が背景にあり、国家機密の技術である故の機密性、閉鎖性もつきまとった。そのことにも関連するのだが、原子力のような中央集権型の巨大技術を国家や大企業がひとたび保有するならば、核兵器の保有とは別に、それ自体がエネルギー市場やエネルギー供給管理のうえで、大きな支配力、従って権力を保障する。風力とかバイオマスとか太陽電池などの地域分散型のテクノロジーを軽視し、ほとんどの政府がまず原子力にとびついた(その段階での商業化の可能性の不確かさは、前述の分散型ないし再生型のエネルギーが現在もつ不確かさより、はるかに大きかった)のは、この中央集権性ないし支配力にあったと思う。その底流には、巨大テクノロジーと民主主義はどこまで相容れるかという、現代に普遍的な問題が関係している。(高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、pp.216-217より)

    デフレから全く脱却出来ない経済、泥棒国家の腐った政治、アメリカの飼い犬・戦争好きの政府、性悪本性むき出しの政治屋さんと官僚(役人)ども、国家社会主義的悪民主・悪平等、人権のはきちがえ、年金・医療・福祉等々なにもかも他人任せに欲しがる卑しき国民の群れ、大地震の恐怖、原発による日本メルトダウンの予感。日本の行く末推して知るべし。

    5.福祉ということについて福祉を叫ぶ国家は必ず破綻する。福祉は平等を建前とするが故に、規制だらけの官僚統制を必要とする。さらに夢多きはずの若年労働者を重税で苦しめる。結局稼がない官僚や地方の役人をはびこらせ、稼ぎ手の若者の労働意欲を失わせる。これでは国家は衰退するばかりである。我々は足るを知らず、むやみに福祉、福祉と叫ぶ愚かな浅はかな行動だけは絶対慎まなければならない。(「国防こそ最高の福祉である」、昭和55年、清水幾太郎)

    ●「福祉国家の金融政策は、富の持ち主が身を守る術をもたないことを必要とする」(アラン・グリーンスパン)

    ※念の為に書くが、筆者は福祉を決して否定するものではない。行き過ぎた福祉政策は国民の自立を失わせ、福祉の偏りを招き、福祉財源の確保の為という口実のもとに、無理矢理に医療費を削り自己負担を増やす(後述)。結局は国民が自らの首を絞める様な結果を招くに違いない。こういう事態を筆者は危惧するのである。

    6.感想-その2:国家は国民の命をどう扱おうとしているのか?現日本での高齢者、病者に対する医療・福祉政策は、まさに南アフリカ共和国のやった黒人隔離政策である「アパルトヘイト」を彷彿とさせ、果ては昔ナチス

