デカメロンの冒頭の黒死病流行のことが頭から離れない。妻は夫を棄て、夫は妻を棄て、親は子を棄て、子は親を棄て、兄弟姉妹もお互いを知らない人のように遠ざけ、訪問したり面倒をみたりするのを止めた。患者に近づくと感染するという経験から、家族は看病をやめて患者を放置するようになったのだ。放置された患者は孤独のなかで悶え苦しみ、そして息をひきとる。死体は門前に棄てられ、それを死体運搬人が回収した。死者が膨大な数になると従来の墓場では足りなくなり、町の郊外に大きな穴を堀り、そこに死体を投げ込んだ。瀕死の患者も死体として処理され、穴の中にはまだ息をしている瀕死の患者も数多く埋められていた。患者に近づきたくないために、死を判断することすら躊躇われたのだ。墓場に生き埋めにされた患者は、多くの死体に囲まれながら息を引き取ったのだ。
人は死ぬ。ほとんどの人がベッドや畳の上で死ぬのだと思ってきたけれど、多くの人が戦争や災害や疫病や不慮の事故で死ぬ。硫黄島で敵軍の火炎放射器で死ぬのはさぞ悔しかっただろう。広島や長崎で原子爆弾がなにかも知らず死んでいった人たちは苦しかっただろう。東京大空襲で火のなかで行き場を失った人たちはなにを思っただろう。東北で津波にのまれて流された人たちは怖かっただろう。そのような死を思うとき、病院のベッドの上で死ねるなら、それはそれで恵まれているのではないかと感じてしまう。いつものベッドやいつもの布団で死ぬのがいちばんいいのかもしれないけれど、誰でもがそうやって死ねるわけではない。

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