イザベラ・ディオニシオ

ボッカチオの作品の中で、いちばん有名なのは『デカメロン(10日物語)』だ。これは、女性7人と男性3人の若者が、ペストが蔓延する都市から離れて郊外にある別荘に籠り、1日に1人ずつ10の物語を話して10日間語り合うというリレー小説である。
「Umana cosa è avere compassione degli afflitti (苦しむ人を思いやることをできるのは、人間だけだ)」という言葉で始まる『デカメロン』は、単に娯楽のために書かれた作品にとどまらず、恐怖や偏見に満ちた陰気な空気への反動であり、生命力にあふれる社会を再構築するために織りなされている物語として成り立っている。
高尚なところが何ひとつなく、すべての話が当時の日常に根を下ろしている。世俗に生きている人々が非常にリアルに描かれ、ルネサンスの理念である「人間中心の精神」が文学を通して見事に実現されている。
この作品を通じて、ボッカチオが最も伝えたかった2つのテーマを改めて紹介しよう。1つは、どんなに苦しくても、どんなに不安でも、どんなに窮地に陥っても、それはいずれ終わる、ということ。もう1つは、この作品の読者として想定されている淑女の皆様に向けたもので、いかなる場合でも愛を諦めない、ということだ。
他人に対する思いやりを忘れないことと愛すること、平常心を保つことと希望を持つこと、ボッカチオがつづったその教訓がなるべく多くの人々に届いてほしい。

One thought on “イザベラ・ディオニシオ

  1. shinichi Post author

    コロナで荒れる人たちが失った「大切なもの」

    現代人が昔の人とほぼ変わらないという事実

    by イザベラ・ディオニシオ

    https://toyokeizai.net/articles/-/335643

    世界各地で感染拡大を続けている新型コロナウイルス感染症は、未知の点が多く、今もなお人々を不安にさせている。そのニュースが流れ始めて間もなく、日本での状況を心配して、イタリアから連絡をよこしてきた親戚や友達がたくさんいた。

    しかし、2月下旬以降イタリアで感染が広がっていることがわかり、今度は、私のほうがイタリア北部在住の友人の身を案じるようになった。人やモノが激しく動くこの世の中では、地理的に近い・遠いというのがさほど重要ではなくなってきていると痛感する瞬間でもあった。

    ミラノ、ヴェネツィアを襲った惨事

    イタリアの収入の大部分を占めているのは観光だ。世界遺産がそこら中ころがっているだけではなく、デザイン、ファッションや芸術などをテーマとした大型イベントの開催地になることもしょっちゅうあるので、観光のローシーズンなんて存在しない。

    今回、感染者数が最も多いとされているミラノがあるロンバルディア州と、イタリア屈指の観光地、ヴェネツィアを擁するヴェネト州では、経済的な被害も計り知れないという。

    ミラノは2月18日から24日までファッションウィークでにぎわうはずだった。ところが、日々不安が高まる中、一部のイベントは予定どおり決行されたものの、動員数は最小限に抑えられ、自粛モードが漂った。例年に比べると、ショーモデルたちのキャットウォークも心なしかそれほどキラキラしているように見えなかったそうだ。

    世界最大の国際家具見本市と言われているミラノサローネも6月に延期となった。出展者や参加者の中には、参加を見合わせる人も出てくるだろう。

    一方、数カ月前に、突然の洪水に見舞われたヴェネツィアも、挽回を狙っていたが、人気のカーニバルは中止となり、観光施設のほとんどが休館か入場制限の導入を余儀なくされている。祭り期間中のはずだった2月中旬は、仮装の上にマスクをつけた勇敢な観光客が街を散策していたらしいが、やはりいつもと雰囲気がまるで違っていたようだ。

    感染者数が多い一部の州でこうした措置がとられていたのに続いて、3月4日には、全国の学校や大学を3月15日まで休校とする発表が政府からあった。何の前触れもなく、突然に。テレビを通して急にそれを知らされた保護者たちは驚いたに違いない。

    「パニック買い」も勃発している。薬局からはマスクが姿を消し、スーパーではパスタが品薄状態だそうだ。バーやレストランの営業時間が短縮され、コンサート、試写会、展示会などのキャンセルが相次ぎ、イタリアのプロサッカーリーグ、セリエAの試合は1カ月間無観客で行われる予定だ。

    政府関係者は拍手やハグを控えるように呼びかけており、他人と接する際に1メートル以上の距離を保つように、という細かい指示までが出されている。スキンシップを重んじる文化なだけに、それを聞いて誰もが大パニック。こうした中、ストレスもだんだん高まり、アジア人を対象とした差別的エピソードも少なくないという。

    ミラノの校長先生が引用した「いいなづけ」

    しかし、ネット越しに随時更新されているニュースを見ながら、まさかイタリアがこんな状況とは……と、どうしても実感が持てなかった。もっというと、日本で満員電車に乗って、日々通勤している自分は、一切の違和感も危機感も持たず、いつもどおりの生活を送っていた。近所のスーパーからトイレットペーパーが消えるまでは。

    数日前に、空になった棚を眺めながら、得体の知れないウイルスが急に怖くなったのではなく、根拠のないデマに踊らされている人々が、すぐ近くに住んでいることが確実となり、自分のところにもとうとう恐怖が忍び寄ってきたと実感した。

    こういうとき、自称古典マニアである私は、やはり文学に安心を求め、古典と呼ばれる作品の力強さに驚かされる。はるか昔に書かれた物語でありながら、非常に現代的な側面を今も持ち続けているからだ。いい意味でも悪い意味でも変わらない人間の本質を正確についており、月日を経て語り継がれている言葉たちは、心の奥深くに響く。

    同じようなことを思ったのか、休校が決まった際に、ミラノのとある高校の校長が、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニが生み出した傑作『いいなづけ』を今でこそ読んでほしい、という学生向けのメッセージを学校の掲示板に掲載した。そして、その秀逸な手紙はSNSで拡散されてバズり、いろいろな言語に翻訳までされ、今もすごい勢いでシェアされているらしい。

    1827年に出版された『いいなづけ』は、結婚を誓った2人がさまざまな妨げにあい、離れ離れになるが、最後はめでたく結婚する、というストーリーだ。イタリアの学生は、3年かけて『神曲』をやっと読み終わろうとしているときに、今度はマンゾーニのこの超大作を読まされる。まさに“悪夢”のような作品だ。

    物語は恋人同士である2人を中心に展開されるが、背後には当時のイタリアが抱えていたさまざまな問題があり、政治と宗教関連の話題がたくさん詰め込まれている。2人が乗り越えなければならない試練の中で最も恐ろしいのが、1630年にイタリア北部を襲ったペストだ。自らの命を守れるかも定かではないのに、それでも相手を思う、ピュアな心を持ち続ける2人の姿が胸を打つ。

    言うまでもないが、校長は『いいなづけ』を引用することで、新型コロナウイルスとペストを比較したかったわけではない。

    17世紀の人たちと現代人はほぼ変わらない

    17世紀のイタリアの医療技術と知識、そして衛生状態は今とは比べ物にならないし、状況は何もかも違う。しかし、この作品に描かれている、無知から来る恐怖や、外から来た人たちへの不信感、意味もなく食料を買い占めようとしている人たちの姿など、そのすべては、ここ最近メディアで報じられている日常とそう遠くない。

    むしろ、スマホでどんな情報でも手に入れられるという錯覚に陥っている現代人と、いろいろな事象に対して知識が非常に乏しかった17世紀のミラノの一般市民がほぼ同じ行動をとっている、という事実がそこにあり、現実を見つめ直すという意味においても、この作品を改めて読むことは今だからこそ意味がある。

    マンゾーニが描くペストは恐ろしく、そして恐怖に翻弄されている人たちの変わり果てた姿は本当におぞましい。洗練された語り口によってつづられるその一部始終は脳裏に焼き付けられる。

    もっとも、1785年生まれのマンゾーニはミラノでペストが広まったときにまだ生まれていない。彼はすばらしい小説家というだけでなく、優れた研究者でもあったので、リアリティーあふれるディテールの一つひとつは、すべて参考資料をベースに創作したものである。

    イタリアの古典文学において、マンゾーニのほかに、伝染病の恐ろしさとそれをめぐる人間の軽率さを語った作家がもう1人いる。それはルネサンス初期に活躍したジョバンニ・ボッカチオという文学者である。

    フィレンツェの商人の息子だったボッカチオは商業の修行、法学の勉強を試したものの、身が入らず、若い頃はかなりの遊び人だったらしい。ナポリなど、いろいろな街で思う存分遊んでから、1341年にフィレンツェに戻ると、1348年に黒死病がフィレンツェを襲う。

    ボッカチオの父親をはじめ、多くの親戚や友達もそのとき命を落とすなど、彼自身、身をもってさまざまな苦難を体験しているが、その中でも物語を作る意欲を持ち、作品を発表し続けた。

    ボッカチオの作品の中で、いちばん有名なのは『デカメロン(10日物語)』だ。これは、女性7人と男性3人の若者が、ペストが蔓延する都市から離れて郊外にある別荘に籠り、1日に1人ずつ10の物語を話して10日間語り合うというリレー小説である。

    全部で100話ということになるが、それぞれのストーリーがユニークな世界観を持ち、登場する人物たちは、庶民から貴族、奔放な生活を楽しんでいる人から聖職者など、バラエティーに富んでいる。話し手はみんな品のある紳士や貴婦人という設定になっているものの、それぞれの物語には性、愛、富、嫉妬、復讐をめぐる過激な内容も含まれており、そのどれもが活気にあふれている。

    しかし、都会から離れて暮らす10人の若者たちは、現実逃避に走っただけではない。「Umana cosa è avere compassione degli afflitti (苦しむ人を思いやることをできるのは、人間だけだ)」という言葉で始まる『デカメロン』は、単に娯楽のために書かれた作品にとどまらず、恐怖や偏見に満ちた陰気な空気への反動であり、生命力にあふれる社会を再構築するために織りなされている物語として成り立っている。

    1日目のプロローグには、1348年のフィレンツェの様子が詳細に述べられている。それは地獄絵図そのものだ。

    Alcuni erano di più crudel sentimento, come che per avventura più fosse sicuro, dicendo niuna altra medicina essere contro alle pestilenze migliore né così buona come il fuggir loro davanti; e da questo argomento mossi, non curando d’alcuna cosa se non di sé, assai e uomini e donne abbandonarono la propia città, le propie case, i lor luoghi e i lor parenti e le lor cose, e cercarono l’altrui o almeno il lor contado, quasi l’ira di Dio a punire le iniquità degli uomini con quella pestilenza non dove fossero procedesse, ma solamente a coloro opprimere li quali dentro alle mura della lor città si trovassero, commossa intendesse; o quasi avvisando niuna persona in quella dover rimanere e la sua ultima ora esser venuta.
    【イザ流圧倒的意訳】
    一部の人たちはもっと残酷な意見を持っていたが、偶然にもその考え方は幾分懸命だった。それはつまり疫病に対する最も効果的な薬は逃げること、ただそれだけに尽きるというのだ。
    そう思った人々は傍若無人に振舞い、育った街や家も、見慣れた場所も後にして、親族や所有物もみんな捨てて、ほかの街の田舎、少なくともフィレンツェの中心から離れた場所を必死に求めた。
    まるで疫病がフィレンツェの城壁の中にしか存在しないかのように、あいつらは神様の怒りから逃げられるとでも思っていた。逆に、都会に残された人たちをみんな見殺しにしても仕方ないとも思っていたかのようだった。

    ウイルスを広めた人を探す、自分勝手の行動に走って食料を買いだめする、情報を確かめずに危険だと思われる場所からただただ逃げる……中世を生きたイタリア人と、いろいろな国籍の現代人はやはり同じような行動をする。

    いかなる場合でも愛を諦めない

    ところで、このような気の滅入る描写は、1日目の前書きにだけ集中しており、その後に展開されている数々の小話はその陰惨な雰囲気を一蹴。そこにはイケメン海賊と恋に落ちる女や、尼さんたちが競い合って寝たがる庭師など、笑いが止まらない話が次々と出てくるので、100話なんてあっという間に終わる。

    高尚なところが何ひとつなく、すべての話が当時の日常に根を下ろしている。世俗に生きている人々が非常にリアルに描かれ、ルネサンスの理念である「人間中心の精神」が文学を通して見事に実現されている。

    この作品を通じて、ボッカチオが最も伝えたかった2つのテーマを改めて紹介しよう。1つは、どんなに苦しくても、どんなに不安でも、どんなに窮地に陥っても、それはいずれ終わる、ということ。もう1つは、この作品の読者として想定されている淑女の皆様に向けたもので、いかなる場合でも愛を諦めない、ということだ。

    「この人生には、無数の教訓が散りばめられている。しかし、どれ一つとってみても、万人にあてはまるものはない。それを教訓にするかどうかが、君自身の選択にかかっている」と山本周五郎は書き残している。今私たちが直面している状況も、これをどう解釈して、どう対処するか、または何を信じて行動するかはそれぞれ違う。

    しかし、他人に対する思いやりを忘れないことと愛すること、平常心を保つことと希望を持つこと、ボッカチオがつづったその教訓がなるべく多くの人々に届いてほしい。

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