現実と作りごと

暮らしとか生活とか利害とかいった
現実があり
神とか国家とか政治とかいった
作りごとがある

現実はそこにあり
作りごとはどこにもない
ないのに あると思う
ないと知りつつ あることにする

現実と作りごととの境界は
ぼんやりとして見えない
作りごとを作ったのが人ならば
作りごとを信じるのも人なのだ

個人というのは人で
社会は人の集まりで
ここにいる個人は現実で
社会は現実なのか 作りごとなのか
それとも ただの 幻なのか

僕は社会の一員なのか?
君は社会の一員なのか?
僕は社会に生きているのか?
君は社会に生きているのか?

2 thoughts on “現実と作りごと

  1. shinichi Post author

    政治というのは、基本的には「ない」国家を「ある」として、そういうことにして営まれるものですから、皆でその作りごとを作りごとだと自覚してやっていけば、それでよいものなのですね。それ以上でもそれ以下でもない。生活つまり利害関係の調整ということに関しては、それで足りるはずなのです。「われわれは作りごとを皆でやっているのだな」と常に自覚して生活していけばよい。やってゆけるのです、それで。
     ところが、言語によって作られたその作りごとを「本当だ」と思い込んでしまうと、人間はどうなるか。その作りごとのために、極端になると「命を捨てる」ということになります。国家間の戦争とは明らかにそういうもので、作りごと同士が、作りごとであることを忘れて、喧嘩をしている。これは、作りごとを本当と思い込んだことによってなされる人間の最大の愚行です。そういう意味でこそ、「戦争は愚かだ」という言い方は正確なのです。
     近代以降の人間は、自分が国家を作っている、観念と言語によって自分が作り上げているということを忘れて、それが現実に存在していると思い込んでいるのだから、それ以前の人々が「神」という作りごとを信じ込んでいたと言って笑いますけど、これは笑えませんね。(笑)同じ作りごとですから。国家とはそういうものです。どこにも実在はしておりません。

     社会と個人は対立しない
    「共同体」というものは、つまり「社会」のことですが、読んで字のごとく「人間が共同してできた集まり」のことであって、それ以上のものではありません。ですから、共同体というものが、そういった個人個人の集まりとは別な所に実在していると思ってしまうと、これもまた思い込みになります。何か「社会」といったものが、われわれ個人を離れたどこかにあるのでは決してない。なぜならば、社会とはわれわれ個人個人の集まり以上のものではないのですから、それが存在するのは個人の「観念」、すなわち「思い」以外のどこでもない。その意味で、自分とは別の所に社会が実在すると思って、何か都合の悪いことを社会のせいにするということは、できないわけです。こんなふうに、社会と個人とは実はちっとも対立なんかしていないということが、まず見抜いていけるかと思います。
     社会が実在しないのならば、では「個人は実在しているのか」ということを、逆に疑うこともできますね。つまり、実在しない社会の側から、今度は個人というものの虚構性を見抜くということ。個人はいったいどこに実在するのでしょうか。人は皆、自分は個人であると思っています。しかしやはり近代以降の「個人」というのは、これも思い込みですね。個人が実在するという考えは、国家と対になる強力な思い込みの一つです。皆それを思い込んで、「私は個人である」と思っています。「私は誰の某である」と。
     問題は、その「私」とは何か、なんですね。「私は某である」、主語は述語である、と言った場合の、この主語とは何かです。私を「私だ」と思っているところの、この何ものかとは何か。もしも個人というものの正体を本当に見抜いていこうと思うならば、ここまで疑わなければ嘘です。
     そのようにどこまでも疑っていくと、「私を私と思っている『これ』」というのは、実は誰でもない、非人称の意識であるということに、必ず気がつくことになります。つまり、私は誰でもない、ノーボディ。裏を返せば「私はすべてである」ということになります。
    「何ものでもない」の裏返しは、「何ものでもある」、つまり「すべて」ですからね。
     そうすると、おかしなことですが、「私」というのはあくまでも、これは言葉による名付けですけれども、非人称のこの「何ものか」は、実はこの身体の、この皮膚の内側に閉じ込められているものではないという、とんでもない事実にも同時に気がつきます、これは本当に不思議なことですが。したがって、個人という何ものかが実在し、それが社会もしくは国家と対立しているなんていうのは、こっちの現実から見ると、完全に思い込みの構図、つまり錯覚ですね。「個人対社会」というのは緒冤の構図です。
     私は「日本人」ではない
     あるいは、また別の例を挙げますと、民族、共同体というもの、これもその意味で思い込みなんですね。「私は日本人である」。ある意味ではそうですよ、確かに。「私、池田某は日本人である」。これは確かに嘘ではない。「私はアメリカ人である」「私はイラク人である」。けれども、先ほどの「何ものでもない自分」というところまで返ってみれば、私は日本人であるわけでは、実はないのですね。(笑)本当は誰でもない。非人称であるゆえにすべてであるところの、この何ものか、それがこの某をやっているのだ、と自覚できることになります。一回りしてきて、自覚できるわけです。
     やはり自覚に尽きると思います。虚構を見抜くということは、裏から言うと、自覚するということなのです。自覚することにより虚構を見抜くということが、見抜くというそのことなのです。方法というか、自分が自分である、何ものでもない自分であるということを手放しさえしなければ、あらゆる虚構を見抜いていくことができるはずです。

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