久保大

先ほど私は、公表されている統計データを引用して、少年犯罪の増加等の主張に否定的な説明を試みてまいりました。そして、それにもかかわらず、少年犯罪が改善されていると主張しようというのではないのだというふうにも述べました。
実は、私には、同じデータを使って、例えば平成十四年ごろまでというように都合よく期間を区切って引用することにより、全く反対に、増加しているという説明を加えることも可能だったわけです。
つまり、私が犯罪統計を読み進むうちに気づいたことは、この統計自体から一定の結論を導き出すことは危ういことであるが、反対に、ある結論を導き出すために自説に都合よく統計データを引用することは大変簡単だということでした。

2 thoughts on “久保大

  1. shinichi Post author

    第166回国会 法務委員会 第11号(平成19年4月13日(金曜日))

    衆議院

    http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000416620070413011.htm

     久保参考人 久保でございます。

     私は、長い間地方自治の実務に携わってまいりましたが、昨今のいわゆる治安の悪化を理由とする地方自治体の諸施策に一石を投じる意味で、昨年来、批判的意見を公にしてまいりました。その中で、犯罪統計の見方についても、これまでの通説とはいささか異なる見解を示しております。

     そこで、少年の非行や犯罪についての問題を、私は、こうした切り口で取り上げて、意見を申し述べさせていただきたいと思います。

     さて、この少年問題を考える場合に、木を見ることから始めるのか、森を見ることから始めるのか、二通りの対応が考えられます。もう少し具体的に申し上げますと、少年犯罪の量的な増加や凶悪化などの傾向を取り上げて問題にすることを森を見ることに例えれば、個別の少年の更生や非行防止などにとってどのような対応が望ましいのかの論議を木を見ることに例えられるかと思います。ただし、私がこれから申し上げようとすることは、木を見て森を見ずということを戒めようというのではなく、かえって森を見るその見方自体、つまり現状の評価そのものに対して疑問を呈することにあります。

     ところで、本法案の提案理由説明でも、「近年、少年人口に占める刑法犯の検挙人員の割合が増加し、強盗等の凶悪犯の検挙人員が高水準で推移している上、いわゆる触法少年による凶悪重大な事件も発生するなど、少年非行が深刻な状況にあります。」とされていますが、こうした見方は、往々にして、少年法改正に反対する立場の方にも共有されていることが少なくありません。

     すなわち、少年犯罪に関しましては、従来から、増加、凶悪化、低年齢化という三つのフレーズによって語られています。そして、そのことを裏づけるものとして統計データが提示、引用されています。

     しかしながら、そうして示される統計は、しばしば相互に矛盾した事実を示しており、一貫した説明の根拠とはなり得ないこと、それゆえに、現在政府によって示されている犯罪白書その他の統計データからでは、例えば、犯罪自体がどれだけ増加しているかとか、減少しているかということを正しく根拠づけることは難しいというのが、私の見解です。

     それでは、具体的に少年犯罪の増加、凶悪化、低年齢化という主張のどんな点が問題だというのでしょうか。統計データのどんなところに難点があるのでしょうか。

     まず、増加説の当否から御説明してまいります。

     第一に、少年犯罪については、一般に検挙人員の増加を少年による犯罪の増加と読みかえて議論されています。ところが、検挙人員の増加が示される一方で、犯罪白書は、少年の場合には成人に比べて共犯率が顕著に高いことが特徴であるとしており、しかもその傾向が強まりつつあることを示しています。このことは何を意味するのでしょうか。検挙人員がふえたことは、犯罪が複数の少年によって遂行され、共犯者が芋づる式に検挙される場合が少なくないことを説明するものではあっても、検挙人員の増加に比例して少年による犯罪件数自体がふえたという結論を導き出すことはできないということです。

     また、比較する期間のとり方によって、評価がほとんど正反対になってしまう可能性もあります。例えば、戦後生まれが青少年期を迎えた昭和三十五年ごろから比較するか、その十年後、ちょうど社会が七〇年安保や大学紛争に揺れていた昭和四十五年ごろから比較するか程度のささいな違いであっても、評価が違ってくるだろうということであります。

     凶悪化しているかどうかについても、比較する期間のとり方によって同じように評価の違いが生まれますし、さらに、これはどうやら世界的な傾向のようですが、温情主義から厳罰主義へと空気が変わってきたことに伴って、警察での取り扱い上もカテゴリー変更、つまりより罪の重い犯罪へと分類される傾向が生まれており、その影響を無視することはできないということもあります。

     さらに、低年齢化については、犯罪白書自身が否定的なデータを示しています。まず、少年非行率、これは、ある年に生まれた少年が十四歳から十九歳までの間のいつの時点で非行少年となったのかを人口比で示したものだとされていますが、少なくともこの十数年の間により高年齢化しています。また、検挙された少年を在学する学校や就業状況によって分類したデータを見ると、年を追うごとに中学生の割合が大幅に減少し、その分高校生の割合がふえていることが示されています。

     さて、いささか駆け足で説明してしまいましたのは、実は、そうした一つ一つの論駁を経なくても、最近になって、今回の提案理由が主張する事実を否定するような統計データさえ公式に示されているからであります。

     ここでもう一度、本法案の提案理由の説明を取り上げてみます。まず、「近年、少年人口に占める刑法犯の検挙人員の割合が増加し、」と言われますが、警察庁が本年二月に公表した資料、ちなみに、これは法務参考資料第九号に収録されているものとは別のものですが、より新しい時期のデータまで参照することができます。

