澁澤龍彦

 そうであってみれば、私がここで、その一つ一つを解説してみたところで、いわば焼石に水であろう。薔薇の威光の前には、私ごときは手も足も出ないような感じなのだ。
 むしろ日本あるいは東洋に目を転じて、何のシンボリズムにも毒されていない、野薔薇や庚申薔薇の単純さを愛するに如くはないような気もしてくる。蕪村が「愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら」と詠んだ花いばらは、素朴な白い花を咲かせる今日の野薔薇であろう。酒井抱一が「十二カ月花鳥図」のなかに描いた白い薔薇も、たぶん西洋種ではない、一重のナニワイバラあたりではあるまいか。
 銀座や六本木の花屋で、大きな薔薇の花束をつくってもらって、友人の家のパーティーに出かけてゆくことがある。そんなとき、通行人の視線をあつめながら花束をかかえて歩いていると、ふしぎに華やいだ気持になる。むろん、これは西洋種の薔薇である。

2 thoughts on “澁澤龍彦

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *