為末大学

皆すごいものを見たいと思うが、すごいものは飽きるのも一瞬だ。もはやAI囲碁の「Alpha Go(アルファー碁)」に注目する人は少なくなった。人が飽きずに夢中になるのは、人間同士の競争であり、その競争に夢中になるのは共感があるからだ。共感を生むには、どこかしら自分自身を投影したものである必要がある。あまりに距離ができるとすごいとは思うけれども、何度も見たいとは思わなくなってしまい、そうなればスポーツの商業的価値も、もしかしたら根源的価値も失われてしまうかもしれない。
以前、私たちは人類はどこまで行けるのだろうとワクワクしながらスポーツを見ていた。ところが科学技術が発展すると、能力開発のためにさまざまなことが可能になった。現在のドーピングはまだかわいいもので、将来的には遺伝子ドーピング、デザイナーベイビーの誕生にどう対処するかが議論されている。
人類はどこまで行けるだろうという問いから、人類はどこまで行ってもいいのだろうかという問いに変わりつつある。人為的なものと、自然なものをどう捉えるのかが重要になってくると私は考えている。

One thought on “為末大学

  1. shinichi Post author

    厚底シューズと義足はどこまで、人為的と自然の境界

    by 為末大学

    https://www.nikkansports.com/sports/column/tamesue/news/202002040000230.html

    ワールドアスレチックス(世界陸連)からランニングシューズに対しての新しい基準が発表された。「厚底シューズ」に端を発した騒動は、これで一段落しそうだ。

    大きな変更点は4つ。

    ・靴底の厚さは4センチ以下よ

    ・靴底内のプレートは1枚までよ

    ・4月30日以降は4カ月以上前から市販されているものじゃなきゃ履けないよ

    ・言ってくれたら審判が検査するよ

    もともとは以下のようなルールで運用されていたので、より明確になった。

        ◇    ◇

    ◆日本陸上競技連盟競技規則/第二部 競技会一般規則 第143条 使用者に不正な利益を与えるようないかなる技術的結合も含めて、競技者に不正な付加的助力を与えるものであってはならない。

        ◇    ◇

    不正な利益というのが何を指すのか曖昧な状態で運営されてきたが、これまで問題は起きなかった。というのも厚底シューズが登場するまで、ランニングシューズというのは大事ながらそれほど極端に差がつくものではなかったからだ。



    一番心配されていた厚底シューズの現行モデルは使用できそうだ。このルールは陸上スパイクにもかかってくるので、五輪に向けて選手用のスペシャルシューズを開発していたところは、市販で販売しないと試合で履くことができないため、市販化を急いでいることだろう。

    ただいくつか疑問点も残った。海外メーカーはあまりないが、国内メーカーは選手用に調整して提供することが多くある。これまで日本のマラソンは、シューズ職人の方(代表的には三村仁司さんなど)が、その経験と勘で微調整をしてきた。高橋尚子さん(00年シドニー五輪女子マラソン金メダル)のシューズが左右で厚さが微妙に違っていたのは有名な話だ。このような微調整が許されるかどうかはまだはっきりしていない。この微調整は、競技力向上のためもあるが、個別差がある選手のための故障予防の意味合いもあるからだ。

    私にとっては今の厚底の議論は既視感がある。それはパラリンピックの世界での義足の制限が同じような状況にあるからだ。現在、パラリンピアンの義足には制限がある。長さと、市販されているものかどうか。ところが、これは国際パラリンピック連盟の基準なので、パラリンピックに出場しなければ義足を長くして走ることは可能だ。以前から少し長い義足を履く選手はいたが、今は米国の選手が明らかに長い義足を使用しており、全米ランキングでも上位の記録を出すようになっている。今の勢いを見ると、おそらく将来的に義足を長くしていけば400メートルを41秒台で走るような選手も出てくるだろう。長い義足はとにかくトップスピードに乗った後のスピードの伸び具合が全く違ってくる。



    義足の長さがある程度を超えると、今度は選手よりも義足が目立ってくる。当然、義足を使いこなせるかどうかの違いはあるだろうが、どのような義足を履くかどうかが勝負の分かれ目になり、選手自身の能力の貢献度合いが相対的に小さくなる。そのような状態になった時に、果たしてパラリンピアンはすごいとは思われても、共感を得られるのだろうかという疑問が生まれる。

    皆すごいものを見たいと思うが、すごいものは飽きるのも一瞬だ。もはやAI囲碁の「Alpha Go(アルファー碁)」に注目する人は少なくなった。人が飽きずに夢中になるのは、人間同士の競争であり、その競争に夢中になるのは共感があるからだ。共感を生むには、どこかしら自分自身を投影したものである必要がある。あまりに距離ができるとすごいとは思うけれども、何度も見たいとは思わなくなってしまい、そうなればスポーツの商業的価値も、もしかしたら根源的価値も失われてしまうかもしれない。

    以前、私たちは人類はどこまで行けるのだろうとワクワクしながらスポーツを見ていた。ところが科学技術が発展すると、能力開発のためにさまざまなことが可能になった。現在のドーピングはまだかわいいもので、将来的には遺伝子ドーピング、デザイナーベイビーの誕生にどう対処するかが議論されている。

    人類はどこまで行けるだろうという問いから、人類はどこまで行ってもいいのだろうかという問いに変わりつつある。人為的なものと、自然なものをどう捉えるのかが重要になってくると私は考えている。

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