「何か?」雛子は小首を傾げ、鳥飼に聞いた。
警戒するような口ぶりではなかった。彼女は好意的で友好的な感じがした。安心できる人物に道を訊ねられた時、人が見せるような屈託のない笑みを浮かべて、雛子は鳥飼の前に立った。
「申し訳ありません。散歩をしていてつい、この木にみとれてしまいまして」
ああ、と雛子は鳥飼の視線を辿りながら言った。「マルメロです。今年もこんなにいっぱい実が成って嬉しくって」
想像していた通りの声だった。低くて、落ち着いていて、時として人を眠たくさせるような……。
「珍しいですね。鎌倉でマルメロとは」
「ええ。知識がなかったものだから、育てるのが難しくて、大変だったんです。香りが強いものですから虫がつきやすくって。移植してから最初の五、六年は実も成らなくて、もしかすると気候が合わないのかしら、って諦めてたくらい」
「移植と言いますと、どちらから?」
軽井沢です、と雛子は言い、木もれ日の下で額に浮いた汗を拭った。「別荘に植えてあったものをこちらに」
「大切になさってた木なんですね」
雛子は軽くうなずき、思い出が……と言いかけて口をとざした。口紅の跡のない唇に、平凡な主婦に似つかわしくない謎めいた微笑が浮かんだが、やがてそれもすぐに消えた。「よかったら、おひとついかがですか」
恋
小池真理子
男は傍にあった古新聞紙でマルメロの苗木を乱雑にくるむと、素っ気ない仕草で私に手渡した。ありがとう、と私は言った。
この苗木を古宿の彼らの別荘の庭に植えたとしたら……と私は素早く考えた。マルメロの実が成るころには、彼らは間違いなく中年になっているはずだった。彼らがぼんやりと昔を思い出しながら別荘の庭を眺めている時に、マルメロの実が成ったことと私のことを結びつけて考えてくれれば、どんなにいいか、と私は思った。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
私はマルメロの苗木を抱えながら、元来た道を戻り始めた。苗木を別荘の庭に植えたら、何も言わずに東京に帰るつもりだった。
マルメロの苗を植え、黙って彼らの元から去る、という考えはなかなか魅力的なものだった。もうアルバイトはやめる。目黒の彼らのマンションにも行かない。私が彼らの前から姿を消しても、苗はすくすくと成長し続ける。葉を茂らせ、花を咲かせる。軽井沢に来てそれを見るたびに、彼らはいやでも私のことを思い出すのだ。
素敵だ、と私は愚かしくも、その少女趣味的な企みに有頂天になった。
**
翌朝、慎太郎は別荘の庭の、一番日当たりのいい南向きの隅を選んで穴を掘った。私はそこにマルメロの苗木を植えた。雛子が如雨露で水をやった。
**
「何か?」雛子は小首を傾げ、鳥飼に聞いた。
警戒するような口ぶりではなかった。彼女は好意的で友好的な感じがした。安心できる人物に道を訊ねられた時、人が見せるような屈託のない笑みを浮かべて、雛子は鳥飼の前に立った。
「申し訳ありません。散歩をしていてつい、この木にみとれてしまいまして」
ああ、と雛子は鳥飼の視線を辿りながら言った。「マルメロです。今年もこんなにいっぱい実が成って嬉しくって」
想像していた通りの声だった。低くて、落ち着いていて、時として人を眠たくさせるような……。
「珍しいですね。鎌倉でマルメロとは」
「ええ。知識がなかったものだから、育てるのが難しくて、大変だったんです。香りが強いものですから虫がつきやすくって。移植してから最初の五、六年は実も成らなくて、もしかすると気候が合わないのかしら、って諦めてたくらい」
「移植と言いますと、どちらから?」
軽井沢です、と雛子は言い、木もれ日の下で額に浮いた汗を拭った。「別荘に植えてあったものをこちらに」
「大切になさってた木なんですね」
雛子は軽くうなずき、思い出が……と言いかけて口をとざした。口紅の跡のない唇に、平凡な主婦に似つかわしくない謎めいた微笑が浮かんだが、やがてそれもすぐに消えた。「よかったら、おひとついかがですか」
**
マルメロの樹は知っている。覚えている。三人がいたあの季節を。「理由なんかない。人と人とのめぐりあわせってのは、そんなもんなんじゃないのかな」。布美子が信太郎と雛子に出会ったのも、元より、信太郎と雛子が出会ったのも、理由がありそうで、なかったんじゃないのか。縁、えにし、出会うべくして出会ってしまった彼ら、の気がする。精神の快楽。それは極上の恋であり、危険極まりない恋であり、愛だ。それぞれが胸に秘めた想い、抱えたまま死んで行った想い。でも。マルメロは全部見て知っている。そして、三人の秘密を抱えて鎌倉の地で。
その家の庭にはマルメロの木が植えてあり、いつかお酒にして3人で飲もうと話していた黄色の実が生っていた。
(sk)
片瀬信太郎は高等遊民を、もっといえば澁澤龍彦を髣髴させる。最後に住んでいたのも鎌倉だし。
いや、片瀬信太郎は、澁澤龍彦を髣髴させるというよりも、高橋たか子の『誘惑者』に出てくる(澁澤龍彦をモデルにした)「鎌倉の松沢龍介」を髣髴させるといったほうがいいかもしれない。
いやいや、片瀬信太郎は、鎌倉の松沢龍介を髣髴させるというよりも、たか子の夫の高橋和巳を髣髴させるといったほうがいいのだろう。
高等遊民とは、高等教育を受けながらも、経済的に不自由がないため、労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のことをいうらしいが、そんな人はもうどこにもいない。
澁澤龍彦も、三島由紀夫も、もういない。