    ・ドイツのユダヤ人全滅政策である「ホロコースト」の再来を感じさせる。つまり「老人・病者・弱者隔離政策」であり「姥捨て山政策」であると言っても過言ではないだろう。

    ※解説(平成11年10月時点)政府はここ数年来、人口の高齢化によって、医療費がかさみすぎるという名目で、社会保険本人の自己負担率を、一挙に平均で2.6倍に増やすという暴挙に出た。国民保険の場合は、医療の公平性を訴えながら3割負担のままとし、加えて薬剤の自己負担を課すことにより、自己負担が増加した。また、老人医療においては一回500円を月に4回まで負担することになった。老人の場合、多くの疾患があるひとが多く、薬剤の自己負担分が一挙に増加するのである。ひどいところでは老人夫婦二人暮らしの年金生活で7万円のうち5万円を医療費についやし、途方にくれている家庭もあるというのだ。高齢化社会が来ることは、十年以上も前から分かり切っていたことであり、福祉基盤の一環であるという医療の負担が平成9年9月1日から、一挙にこんなに増額されるというのは、一体なんであろうか。医療はいわば公共性の高い福祉の分野である。どんな公共料金も一挙にこんなに引き上げられることは未だ経験がない。高齢化社会が到来することは以前から分かっていたことで、今回の天から降って湧いたような改訂は、ここに至って保険支払の財源が現行のまま(つまり政府の負担を引き上げないで)では、破綻することがわかり、バブル崩壊後の政治の失敗を国民につけまわしするという政策であることがよく分かる。バブルという現象もその崩壊も金融を制御すべき監督官庁が、本来の責任を果たさず、金融業界等の担保もないような物件にどんどん融資をしたという異常な事態を放置した結果であり、バブル崩壊後の過剰な不良資産を生む原因となっている。こうなると経済がたち行かなくなる。ということで、低金利政策をおこない、経済活動を活性化させようとする。ところが、この政策は正当のようでもあるが、逆に考えれば国民に利息の支払いを減らすことを許容し、不良資産にまみれた金融機関の援助策と言われてても致し方のない状況にある。加えて、山一証券の「不良債券飛ばし」事件が官僚との間の合意であったことをみるにつけ、国民の為の政治が、医療・福祉の問題として高齢化社会に対応した形というよりも、財政上での都合として行われているのでありこのような形式での改革というものは、医療をゆがめていくという以外に説明のしようがないように思えるのである。最近盛んに推進される在宅医療も、主旨は大変結構な存在であり、入院医療を家に居ながらにして実現しようというものであるという説明がなされている。が、その一方で老人の長期入院を抑制することを目論んでおり、入院日数を基準として、それが長引くにしたがって治療費(病院・医院に支払われる医療費の公費負担)が減少するように仕向けている訳で、受け皿を作らずに、入院し難い仕組みを作りあげているのである。この批判をかわすようにデイケア、老人保険施設、特別養護老人ホーム、介護保険法も準備されているが、現状では入院抑制政策、国民負担増加政策、公費負担削減政策以外のなにものでもなく、病院・医院に入院した場合の医療費の削減が主目的であり、結局のところ国民の福祉・幸福を理想像として作られたものというよりは、より安価なシステムへの移行であることは明らかだろう。社会的入院を是正しなければならないことは確かであるし、我々は適正な医療を受ける権利を持っていることも間違いなかろう。しかし、今回導入された上記医療保険制度においては、国民はある程度の経済力がなければ適切な医療を受けられない様になりつつある。しかも経済力があったとしても、我々は高齢になり長期入院を余儀なくされる様な病気に罹った時、病院や医院からは、主として経営的な事情で排除されてしまうというシステムの中で行き場を失って行くに違いない。そしてこのことは医療不信の根源を形成するもとにもなっているのである。

    ※参考:我々は以下の事実をぜひ知っておかなければならない。イ.高齢化社会の到来は昭和40年には、十分予想出来ていた。その後30年以上にわたる政府の無能・無策のツケを国民が命と引き替えに払っている。ロ.国民医療費の国民所得に対する割合は約7%で欧米の約10%と比べて低く抑えられている。(1996(平成8)年度:国民所得に対する割合は7.27%)

    ●国民医療費:28兆5210億円(1996年度)(平均:226600円/国民1人)

    ●財源a.保険料:15兆9931億円(全体の約56.1%)一般サラリーマン相手の政府管掌保険は、きっちりと政府の管理下にあり、税金の他に国民の負担となっている(後述)。b.公費(税金):9兆1198億円(全体の約32.0%)c.自己負担:3兆3751億円(全体の約11.8%)

    ■一般のサラリーマンは保険料約8.0兆円(半分負担)+3.4兆円の11.4兆円を自らの稼ぎのなかで、既に負担しており、税金も考慮すると今では約40%以上(=(11.4+α)/28.5)もの自己負担を強制されている。当然のことだが、早晩50%を越えることは言を待たない。■我々は、少子高齢化・医療費急騰・年金財源枯渇などという誇張された喧伝に幻惑されることなく、その裏に隠れた膨大な税金の無駄遣いを執拗に糾弾して行かなければならない。

    ※もののついでに国民への安全保障について我が国特有の「専守防衛」戦略は国土を主戦場に想定しているから、はじめから日本の町が焼かれ、老幼婦女子が殺される事を覚悟している。日本は逃げる場所もない。近代都市は破壊に弱い。あなたまかせの「抑止戦略」や防御方法のない「専守防衛戦略」など笑止だ。こんな状況では安全保障の為の外交は「屈辱的外交」しかない。結局、侵略されたら直ちに降伏するというのが為政者の本音なのだろうか。「安全保障」はどこに消えたのだ。この国は今に至っても国民の財産と命を本気で守る気がなさそうだ。まさに「命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質をここでも垣間見る事ができる。第二次世界大戦後、殆ど同じ様な運命を辿って復興したドイツは、早々と自衛のための軍隊を充実させた。国防のために想定する戦場を国土の外側に移して「防衛戦略」を練っている。この彼我の違いをもたらせた原因と責任は一体どこにあるのだろうか。

    7.『モラトリアム国家日本の危機』(小此木啓吾氏著)より米国の精神分析学者、エリク・H・エリクソンは、青年期を「心理社会的モラトリアムの年代」と定義した。「モラトリアム」とは、支払い猶予期間、つまり戦争、暴動、天災などの非常事態下で、国家が債務(借り)・債権(貸し)の決算を一定期間延長し、猶予し、これによって金融恐慌による信用機関の崩壊を防止する措置のことである。

    「心理社会的モラトリアムの年代」とは、その言葉を転用して、青年期は、修業、研修中の身の上であるから、一人前のおとなになるまで、青年たちの社会的な責任や義務の決済を、社会の側が猶予する年代であるという意味である。

    ★今の日本は一億総無責任の時代を迎えてしまっている。全年齢、社会の全階層にわたって「心理社会的モラトリアム」がはびこった結果、全年齢・社会の全階層が無責任となり、当然の義務の遂行を怠ってしまった。昨今の高級官僚や政治家のていたらくは眼を覆うばかりである。

    ※現代日本人の無責任性、無倫理性の根源(?)おおくの国民の血を流してこの敗戦である。天皇は自決するにちがいない。そうしたら、私はどうしよう。私は生きてはいられないと思った。私はこれをふかく心にひめて、これからはじっと天皇を見守ってくらすことになった。しかし、地方巡幸があっただけで、戦犯の処刑がすんでもなにごともおこらぬ。こうして翌年4月10日には、天皇を処刑しろというT君と私はなぐりあいのけんかをした。だが、5月3日の新憲法施行にも、なにごともおこらなかった。これまで待った私は、はじめて長夜の眠りからさめたように、天皇の無倫理性をはっきりと見た。もはや民族の良心はそこにはない。(・・・)河合さんはこう云うんですよ。天皇はおいたわしい。軍に牛耳られている。杉山〔陸軍参謀総長〕とか東条〔首相〕にだまされているのだ。私(河合)が一番心配なのは今度の戦争に負けたら天皇は必ず自殺される。それは見ていられないというわけです。それに僕は感化されたな。ほんとにおいたわしいと思っていたなあ。ところが敗戦後見ていたが一向自殺も何もされない。それからですよ、批判的になったのは。天皇は日本国民の無責任の象徴ですね。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.118-119)

    8.終わりに国家権力は国民に対する暴力装置であり、その性格は佞奸邪知。その行動原則は国民をして強制的、徹底的に情報・言論・行動・経済の国家統制の完遂を目論むことである。従って異論や権力に不都合な論評や様々な活動は抹殺、粛清される。畢竟、国家権力とは、国民を蹂躙・愚弄・篭絡する「嘘と虚飾の体系」にほかならないということになる。残念ながらこの「嘘と虚飾の体系」は戦後も連綿と密かにどす黒く国民を覆い尽くしているのである。(鳥越恵治郎)

    地獄への道は善意で敷きつめられている。(レーニン)

    犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも傍観者になるな。(いいだもも氏著『20世紀の社会主義とは何であったか』より引用)

    戦後、多くの人が先の戦争ではだまされたという。みながみな口を揃えてだまされたというが、俺がだましたのだという人間はまだ一人もいない。・・・実のところ、だましたものとだまされたものとの区別ははっきりとしていたわけではない。・・・もし仮に、ごく少数のだました人間がいるとしても、だからといって、だまされた側の非常に多数の人間は必ずしも正しいわけではないし、責任も解消されるわけではない。それどころか、だまされるということ事態がすでに一つの悪である。だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。・・・(伊丹万作『戦争責任者の問題』(昭和21年)より抜粋)

    我々は、ヒットラーやその部下、それに多くの若者を無駄死にさせた東条英機や大西瀧治郎など軍の上層部が犯した人道に対する大罪を免責することはできない。しかしながら同時に、我々はこうした全体主義的で破壊的な作戦に気づかぬうちに加担してしまう我々自身の脆弱さを認識しておく必要がある。戦争に加わった学徒兵やその他大勢の人々だけでなく、我々自身もまた、軍事政権の操作を見抜けずに、その巧みな操りにいとも簡単に翻弄され得ることを深く認識する必要がある。人々を人類史上の大惨事へと引き込み、その政略を誤認させ、気づかぬうちにそれを受容させる歴史の力に対して、私たち一人ひとりがいかに脆弱であるか、(本書がその理解に少しでも役に立ってくれるよう願う。本書は、純真な精神と人間性の理想の追求に専念したにもかかわらず、無意味な戦争によってその志を諦めざるを得なかった学徒たちの苦渋に満ちた声を紹介する。遺された手紙、日記、回想録は、若き学徒の人間性の証であり、彼らの声は永遠に葬ることのできない力強さで満ちている。こうした若者たちが日本人だからというのではなく人間であるからこそ)、彼らの本当の姿を、人間性を剥奪された戯画化されたイメージから救い出し、我々の知識にすえ直す必要がある。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.52、()は話の展開上、筆者が便宜上つけ加えた)

    「・・・米国側で、善良な国民、欺かれた国民というままに、しらじらしく、軍閥にだまされていた、今眼が覚めたというとばけた顔や、だからいわないこっちゃないといった上品な顔を並べたところで、誰が信用出来るだろう。何になるのだろう。己の一番嫌悪し、最も憎むのは、この枯れ葉みたいにへらへらし、火をつければすぐかあっとなる日本帝国臣民という奴だ。この臣民をそのまま人民と名を置き換えて、明日の日本に通用させようとするのは、今日最も危険なことだ。それは翼賛議員が看板を塗り替えた位のことでほない。このくすぶれた暗黒の大地からは、何度だって芽が出てくる。狂信的な愛国主義者、国家主義者、軍国主義者、そいつらの下肥がかかった、この汚れたる土地を先ず耕せ。でなければ明日の日本に花開き栄えるものは、単に軍国主義者の変種にすぎないであろう」長すぎる引用になった。しかし、中井のこの予言ともいうべき指摘は、不思議なくらい当たってしまっているような、そんな想いだけが残っている。(半藤一利氏著『日本国憲法の二〇〇日』プレジデント社より)

    日本にかぎらず、慣習がつよく人間の独創性を拘束している社会は、どの国でも田舎でしょう。(司馬遼太郎氏著『アメリカ素描』より引用)(筆者注釈:司馬遼太郎氏は決して田舎を否定しているわけではないのだが・・)

    「ゆたかさ」の過剰も「善意」の過剰もまた、生きものを殺しうる。(中略)それは、ほんとうは飛びたかった鳥だった。必要な飢えによって飛ぶ鳥。しかし、不必要なゆたかさによっては、どこへも飛べなかった鳥だった。(長田弘氏詩文集『記憶のつくりかた』の中の「鳥」より。なおこの文は柳田邦男『この国の失敗の本質』よりの孫引き)

    自分自身の武士道、自分自身の天皇(筆者注:権謀術数、大義名分の道具)をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要だろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(坂口安吾『堕落論』(昭和21年4月)より)

    「国家」とは、自由をはじめ国民のもつあらゆる天賦の基本生存条件のみならず、個人の資質そして個人の努力により取得した精神的・肉体的・物質的資産あるいはその潜在能力を強権的に搾取・没収し、もって強固不変の「国家体制」を維持することを根源的究極的目的とする「国民に対する暴力装置」にほかならない。日本と言う国はその典型的な一例である(鳥越恵治郎)。

    清水幾太郎:政府が国民を武装解除するのは、国民の信頼を獲得する自信がないからであり、「ぼくの家にも一挺の機関銃くらいあるというのなら、日本の再軍備も大いに賛成する。日本の再軍備を力説する政治家にそれだけの度胸があるか」。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.479)

    誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。(辺見じゅん『戦場から届いた遺書』文春文庫、p13)

    ★ドル本位制・アメリカ国債本位制(アメリカ金融帝国主義の本質)についてアメリカが、IMFや世界銀行のような機関を通じて世界経済からうまい汁を吸う方式をあみだしたのは、まさに世界の支配権を握り、自国の経済的自主性を最大にしようという野望(いかに”国家安全保障”もしくはもっと拡張主義的な何かを表現すると見られていようが)にほかならない。軍事的に誘発された国際収支赤字のせいでアメリカは、世界にドルをあふれさせ、他国の生産物を呑みこんで、国内消費レベルを上昇させ、外国の資産の所有権を増やした。それらの資産には、民営化された公共事業、石油や鉱山、公的施設、主要企業を始めとする外国経済の重要拠点が含まれている。これはまたしても伝統的な帝国主義観の正反対だ。伝統的な見方では、帝国主義経済は国内の余剰を外国で処理しょうとするものだからである。今日のドル本位制を理解する鍵は、それが、金地金の形をした資産に基づくのではなく、アメリカ財務省発行債券に基づく債務本位制となっているのを見て取ることにある。第三世界の国々やその他の債務国には債権者優位ルールを適用する一方、アメリカに関してはダブル・スタンダードを追求するIMFは、世界の主な債務国アメリカが、とリわけ政府間債務という形で計上した赤字をマネー化するための規則を作り上げた。世界銀行も、特に食糧生産の領域で自給よりも依存の方に資金を供給しながら、外国の公的部門の民営化を要求することで、ダブル・スタンダードへと走っている。アメリカ政府がヨーロッパや東アジアの中央銀行に対して赤字を計上しつづける間に、アメリカの投資家は債務国の民営化された公的企業を買収する。ワシントン・コンセンサスは、それらの哀れな国々に緊縮財政を押しつけながら、アメリカ国内では、深まるばかりの貿易赤字に縛られない金融媛和ー-まさに不動産と株式バブルだーーを奨励しているのだ。21世紀の初頭、新たな種類の集中的世界計画が登場してきた。第二次大戦後に予測されたような諸国政府によるものではなく、主としてアメリカ政府の手になる計画だ。その中心と支配メカニズムは産業ではなく金融にある。第二次大戦末期に構想された国際貿易機構(ITO)とは異なり、現在の世界貿易機構(WTO)は、世界の労働生産を高めるのではなく、他国が貿易で得た利益をアメリカに移転するという方法により、金融資産投資家の利益を推進しているのである。(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、徳間書店、pp66-67)

    9.あとがき(私物国家日本の縮図と明日への希望)<21世紀初頭の日本社会>

    「死」と「暴力」のリアリティを失認した人間どもがうごめいている。テレビゲーム、携帯メール、インターネットへののめり込みなど様々な生活様式や遊び方の変化とともに人間関係は希薄になり陰湿ないじめを生み出している。若者のひきこもりは100万人を越えようとしている。フェミニズム(男女同権主義)の嵐は男女共同参画型社会を叫び、保育と介護の社会化を強要して家族崩壊・家庭崩壊の元凶となっている。ヒューマニズム(人権尊重主義、博愛主義、人道主義)は一方的な人権尊重の傾向を持っており、学校や社会の病理(いじめ・盗み・暴力・殺人など)を助長している。学校崩壊・学級崩壊はその一例である。自由放任のもと我がまま放題に育ち勤勉・努力・辛抱・我慢を忘れた父母が平気で子どもを虐待し殺す。保険金目当ての殺人など金のためならどんなこともいとわない。被害者の心情など全く思いやることができない。これら人外のばけものの爆発的な増加も過度のヒューマニズムの弊害だろう。そして心地よくひびくいやしき社会主義、結果平等主義は競争力を失わせて活気のない社会をつくりだしている。

    <一億総無責任国家>現代のお粗末な民主政治の下では、政治家は選挙に有利になるように予算を奪いあっている。官僚は出世を考え権限を拡大している。人々は他人の負担でより多くの利益を得ようとばかり考えている。そして財政はばらまきになり肥大化し行政組織は無限に自己増殖している。その結果700兆円を越える負債にあえぐデフレ経済は銀行の不良債券処理を加速し、貸ししぶり・貸しはがしを招き、自殺者をあふれさせ、その数は毎年3万人を優に越えている。各種優良、巨大企業のうそやごまかしに満ちた体質が次々と明らかになった。監督官庁のなれ合い手抜き監査もあらわになった。それぞれの最高責任者の誰も責任を取っていない。恐ろしく歪みきった体質のようだ。さらには使途不明が当然というばかりに画策された内閣官房機密費、外務省機密費も暴かれた。機密費名目の出鱈目予算は全省庁にあることだろう。嗚呼、国民の血税が無責任とデタラメで闇から闇へ消滅してゆく。警察のやらせ操作、遊興・接待の裏金つくりも、とうとう暴露された。平成14年4月にはあろうことか検察庁までが裏金作りに奔走していたことが露呈した。これら裏金(税金)の全てが幹部の遊興費に消えたと言う。しかも検察庁は、この良心と正義の勇士(元大阪高検公安部長・三井環氏)を、組織をあげて、口封じのために罪をデッチあげて逮捕したのだ。おまけに謀略者たちは責任をとらないばかりか全て昇進を果たしているという。国家の正義を守るべき検察がこの為体(ていたらく)、言語道断だ。かくのごとくに、今日の一億総無責任国家の根源が日本の(一体化して区別がつかなくなってしまっている)政治と行政の腐敗・堕落にあることは間違いない。

    <日本というシステム(国家体制)の本質>権力階級としての政官財の強い結びつきは資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、操作)をもって国民を飼いならしている。いまや日本は政治献金の総もとじめの圧力経済団体と、発想が貧困でわいろに弱く強権的で政治と行政を私物化した独裁官僚と、官僚のこまづかいに成り下がった自民党族議員が拝金主義をもって暗躍する虚業ギャンブル国家となってしまっている。そのうえに表面上の豊かさに惑わされた人々は危ういあなたまかせの平和のなかで怠慢になり、より深くより広く考えることをやめてしまっている。既得権益にしがみつく寄生虫のごとき独裁官僚と金集めに狂った政治家の絶妙なコンビは地方交付税、補助金、各種措置制度、助成金、公共事業などをエサにして地方自治を強力に制御している。彼らに強力なコネを持った悪がしこく目ざとい財界がいち早くこれらにタカる。彼らはまた特殊法人・公益法人とそれにぶら下がる多くの天下り法人を従えている。これにより民間会社の参入は強力にブロックされ、民間活力の活性化を完全に抑制している。これが日本独特の中央集権型・巨大ピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」なのだ。この日本のかなしくおぞましいシステムは、各種法律の制定

    ・改定をもって増殖し徐々にすき間なく全国民の間に張りめぐらされ続けてきた。そして今では人々の将来の夢と希望を完全に奪い去ってしまっている。2003年3月21日戦争をもってしか国家を支えることができない野蛮な国アメリカはついにイラクとの戦争を始めた。憲法上戦略軍隊を持てない日本は日米安保条約(日米軍事同盟)のもと属国として、あるいは自主判断の許されない飼い犬”ポチ”としてアメリカの言いなりでしか動けない。戦費などの無駄ゼニは、おそらく3兆円以上の巨額をぶんどられることであろう。何という為体(ていたらく)だ。作家の村上龍氏はその著書『希望の国のエクソダス』のなかで、「この国には何でもあります。だが希望だけがない」と書いた。だが私にはそれ以上に「リアリティも夢も希望もない」としか思えない。

    <誠実な国、新しい日本の誕生への大いなる期待>昭和43年私が井原高校を卒業する時、既に幻想でしかなかったかもしれないが、日本には形を成した家庭があり学校があった。ヒューマニズムもフェミニズムも適度だった。いじめはあったがかわいいものだった。みんなに機会平等を保障してくれた寛容で優しい社会があり国家があった。世界に誇る工業技術があった。貧しくて不自由ではあったが実在し躍動する生命感も夢も希望もふんだんにあった。行政官はnoblesseoblige(高い身分に伴う道徳上の義務)を気高くもっており清廉だった。検察は汚職に薄汚れた政治家の圧力に屈することなく容赦なく巨悪に迫った。2003年(平成15年)に井原高校は創立100周年を迎えるという。私はこの拙稿で、ある一面的な見方でしかないだろうが、限られた文字数の中に現在の日本の有様について、できるだけ多くのことを簡潔に詰め込んで記述してみたかった。そのことは同時に私にとっての35年のへだたりを「現実・夢・希望」をキーワードに書くことにもなった。書き終えて私の心は憂うつになってしまった。私はこの心のくもりが晴れ上がる日を身をこがすような想いで心待ちにしている。井原高校の卒業生の皆様に、そしてこれから卒業しようとする若ものたちに、新しい日本の礎となって欲しいと切実に願っている。

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  25. ネット分断の根源

    K博士の材料物理数学再武装ってとっても面白いよ。人工知能の基礎理論なんだけど、関数接合論とかいうもので経済学の祖、国富論で有名なアダムスミスの神の見えざる手を計算しているのをSNSで知った。全体最適の概念において、なんだかイデオロギーの終焉を数学的に証明しているみたいな印象を持った。

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  26. Anonymous

    今の時代に左翼は要らない。
    中国や北朝鮮よりはマシで、あんなコラム書いても逮捕されない平和な日本が嫌なら出ていけばいい。
    ”今”の日本について行けない時代遅れの老害は黙っていたほうがいいね。

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    1. shinichi Post author

      (sk)

      鳥越恵治郎という人についてよく知らないので、そのお医者さんが左翼なのかどうかはわかりません。

      でも、言っていることは間違っていないと思います。

      いまだに「左翼」とか「右翼」とかいった時代遅れの言葉を使っている人こそ、老害ではないかと思うのですが、どうでしょうか?

      >”今”の日本について行けない時代遅れの老害は黙っていたほうがいいね。
      ということですか、「”今”の日本」とは、何なのでしょう?

      国家などという20世紀の概念にとらわれているうちに、国力は衰え続け、経済的にも技術的にも軍事的にも、なんの影響力も持たない国になってしまっている「”今”の日本」。

      個人の収入は下がり続け、個人の生活は悪くなるばかり。「国」ではなく「個人」に焦点をあてれば、どの指標も、日本が開発途上国並みであることを示している「”今”の日本」。

      円は弱くなり、日本人が外国に行くとコーヒー一杯すら高すぎて飲めないから、日本から一歩も出られなくなっている人がたくさんいる「”今”の日本」。

      国の借金が増え続けているのに、国の借金はどんなに増えても平気だと言う人がいる「”今”の日本」。

      明日 南海トラフ巨大地震が来たら、経済が完全に破綻してしまうのに、何の危機感も持たない「”今”の日本」。

      「”今”の日本」を見誤っているのは、「”今”の日本」がいいと思っている人たちなのではないでしょうか?

      「”今”の日本」がいいと思っている人たちは、いまだに日本が世界第二位の経済大国だと信じているのでしょうか?

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