     これによれば、平成十八年中の刑法犯少年の検挙人員は過去十年間で最も少なくなっており、これを人口比で比較しても、平成十五年一七・五、十六年一六・八、十七年一五・九、そして十八年一四・八パーミリオンと、四年連続で低下しているのです。

     また、「強盗等の凶悪犯の検挙人員が高水準で推移している」とも説明されていますが、平成十八年には、やはり過去十年間で最も少なくなっており、十年前の約二分の一になっています。

     いかがでしょうか。こうした政府が示している統計データは、残念ながら、提案理由を裏づける根拠としては不適切なのです。しかし、私は、こうしたデータを取り上げて、少年犯罪はむしろ改善されているのだと主張しようというのでもありません。その理由は後ほど述べることにいたします。

     さて、統計データでは減少傾向を示しているからといっても、やはり、近年になって、神戸や長崎、佐世保での事件に代表されるような特異な少年犯罪が頻発しており、このことは看過できない重大な問題であると主張する向きもあります。再三引用しますが、提案理由で「いわゆる触法少年による凶悪重大な事件も発生する」と述べているのも、これと同様の主張です。

     そこで、恐縮でございますが、お手元に配付してあります私の資料をごらんいただきたいと存じます。内容を逐一説明することはいたしませんが、最近に特有の事象だと主張されるさまざまな事件もまた、過去に起こったものと何らの違いもないものであることを対比して示したものです。

     さらには、近年の触法少年による凶悪事件や低年齢化の傾向を説明するために、しばしば、平成五年、一九九三年にイギリスのリバプールで発生した、十歳の少年二人が二歳の幼児を殺害したといういわゆるバルジャー事件などが引用され、それとの類似性が強調されることも少なくありません。

     しかし、翻って、昭和三十年、一九五五年前後の我が国に目をやりますと、五歳児と六歳児による嬰児殺害事件、小学校一年生による同級生刺殺なども発生しているのであり、その早熟さ、アンファンテリブル、恐るべき子供たちという点では、日本の団塊の世代もなかなかのものだったのであります。

     ですから、もし、その後の日本の社会がこうした子供たちを含めた団塊の世代の指導育成に失敗したというのであれば、長崎や佐世保の事件を理由に触法少年に対する対応が見直されるべきだという意見も説得力を持ってくるでしょう。

     それでも、少子化と言われる時代にあって、非行に走る少年を一人でも減らすために、むしろ虞犯と呼ばれる段階から適切に指導することが必要なのではないかという意見もあるでしょう。そうした考え方が、この法案にも反映されていると見ることもできます。

     ところが、これも警察庁の公表資料、こちらはこの法務参考資料にも収録されていますが、これによりますと、補導された虞犯少年は昭和二十六年以降ほぼ一貫して減少傾向を示しており、人口比でいっても、昭和三十年には少年人口十万人当たり百八十八人だったものが、平成十五年には二十五人とほぼ七分の一ないし八分の一になっているのです。

     こうしたデータからは、三通りの解釈が可能でしょう。

     第一は、これまでの少年に対する施策や関係者の努力の成果が年を追うごとに実を結びつつあるという見方です。第二は、社会全体が次第に少年の補導に関心を失い、手抜きをするようになったから、あるいは、子供たちの逸脱行動に対して寛容になってきたからだという評価です。そして第三は、補導の対象となる人員は事実上変わらなくても、何らかの理由で家庭裁判所や児童相談所に送致、通告されることが少なくなっているという解釈になります。これらのうち、いずれの解釈をおとりになるかはお任せいたします。

     ところで、先ほど私は、公表されている統計データを引用して、少年犯罪の増加等の主張に否定的な説明を試みてまいりました。そして、それにもかかわらず、少年犯罪が改善されていると主張しようというのではないのだというふうにも述べました。

     実は、私には、同じデータを使って、例えば平成十四年ごろまでというように都合よく期間を区切って引用することにより、全く反対に、増加しているという説明を加えることも可能だったわけです。

     つまり、私が犯罪統計を読み進むうちに気づいたことは、この統計自体から一定の結論を導き出すことは危ういことであるが、反対に、ある結論を導き出すために自説に都合よく統計データを引用することは大変簡単だということでした。

     こうした考え方の背景にあるのは、二つの認識です。

     第一に、戦後の犯罪統計データを概観しますと、そこに変動の大きな波と小さな波の繰り返しを見てとることができます。大きな波は、社会構造や人々の意識の変化などの要因を抜きにしては考えられません。一方、小さな波は、その時々の事情や偶然的な要素から少なからぬ影響を受けていると考えられ、その変化に一喜一憂すべきものではあるまいということです。

     そして第二に、統計上は表に出ない犯罪、つまり暗数は、昭和三十五年の犯罪白書が想定したものから次第に変わりつつあるのではないかということです。これを敷衍し、九〇年代以降の欧米の犯罪学の知見と照らし合わせると、公式の統計データによって示される犯罪の現状報告というものは、どうやら不可避的に根本的な欠陥を持ってしまっているのではないかという疑問です。

     ですから、私は、この少年問題に関しても、いわば森に注意を向けるのではなく、木を見ることが大切なのではないかと思います。つまり、状況が悪化しているという前提、これまでの常識としてきた前提を一たん括弧に入れた上で、一人一人の少年の指導、更生にとってはどのような施策が望ましいのか、また、被害者を慰謝し救済するための方策はどうあるべきかというアプローチによって真摯な検討が行われるべきだと考えます。

     委員の先生方におかれましては、ふだん余り耳にしたり目にとめたりされることの少ない話になったかと存じますが、以上をもちまして、私の意見とさせていただきます。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *