茂呂雄二

外的なシンボルを構成することで,「内的なもの」と「外的なもの」の2つの領域が同時に作り出されたのだといえよう。

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  1. shinichi Post author

    なぜ人は書くのか
    認知科学選書
    by 茂呂雄二, 汐見稔幸

    外的なシンボルを構成することで,「内的なもの」と「外的なもの」の2つの領域が同時に作り出されたのだといえよう。

    書くことを生成的な記号活動ととらえる茂呂(1988)も,書くことを自分に向けること―対自的な記号使用について述べている。書く過程には二つの方向がある。一つは書き手の中で表現されたものを外へと送り出す方向であり,もう一つは書いたものを読んで自分自身に知らせる,外から内へと向かう方向である。文章産出研究では,内的に表現したことと外的な文字表現とのズレを発見し,外的表現を修正する過程がよく知られている。しかし,茂呂は外から内へと向かう方向にはこのような調整―モニタリング過程とは別のものがあるという。文字表現をもたない人が文字表現を発見した事例をあげ,書くことではじめて自分が考えていたことを回収するという過程が生起していたと述べる。それは,内的なものを外へ移したり,内的な表現を基準に外的なシンボル系を調整したりすることではなく,むしろ外的なシンボルを構成することで,「内的なもの」と「外的なもの」の二つの領域が同時につくり出されたことを意味している。このような外から内へと向かう成分は,文字になじんでいる人には,多くの場合はっきりとした形でみらることはない。しかし,書くことによる発見,自分であることの探求は,私たちが書く中で確かに起こっているという。

    書くことは一般に内容を外的なシンボル系にうまく変換することだと考えられているが,実はこの変換以上のことを含んでいる。茂呂は作文を書くことについて次のように述べる。

    作文を書くということは,一般には事前に意図したことを,紙の上に定着させることだと考えられている。内から外への一方向を考えるモデルである。これは“わかったことを書くモデル”と言い換えることができる。しかし,シンボルの有意味性を自分に振り向けることを考えるとき,このモデルは十分なものとはいえない。実は,分裂した語り口から構成される表現を読むことで,書き手ははじめて自分の位置がわかるともいえる。自分がどこで何に対して身構えているのかがはじめて理解される。“わかったことを書く”だけではなく,“書いてからわかる”という面がある。書くということは,シンボルを構成した後に,あるいはシンボルを構成するさなかに,有意性を得るという面がある(pp.126-127)。

    書くことの基礎には,そのとき,その場で意味をつくり出す側面が含まれている。「自分にシンボルの意味を向けるということは,自分であることを探求する場を組み上げること」(p.127)であり,他者のさまざまな語り口と身ごなしを引用し重ね合わせることで,自分の声を創造することが可能になる。序章でみたように,生成的な記号活動とは,「シンボルを有意味なものにしている状況の中の活動を指し,シンボルの意味から作られ変化する過程を対話の過程として描き出すもの」(p.105)であった。シンボルは対話場の中でのみ意味をもち,書くこと,またその獲得は,伝え合う場の中での媒介的な活動によってこそ行われるという。

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